top
Original Intellectual Record Shop COOL HAND are go!
COOL HAND

古物商許可番号
第731269400017号
(広島公安委員会)

Shopping
Profile
Policy
Amusement
Club60's
E-mail
P.F.Sloan-Steve Barri / Dunhill Records Side Story

P.F. Sloan
 P.F. SLOAN (PHIL SLOAN) SHORT STORY
過去どれだけの人が彼のメロディーに泣かされ
彼の行動に勇気付けられてきたことか。
 
 特別企画:Steve Barri インタヴュー。Steveさんにマニアックな
 質問に答えてもらいました。ファン必読のインタヴュー!!
 
 Phil Sloan は本名を Philip Gary Schlein と言い、1945年9月18日
 に New York City で生まれ、Long Island で育った。両親は
 ユダヤ系移民で父は薬剤師をしていた。彼の母親の関節炎の
 治療もあり家族は1957年に California の West Hollywood に
 引っ越す。彼の父親はダウンタウンで雑貨店を営み始めた。
 父が雑貨店を開く許可を得るのに苦労した時、反ユダヤ主義を
 回避するために家族は名前を Sloan と改名した。
 Phil の妹は彼を Flip と呼んでいた。Phil Sloan は12歳の時に
 ギターを買おうと立ち寄った Hollywood Sunset Street の
 ミュージックストアー Wallach’s Music City の店内で
 Elvis Presley と運命的な出会いをする。

Wallach’s Music City
 Elvis Presley は2階でギターを修理しており、Phil Sloan は
 階下でカウンターの後ろの男に「どうやってこの5本の弦を
 弾くことができますか?」と尋ねていた。1弦の壊れた
 ウクレレの弾き方しか知らなかった Phil Sloan は
 Elvis Presley から直々ギター で “Love Me Tender” の
 弾き方を教えてもらって感動した。
 興奮した Phil Sloan は Elvis にギターレッスンを嘆願し、
 Elvis はそれに同意し彼に即席のギター指導をしたのだった。
 Elvis に憧れていた少年 Phil Sloan の人生は大きく変わった。
 主にアフリカ系アメリカ人のレーベルである Aladdin Records
 が若い歌手をオーディションしていると彼の家庭の掃除婦から
 聞いて 6ヶ月後に Phil Sloan は12歳で契約し、1959年に
 若干14歳のティーンポップシンガーとしてデビューを果たした。
 Aladdin Records はその後すぐ Imperial Records の
 Lew Chudd に売却されるがそれも何かの因縁か。
 
 Phil Sloan は後年のインタビューで語っている「私が幼い頃に
 B.B. King に会ったとき彼は教えてくれた『Philip、君が書くことの
 90%はでたらめだよ。でたらめと本当に良いものを区別する
 のは君次第なんだよ。』自分のエゴを乗り越えて、自分の内側
 から本当の何かを考え出す必要があるんだ。そして、私は
 その夜にそれを行うことができることが解った。頭の中でその
 歌を流して、その歌が私をワクワクさせてくれるなら、それが
 リアルで誠実に聞こえるなら、私はいくらか眠ることができる、
 そうでなければ私は眠れずにそれに取り組む必要がある」
 

Marty Melcher
(Martin Melcher)



Lou Adler

早熟のソングライターだった
Phil Sloan は翌1960年に
Terry Melcher の父で
映画プロデューサーの
Marty Melcher が設立した
Mart Records よりセカンド
シングルをリリースするに至った。
早くからレコードオフィスに
出入りしていた少年ソングライター
の Phil Sloan は Screen Gems
の Lou Adler を紹介された。
Phil Sloan は早速オリジナル
ソングを聴かせ 1961年には
Screen Gems とソングライター
契約を結んでいる。因みに後年
Lou Adler は Marty Melcher と
Monterey International Pop
Festival をプロデュースし
Marty Melcher を援助している。
  
 
 1961年、16歳で Phil Sloan は Screen Gems Music に
 学校から毎日通いスタッフ・ライターとして働き始める。
 彼は Screen Gems Music に行ってソファに座り、150 曲を
 収録した150 ポンドのテープレコーダーを持っていき、毎日そこに
 座っていた。約 6ヶ月かかったが最終的に Screen Gems は
 彼が書いた曲を聞くために招待し、重役の1人が週10ドルで
 Phil Sloan との契約に署名することに決めた。スタッフ達は朝に
 来て The Drifters, Lesley Gore 他フォローアップが必要な曲
 のリストを作成した。そこで Phil Sloan はメロディー、
 曲のアイデア、押韻連句、歌詞を学びソングライター達を真似る
 ことから始めた。
 
 Steve Barri は Fairfax 高校に通っていた時代に
 Jerry Leiber が以前働いていた Los Angeles の Norty's と
 呼ばれるレコード店で働いていた。1959年、Steve Barri は
 高卒で18歳の時に隣人の Bernie Reed とのデュオ
 The Nortones を結成しデビューする。その後 Steve Barri は
 Los Angeles の新興レーベル Rona からティーンポップシンガー
 としてもデビューしたが失敗に終わり、高校時代からの友人で
 Teddy Bears を終えたばかりの Annette Kleinbard こと
 Carol Connors と彼女の妹 Cheryl Connors (Cheryl Kleinbard)
 とのトリオ The Storytellers を結成し、グループ再デビューと
 なった。この当時 Phil Sloan は16歳だった、Steve Barri は
 既婚者で21歳だった。ラジオで The Storytellers の “When
 Two People” を聴いて気に入った Lou Adler は
 Screen Gems-Columbia Music のライターとして Steve Barri
 と契約する。同様に Steve Barri はレコード契約を得るために
 Screen Gems に行った際に Lou Adler は Steve Barri を
 Phil Sloan が働く小さな小部屋に放り込み「君たち二人で
 一緒に曲を書いて」と言った。
 
 Steve Barri は本名を Steve Barry Lipkin と言い1942年2月
 23日 New York の Brooklyn でイスラエル系ユダヤ人家庭に
 生まれる。彼の家族は彼が子供の時に California に引っ越して

 きた。若い頃から職業作家志望だった Steve は Screen Gems

Steve Barri



Lou Bedell
へ曲を投稿しはじめる。
当時 Teddy Bears や
Jan & Dean といった人気
グループを抱えていた
Dore Records だがそこで
A&R として働いていた
Lou Adler は、レーベル
オーナーの Lou Bedell
(Lew Bedell とも言う)が
持つもう一つのレーベル
Era Records と一緒に、共同
運営者の Herb Newman に
身売りした際に Dore Records
から Screen Gems へ移籍した。

Texas 州 El Paso 出身の
Lou Bedell は本名を Lewis
Joseph Bedinsky と言い
ウクライナのオデッサ
(オデーサ) からのユダヤ人
移民の父を持つ。彼の両親は
彼が子供の頃離婚し1941年
に彼と彼の母親は法令に
よって彼らの名前を Bedell
に変更した。 
彼は Louis Bideu や
Billy Joe Hunter の変名で
作曲もしている。
 A&R とは Artist & Repertoire の略で、Artist を何処にどのように
 置けば最適かアレンジする職務をいう。即ち A&R とは人脈の
 幅広さに左右され、ミュージシャンのサクセスに関わる重要な
 仕事である。Screen Gems で働きはじめた Lou Adler は
 Steve Barri の書いた曲 "Suzie Jones" を知り、
 それをとても気に入った彼は1959年にWarner Brothers
 に打診した。Warner Brothers も曲を気に入り Duo として
 リリースする運びとなった。Bernie Reed は Steve の隣人である。
 Steve Barri (Steven Barry Lipkin)
 Bernie Reed
 当時 Warner Brothers は「グループを構成する18歳
 の2人 Bernie Reed と Steve Barry は独自の
 ギター伴奏を演奏し、独自の素材を書いています」と
 リリース前に告知している。
 
 1959年5月に彼らのマネージャーとなった Norty Beckman
 は彼らをスタジオに送り4曲が録音され、その録音を
 Lou Adler が手掛けた。Warner Brothers は
 Suzie Jones / That's The Way The Cookie Crumbles
 を The Nortones として1959年5月にリリースした。
 A面クレジット Barry, Reed, Brill
 (Steven Barry Lipkin, Bernie Reed, Brill)
 B面クレジットLipkin, Rosen, Beckman
 (Steven Barry Lipkin, Rosen, Norty Beckman)
 B面は Jungle Beat を用いたダンスチューンで
 間奏でサックスブレイクを効果的に導入している。

The Nortones

 結局 Steve Barri は1959年に The Nortones として
 Warner Brothers でシングルを2枚、そして1960年5月に
 Stack Records で1枚シングルをリリースし最後の1枚の
 B面曲以外は全て Steve Barri が書いた。

 East Los Angeles の San Gabriel で歌っていた
 The Pretenders という白人4人組のボーカルグループ
 がいて、The Nortones のマネージャーの Norty Beckman
 こと Norton Beckman は The Pretenders と契約した。
 Norty Beckman は自身が設立した Zenith Records の
 初シングルを彼らのレコードでリリースしたが、その際
 グループの名前を The Story Tellers と改名させた。
 1959年10月にリリースされたそのシングル Zenith 1001
 のB面で Steve Barri が The Nortones のために書いた
 "Hey Baby" を採用しており、その曲はメンバーの
 Al Sanchez がリードを務めた Rocker Style の佳曲だった。
 Zenith Records は数枚のシングルをリリースして閉鎖
 してしまうが、閉鎖に伴い Norty Beckman は新たに
 $tack (Stack) というレーベルを設立し、Zenith 1001 の
 音源を $tack 500 として再リリースした。
 混同されがちだが、$tack 500 の The Story Tellers の
 シングルは Zenith 1001 の The Story Tellers と同じで
 B面曲が Steve Barri が書いた曲だが彼は歌っていない。

 その間 1961年2月20日にリリースされた R&B シンガーの
 Freddie Scott - Baby - You're A Long Time Dead /
 Lost The RIght (Joy Records 45V-250) はA面
 Ande Rand (Buck Ram)-Steven Barry Lipkin-Ned Miller
 B面 Steven Barry Lipkin-Ned Miller-Freddie Scott
 が書いた美しいボーカルナンバーだ。
 興味深い事に Space Age Pop の第一人者である
 Marty Manning が両面アレンジを担当してる。
 Freddie Scott は1963年に Gerry Goffin and Carole King
 が書いた "Hey Girl" で全米10位のビッグヒットを作る。

 その後 Steve Barri はティーンポップシンガーとしても
 デビューしたが失敗に終わっている。
 Los Angeles の新興レーベル Rona から1961年4月に
 ソロデビューし同年にシングル2枚、翌年に2枚の
 合計4枚の良質なティーンポップシングルをリリースした。

 この合間を縫って高校時代からの友人で Teddy Bears を
 終えたばかりの Annette Kleinbard こと Carol Connors が
 リリースした2枚のシングルで Steve Barri が作詞を担当した。
 Carol Connors - Listen To The Beat (Columbia 4-42155)
 1961年9月8日リリース Written by C. Connors-S. Barri
 (Carol Connors-Steve Barri)
 
 Carol Connors With Hank Levine And His Orchestra -
 What Do You See In Him (Columbia 4-42337)
 1962年2月16日リリース
 Written by C. Connors-S. Barri-H. Levine.
 (Carol Connors-Steve Barri-Hank Levine)
 
 そして1962年6月にソロシンガーとしてラストシングルになった
 Never Before / Whenever You Kiss Me (Rona R-1006)
 がリリースされた。

 1963年彼は高校時代からの友人である Carol Connors と
 The Story Tellers の名をを引き継ぐ。オリジナルグループの
 元 The Pretenders だった4人組の The Story Tellers
 は解散しており、未発表音源が1990年に The Storytellers
 名義で3枚シングルがリリースされてる。
 Steve Barri はグループとして1963年に再デビューとなった。
 友人の Carol Connors と彼女の妹 Cheryl を参加させトリオ
 となりグループ名の The Story Tellers から The Storytellers
 へと改めている。
 
The Storytellers
Center: Steve Barri (Steven Barry Lipkin)
 Left: Cheryl Connors (Cheryl Kleinbard)
 Right: Carol Connors (Annette Kleinbard)
 

Ramarca
 

Ramarca Records
 
 Ramarca Records 501でリリースされた"When Two People"
 をラジオで聴いた Lou Adler が気に入り Screen Gems 傘下の
 Dimension Records が買い上げて1963年8月に
 元の The Story Tellers 名義で再リリースをさせた
 (Dimension D-1014) その際 Lou Adler は
 Screen Gems-Columbia Music のソングライターとして
 Steve Barri と契約した。

 

Stock Copy

Promo Copy
 結局この The Story Tellers は1963年9月16日に
 リリースしたラストシングル Capitol 5042
 でプロジェクトを終えている。
 これらの裏で糸をひいていたのが Lou Adler だった。
 Steve Barri にはティーンポップシンガーの資質が
 あり、Phil. Sloan とのコンビで彼が書く詩は
 ティーンポップ然とした視線で書かれたものも多い。
 
 上記の初期 Steve Barri の作品を時系列に記す
 
 The Nortones - Susie Jones / That's The Way
 The Cookie Crumbles (Warner Bros. 5065)
 Release Date : May 1959
 1959 Teener pop duo.
 The Nortones was a duo consisting of Steve Barri
 and his neighbor Bernie Reed.
 Steve Barri (18old, Steven Barry Lipkin) and Bernie Reed.
 Written by Barry-Reed-Brill.
 (Steven Barry Lipkin, Bernie Reed, Brill)
 Flip Jungle Beat dance tune with sax break.
 Written by Lipkin-Rosen-Beckman.
 (Steven Barry Lipkin, Rosen, Norty Beckman)
 Norty Beckman was their manager and later the owner
 of $tack Records (Stack Records).
 
 The Nortones - Boy / Smile, Just Smile
 (Warner Bros. 5115)
 Release Date : 26 Oct 1959
 1959 Teener pop duo.
 Steve Barri (18old, Steven Barry Lipkin) and Bernie Reed.
 Their 2nd single that released Oct 26th 1959.
 From The Mark VII Production -30- Presents
 by Warner Bros.
 Latin style dance tune with hot guitar, sax break.
 Written by Bowers, Ralke (Don Ralke), Lipkin (Steve Barri).
 Flip Excellent teener vocal with female group.
 Written by Barry (Steve Barri), Reed (Bernie Reed), Brill.
 Both sides Prod by Don Ralke.
 
 The Story Tellers - You Played Me A Fool / Hey Baby
 (Zenith 1001 / $tack 500 is 2nd pressing)
 Release Date : Oct 1959
 1959 East California. White vocal quartet..
 Lead vocal by Nick Delgado.
 Written by Nick Delgado.
 Flip Lead vocal by Al Sanchez.
 Written by Brill-Barry-Reed.
 (Brill-Steve Barri-Bernie Reed)
 Both sides Prod by "Norty" Beckman.
 The Story Tellers were
 Nick Delgado (First Tenor & Lead)
 Al Sanchez (Second Tenor & Lead)
 Ruben Ochoa (Bass & Baritone)
 Sal Delgado (Second Tenor & Bass)
 Ruben, Nick & Al were part of the high school glee club.
 They started as a group called The Pretenders while
 attending San Gabriel Mission High School in 1958.
 Ruben Ochoa and Al Sanchez were cousins.
 Norton (Norty) Beckman is owner of Norty's Records
 on Faifax Avenue in Los Angeles heard the group singing
 at a gig in Long Beach signed them to a contract and
 changed their name to The Story Tellers.
 In 1959 the group recorded You Played Me A Fool /
 Hey Baby. The record was first released on the Zenith
 label (Zenith 1001) and the on the Stack label (Stack 500).
 At the same recording session they also backed
 Jess Davis & the Flashes and Freddy Flynn & The Flashes
 on their recordings. The record got a lot of local air play
 on late night shows.
 
 The Nortones -
 I'm Gonna Find You / Cookie Mon (Stack 502)
 Release Date : 23 May 1960
 1960 Teener vocal duo with Steve Barry Lipkin
 (18old, young Steve Barri) and Bernie Reed.
 Their last single that released May 23, 1960.
 Excellent teener vocal with female group.
 Written by Lipkin (Steve Barri), Rosen.
 Flip Nice Calypso style dance tune with hot guitar break.
 Written by N. Beckman (Their manager, the label owner
 Norty Beckman)
 
 Freddie Scott -
 Baby - You're A Long Time Dead / Lost The RIght
 (Joy Records 45V-250)
 Release Date : 20 Feb 1961
 1961 Providence, Rhode Island. R&B vocal singer.
 Written by Rand-Lipkin-Miller.
 Ande Rand (Buck Ram)-Steven Barry Lipkin-Ned Miller.
 Flip Written by Lipkin-Miller-Scott.
 Steven Barry Lipkin-Ned Miller-Freddie Scott.
 Both sides Prod by D. Davis (Carl Davis)
 Arr by Marty Manning.

 Steve Barri - Please Let It Be You / Down Around
 The Corner (Rona R-1003)
 Release Date : Apr 1961
 1961 Brooklyn, New York. 19old Teener pop singer.
 Written by Steve Lipkin (Steve Barri)
 Flip Written by Norton Beckman.
 Both sides N. B. Productions.
 Ralph Woolf Orch.

 Steve Barri - Story Of The Ring / I Want Your Love
 (Rona R-1004)
 1961 Brooklyn, New York. 19old Teener pop singer.
 Both sides Written by Barri-Beckman.
 (Steve Barri-Norton Beckman)
 Prod by Nacio Brown, Jr. and Robert Higginson.
 Ralph Wolf Orchestra.
 Some copies the label shows
 A-side Prod by Nacio Brown, Jr.
 B-side Prod by Nacio Brown, Jr. and Robert Higginson
 
 Carol Connors - Listen To The Beat /
 (Columbia 4-42155)
 Release Date : 8 Sep 1961
 1961 New Brunswick, New Jersey.
 Female singer-songwriter.
 AKA Annette Kleinbard, Annette Bard, Carol Collins.
 Lead singer of the pop vocal trio known
 as The Teddy Bears, which also included Phil Spector.
 Written by C. Connors-S. Barri
 (Carol Connors-Steve Barri)

 Carol Connors With Hank Levine And His Orchestra -
 What Do You See In Him /
 (Columbia 4-42337)
 Release Date : 16 Feb 1962
 1962 New Brunswick, New Jersey.
 Female singer-songwriter.
 AKA Annette Kleinbard, Annette Bard, Carol Collins.
 Lead singer of the pop vocal trio known
 as The Teddy Bears, which also included Phil Spector.
 Written by C. Connors-S. Barri-H. Levine.
 (Carol Connors-Steve Barri-Hank Levine)
 
 Steve Barri - Don't Run Away From Love /
 Two Different Worlds (Rona R-1005)
 Release Date : May 1962
 1962 Brooklyn, New York. 20old Teener pop singer.
 Written by Steve Barri.
 Flip Don Rondo cover.
 Written by Wayne-Frisch.
 (Sid Wayne-Al Frisch)
 Both sides Prod by Nacio Brown, Jr. and Robert Higginson.
 Orch. Jimmie Haskell.
 
 Steve Barri - Never Before / Whenever You Kiss Me
 (Rona R-1006)
 Release Date : June 1962
 1962 Brooklyn, New York. 20old Teener pop singer.
 Written by Steve Barri.
 Flip Written by Bruce-Barri.
 (Harvey Bruce-Steve Barri)
 Harvey Bruce was a high school friend of Steve Barri.
 Both sides Prod by Nacio Brown Jr. and Robert Higginson.
 Orchestra Conducted by Jimmie Haskell.
 
 The Storytellers - When Two People (Are In Love) /
 Time Will Tell (Ramarca 501)
 1963 Los Angeles, California. Teener pop trio.
 Dimension 1014 is 2nd pressing as The Story Tellers
 that released in 10 Aug 1963.
 The Story Tellers (Zenith 1001 / $tack 500) was
 disbanded and Steve Barri took over the group name
 as The Storytellers.
 Written by Steve Barri.
 Flip Written by C. Connors-S. Barri-H. Bruce.
 (Carol Connors-Steve Barri-Harvey Bruce)
 Both sides Prod, Arr by Hank Levine.
 Holly-Vine Music (BMI), c/o Hank Levine,
 8597 Appian Way, Hollywood, CA (1963-68 address)
 Members are
 Steve Barri (Steven Barry Lipkin - Lead vocal)
 Carol Connors (Annette Kleinbard - Back Chorus)
 Cheryl Connors (Cheryl Kleinbard - Back Chorus)

 The Story Tellers - When Two People (Are In Love) /
 Time Will Tell (Dimension 1014)
 Release Date : 10 Aug 1963
 1963 Los Angeles, California. Teener pop trio.
 Written by Steve Barri.
 Flip Written by C. Connors-S. Barri-H. Bruce.
 (Carol Connors-Steve Barri-Harvey Bruce)
 Both sides Prod, Arr by Hank Levine (Uncredited)
 Holly-Vine Music (BMI), c/o Hank Levine,
 8597 Appian Way, Hollywood, CA (1963-68 address)
 Members are
 Steve Barri (Steven Barry Lipkin - Lead vocal)
 Carol Connors (Annette Kleinbard - Back Chorus)
 Cheryl Connors (Cheryl Kleinbard - Back Chorus)
 
 The Storytellers - I Don't Want An Angel / Down In The Valley
 (Capitol 5042)
 Release Date : 16 Sep 1963
 1963 Los Angeles, California. Teener pop trio.
 Written by Rupert Stephens-Johnny Bachelor.
 Flip Written, Arr by Johnny Bachelor.
 Both sides Prod by Nick Venet.
 Members are
 Steve Barri (Steven Barry Lipkin)
 Carol Connors (Annette Kleinbard)
 Cheryl Connors (Cheryl Kleinbard)
 
 追記すると Steve Barri が Phil Sloan とソングライターコンビ
 を結成する以前に書いていた曲が1964年にリリースされる。
 Dick Dale And His Del-Tones の1964年リリースの
 2枚のアルバムに Carol Connors と共作した "The Squirrel"
 "Blond In The 406" "My X-KE" "Mama's Gone Surfin" の
 4曲を提供し、Carol Connors が1964年3月30日に
 リリースするシングル Capitol Records 5152 でも
 Angel, My Angel / Never の両面曲を提供している。
 
 ユダヤ人とメキシコ人の血をひく Lou Adler は
 元々ソングライターとしての経験があり1957年には
 後に A&M Records を設立する同じユダヤ人
 Herb Alpert とソングライターコンビを結成していた。
 また彼は Barbara Campbell の偽名を使い Sam Cooke
 の "Only Sixteen" を書いており、この曲は後に Dunhill
 Records を設立した際には Terry Black にカバーさせて
 リリースしている。因みに Barbara Campbell は当時の
 Sam Cooke の奥さんの名前だが Sam Cooke, Lou Adler,
 Herb Alpert そして Bobby Womack の4人がペンネーム
 として「Barbara Campbell」を使った。
 (彼女は Sam Cooke の死後に Bobby Womack と再婚した)

Herb Alpert and
Lou Adler
Dore Records 時代
Jan & Dean のファースト
ヒットとなった "Baby Talk"
も彼が書いた曲で、
アレンジャーは盟友 Herb Alpert
だった。その後も二人は
Sam Cooke の "Wonderful
World"を書いた他に
Dante and The Evergreens
のヒット曲 "Alley-Oop" も
二人がプロデュースをしている。
 Jan & Dean のマネージャーだった Lou Adler は独自の
 視点を持っており、ヒット曲を熟知したビジネスマンだった。
 そこで Lou Adler は新たなソングライターパートナーとして
 Steve Barri に Phil Sloan を紹介した。すでに上記で記述したが
 1961年に16歳の Phil Sloan は Screen Gems Music に学校から
 毎日通いスタッフ・ライターとして働き始めていた。
 Steve Barri が The Storytellers のレコード契約を得るために
 Screen Gems に行った際に Lou Adler は Steve Barri を
 Phil Sloan が働く小さな小部屋に放り込み「君たち二人で一緒に
 曲を書いて」と言った。この当時 Phil Sloan は16歳だった、
 Steve Barri は既婚者で21歳だった。ともに New York 生まれの
 ユダヤ人で、California に引っ越してきて同じ Fairfax 高校出身
 というバックボーンを持ち、互いにレコードデビューの経験を
 持っていた二人は直ぐに意気投合する。メロディーメイカーの
 Phil Sloan はテーマソングを適応させるだけの才能を持った
 作詞家を必要としており、少し年上の Steve Barri もそれを
 充分理解していた。 既に結婚していた Steve Barri はいつも
 ビジネスチャンスを捜し求めていた若者で、彼にはソング
 ライティングパートナーが必要だったのだ。Phil Sloan は
 結婚して子供も持つ Steve Barri に兄のように接し、レコード店
 Norty's で1日8時間働いていた Steve を定期的に Phil の家
 に連れ出し曲を書き始めた。Phil Sloan & Steve Barri は
 Carole King ら Brill Building 系ソングライター達と同じ
  Screen Gems 所属の若きソングライターコンビとして
 活動を始めた。
 
 Tony Sepe と Martin Brooks はソングライター、プロデューサー
 で彼らはコンビを組んでいた。Robert Krasnow (Bob Krasnow)
 は New York 生まれで多くのレコード会社の重役を
 こなしてきた人物で Rock and Roll Hall of Fame の
 設立者でもある。当時 King Records から独立して
 Loma Records を設立したばかりの Robert Krasnow は "Swim"
 というダンスナンバーに着目し Tony Sepe と Martin Brooks
 に声をかけ SBK Productions を設立した。
 その SBK Productions (SBK = Sepe-Brooks-Krasnow) だが
 Tony Sepe と Martin Brooks は Domain Records でリリース
 された Round Robin の一連のダンスチューンに関わっており、
 そこで Sloan & Barri は "Kick That Little Foot Sally Ann"
 を提供している。Jack Nitzsche はこの曲の録音の際に
 セッションミュージシャン達 The Wrecking Crew を輪にして、
 ギターを持った少年 Phil Sloan を真ん中に置き、ミュージシャン
 達に言った「私の言うことを守らない限り、二度と君たちは
 Phil Spector の下で働くことはないだろう」
 セッションメンバー達は狂ったように Jack Nitzsche を見つめ
 全員が起き上がってスタジオから出て行った。少年 Phil Sloan
 は非常に熱心なギタリストだった、ゆっくりと彼らは Phil Sloan を
 受け入れ始めスタジオに戻ってきた。それは世界最高の
 ジョークだった、Jack Nitzsche と The Wrecking Crew は
 緊張する Phil Sloan をこの寸劇で笑わせ、少年 Phil Sloan は
 本当にミュージシャンになりたいと思い、気さくで美しい精神を
 持っているとはどういうことか知りたいと思った。基本的に
 Fairfax 高校を卒業して大学に通い、父と同じ薬剤師に
 なるはずだったので、当時実家暮らしの16歳の少年だった
 Phil Sloan は父との関係は良好ではなかった。
 Phil Sloan にとって The Wrecking Crew のメンバー達は
 家族であり代理父のようなものだった。
 結局 "Kick That Little Foot Sally Ann" は1964年5月30日
 をピークに全米61位となり Phil Sloan & Steve Barri にとって
 最初の米国ビルボードトップ100ヒットとなった。。

The Wrecking Crew
 
 Round Robin は Lloyd Thaxton TV show のレギュラーアクト
 として人気を博した太めの黒人シンガーだった。
 西海岸で流行り始めた Swim Dance を全国区にしようと
 SBK Productions は Jack Nitzsche にさらに依頼をしたのだ。

Robert Krasnow

Round Robin (Lloyd)
 早速 Jack Nitzsche から依頼を受けて Sloan & Barri
 が書いたこの “Swimtime U.S.A.” は Rocker style の
 逸品で、リードヴォーカルは Phil Sloan が担当した。
 収録されている女性の声は Darlene Love で、
 このレコーディングセッションは Round Robin の
 "Kick That Little Foot Sally Ann" と同じである。
 “Swim Party” は Elvis Presley をアイドル視していた
 Phil Sloan ならではの Rocker style のダンスチューンだ。
 Sloan & Barri は The Life Guards 名義でシングル
 Swimtime U.S.A. / Swim Party (Reprise 0277)
 を1964年にリリースをした。

 1963年後半から East L.A. 周辺で流行し始めた
 The Slauson とは The Slauson Shuffle という
 ラインダンスだった。
 Meadowlarks (Don Julian & The Larks) - Slauson Shuffle
 (Part 1 & 2) (Dynamite Records DY-1114) と争うように
 ダンスナンバーで儲けたい SBK Productions は直ぐに
 The Slauson にも飛びついて Phil Sloan と Wrecking Crew
 with The Blossoms が1963年11月に Hollywood's Gold Star
 Studio で録音したパワフルなダンスチューン
 Round Robin & The Parlays - Do The Slauson / Slauson
 Shuffletime (Domain 1400) をリリースした。
 しかし1963年11月22日のケネディ大統領暗殺事件によって
 ダンスミュージックの市場は一気に停滞し、アメリカ全体が
 自粛ムードに包まれラブソングやダンスミュージック等の
 明るいサウンドの殆どがキャンセルとなった。

 その間 The Beatles 他イギリス勢のアメリカ市場侵攻
 (所謂 British Invasion) によってアメリカのミュージックシーン
 は大きく変化を見せる。流行とは恐ろしく早い変化を
 見せるのでプロダクションも必死となる。1964年後半に
 なって今度は The Jerk (所謂 Monkey Dance) が流行する。
 ライバル視していた Don Julian & The Larks が1964年10月
 に The Jerk / Forget Me (Money 106) をリリースし1964年
 11月14日をピークに全米7位の大ヒットとなる。
 British Invasion の到来で市場の変化を意識していた
 SBK Productions は慌ててイギリス生れのアメリカ人ダンサー、
 振付師の David Winters を使ってシングルを1964年10月に
 リリースするに至った。1939年4月5日、イギリスのロンドンで
 生まれたアメリカ人ダンサー、振付師、プロデューサー、
 ディレクター、脚本家、俳優と多才な人物の David Winters
 だが、そのシングルA面は Round Robin & The Parlays -
 Do The Slauson のバックトラックを使って David Winters の
 リードボーカルと置き換えている。

 British Invasion の流行に便乗し "The London Jerk"
 と新たな歌詞と新たなソングタイトルを与えたこのシングルだが
 Round Robin "Do The Slauson" と同じバックトラックなので
 Phil Sloan と Wrecking Crew with The Blossoms が
 1963年11月に Gold Star Studio で録音したリサイクル音源
 という事になる。当然クレジットはないが Jack Nitzsche 総指揮
 による Perry Botkin, Jr. のアレンジと言う事になるのだ。
 その慌てぶりが垣間見えるかのように両面ラベルの右に白地で
 プロダクションロゴ SEPE / BROOKS とクレジットされた下に
 印刷されていた KRASNOW PROD の部分だけ黒く塗りつぶして
 配布させてる。Robert Krasnow (Bob Krasnow) の出資では
 ないと言う意味なのだろうか。もちろん少数のプロモ盤しか
 配布されていない。David Winters は West Side Story
 (1957年 Broadway musicals) に出演し脚光を浴び、

David Winters
1961年の映画化では
彼は再キャストされた
数少ない人物の1人だった。
彼はその後ダンスの
振付師になり、映画では
Viva Las Vegas (1964年)
を皮切りに、Elvis Presley、
Ann-Margret の振り付け
を担当した。
他のダンス振り付けの
クレジットには1964年の
T.A.M.I. show も含まれる。

 因みに Phil Sloan & Steve Barri はこれらのセッションで
 当時 Jack Nitzsche 門下生だった Jerry Riopelle
 (後の Parade) と出会う。
 Robert Krasnow が設立した Loma Records で
 Jack Nitzsche は可愛がっていた若きソングライターの
 Jerry Riopelle に Sugar 'N' Spice というガールグループの
 プロデュースをさせたり(因みにそのアレンジャーは
 Gary Paxton だった) 音作りのノウハウを学ばせていた。

 Phil Sloan & Steve Barri と Jerry Riopelle はリリースには
 至らなかったが幾つかの Swim song をデモ録音している。
 そしてその曲群がアレンジを変えて後に The Fantastic Baggys
 の名作アルバムに収録される。
 彼らは共作した "Big Boss Swimmer" もデモ録音しており、
 このプロジェクトが Swim というダンスチューンで
 ムーヴメントを仕掛けようとしたプロダクションの動きの中で
 成長発展していった事が解る。

Jerry Riopell

Jack Nitzsche
 またこの曲調もその後 The Fantastic Baggys のアルバム
 で収録される "Big Gun Board" へと展開されている。例えば

 後に The Fantastic Baggys で録音される "Surfin' Craze" の
 印象的なギターイントロはデモだけで終わった "Let's Swim Baby"
 で既に完成されており、この Swim という当時流行したダンス
 チューンは Wildcats 名義の "The Swim" や The Life Guards
 の "Swim Time U.S.A."へと展開を見せている。
 
 これら Swim 系の音源に対して Phil Sloan は Elvis Presley を
 模倣した Rocker Style で歌っており、これらを Surfin' Style に
 焼きなおす事によって次々とデモ音源は The Baggys セッション
 へと生まれ変わっていく。
 
 Chicago 生まれの Lou Adler は Vee-Jay Records にもコンタクト
 を持っており、黒人オーナーで R&B 専門のレーベルだった
 Vee-Jay Records が Four Seasons の移籍によって新たな
 分野を開拓し始めていた計画を知る。

Vee-Jay Records Office in Chicago 1961
 
Steve Barri & Phil Sloan
Steve Barri & Phil Sloan
出会ってすぐに意気投合
した Steve Barri と Phil Sloan
だがいつも行動を共にし、
デモソングを次々と書き始めて
いた。Steve Barri によると
当時彼らは Motown Sound
の西海岸バージョンを作ろうと
していた。彼らはデモ音源を
Lou Adler に聴かせた際に
Vee-Jay Records 上での
計画を知らされる。

 The Beatles は、実際には Vee-Jay Records と EMI の
 外国人権利管理会社である Transglobal の両方を代表する
 New York の弁護士である Paul Marshall によって
 Vee-Jay Records に参加した。
 これは1964年の Vee-Jay Records と Capitol Records の間の
 訴訟の記録、および Bruce Spizer (Vee-Jay の The Beatles
 レコード研究者)や Mark Lewisohn (Tune In) などの著者による
 最近の調査によって確認されている。Little Richard も
 Phil Sloan と同じように「私が The Beatles を発掘した」と主張
 をしたが Label Credit において Vee-Jay Records と
 Phil Sloan の関係は1964年の夏まで始まっていない。
 しかし Phil Sloan は1961年にはすでに Screen Gems と
 ソングライター契約をしており、Lou Adler とは出会っている。
 
 Phil Sloan は彼の本の中で、彼は Vee-Jay Records に対して
 「The Beatles と契約すべきだ」と進言したと主張している。
 Dunhill を設立する前に Lou Adler が Vee-Jay Records の
 主要幹部達と仲が良かったので、Vee-Jay Records 上で
 Lou Adler が Phil Sloan-Steve Barri の作品をリリースしようと
 していた準備期間にこれからソングライターとして育てようと
 していた子飼いの Phil Sloan の意見「The Beatles と契約
 すべきだ」を Lou Adler が幹部達に伝えたのだろう。
 なぜ Vee-Jay Records が実績も無いソングライターチーム
 Phil Sloan-Steve Barri の曲をこんなに大量に流入したのかは
 彼らが若者目線で A&R という業務を感覚的に学んでいたからで
 Vee-Jay Records が主要マーケットに成長していく西海岸での
 存在感を示すには理にかなっていた。
 

The Beatles on Vee-Jay Records

 同社のソングライター&渉外担当として活動し始めた Phil Sloan
 はイギリスから届いた The Beatles のマスターテープを聴いて
 Vee-Jay Records に The Beatles を獲得させアメリカ市場に
 The Beatles を紹介するなど、若き A&R としてマーケットを
 見渡していた。Phil Sloan の推薦もあり Vee-Jay Records は
 The Beatles を獲得した。そして "From Me To You" をリリース
 させこの曲は全米41位のヒットとなった。
 1963年1月、Vee-Jay Records は、事実上ファンファーレなしで
 The Beatles によるレコーディングの1回分のライセンス契約に
 合意した。当時の Vee-Jay Records の最高国際代表は、
 契約を結ぶためにロンドンに旅行した Barbara Gardner という
 名前の30歳の女性だった。 彼女は、自分の広告代理店を
 所有および運営する最初のアフリカ系アメリカ人女性になる。
 Vee-Jay Records が The Beatles のリリースからの資本の
 流入を見せ始めた後、彼らは西海岸にオフィスを設立し、
 そこからアーティストに署名し始めた。
 

Jay Lasker
 Jay Lasker は1945年に Decca Records に入社したベテランだ。
 1963年1月、Vee-Jay Records が The Beatles と契約したとき
 Jay Lasker は Del-Fi Records のエグゼクティブ副社長だった。
 最初に2枚の The Beatles シングルの両方がすでにリリース
 された後、1963年の夏に Jay Lasker は Vee-Jay に参加した。
 Vee-Jay のウェストコーストオフィスは Randy Wood によって
 運営されていたが Randy Wood が去ったときに Jay Lasker が
 引き継ぎ、Randy Wood は彼自身のレーベル、Mira と Mirwood
 を設立した。(Jay Lasker は後年 Lou Adler 退陣後に
 Dunhill Records の社長になる) Vee-Jay Records は西海岸
 でのセールスを強化するために子会社 Tolie Records を
 California に設立しそこから The Beatles の"Twist & Shout"
 をリリースさせ全米2位の大ヒットを記録し Capitol Records を
 牽制した。しかし既に経営難に陥っていた Vee-Jay Records の
 この行為は権利売却の為でしかなかった。

 
Steve Barri & Phil Sloan
Steve Barri & Phil Sloan
彼らは Vee-Jay Records
時代に R&Bガールシンガー達
に多くのダンスチューンを提供
している。また彼らは1964年
に一連のダンスブームを受けて
Swim や Slauson 等の新たな
ダンスナンバーも書いている。
それらの中にはガールポップ
シンガーに書き歌わせた
Northern Soul ナンバー、
RCA から女性版
Elvis Presley をと打診された
Ann-Margret、その他にも
Connie Stevens らに書き
与えた王道的ガールポップ
がある。また本格的な
British Invasion の波が
 押し寄せてきたこの年はそれらを意識したビートチューンまで
 含まれており彼らの書く曲の作風を大きく広げた。
 当時 Phil Sloan は凄まじい勢いで流行音楽シーンを駆け抜けて
 いく。これはある意味 Brian Wilson のような天才肌の努力家
 とは異なり、若き流行音楽作家として曲を量産していき、
 ニーズに応じた応用力の高さを求められた結果でもあった。
 彼らはまさに西海岸版のブリルビルディング系ソングライター
 とも言える逸材であった。
 
 彼らはこの時期に The Life Guards をはじめ
 The Street Cleaners, Philip & Stephen 他複数の
 変名シングルを複数のレーベルからリリースしているが
 それはイメージにこだわることなく彼らが次々と曲を
 量産していた表れであり、それら様々なスタイルでヒットの
 可能性を模索するための行為だった。これは同様にマスター
 を販売しようとしている小さな出版社の財テクでもあった。
 彼らはマスターを特定の金額で売ろうとしただけで、
 出版社は Phil Sloan & Steve Barri をこれらすべての異なる
 グループとしてレーベルに売り、前払い金を得ることができた。
 
 Phil Sloan & Steve Barri は名門スタジオ United Western
 Recorders (AKA Western Recorders) で働き始めた。
 1964年後半から65年にかけて、彼らのすべてのヒット曲が
 出てきたがこれらは非常に安価でエキサイティングな録音だった。
 Phil Sloan はすべてで楽器を演奏したが、スタジオの費用は
 1時間あたりわずか15ドルだった。Darlene Love に15ドルで
 バックグラウンドを歌ってもらい、The Wrecking Crew,
 Joe Osborn, Glen Campbell, Hal Blaine 全員がデモ録音の
 レートの時給15ドルで働いていた。Phil Sloan が14歳の
 時に彼の叔父は Phil Sloan を反体制という意味で Punk と
 呼んでいた。Phil Sloan は言う「パンクは、心の中で社会を
 破壊しようとしている人を意味する。社会を破壊することと、
 社会を変えることと、社会を構築することの違いは、最初に
 修復が必要なものを取り除き、それを構築する必要がある
 ということだ。パンクミュージックが登場したとき、すでに
 企業のロックに取り込まれていた。私の初期の作品
 “That’s Cool, That’s Trash” は聴けばスリーコードの
 パンクだ。私たちがレコードを作って The Kingsmen が
 アルバムでカバーしたんだ。彼らは自分たちが何をして
 いるかを知っていたので、私は彼らのパンクが好きだった」
 

The Matadors


Jan & Dean
間もなくして彼らは Lou Adler
から Jan & Dean の為の
セッションボーカルグループを
探している事を聴かされる。
Jan & Dean のバックを
担当していた The Matadors
は当時 Screen Gems の
契約下だったが Liberty Records
と録音契約を持っていた。

The Matadors と交代して
Jan & Dean のセッションを
担当する事になった Phil Sloan
と Steve Barri だが Liberty
Records は当時ヒップな
サーフィンバンドを物色していた。
Sloan & Barri は Jan & Dean
に幾つか曲を提供しており、
その中の "(Here They Come)
From All Over The World"は
T.A.M.I. show のテーマ曲と
してリリースされているが
 この曲はその後 The Fantastic Baggys のアルバムに
 収録される "Surfin's Back Again" へと展開する。

 Jan & Dean は Phil Sloan にとって大スターのような存在
 だった。Jan & Dean はプロデューサーである Lou Adler と
 話をするために Screen Gems にやって来た。もちろん
 Phil Sloan は彼らと話したり会ったりすることはなかった。
 彼らが入ってきたとき、彼らは別の部屋に押し込まれた。
 そして最終的に何が起こったのかというと Jan & Dean が
 "Surf City" を作ったとき The Matadors は独自のレコード
 契約を結び、それは別の名前で販売された。Jan Berry は
 The Matadors のバックアップのために支払っていなかった
 ので、The Matadors は自分たちで独立して活動すること
 にしたのだ。The Matadors の退団の理由がどうであれ
 彼らは出て行き、Phil Sloan と Steve Barri が代わりを
 務めることになり、二人は正式に Jan & Dean の
 バックアップグループになった。そして最終的に Phil Sloan
 は Dean になり、Dean のパートを引き受けバックグラウン
 パートをすべて歌い、最終的に Jan は Phil Sloan に
 自分のパートもやってほしいと言ってきた。だからいくつか
 のレコードでは Phil Sloan は Dean を歌い、Jan の声に
 オーバーダビングを施しセンターパートを歌っている。
 “Little Old Lady”、“New Girl In School” そして
 “Surf City” や “Drag City”の直後のすべてのヒット曲。
 さらに Sloan & Barri が書いた “One Piece Topless
 Bathing Suit” でそれは確認できる。ロック初の偉大な
 コンサート映画 The T.A.M.I. show のテーマソングを
 Phil Sloan が書いた。(頭文字 T.A.M.I. は "Teenage
 Awards Music International" と "Teen Age Music
 International" の二つを告知で使い分けていて一貫性が
 ない) しかし Lou Adler は Phil Sloan が出演した
 スター達に会ってほしくなかったので彼を1964年10月
 28日と29日に Santa Monica Civic Auditorium で
 行われたそのショーに行かせなかった。因みにショーは
 American International Pictures で映画化され
 音楽監督を Jack Nitzsche が担当している。

 Phil Sloan & Steve Barri は手始めに Rally Packs
 名義にて Jan & Dean のセッションのアウトテイクを
 用いて Brian Wilson-Roger Christian が書いた
 "Move Out, Little Mustang" (Imperial 66036) をシングル
 リリースする これは The Fantastic Baggys への布石となる。
 A Dunhill Production、Trousdale Music Inc. とクレジット
 されたこのシングルは Screen Gems との論争の火中の
 栗みたいな存在だった。
 このシングルが1964年5月にリリースされ
 1964年9月に Jan & Dean のアルバム
 The Little Old Lady From Pasadena
 (Liberty LST-7377/LRP-3377) がリリースされたのだが
 Rally Packs - Move Out,Little Mustang のトラックを
 そのまま Jan & Dean 名義で B4 に収録している。
 Phil Sloan は Jan Berry の声まねが得意だし、
 Jan Berry も Phil Sloan の声が自分の歌声に調和する
 事が好きだった。しかしそのままアルバムに収録しても
 当時誰も違和感を感じなかったのか、この事は話題にも
 ならなかった。途中導入される女性の声は当時 Jan Berry
 のガールフレンドだった Jill Gibson によるものだ。
 B面曲 "Bucket Seats" は上記 Jan & Dean アルバムの
 A5 に収録された "Old Ladies Seldom Power Shift”
 と言うインスト曲にカークラッシュの効果音を追加導入してる。
 不思議な事に同じトラックなのだが Jan & Dean の
 "Old Ladies Seldom Power Shift" には
 Jan Berry-Dean Torrance の共作クレジットとなってるが、
 Rally Packs "Bucket Seats" は作者が Don Altfeld 単独
 となっている。これは Screen Gems との論争を避ける
 ために Lou Adler が配慮したのだろう。
 因みに Phil Sloan 曰く「私はこのレコーディングで
 Brian Wilson には会った事はない」そうだ。
 後年 Phil Sloan はラジオインタヴューで「Brian Wilson は
 私のヒーローだった」と答え、当時の南カリフォルニアの
 ティーン達に齎された Surfin' & Hot Rod Movement に
 よって The Baggys Project が進んで行った事を語っていた。
 これを機に Sloan & Barri は本格的に Surfin' & Hot Rod
 Movement に参加する。
 
 1964年のある時 Jan & Dean は Phil Sloan & Steve Barri
 をオフィスから追い出し Hawaii に連れて行った。
 彼らはそこで Jan & Dean, The Beach Boys, Bruce & Terry,
 Glen Campbell, Hal Blaine らとビッグショーのステージに
 上がり共演した。その時 Glen Campbell がギターを弾くとは
 誰も教えてくれなかったので、Phil Sloan は突然ベースを
 弾くことになった。彼らは Phil Sloan の手にベースを突き
 刺して「ここだ」と言った。ステージに立った事のない
 Phil Sloan & Steve Barri にとって、それはかなり教育的
 な実践経験となった。
 
 ちょうど Jan & Dean のアルバム"DEAD MAN'S CURVE" が
 リリースされる3日前に Lou Adler は Screen Gems の幹部と
 意見が衝突し会社を退職する。Lou Adler の役職は彼の
 アシスタントだった Charles "Chuck" Kaye が速やかに引継いだ。
 これは計算された行動だったのだろう、実は Lou Adler は
 一ヶ月前には Pierre Cossette, Bobby Roberts らと
 Dunhill Production を設立したばかりだったのだ。そしてこれに
 合わせるように彼は Dunhill Production が管理する音楽出版社
 Trousdale Music を設立して、最初の契約は Phil Sloan &
 Steve Barri と行っている。Lou Adler は彼らの給与を倍増して
 彼のスタートアップ パブリッシャーである Trousdale Music と
 スタートアップ レーベルの Dunhill Records に雇い入れた。
 即ちソングライターコンビの Phil Sloan & Steve Barri を
 Screen Gems から引き抜いたのだ。
 同様に Jan & Dean も Dunhill Production の管理下に置かれた。
 実際 Phil Sloan & Steve Barri はアルバム"DEAD MAN'S CURVE"
 収録曲にて多くのボーカルを被せており "The Little Old Lady
 (From Pasadena)" や "Hey Little Freshman" では Phil Sloan の
 素晴らしいファルセットボーカルが確認出来る。
 特に"The Little Old Lady"で聴かせるファルセットボーカル
 は長年 Brian Wilson だと思われていたが、実は Phil Sloan の
 ファルセットが大きくフューチャーされていたのだ。Jan Berry は
 IQ 180以上もある天才でレコーディングの多くを仕切っていた。

Dead Man's Curve /
 The New Girl In School
しかし Sloan & Barri の
適応力の高さや演奏能力の
高さを認めており、正確に役割を
こなせる彼らのサポートを
好んでいた。また Jan Berry は
Phil Sloan の声が自分に調和
する事を実感していたという。
当時は Monoral と Stereo の
録音を分けておりラジオの
オンエアーを考慮し多くのテイク
が録音されている。
The Little Old Lady From Pasadena のセッション
1964年 United Recorders スタジオにて
From Dunhill Home Video owned by Steve Barri

 これらの録音は Jan Berry が Lou Adler に見せた忠誠心の
 表れでもあり、これによって Phil Sloan & Steve Barri
 もボーカルグループとして大きく成長した。
 しかし彼らを引き抜かれ怒り心頭だった Screen Gems は
 6月になって Jan Berry と Lou Adler に対して民事訴訟を
 行うように通達してきた。Screen Gems は Jan Berry に
 対してアルバム"DEAD MAN'S CURVE"の
 ソングライタークレジットに関するクレームを全て放棄するように
 強要した。これは Jan Berry と Jill Gibson が共作した曲にまで
 及んでいる。"Little Old Lady (From Pasadena)" は Jan Berry が
 作曲していたが Screen Gems は Don Altfeld & Roger Christian
 のみのクレジットを執行しようとした。また Liberty Records の

Screen-Gems Offices
Lester Sill and
Don Kirshner
Alvin Bennett 社長をも名指し
して Dunhill Production と
Trousdale Music を叩こうとした。
結局両者の間に妥協案が提出
されトラブルは解決に向って
行った。その結果 Jan Berry は
ソングライティングとプロデュース
の面で Screen Gems の契約下
でいることを法的に義務付け
られた。それを受けて
Jan Berry は名前を伏せて
Trousdale Music に曲を残そう
と努力したと言うが、彼らの
 アルバム "DEAD MAN'S CURVE"はそれらトラブルが原因で
 プロモーションが弱くなっていた。
 しかし Jan & Dean の為のセッションを皮切りに
 Surfin' & Hot Rod Movement に参加する等、1964年は
 Phil Sloan & Steve Barri にとって本格始動の年であった
 と言えよう。
 
 Jan & Dean の1964年のアルバム Dead Man's Curve /
 The New Girl In School で好評を得た Phil Sloan and
 Steve Barri のバックコーラスはすぐさま Liberty Records
 内で評判となりプロデューサーの Snuff Garrett は彼が
 務める Gary Lewis And The Playboys の Surf Style Pop
 の "Little Miss Go-Go" の録音でワンショット契約を結んで
 Phil Sloan and Steve Barri にコーラスをさせた。
 
 後年 Phil Sloan は当時の事を語っている「Jan Berry と
 Dean Torrence は、Arnie Ginsburg と共に The Barons
 というバンドを始めた。彼らの最初のシングルである
  "Jennie Lee" が1958年にリリースされたとき Dean は
 陸軍予備役に勤務していたため、Jan & Arnie として
 クレジットされた。Dean が戻ったとき有名なデュオ
 Jan & Dean を結成し、Arnie Ginsburg は陸軍に
 加わった。当時は Surf music がすべてだった。
 私は15歳で、Woody Guthrie, Pete Seege, Odetta
 や Brownie McGhee を聴いていたが、Jan & Dean の
 大ファンだった。1960年、私は15歳の時に Jan & Arnie,
 Terry Melcher と同じレーベルに所属してた
 (Jan & Arnie の Arwin Records は Phil Sloan が当時
 所属してた Mart Records のオーナーで Terry Melcher
 の父 Martin Melcher が設立者) 私は Screen Gems に
 いて、Lou Adler が Jan & Dean を管理していた。
 これは運命だったんだろう。そして次に気がついたのは
 Jan & Dean のレコードのバックグラウンドで歌っていて
 彼らのためにサーフソングを書くように頼まれていると
 いうことだった。だから、それは自然なことのように思えた。
 私はそれが好きだった。私は16、17歳になって初めての
 エレキギターを手に入れた。Scotty Moore, James Burton,
 Chuck Berry, そして The Everly Brothers から私は
 ギターの影響を受けた。これらのスタイルのいくつかを
 マスターできれば、それは成功の基本要素だ。
 Scotty Moore には『天才』という言葉がよく使われる。
 しかし、Scotty Moore と James Burton はまさに天才
 で彼らは18歳のときにジャズコードを弾いていて、
 それをロックやポップと融合させていた。
 つまり、The Beatles が初期のレコードをすべて

Scotty Moore with Elvis
at Sun Records
Sixth chords で終わらせた
ことを覚えているかい?
曲のエンディングが Sixth
chords の歌を聴いた事が
あるかい?Scotty Moore
も同じだ、彼は D 13 flat
fifth ninth で曲を締めくくる。
今まで誰がそんな曲を聴いた
ことがあったんだい (笑) 」
 
 当時 Sloan & Barri が書いた "Tell 'Em I'm Surfin'" は
 元々シングルだけのセッションだった。そのデモテープを聴いた
 Liberty Records はアルバムパッケージとして契約を望んできた。
 後日 Lou Adler は Phil Sloan & Steve Barri をレコーディング
 グループとして拘束されたくなかったと語っており、
 このプロジェクトに乗り気がなかった事を伺わせている。
 Lou Adler は Phil Sloan & Steve Barri の才能を
 見抜いており、Liberty Records 傘下となった Imperial Records
 にレコードアーティストとして契約させる。
 それは設立されたばかりの Dunhill Production の為であった。
 Lou Adler が彼らをレコーディンググループとして契約束縛
 させたくなかったのは、後に Lou Adler が独立レーベルを
 設立するプランが水面下で動いていたためと推測される。
The Fantastic Baggys
The Fantastic Baggys
(L to R): Bob Myman, P.F. Sloan, Steve Barri, Jerry Cargman
 彼らの代名詞となった The Fantastic Baggys のプロジェクトは
 1964年から始まっている。当時いくつかのサーフグループの
 ために Phil Sloan & Steve Barri が書いた曲を録音したデモの
 グループから発展した。当初 The Baggys と名づけられていた
 このセッションバンドはデモ音源を完成させたばかりだった。
 Lou Adler はその音源を友人で Rolling Stones のマネージャー
 だった Andrew Loog Oldham に聴かせた。すると Mick Jagger
 までもが音源を聴いて驚いた。感想を尋ねられた際に
 Mick Jagger は「Fantastic !!」を連呼したという。それを由来に
 その後彼らは The Fantastic Baggys と呼ばれるようになった
 経緯を持つ。(後年 Andrew Loog Oldham と袂を分けた
 Mick Jagger は "Paint It, Black" のセッションに Phil Sloan
 を呼び出しアドヴァイスを受けている)
 Lou Adler は The Fantastic Baggys 名義でアルバムを
 リリースする事を提案した。"Summer Means Fun" の
 2番の半分くらいは Steve Barri が書いた曲で、その曲の
 ボーカルは Steve Barri が担当した。
 そして Phil Sloan & Steve Barri はいくつかの追加の曲を
 書いて、それをすべてアルバム録音に組込んだ。

The Fantastic Baggys
photo session
The Fantastic Baggys の
アルバム用フォトセッションに
参加している二人は
Bob Myman と Jerry Cargman
だが、プロジェクトの為に
集められたメンバーで
アルバム録音には参加して
いない。Bob Myman はドラム
担当となっていたが Phil Sloan
の高校時代のクラスメイト、
Jerry Cargman こと Jered
Cargman は後に女優
Donna Loren と結婚しこの
夫婦は Hawaii で ADASA
というジュエリーショップを
経営している。
 
 また The Kinks の Ray Davies の弟のギタリスト Dave Davies が
 特に Phil Sloan のファンだった。The Fantastic Baggys の
 セカンドシングルとなった "Anywhere The Girls Are"
 ではアンプの不調で生まれたという効果的なファズギターが
 使われており、The Kinks の代名詞となった1964年の大ヒット
 "You Really Got Me" のリフは The Fantastic Baggys の
 "Anywhere The Girls Are" の冒頭のリフを引用している。
 同様に The Kinks の "All Day And All Of The Night" のリフは
 Sloan & Barri が書いた Hal Blaine の "Drums A Go Go" で
 引用しており、それらは相互のカウンターリアクションによる
 キャッチボールであった事が伺える。
 彼らは徐々に人気作家としての道を歩き始め、多くの
 ミュージシャンからも注目される存在となっていた。
 
 The Beach Boys の "Don't Back Down" のコーラスを模倣し
 Barrett Strong の "Money" の影響下に書かれたという
 "Anywhere The Girls Are" だが、数年後彼らはこの曲が
 ヨーロッパと南アフリカでヒットした事を知らされた。

Falling Leaves
また同時に彼らを落胆させる事柄を
Trousdale Music から聴かされた。
南アフリカでは無断で
The Fantastic Baggys のこの
音源を A面で使い、B面は
南アフリカのグループ
Falling Leaves が歌う
Jan & Dean のカヴァーを収録し
両面 The Fantastic Baggys
名義のシングルがリリースされて
いたのだ。
(South Africa Imperial IRS-94)
それを知った Steve Barri はこの
ヒットを受けてヨーロッパと
南アフリカのツアーに行きたがった
のだが、後年 Phil Sloan の指摘
によるとその後 Lou Adler は
Liberty との契約をキャンセルし
彼らを海外に行かせないように
 したらしい。Lou Adler は最初からこの曲が局部的なヒット
 していた事を知っていたのだと思われる。
 Dunhill Production は The Fantastic Baggys というブランド名
 を持っていたので、素材、生産、または作品を気にすることなく、
 好きな場所でブランドを売ることができた。
 Phil Sloan は南アフリカの The Fantastic Baggys に手紙を書き、
 彼らがしていることについて何か助けが必要かどうか尋ねたが
 Dunhill Production は Phil Sloan が彼らと一切接触することを
 禁じた。Phil Sloan 曰く「南アフリカの The Fantastic Baggys
 の歌は悪くないのだけど、私たちがやっていたものとは
 明らかに違っていた」
 
 またオリジナルシングルのB面に収録されたアルバム未収録の
 "Debbie Be True" は元々 Jan & Dean の為のデモとして録音
 されていた曲で、Jan Berry に聴かせるために Jan の声を
 真似て録音されていた。間もなくして Trousdale Music は彼らに
 「The Baggys のプロジェクトは終わったからサーフィンソングを
 書く事をやめるように」と伝えてきた。しかし曲を書き続けていた
 Phil Sloan は "Save Your Sundays For Surfin'" のデモ音源を
 完成させる。アルバム製作当時 Phil Sloan 18歳、
 Steve Barri 22歳であった。今にしてみればこれら複雑な人間関係
 や当時のその状況は The Fantastic Baggys のアルバム最後
 に収録された "Sufin's Back Again - and Surf Impersonations"
 に多くのヒントが隠されていたのだ。
 
 1964年から1965年までに Sloan & Barri は Swim Movement
 を皮切りに Dance Mevement 下でのガールポップ、そして
 Jan & Dean のバックを務めながらも The Fantastic Baggys の
 プロジェクトを継続し Surfin' & Hot Rod Movement に参加
 するなど、すでに西海岸の一流ソングライターコンビとして
 成長していった。その間も精力的に書かれていた彼らの
 デモ音源を聴くと、すでに書かれていた曲からの引用で
 様々なパターンの曲へと展開させているのが解る。
 
 ある週 Phil Sloan と Steve Barri は約35曲のデモを録音した。
 Phil Sloan がギターとドラム、Steve Barri がタンバリンを
 プレイした。Phil Sloan はその中でも "My Little Cream Puff"
 のセッションが最高だったと言っている。Cream Puff とは
 中古車の意味で、このカーソングは残念ながら一度も
 リリースされていない。
 

 Brian Wilson の妻 Marilyn Rovell Wilson と Diane Rovell
 の姉妹と彼女達の従兄弟で Gary Usher の元ガールフレンド
 Ginger Blake こと Sandra Glantz からなるトリオ The Honeys
 は The Beach Boys のレコーディングでのコーラスでも
 有名だが、彼女達は1963年に Capitol Records で3枚、
 1964年に Warner Bros. で1枚シングルをリリースしていた。
 1965年に Phil Sloan は The Honeys と幾つかのデモ録音
 を行った。そのうちの一つ "I Love You Much Too Much"
 はヒットするだけのポテンシャルを持った曲だがなぜか
 リリースされなかった。興味深い事に Phil Sloan が後年
 Ginger Blake に20年ぶりに会った時、Ginger は Phil Sloan
 に「あのセッションのテープをまだ持ってる?」と尋ねた。
 「もう女の子じゃないけど、おばあさんだ!」Phil Sloan 曰く
 彼女たちはまだ歌が大好きで、次のアルバムのプロデュース
 を考えていたと言う。

The Honeys
LR: Ginger Blake, Marilyn Rovell, Diane Rovell
 
 ある日 Lou Adler が「なあ、“Danger Man” というイギリスの
 テレビ番組のテーマソングを書く機会があるんだが」と
 Phil Sloan & Steve Barri に言った。Steve Barri は歌詞を
 書かなければならなかったのでそれが何であるか Lou Adler
 に尋ねた。Lou Adler はそれが諜報機関のようなものだと
 言った。Phil Sloan & Steve Barri は「なぜこのようなガラクタ
 を書かせようとするんだい? 恥ずかしいよ。何を書けばいい
 のかわからない」と答えた。Lou Adler は「James Bond の
 映画を知ってるよね?」と言い主人公 John Drake の
 キャラクターを James Bond だと考えるようにとイメージを
 Steve Barri に伝えた。基本的に彼らが望んでいたのは
 テレビのオープニング用の30秒だけだったので Phil Sloan
 はリフを書き Steve Barri が “They’re giving you
 a number, and taking away your name” (彼らは君に番号を
 与え、君の名前を奪っている) というセリフを思いついたとき
 それはまとまり始めた。彼らは「Danger Man」として1番の
 歌詩とコーラスを書きそれを録音した後、会社はエンディング
 部分の “Look out, danger man/Look out, danger man”
 を “Secret, agent man/Secret, agent man” に替えたい
 と言ってきた。何故ならアメリカでのテレビタイトルが
 イギリスでの Danger Man ではなく、Secret Agent
 になるので。彼らはそれを修正して番組用オープニング
 トラックの仮録音が終了した。 アメリカでのテレビ番組
 Secret Agent ではオープニングで30秒バージョンを
 Johnny Rivers が歌った。
 当時、Phil Sloan & Steve Barri は給料をもらっていたので
 主題歌を書くための報酬は得ることができなかった。

"Danger Man" in UK

"Secret Agent" in USA

Johnny Rivers
このテレビ番組が CBS の夏の
代替番組として取り上げられ
Patrick McGoohan 主演で
とても人気になったとき
Johnny Rivers はファンから
歌ってほしいというリクエストを
受け始めた。Sloan & Barri が
スタジオにいたとき Johnny
Rivers は「Secret Agent Man
を最後まで完成させてくれ
ないかい?ファン達がそれを
歌って欲しいと言ってるので
歌いたいんだが、最初の部分
を繰り返すだけになってしまう」
と尋ねてきた。
 Steve Barri は「もし君が録音したいなら2番以降も書くよ」
 と言って短いブリッジを加え、Phil Sloan が素晴らしいギターソロ
 を追加しロングバージョンが完成された。Lou Adler はそれに
 喜んでスタジオに人々を入れて騒がせ Johnny Rivers の常打ち
 会場だった West Hollywood のライヴハウス
 Whiskey A Go Go で録音したかのようなライヴ風録音に
 仕立てた。それが魔法だった。キャッチーなリフ、危険な男の
 立場を描いたスリリングな歌詞、そして臨場感溢れる
 ライヴ風録音がヒット曲の裏にあった。
 
 "Secret Agent Man" のレコードリリースを時系列で追っていくと
 Richard Delvy 率いる The Challengers が彼らの当時の路線
 だった1965年リリースのヒット曲カバー集アルバム "The Man
 From U.N.C.L.E." の中でベーシストの Randy Nauert が歌った
 "Secret Agent Man" を収録した。これがこの歌のボーカル
 バージョンのファーストリリースである。
 そしてギタリストの Al Caiola が1965年8月にリリースした彼の
 アルバム "Al Caiola...Sounds For Spies And Private Eyes"
 の中で収録したのがインストバージョンのファーストリリース
 である。次にペルーのガレージインストバンド Los Shain's が
 彼らのアルバム "El Ritmo De Los Shain's" の中で
 素晴らしいインストバージョン "Agente Secreto" (Secret
 Agent Man) を収録し、アメリカ以外の国のバンドとして
 初めてリリースした。

 The Ventures は Phil Sloan が作ったインストゥルメンタル
 バージョンのデモを聴き "Secret Agent" をまず彼らの
 ギターレッスンアルバム "Play Guitar With The Ventures
 Volume 3" で Secret Agent Man (Play Guitar) として収録
 してリリースしたのが1965年12月だった。
 Hal Blaine がリリースしたシングル "Secret Agent Man"
 は Phil Sloan がギターで参加してるが1966年1月22日に
 リリースされている。
 The Ventures は改めて "Secret Agent Man" をシングル
 カットし1966年1月29に Dolton Records 316 をリリースした。
 それはブームに乗って1966年2月26日をピークに全米54位
 のチャートヒットを記録した。彼らはたまたま傘下のレーベル
 メイトだったので、Liberty Records は Johnny Rivers に
 「なんてこった、この曲をすぐ録音するべきだ」と言った。
 
 当時 Phil Sloan & Steve Barri は自分達が取り組む必要の
 ある仕事の中でこの曲は最も馬鹿げていると思っていた。
 しかし、この曲はライヴ感が功を奏して1966年3月19日を
 ピークに全米3位の大ヒットとなった。この曲は秘密諜報員を
 テーマにしているが、時代によって風化される事のない政治的
 背景までもが含まれる、特にロシアと国境の近い北欧や東欧
 のミュージシャン達は "Secret Agent Man" と "Eve Of
 Destruction" を好んでカバーしておりこの2曲に関しては
 現在も今後もカバーが続くほどのスタンダード化された
 名曲になった。それは作者の Phil Sloan にとって何年にも
 わたって印税が支払われ続ける金鉱になるべき歌だった
 のだが、後年になってそれは断たれる。

Phil Sloan and Johnny Rivers
 
 Dunhill Records は1964年に Dunhill Production として設立され
 当初の目的は Imperial Records の Johnny Rivers を売り込む
 為だった。当時 Imperial Records は創設者の Lew Chudd から
 Liberty Records の設立者 Alvin Bennett に売却されたばかり
 だった。Dunhill Production の設立者は Lou Adler, Alvin Bennett,
 Pierre Cossette, Bobby Roberts の4人である。
 Alvin Bennett は Liberty Records の創設者でもあり
 The Chipmunks の Alvin は彼の名前から使われた。
 Pierre Cossette は Broadway のプロデューサーをしていた
 フランス系カナダ人。そして Bobby Roberts は後に
 The Mamas & The Papas のマネージャーとなる人物。
 因みに Dunhill とは Bobby Roberts が以前メンバーだった
 タップダンスグループ The Dunhills (The Dancing Dunhill's) から
 命名されている。また Bobby Roberts はヴァカンスに出かけて
 いた南カリフォルニアのビーチホテルでメキシカンバンドの 
 The Iguanas を Phil Sloan と一緒に発掘した人物としても
 知られ、彼は後に Mums Records を設立し、1972年には
 Phil Sloan 通産4枚目のソロアルバムもそこからリリースした。

Pierre Cossette

Alvin Bennett

Bobby Roberts
Bobby Roberts は
エンターテインメント業界の
幹部だった。彼は主に タレント
マネージャー、レーベルオーナー、
レコードおよび映画プロデューサー
をしていた。Dunhill Records,
Prophesy Records, Mums Records
を共同設立し、Hal Landers と共に
Prophesy and Mums の親会社
である Landers-Roberts Inc.
の共同所有者だった。
マネージャー業では Jan & Dean、
Shelley Fabares、
The Mamas & The Papas など、
多くのアーティストの個人
マネージャーを務めた有能な
人物だった。
 

Shelley Fabares
and Lou Adler



また Lou Adler と1964年に
結婚したばかりで
"Johnny Angel" の全米1位
ヒットを持つ美人女優兼シンガー
の Shelley Fabares を Screen
Gems 系の Colpix から
Vee-Jay Records に短期間
移籍させたのは Dunhill
Production の配給契約を
目論む Lou Adler の計画
であった。この時期 Phil Sloan
と Steve Barri は
The Fantastic Baggys として
Shelley Fabares の
"I Know You'll Be There" に
バックアップシンガーとして参加。
勿論曲を書いたのも
Sloan & Barri でありプロデュース
は Lou Adler が担当した。
この曲はイギリスでも話題と
なっており、翌年 Phil Sloan
自らもソロでデモ録音している。

既に Phil Sloan の書く
メロディーはアメリカはおろか
イギリスでも注目されており、
 その作風こそ Musician's Musician として彼がいまだ
 愛され続けている所以である。
 Shelley Fabares - I Know You'll Be There / Lost Summer Love
 (Vee-Jay Records VJ 632) 1964
 A面は人気の美人女優 Shelley Fabares が歌う感傷的な
 ラブバラードの名作。作者の Phil Sloan & Steve Barri
 は "Don't Worry Baby" を意識してこの曲を書いている。
 バックコーラスも彼らが参加しており、また Steve Barri
 が書いた歌詞も素晴らしい。エンディングでリピートされる
 Fadeout 部分でも新たな歌詞を追加しており、それは
 Shelley Fabares の心象風景を表しているようで美しい。
 B面は可愛らしくもセンチなサマーソング。
 ソングライターは Mark Barkan-Dolores Fuller
 とクレジットされており、Mark Barkan は奇妙な事に
 ミュージシャンとして Rusty Evans (Marcus Uzilevsk)
 のサイケデリックユニット The Deep のメンバーだった人物で
 作曲家として Lesley Gore, Manfred Mann, Connie Francis,
 The Archies, The Monkees 等多くに提供した。
 作詞を担当したのは女優、ソングライター、自身のレーベル
 も運営してた美人女優 Dolores Fuller が担当している。
 彼女を最も有名にさせたのは映画女優時代ではなく、
 Elvis Presley の一連の映画曲の歌詞を書いた事だろう。

Dolores Fuller
Elvis Presley と映画 Blue Hawaii
で共演したかった Dolores Fuller
は Hill & Range に連絡をとった。
そこで後にコンビを組む
Ben Weisman に出会い、
勧められて "Rock-A-Hula Baby"
の歌詞を書いた。それがきっかけ
となり彼女が作詞した
"I Got Lucky" や "Spinout"
他を Elvis Presley が録音する
に至った。また Dolores Fuller
は若き Johnny Rivers や
Tanya Tucker を売り込む為
に自らがオーナーとなり
Dee Dee Records を1950年代
 後半に設立したビジネスウーマンでもある。そんな売れっ子
 ソングライター達が人気女優の Shelley Fabares に
 食いついてきた。プロデューサーの Lou Adler は子飼いの
 Jan & Dean の同名曲でコロムビアピクチャーズによって
 映画化された “Ride the Wild Surf” (撮影は1963年、公開が
 1964年8月5日) に出演してた女優 Shelley Fabares と
 急接近し、1964年6月に二人は結婚した。
 I Know You'll Be There / Lost Summer Love
 は両面ともアレンジ&コンダクターは当時 Lou Adler の
 下で修行中だった若きソングライターコンビ
 Phil Sloan-Steve Barriである。A面は曲のイントロ部分
 で聴かせるホルンが効果的で、丁寧にとつとつと
 歌う Shelley Fabares の歌声にマッチしている。
 Shelley Fabares は女優として Elvis Presley と
 下記3本の映画で共演する
 「フロリダ万才(Girl Happy)」(1965年)
 「カリフォルニア万才(Spinout)」(1966年)
 「ブルー・マイアミ(Clambake)」(1967年)
 Elvis Presley を絶対的なアイドルとする Phil Sloan
 からすれば夢のような作業だった事だろう。
 1964年11月にリリースされた新妻 Shelley Fabares
 が Vee-Jay Records に唯一残したのがこのシングルだ。
 Chicago 生まれの Lou Adler は Vee-Jay Records
 にもコンタクトを持っており、黒人オーナーで R&B
 専門のレーベルだった Vee-Jay Records が
 Four Seasons の移籍によって新たな分野を開拓し
 始めていた計画を知る。すでに記述したように Lou Adler
 が Shelley Fabares を Screen Gems 系の Colpix から
 Vee-Jay Records に短期間移籍させたのは自身が設立
 した Dunhill Production の配給契約を目論む Lou Adler の
 計画であった。そのような経緯であれば普通に考えて
 妻のシングルをヒットさせようと夫なら努力するだろう。
 しかし Lou Adler は将来自身のレーベル設立のために
 妻の Shelley Fabares を Vee-Jay Records でヒット
 させないようプロモーションをコントロールしている。

Shelley Fabares
何故なら Vee-Jay Records
は西海岸でのセールスを強化
するために子会社 Tolie Records
を California に設立したのだが、
これが既に経営難に陥っていた
Vee-Jay Records の権利売却
の為だった事を Lou Adler は
知っていたのだ。
事実 Shelley Fabares のために
どんな優秀なソングライター達が
どれだけ曲を書こうが、彼女の
ヒット曲は Colpix 時代だけである。
 

Terry Black
また Dunhill Production 設立
にあわせカナダのティーン
アイドルシンガー Terry Black
の本格的なアメリカ進出の
ために Terry Black を
Vee-Jay Records 傘下だった
Tollie Records に招き曲を
提供する。同時に彼らは
Terry Black がカナダ本国で
所属していた ARC にも出向き
レコーディングサポートを行った。
Terry Black に歌わせた
"Unless You Care" は
Phil Sloan が16歳の時に
Elvis Presley に歌わせようと
して書いた曲である。この曲の
録音では Glen Campell が
ギターソロを担当した。
 また "Little Liar" も Phil が子供の時に書いた曲だ。
 その他 Terry Black のカナダ盤アルバムに収録させた残りの曲は
 Phil Sloan & Steve Barri の書き下ろし曲である。Terry Black は
 ルックスもよく俳優志望であったために Lou Adler は Terry Black
 のアメリカ活動を仕切って成功させようと目論んでいた。
 最終的に Lou Adler は1965年に Dunhill Records を設立後に
 Terry Black を引き抜いている。
 Phil Sloan & Steve Barri は Dunhill Records 設立に向けて精力的
 に曲を書き始める。それらの多くに Phil Sloan が歌うデモ音源が
 残されているのだが、彼自身のその後のソロ活動をも視野に
 入れていたかのような出来の良さである。Phil Sloan 得意の
 Jazzmaster は効果的な Twang Guitar の音色を響かせ、フックの
 引用は、過去に手掛けた良質な曲群にも繋がっている。

 
Lou Adler
Lou Adler

Jay Lasker
 1965年に入ると Lou Adler が独立レーベルとして
 Dunhill Records を設立。プロダクションは1965年から
 Dunhill Records となり創設者に Jay Lasker を迎え
 ABC Records の配給で全米にリリースされていく。
 Jay Lasker は The Beatles on Vee-Jay Records の項でも
 記述したが長いキャリアを持つロシア系アメリカ人だ。
 Jay Lasker は 1945年から Decca に勤務し
 Bill Haley の "Rock Around The Clock" の制作に携わった。
 50年代には Knapp Record のセールスエグゼクティブ
 も務め、60年代初頭には Frank Sinatra の新しいレーベル
 Reprise Records に参加した。
 その後 Del-Fi、Vee-Jay、Dunhill Records で働き、
 Lou Adler 退陣後に Jay Lasker は ABC/Dunhill Records
 の社長になった。当初は Vee-Jay Records にコンタクト
 をとっていた Lou Adler だが Vee-Jay の情勢が悪化して
 いる事を知り ABC Records へ Dunhill Records の
 配給権契約を持ちかけている。
 因みに1975年 Jay Lasker は当時の新しい
 Ariola America, Inc. の重役を務め、1980年に Berry Gordy
 は Jay Lasker を Motown レーベルの社長に任命した。
 Jay Lasker は病気で引退を余儀なくされるまで
 数年間 Motown の社長を務めた。
 
 Dunhill Records の第1弾は The Fantastic Baggys のスタジオ
 音源を利用した Rincon Surfside Band 名義のプロモーション盤
 EP だった。これは Dunhill Records のアルバムリリース第1弾の
 予告となった。この時点では同社のイメージカラーは決まって
 おらず、このカラオケのセッション音源は Dunhill Records に
 移籍させたセッションドラマー Hal Blaine がリリースしたレコード
 でも応用されている。その後も The Fantastic Baggys の
 "Surfin' Craze" を替え歌にして Willie & The Wheels 名義で
 シングルリリースしている等 The Fantastic Baggys 音源の
 幾つかは Dunhill Records でも聴く事が出来る。

Hal Blaine

Rincon Surfside Band Album
 

Phil Sloan
With The Iguanas

The Iguanas
 カリフォルニア南部のリゾート地で歌っていたメキシコ人
 クラブバンドが The Iguanas だ。その素晴らくメランコリック
 なボーカルを聴いた Phil Sloan は驚いて、すぐさま
 彼らと契約した。その郷愁を帯びた柔らかいボーカルは
 まさに Phil Sloan が表現したかった重要なファクターで、
 また Sloan & Barri の持つカジュアルだけど繊細な響き
 を持つ歌に The Iguanas は見事に適応した。
 彼らは1965年から1966年にかけて Dunhill Records
 で3枚のシングルをリリースしている。

 
 1966年から1968年にかけて良質なシングル4枚を
 Dunhill Records に残したのが Thomas Group だ。
 グループのリーダー Tony Thomas はコミックブックのライター
 である Danny Thomas の息子であり、彼の姉の Marlo は
 ホームコメディー「That Girl」でスターとなっており
 当時 Lou Adler と付き合っていた。
 Phil Sloan が曲を提供して全面バックアップする事になった彼らは
 Lou Adler と契約し、Tony Thomas がドラムを担当、
 Greg Gilford がリードボーカルを担当した。
 Greg Gilford は女優 Anne Gwynne の息子だった。
 当時 The Vogues のスタイルのハーモニーに
 魅力を感じていた Phil Sloan は彼らとならヒット曲が出来ると
 判断した。ファーストシングルでは演奏能力に難があった為に
 Phil Sloan がギターやファルセットボーカルを務め、
 Joe Osborne (bass), Larry Knechtel (keyboards),
 Hal Blaine (drums) らセッションミュージシャンを参加させて
 Penny Arcade / Ordinary Girl (Dunhill D-4027) をリリース。
 A面は既に前年イギリスのシンガー Michael Leslie に取り上げ
 られていた曲で、アレンジを改めて録音した。
 両面とも Phil Sloan & Steve Barri が書いた傑作。
 セカンドシングルでは元々 The Vogues に歌わせようと
  "You're The One" のリフを進化させて Phil Sloan が書いた
 "Autumn" や、Goffin-King の曲風を模倣して書いたと言う
 "Don't Start Me Talkin' 'Bout My Baby" (Dunhill D-4030)
 をリリース。サードシングル I've Got No More To Say /
 Then It Begins (Dunhill D-4062) はピクチャースリーヴ
 を付けてリリースされた。因みに先述の南アフリカの
 The Fantastic Baggys だが1967年に Sloan-Barri が
 Thomas Group のためにに書いた "I've Got No More
 To Say" を歌い南アフリカ1位のヒットとなったと
 Steve Barri は語っている。
 Thomas Group が歌ったバージョンは1967年当時
 ニューヨークの Albany ではローカルヒットを記録している。
 B面の "Then It Begins"は素晴らしいリフとファズ
 のブレイクを併せ持った Freakbeat の傑作だった。
 Lou Adler 退陣後に Dunhill Records の社長になった Jay Lasker
 は彼らがヒットしない原因はリードボーカルだと判断し、
 彼らのラストシングルとなった "Is Happy This Way"
 (Dunhill D-4117) ではミックスダウンに卓越していた
 Steve Barri のボーカルを被せプロデュースも Steve
 が担当した。この曲は The Cyrkle が歌った
 "Please Don't Ever Leave Me" の作者としても知られる
 Susan Haber の単独作で素晴らしいソフトロックとなって
 いる(B面は Terry Black のカバー Sloan-Barri 作で
 彼らのファーストシングルのB面で録音していた曲)
 彼らが Dunhill Records に残した全ての曲のポテンシャルは高く、
 また彼らのボーカルの力量も素晴らしいが何故かヒットして
 いない。推測だが、グループのリーダー Tony Thomas の
 姉と愛人関係にあった Lou Adler の後ろめたさもあってか
 セールスプロモーションが弱かったのかも知れないが、
 アンリリースに終わった彼らの5枚目シングルはメンバー
 Greg Gilford のオリジナル "Someone" と The Grass Roots
 でも録音される Sloan-Barri 作 "Is It Any Wonder" が用意
 され演奏パートは既に録音されていた。
 彼らはその他にも多くの未発表曲音源を録音しておりライブ活動
 や Ed Sullivan Show 等幾つかのテレビ出演もしていた。

Thomas Group
Greg Gilford, Bobby Wallerstein, Tony Thomas,
Marty Howard, David Goldsmith
 
Shelley Fabares
Shelley Fabares
当時急成長をしていた西海岸
の音楽業界だったが
Sloan & Barri はまさしくその
中心を担っており、Lou Adler
は彼らに Folk Rock Movement
をさらに活性化させていく事を
テーマとして作曲を依頼して
いる。レーベル設立にあわせ
妻の Shelley Fabares を移籍
させた Lou Adler だが
Sloan & Barri の曲を彼女に
歌わせたように、既に彼らは
Dunhill Records を代表する
ソングライターコンビとなって
いた。西海岸の独立レーベルと
して注目された Dunhill Records
 であったが時代の最先端を担う楽曲群を Sloan & Barri が
 量産出来たのは彼らが早くからユースカルチャーを睨んだ
 楽曲作りをしていたからであろう。この時期の時代の変化
 はとても早く、またリスナーの環境も日々変化していったのは
 ベトナム戦争の悪化に由来する。また当時は日々録音技術が
 向上しており、特に多重録音のシステムは短期間に大きな
 変化を見せる。

 Phil Sloan は以前 Bruce & Terry "Summer Means Fun”
 (1964年7月25日をピークに全米72位のヒットになった) の
 録音の際に Terry Melcher と仕事をした。
 Columbia Records でプロデューサーとなっていた
 Terry Melcher は The Byrds と呼ばれる新しいグループの
 担当を与えられた。他のプロデューサー達が望んでいない
 この未知のグループを Terry Melcher は与えられたのだ。
 Terry Melcher は夜の12時に Phil Sloan に電話してきて
 「Columbia に "Mr. Tambourine Man" を聴かせたんだけど
 拒否されたんだ。会社に来てレコードのどこが悪いのか
 教えてほしいんだ」Phil Sloan は早速 Columbia Records
 に出向いた。Columbia Records は二人に5時間だけ
 与えた。Phil Sloan と Terry Melcher は The Byrds の
 マスターテープが置かれたスタジオルームに閉じこもった。
 Terry は何が欠けているのか解らなかった。
 しかし Bruce & Terry 名義でレコーディングされた
 シングル "Summer Means Fun" の Phil Sloan のギター
 ソロがすべての鍵だった。そこではギターに命を吹き込む
 ほどのリバーブをかけていた。Phil Sloan は Terry Melcher
 に「あれが私のお気に入りのソロだ」と言った。
 二人はもう一度聴いてみて、必要なのはあのトリプル
 リバーブだという結論に達した。
 "Mr. Tambourine Man" にはまったくエコーがなかった
 のであまり良く聞こえなかった。Terry Melcher と Phil Sloan
 は "Summer Means Fun” について話し始め、ギターの
 エンディングをトリプルエコーにする方法について
 話し始めた。Terry Melcher は Columbia のすべての
 エコーチェンバーに接続し、朝の4時までに二人は
 "Mr. Tambourine Man" にすべてのエコーをかけた。
 それから Columbia Records の管理者達は実際に
 ドアをノックダウンし「おい子供たち、ここから出て行け!」
 と言って彼らは Phil Sloan と Terry Melcher を
 スタジオから追い出した。

Terry Melcher with The Byrds
 そもそもが Columbia Records は The Byrds を望んで
 いなかった。Columbia の A&R の責任者である
 Mitch Miller は当時から悪名高く、彼は The Byrds を
 嫌っていた。ただ Doris Day が Terry Melcher の母親
 だったので、Columbia Records は Terry Melcher に
 我慢してただけだった。Columbia Records は朝5時に
 彼らを締め出し、Terry Melcher は会社を去ったはず
 だった。しかし、Terry Melcher はすぐさまレコードを
 提出し、Columbia Records はそれをリリースした。
 彼らはそれがヒットするとは思っていなかったし、
 Bob Dylan ですらヒットはしないと思ってたが
 このシングルは1965年1月20日に録音され1965年3月
 22日にリリース、そして1965年5月15日をピークに
 全米1位の大ヒットとなる。

 Terry Melcher は Phil Sloan に答えた「The Byrds
 が Don & Dewey に続いて El Monte Legion Stadium
 でプレイすることになったんだ」しかしそこには50代の
 オールディーズファンばかりが集まった。
 The Byrds にとって初のステージプレイだったので
 Terry Melcher は Phil Sloan に監視サポートを依頼した。
 Roger McGuinn はいつもの老眼鏡をしていて、紫色の
 マントを着た David Crosby がいた。Michael Clarke は
 実際にドラムセットを持っていた。彼は自分のドラムを
 所有しておらず、それまでオレンジの木枠で演奏していた。
 そして Chris Hillman がいて、彼らがステージで
 "Mr. Tambourine Man" を演奏したら観客はブーイング
 を繰り返した。するとステージマネージャーが現れて
 それを見守っていた Phil Sloan に彼らに今すぐステージ
 から降りるようにと伝えてきた。Phil Sloan はステージに
 飛び乗り David Crosby の耳元でささやいた
 「マネージャーはステージから降りろと言ったが、そんなの
 クソ食らえだ! "Mr. Tambourine Man" を続けてやれ、
 さもなければ追い出されて惨めな思いをするぞ」
 彼らはとても暗い思いで "Mr. Tambourine Man" を
 続けた。David Crosby はこの事件を決して忘れず、彼は
 Phil Sloan にこう言った「つぎに俺のセットに割り込んで
 きやがったら殺してやる」
 その夜 Bob Dylan は Sunset Plaza ホテルの14階の
 部屋で Phil Sloan と一緒にいて、David Crosby が部屋に
 入ってきて、大声で叫びだした「どうしてこんなゴミの
 ような奴をここに連れてきたんだ!?」
 すると Bob Dylan は Phil に言い訳をして、David Crosby
 を掴み出し、別の部屋に連れて行った。

Bob Dylan with David Crosby
 その時 Phil Sloan は隣の部屋で Bob Dylan が
 David Crosby を平手する音と David Crosby が謝ってる
 言葉を聴いた。Bob Dylan は部屋に戻って来て Phil Sloan
 に言った「君のメロディーセンスが本当に好きだ。
 君は私よりも優れたメロディーライターだ。君が私のメロディー
 のいくつかで私を助けてくれることを本当に願ってる」
 Phil Sloan は「うん、"Girl From The North Country"
 みたいな?私のメロディーが貴方がこれまでに書かれた
 最も偉大なメロディーに似ているところはどこですか?
 貴方のB マイナーの幾つかを台無しにする方法を
 手伝うことができるかもしれません」
 Bob Dylan は答えた「私が良いメロディーを書けると
 本当に思っているのかい?」
 Phil Sloan 「Bob、あなたは本当に最高です」と言った。
 Bob Dylan 「いや、君は私よりもはるかに優れたメロディー
 ライターだよ。私は君から多くを学ぶことができたんだぜ」
 Phil Sloan は Bob Dylan が書いた最高のメロディーを
 5つか6つ挙げ始めた。
 Bob Dylan 「君は本当に私が良いメロディーを持っている
 と思うのかい?」と言った。
 Phil Sloan は答えた「ええ、それらは時代を超越した
 素晴らしいものです」
 

P.F. Sloan and Barry McGuire

The Mamas & The Papas
この時点で Sloan & Barri が
歩もうとする方向性が当時導入
された16トラック録音を中心
とするサウンド進化に応用
させる事 Over Produce 作業
ではなく、楽曲のクオリティー
を優先させるソングライティング
であった事が伺える。
それは Phil Sloan 自身が
ソロシンガーソングライター
としてデビューする事も視野に
入れ始めていたからだろう。
その後も彼らの書く楽曲は
 広くマーケットに浸透していった。それは巨大化する西海岸の
 マーケットから The Turtles や The Mamas & The Papas,
 The Grass Roots らが取り上げた Sloan & Barri の曲が
 全米ヒットになった事にも表れている。
 例えば The Mamas & The Papas の代表曲である
 "California Dreamin'" の冒頭の印象的なイントロは Phil Sloan
 が作ったものだ。当初 John Phillips は出来上がったばかりの
 この曲を持ってきて Phil Sloan に聴かせ「他になにか付け加える
 事があるだろうか」と訊ねてきたと言う。Phil Sloan は彼に
 「もし君が The Ventures の "Walk Don't Run" を覚えている
 なら」とコード一つでどのようにして曲が今以上に親しみやすく
 聴こえるか演奏してみせた。イントロの部分に関してカウンター
 ハーモニーを導入させるよう Phil Sloan が取り決めこの
 素晴らしいイントロが完成したのだ。この名曲は先ず
 Barry McGuire のアルバム This Precious Time (Dunhill 50005)
 に収録された。その後同じバックトラックを用いて
 The Mamas & The Papas がシングルカットをしている。
 彼らの "Monday Manday" 同様にレコードでは Phil Sloan の
 奏でるギターがフューチャーされている。

 
 Phil Sloan は60年代にソングライティングを行っていたとき
 のルーティンを後年のインタビューで語っている
 「私が Dunhill Records で雇われていたとき、基本的に
 午後1時に、良い反響のある部屋のテーブルに座って、
 そこから仕事をしていた。数時間作業してから、その日の
 残り、または夜の残り、または週の残りの時間、ノンストップ
 で曲に取り組んだ。夜遅く、頭を枕に寝かせて歌詞や
 歌が脳裏をよぎるのを聞いていると、突然、自分が本当
 に言いたいことがはっきりしてくる。」
 
 Phil Sloan はレコーディングアーティストになりたいと
 思っていた。彼には外に出て演奏するという夢があったが
 Dunhill Records は彼がソングライター兼プロデューサー
 であるということの方がはるかに重要な財産であることを
 発見したので、Phil Sloan は P.F. Sloan と言うソロシンガー
 になる必要があった。約30のチャートヒットレコードと
 250曲のレコーディングの3年間、これらの曲は Phil Sloan
 単独、または Phil Sloan & Steve Barri の共作で書いた。
 1963年11月1日の南ベトナムでクーデター勃発、
 1963年11月22日のケネディ大統領暗殺事件によって
 当時のアメリカの音楽市場は一変していく。
 1964年に入るとメジャーレコード会社達は既に録音されて
 いたハッピーなラブソングの類のリリースをキャンセルし、
 アメリカ産のポップミュージックは影を潜めた。西海岸では
 Surfin' Music から Hot Rod Music とテーマを替え、
 The Beatles らイギリスのビートミュージックがアメリカ市場
 で勢力範囲を急速に拡大させたが、アメリカの保守層では
 必然的に癒しを求めてフォークソングやカフェハウスでの
 詩の朗読が求められた。Folk Rock という呼び名は
 ビルボード誌の Eliot Tiegel が名付け親とされているが、
 当初は「エレキギターのうるさいフォーク」と世間から揶揄
 されていた。この新しい音楽が登場した背景には当時の
 アメリカを取り巻く様々な社会状況があった。
 つまりベトナム戦争の激化により、これまでのように男女
 の恋愛についてごく当たり前に「I Love You」といった
 言葉で綴られた曲よりも、もっと現実的に社会を鋭い
 視点で見つめた歌詞がリスナーに受け入れられていく
 ようになる。若者の苦悩や主張がライフスタイルに変化
 を及ぼしたのだ。
 
 ある夜、Phil Sloan は "Eve Of Destruction",
 "Sins Of The Family", "Take Me For What I'm Worth" を
 含む5曲を書き、彼は覚醒した。彼は何か魔法のような
 ことが起こったような気がした。彼は朝の3時に母を起こして
 "Eve Of Destruction" と "Sins Of The Family" の歌詞を
 読みたいと思い、「お母さん、何か素晴らしいことが起こった」
 と言い、彼の母は「シーッ、お父さんも起こして、あんたは
 ベッドに戻って」と言った。後日 Phil Sloan はこの5曲を
 会社の責任者 The Dunhill Executive Team のために歌い
 演奏した。彼らはそれらをくずかごに投げ入れ「これらは
 私たちが公開できる曲ではない」と言ったので、突然
 Phil Sloan の人生に分裂が起こった。彼はこのような歌詞
 と音楽を書きたかったのだがそれでもポップソングを推奨
 する Steve Barri と一緒に書かなければいけなかった。
 
 Phil Sloan が Steve Barri とポップソングを書いていたときは
 リフやメロディーから始めて歌詞を考え出すことで曲を構築
 していった。しかし彼が P.F. Sloan になってから、歌詞が
 先に思い浮かんで、歌詞のページ全体を見てもメロディーが
 わからないというジレンマに直面した。P.F. Sloan の歌では
 言葉が最初に来て、そしてリフやメロディーを考える作業
 に変わった。Steve Barri が Dunhill Records に
 The Grass Roots から独立したプロジェクトをするように
 頼んで P.F. Sloan のファーストアルバムは作られた。
 会社は「Okay, 君がアルバムプロデュースをして」と
 Steve に言った。それで P.F. Sloan は "Eve Of Destruction"
 を会社の幹部達の前でやってみた。その時 Steve Barri は
 The Beach Boys のエンジニアーだった Chuck Britz と
 一緒にいたが、会社の連中は歌を聴いてなく彼らは
 Brian Wilson の新しいレコーディングのようなことについて
 Chuck Britz と話していた。
 彼らは振り向いて「それで、その曲は終わったの?」と
 言った。P.F. Sloan は答えた「そうだと思います。
 聴きなおしてもらってもいいですか?」
 「いや時間がない。次へ行こう。この次の歌のタイトルは?」
 「“Take Me For What I’m Worth” です」
 「オーケー、じゃあ Chuck、どうやってあの The Beach Boys
 を手に入れたの?」Dunhill Records 幹部連中は
 P.F. Sloan のアルバム製作をまともに取り合っていなかった。
 1965年7月にリリースされた Dunhill Records 初のアルバム
 リリースとなる Rincon Surfside Band - The Surfing Song Book
 (Dunhill DS-50001) で Chuck Britz は Bones Howe と共同で
 エンジニアーを担当したが P.F. Sloan のソロアルバムでも
 二人がエンジニアーを行う事になる。
 P.F. Sloan はアルバム全体でギタートラックを1つ作成し、
 別のトラックをオーバーダブした。そして P.F. Sloan は
 それらのいくつかにドラムを入れさせてくれるように
 彼らに頼んだ。彼らは大人になって独立しようとする
 子供 Phil Sloan を無視したかった。彼らが望んでいたのは
 彼らの言いなりになってすべての異なる市場に販売
 できる曲を書いて週に40ドルで働く優等生な子供の
 Phil Sloan を望んでいたのだ。

 彼らはこの子供が突然ソロ活動に固執することを望んで
 いなかった。彼らは「これらの曲は、この出版社の基準に
 達している曲ではない」と言った。会社のトップはこう言った
 「我々は『Prostitute 売春婦』『Liquor 酒』『Schizophrenia
 統合失調症』という言葉が含まれる曲を公開することは
 できない」だが Dunhill Records は間違って
 "The Sins Of A Family" (Dunhill 45-D-4007) を
 1965年8月にリリースしてしまった。彼らはこのシングル
 を回収しようとしたがこの曲は1965年9月25日をピークに
 全米87位のスマッシュヒットとなり P.F. Sloan 唯一の
 ヒットシングルとなった。慌てた Dunhill Records は
 A面を "I Get Out Of Breath" に置き換えた同じ番号の
 シングルを P.F. Sloane 名義のクレジットでリリースさせたが
 それは今ではとても貴重なシングルになってるほど
 短期間のプレスだった。Phil Sloan はレコーディング
 アーティストになりたかったので、Steve Barri と Dunhill
 Records の両方の経営陣から疎外されるようになる。
 

Barry McGuire
Barry McGuire は The New
Christy Minstrels のメンバー
として代表曲 "Green Green"
を歌う事に飽きてグループを
脱退した。Barry McGuire は
Topanga Canyon に住んでいた
カントリーシンガーの Hoyt Axton
の家に遊びに行った。
当時 Roger McGuinn は
Hoyt Axton の家のプールハウス
に住んでいた。
 Roger McGuinn がやって来て Barry McGuire に「ねえ、幾つか
 歌うので感想を聞かせてくれないかい」と言って
 "Mr. Tambourine Man" を演奏し始めた。
 それは Barry McGuire を吹き飛ばし「Roger, 素晴らしいよ!
 まじで素晴らしい」その日の夜 "Mr. Tambourine Man"
 レコーディング前にして Roger McGuinn 達 The Byrds に
 とってお披露目ライブが行われる予定だった。
 Roger は言った「今夜サンセット通りの Ciro's で
 オープニングショーをするんだ」と言い、マスコミは全員が
 出席すると言った。Barry McGuire は当時仕事をして
 いなかったし、Hollywood のすべてのプロデューサーに
 仕事を求めていたので Ciro's に行った。
 そこには Bob Dylan も Lou Adler もいた。そこには
 P.F. Sloan こと Phil Sloan もいた。彼らは皆同じテーブル
 に座っていた。Phil Sloan も Lou Adler も Bob Dylan も。
 Barry McGuire がフロアーで踊っていると Lou Adler が
 やって来て「やあ、君は Barry McGuire? 最近何してるの?」
 「何もしてないです」「じゃあ何曲か歌わないか?」と言った。
 Barry McGuire は「そうですね」と答えた。
 「じゃあ、来週私の家に来て」と言われた。Barry McGuire は
 ほとんどの時間を踊っていて Lou Adler との口約束を
 忘れていた。1週間が経ち、さらに1週間が経ち、
 Lou Adler は「君が私の家に来ると思っていたのに」と連絡
 してきた。Barry McGuire は言った「ええと、あなたの電話
 番号を紛失しました」Lou Adler は「どこにいるの?車で迎え
 に行かせるよ」と言った。Lou Adler の家には Phil Sloan
 がいて彼に歌を聴かせた。Barry McGuire はそれらが
 気に入った。Barry McGuire にとっては Roger McGuinn
 が "Mr. Tambourine Man" で行ったことよりも、彼の
 伝統的なフォークスタイルを "Eve Of Destruction" の
 ようなフィーリングに移行することが魅力的だった。

 その後 The Mamas & The Papas が California に
 やって来て彼らはレコード会社を探していた。
 Barry McGuire は Cass Elliot と Denny Doherty を
 よく知っていたので Lou Adler に彼らを紹介した。
 それである夜、彼らが何をしているのかを聞くために
 Barry McGuire は Cass Elliot の家に行った。
 Cass Elliot はアイロンをかけていて、John Phillips,
 Michelle Phillips, Denny Doherty の3人は床に座って
 いた。当時のミュージシャンやアーティスト達は大体が
 ヒッピー文化の影響で椅子に座ることはなかった。
 そして彼らは歌い始め、それは Barry McGuire を
 ノックアウトさせ「すげえ、Lou Adler がこれを聴くまで
 待ってろよ!」と興奮させた。それで数日後、Barry McGuire
 のアルバムのレコーディングセッションがあり、彼らの
 コーラスワークを聴いて Lou Adler もノックアウトされた。
 The Mamas & The Papas はそのアルバムでバック
 ボーカルを担当した。
 
 John Philips は P.F. Sloan のシングル "City Women"
 にギターで参加したが、それが P.F. Sloan のスタジオへ
 の最初の紹介だった。
 Phil Sloan は言う「The Mamas & The Papas の
 John Phillips と Lou Adler が Monterey International
 Pop Festival を企画したときのミーティングに私は参加
 していた。私たちは The Beatles を招待したかった。
 しかしその後 John Lennon は広報担当者である
 Derek Taylor を通じてドラッグで狂ってた John Phillips
 がナイフを振り回して私を殺そうと脅した事を知らされた。
 ドラッグと権力欲が彼をそのようにさせた。
 フェスは愛と平和がすべてだと言われたが、John Phillips
 が金だけがすべてだと考えてる事に John Lennon が
 気づいたとき、John Lennon は The Beatles の他の
 メンバーにフェスを無視するよう説得した」
 これが原因で Phil Sloan と John Philips の関係は
 この時終わった。
 
 The Summer of Love (1967年夏にアメリカ合衆国を
 中心に巻き起こった、文化的、政治的な主張を伴う
 社会現象) の間、Phil は 1967年6月11日、日曜日の
 The Fantasy Fair と Magic Mountain Music Festival の
 最終日にソロアーティストとして演奏した。その次の週末に
 The Monterey International Pop Festival が開催されたが、
 Monterey のイベントとは異なり、Phil が出演したそれらの
 ライヴはフィルムやオーディオ録音は保存されておらず、
 その歴史はあまり知られていない。

 P.F. Sloan は "Eve Of Destruction" をA 面ではなく、
 B面として扱っていた。金儲けに利用できると考えた
 Dunhill Records の幹部は Bob Dylan 風の潜在的な風刺歌
 としてこの歌を The Byrds にオファーしたが断られた。
 しかし The Byrds が拒否したのを知って The Turtles は
 Barry McGuire のバージョンがシングルカットされた後に
 彼らのデビューアルバムの収録曲としてリリースした。
 (最終的に The Turtles のバージョンもシングルとして
 リリースされ、1970 年にビルボードで100 位を記録した)

 Barry McGuire のレコーディングは 1965年7月12日から
 7月15日の間に行われた。同行したミュージシャンは
 P.F. Sloan ギター、Larry Knechtel ベース、Hal Blaine ドラムス
 だった。ボーカルトラックは1テイクで録音された
 ラフミックスで、最終バージョンになることを意図して
 いなかった。しかし録音されたコピーが Radio DJ に流出し、
 彼らはそのバージョンをオンエアーし始めた。
 この曲はすぐにヒットしたために当初想定されていた
 より洗練されたボーカルトラックが録音されることはなかった。
 各国の反応を見ると本国アメリカ US Billboard Hot 100で1位
 US Cash Box Top 100でも1位、カナダ1位、イギリス3位、
 アイルランド2位、ノルウェイ1位、オランダ3位、ドイツ6位、
 ベルギー15位、イタリア47位となっている。


テレビ中継で歌う Barry McGuire の左後ろにほくそ笑む
Lou Adler と右後ろにギターを演奏する P.F. Sloan が映ってる。
 しかし Barry McGuire が歌った "Eve Of Destruction" が
 公開されたとき、会社に亀裂が生じた。
 この曲はベトナム戦争、徴兵、核戦争の中東の混乱、
 Alabama 州 Selma で撃退された公民権運動の参加者、
 差し迫った核戦争の脅威、好戦的な「赤い中国」から
 の脅威、アメリカの宇宙計画など、当時の世俗的な
 世界の社会問題に言及した政治的抗議の強い
 メッセージソングだった。苦悩に満ちた若者の立場を
 代弁した内容のプロテストソングだが、通常、特に
 ユダヤ人の歌とは見なされていない。さらに言えば、
 宗教的なメッセージソングとしても見なされていない。
 
 アメリカのメディアはこの曲を当時の若者のあらゆる
 問題の例として使用することでこの曲の人気を高めた。
 その物議を醸す体制批判の歌詞のために一部のアメリカの
 ラジオ局は「ベトナムの敵への援助である」と主張してこの曲

P.F. Sloan
のオンエアーを禁止し、英国の
一部のラジオ局によっても
禁止された。この曲を書いた
当時19歳の P.F. Sloan は
一躍時の人となりスターに
なったが、同時に彼の作詞作曲
と彼の音楽はあまりにも売れて
いたのでユダヤ系資本家筋
からの出資を受ける
Dunhill Records はどうしたら
いいのか解らなかった。

 結局 Barry McGuire に歌わせた “Eve Of Destruction”
 は1965年8月21日をピークに全米1位の大ヒットとなった。
 扇動的と見なされたこの曲は、教育者によって非難され、
 一部のラジオ局によって放送禁止されたにも関わらず2か月間、
 米国のトップ20に留まった。
 それは会社に危機感を持たせる結果にもなった。
 The Dunhill Executive Team はこの歌の叙情的かつ
 過激な内容のために殺害の脅迫を受けていたので
 これに大きなストレスを感じていた。
 You’re old enough to kill but not for votin’
 You don’t believe in war but what’s that gun you’re totin’?
 君は殺すのに十分な年齢だが、投票することはできない。
 君は戦争を信じていないが、君が携帯しているその銃は何だ?

 そして "Eve Of Destruction" は強烈な反発を生んだ。
 反体制派の挑発に激怒した右翼勢力は、Phil Sloan の失脚を
 画策した、ビルボード誌は彼の曲をチャートから外すよう右翼勢力
 から圧力をかけられた。
 この曲が世界中でオンエアーが禁止され始めたので強欲に
 レコードビジネスで金儲けをしたいと思っていた Lou Adler 達
 はしっぺ返しを食らった。"Eve Of Destruction" によって
 世間が騒ぎ出したので Dunhill Records 幹部達は
 Barry McGuire を追い出そうと考え、それに伴い P.F. Sloan
 をも追い出す必要にかられた。

 Steve Barri によると Phil Sloan は "Eve Of Destruction"
 の成功後、次のように変化した「私たちは New York 出身
 の2人のユダヤ人の子供だった。私たちは同じ映画が
 好きだった。一緒にウィッフル ボール (1953年にアメリカで
 考案されたスポーツ。スペースが限られた場所でもプレー
 できるよう野球から派生した) をプレーした。
 しかし "Eve Of Destruction" が大ヒットしたとき Phil は
 Barry McGuire と一緒にイギリスに行き、別人になって
 帰ってきた。私が後に結婚した Phil の当時のガールフレンド
 と私は、Phil がイギリスから戻ってこず、別人が戻ってきたと
 感じてた。おお神よ、彼は素晴らしい才能を持った人物
 だったのに」
 Phil Sloan 自身も、この時の変化について次のように
 述べている「私は愛されたかった。Elvis になりたかった…
 でも P.F. Sloan? P.F. Sloan は正直さと真実を望んでいた」

 
 You’re old enough to kill but not for votin’
 「君は殺すのに十分な年齢だが、投票することはできない」
 18歳で徴兵の登録を要求する米国の法律を指すが、憲法改正
 が変更されるまで、(4つの州を除くすべての州で) 最低投票
 年齢は21歳だった。 しかし1971年7月に最低投票年齢は
 18歳になった。

 "And even the Jordan River has bodies floatin'"
 「そして、ヨルダン川でさえ死体が浮いている」とは、
 水をめぐる戦争を指す。20世紀は石油を巡った紛争が世界中
 で勃発し、21世紀は水を巡って紛争が起きると当時から
 言われていた。

 "If the button is pushed, there's no runnin' away."
 「ボタンを押せば逃げることはできない」
 いつでも核戦争の脅威にさらされている事と、それによって
 引き起こされる被爆問題を指す。

 この曲で Alabama 州 Selma が言及されているのは、
 1965年3月7日のアメリカの公民権運動中に Selma から
 Montgomery への行進で起きた流血事件 Bloody Sunday
 (血の日曜日事件) に関する事。因みに Jan and Dean の
 カバーでは "Watts, California" (Watts の暴動事件) に
 置き換えて歌われている。

 "You may leave here for four days in space,
 but when you return it's the same old place"
 「ここを離れて宇宙で4日間過ごすかもしれないが、
 戻ったときは同じ古い場所だ」とは、1965年6月の
 ジェミニ4号の4日間のミッションを指している。

 "The pounding of the drums the pride and disgrace"
 「太鼓の叩きは誇りと不名誉」とは、JFK暗殺と
 彼の棺がアーリントン墓地に運ばれたときの
 マーチングバンドを指している。

 "Hate your nextdoor neighbor
 but don't forget to say grace"
 P.F. Sloan によれば「隣人を憎むが、礼節を忘れるな」
 とは単純な偽善を指す。

 The Eastern world, it is explodin'
 Violence flarin', bullets loadin'
 You're old enough to kill, but not for votin'
 You don't believe in war, but what's that gun you're totin'?
 And even the Jordan River has bodies floatin'
 But you tell me over and over and over again, my friend
 Ah, you don't believe we're on the eve of destruction
 東の世界が爆発している
 暴力が燃え上がり、弾丸が装填される
 君は殺すのに十分な年齢だが、投票することはできない
 君は戦争を信じていないが、君が携帯しているその銃は何だ?
 そして、ヨルダン川でさえ死体が浮いている
 しかし、君は何度も何度も僕に言う、友よ
 ああ、君は我々が破滅の前夜にいるとは信じていない

 Don't you understand what I'm tryin' to say?
 And can't you feel the fears I'm feelin' today?
 If the button is pushed, there's no runnin' away
 There'll be no one to save with the world in a grave
 Take a look around you, boy, it's bound to scare you, boy
 And you tell me over and over and over again, my friend
 Ah, you don't believe we're on the eve of destruction
 僕が何を言おうとしているのか分からないのかい?
 そして、今日僕が感じている恐怖を感じないのかい?
 ボタンを押せば逃げることはできない
 世界を墓場にして救う者は誰もいないだろう
 君の周りを見てみろよ、それは君を怖がらせるに違いないぜ
 そして、君は何度も何度も僕に言う、友よ
 ああ、君は我々が破滅の前夜にいるとは信じていない

 Yeah, my blood's so mad, feels like coagulatin'
 I'm sittin' here just contemplatin'
 I can't twist the truth, it knows no regulation
 Handful of senators don't pass legislation
 And marches alone can't bring integration
 When human respect is disintegratin'
 This whole crazy world is just too frustratin'
 And you tell me over and over and over again, my friend
 Ah, you don't believe we're on the eve of destruction
 そうだよ僕の血はとても怒っている、凝固するように感じてる
 僕はただここに座って真剣に考えてるんだ
 僕は真実をねじる曲げることはできない、
 何の規制もなしに少数の上院議員が法案を可決しない
 そして、一人で行進したって統合をもたらすことはできない
 人間の尊敬が崩壊するとき
 このクレイジーな世界はフラストレーションがたまりすぎてる
 そして、君は何度も何度も僕に言う、友よ
 ああ、君は我々が破滅の前夜にいるとは信じていない

 Think of all the hate there is in Red China
 Then take a look around to Selma, Alabama
 Ah, you may leave here, for four days in space
 But when you return, it's the same old place
 The poundin' of the drums, the pride and disgrace
 You can bury your dead, but don't leave a trace
 Hate your next-door neighbor, but don't forget to say grace
 And you tell me over and over and
 over and over again, my friend
 Ah, you don't believe we're on the eve of destruction
 You don't believe we're on the eve of destruction
 共産圏の中国にあるすべての憎しみを考えてみろよ
 それからアラバマ州セルマを見てみろよ
 ああ、君はここを離れて宇宙で4日間過ごすかもしれないが
 戻ったときは同じ古い場所だぜ
 (アーリントン墓地) の太鼓の叩きは誇りと不名誉
 死者(ケネディ大統領)を葬ることはできるだろうが
 形跡を残さないでくれ
 隣人を憎むが、礼節を忘れるな (そんな事は単純な偽善だ)
 そして、君は何度も何度も何度も僕に言う、友よ
 ああ、君は我々が破滅の前夜にいるとは信じていない
 君は我々が破滅の前夜にいるとは信じていない
 

Barry McGuire
With P.F. Sloan

Eve Of Destruction
 
 彼の最初の P.F. Sloan アルバム Songs Of Our Times は
 約4日で完成させたデモアルバムだった。
 収録曲の "Sins Of The Family" が誤ってシングルリリースされ
 チャートにヒットし始めたとき、Dunhill Records はそれを
 撤回しようとした。結局 P.F. Sloan としてのこの再デビュー
 シングルは全米87位のチャートインとなった。
 しかし Lou Adler は Phil Sloan & Steve Barri のソングライター
 コンビに Folk Rock Movement をさらに活性化させていく
 事をテーマとして作曲を依頼している。
 恐らくそれは Dunhill Records が P.F. Sloan の今後の
 ソロ活動を判断する為の試金石でもあったのだろう。
 
 Phil Sloan は言う「私が “Eve Of Destruction” で書いた
 『君は殺すのに十分な年齢だが、投票するのに十分な
 年齢ではない』という行は、アメリカ政府を座らせて注目
 させた。当時、18歳で陸軍に徴兵され、ベトナムに行って
 人殺しを命じられることはあった、21歳になるまで投票する
 ことはできなかった。彼らは私の歌の直後にその法律を
 変更した」 1971年に法律に署名されたこの法案は、
 投票年齢を 21歳から18歳に引き下げた。

 Phil Sloan は後年 Barry McGuire に言った
 「"Eve Of Destruction" は Payola (買収) やレコード会社
 のディストリビューター操作なしでナンバーワンの曲になり
 一種のエンドランを作って、そしていきなりのヒットチューン
 になった」 当時 The Gavin Report (San Francisco を拠点
 とするラジオ業界の業界誌) は書いた「Barry McGuire が
 次に何を出そうとしても、私たちはそれをプレイしない」
 Barry McGuire は語った「業界から反発を受けた
 "Eve Of Destruction" は私にとってキャリアメーカー
 ではなく、キャリアブレイカーになった(笑)」
 
 当時 Phil Sloan は Dunhill Records オフィスの受付嬢に
 恋をしてた。そして声まねの上手な Phil Sloan はいつも
 彼女に「こんにちは、エルヴィスです。私は P.F. Sloan と
 話がしたい」「こんにちは、リック・ネルソンです」と笑わせ
 ていた。ある日 Bob Dylan は Dunhill Records に電話
 をかけてこう言った「私は P.F. Sloan と話がしたい」
 しかし受付嬢は Phil Sloan のジョークだと思って
 Bob Dylan が5、6回電話をしてきたにも関わらず全て
 切った。最終的に彼女はレーベルの責任者に連絡を
 取り、彼らは Phil Sloan をオフィスに呼びこう言った
 「もし Bob Dylan から電話があり、君が彼と会うなら、
 私たちは君を法廷に連れて行き、印税を剥奪し、
 契約を維持し、二度と録音することはない。我々は君と
 の契約を延長し続けるが、君が歌う歌を録音することは
 決してない。君が我々を訴えようとするなら頑張ってくれ」
 それで Bob Dylan は Phil Sloan の家に電話してきて、
 Phil Sloan は彼に会いに行った。Bob Dylan は1965年
 8月30日にリリースされたばかりの彼の新しいアルバム
 Highway 61 Revisited を Phil Sloan に聴かせた。
 二人は両方とも床に座って、彼の傑作を聴いていた。
 Bob Dylan は “Ballad Of A Thin Man”
 (やせっぽちのバラッド) を聴かせた。Phil Sloan は
 笑いながら床に倒れ、Bob Dylan も笑いながら床に
 倒れた。Bob Dylan は言った「Columbia Records は
 Mr. Jones が誰の事であるか解ってない。彼らはそれが
 共産主義の歌だと思ってる。私のプロデューサーでさえ、
 それを聴いた人は誰もそれを理解してない。彼らは
 これをアルバムに入れたくない。私に何か問題が
 あるかい?私はそれを失ったのかい?誰もこの曲を
 理解していないんだ」それは明らかに David Crosby の
 事を歌っていた。Bob Dylan は Phil Sloan がそれに
 気づいてくれた事にとても満足してた。
 それから Bob Dylan は Phil Sloan に "Highway 61"
 を演奏し、Phil Sloan はさらに笑いながら床に転がって
 いた。これらは Phil Sloan が今まで聞いた中で最高の
 ジョークのようなものだった。Bob Dylan は Phil Sloan
 に "Ballad Of A Thin Man" を録音する独占権を与えた。
 Phil Sloan はそれを "Mr. Jones" と改名した。
 それを知って手のひらを返したように Dunhill Records
 は「Okay, じゃあグループを作らなきゃ」と言った。

 
 これは Phil Sloan のソロプロジェクトとほぼ同時期に
 スタートしている。当時のフォークロックブームの
 リアクションを伺うべく Phil Sloan が歌ったこの曲は
 The Grass Roots とクレジットされラジオ局に配布された。
 ラジオ局からの良い反応を知った彼らは早速このプロジェクト
 の為のレコーディングを重ねながらバンドを探す事になった。
 彼らは West Hollywood のクラブ Whisky A Go Go に出向き
 オーディションを行った結果、若手バンド The Bedouins
 が選出された。このバンドは
 Denny Ellis (rhythm guitar),
 Bill Fulton (vocals and lead guitar),
 Joel Larson (drums),
 Dave Stensen (bass) の4人組で彼らは San Francisco
 のバンドバトルで優勝した経歴を持つ。

The Bedouins (Early Grass Roots)
(L to R): Denny Ellis, Dave Stensen, Joel Larson, Bill Fulton
 Phil Sloan はスカウトで獲得した The Bedouins に言った
 「なあ、Bob Dylan が書いた "Mr. Jones” を持ってるんだ
 けど、君たちはどうやって Los Angeles に来たいんだい?」
 と伝えて彼らを誘った。Phil Sloan は "Mr. Jones" を
 The Grass Roots プロジェクトのために The Bedouins と
 一緒に録音した。彼らにとってファーストシングルとなった
 Mr. Jones (Ballad Of A Thin Man) / You're A Lonely Girl
 は間もなくしてラジオ局に配布され、The Grass Roots 名義
 のデビューシングルとして1965年10月2日にリリースされ
 ビルボードチャート121位にまで上昇した。
 Dunhill Records は The Bedouins のリードボーカル
 Bill Fulton の声だけ使えばセッションミュージシャン達の
 演奏を使って時間稼ぎはできるだろうと安易に考えていた。
 彼らは芸術には興味がなく、彼らは販売の完成度だけに
 関心があった。当然のことながら、Dunhill Records の
 考えはバンドメンバー達の大きな不満を作った。

 
 Phil Sloan は言う「私は Bob Dylan をユダヤ人として、
 また芸術家として尊敬していた。彼も私を賞賛し、彼の
 アルバムについて私の意見を求めていたという事実は、
 当時の私の最大の自信となった。David Crosby と私は
 決して仲が良くなかった。 "Eve Of Destruction" を
 聴いて、David Crosby のような人々がそれを否定して
 偽物だと言ったが、Bob Dylan はそうではなかった。
 Columbia Records は Bob Dylan を追い払おうとしていて
 彼はとても怖がっていた。彼らは Bob Dylan を大きな
 間違いだと考えた。彼らは彼が Pete Seeger のようだ
 と思った。彼らは彼が共産主義者だと思っていて
 彼を追い出す言い訳を探していた。彼は私の意見が必要
 だった。彼は私が音楽の世界を知っていることを知っていた。
 彼は、私が Red (共産主義者) と見なされるような影響力
 があることを周囲から聞かされていた。私は彼にそのような
 影響はないと伝えた。彼はとても安心したようで、私が
 カバーする曲を選んでくれた。彼は "Ballad Of A Thin Man"
 を選んでくれたが、Dunhill Records は私が自分の名前で
 リリースすることを許可しなかったので、The Grass Roots
 として録音した」

 The Grass Roots は元々 Phil Sloan & Steve Barri が書いた
 Folk Rock 曲が、どのようなマーケットリアクションを
 起こすかリサーチするためのプロジェクトだった。
 Steve Barri は結婚して子供がいてフェアファックス大通り
 のレコード店 Norty's で1日8時間働いていたので Phil Sloan
 は1日1時間 Steve Barri を彼の家に連れて行って、曲の
 タイトルを考えた。2行書いて Steve Barri が仕事に戻って
 Phil Sloan が曲を完成させた。それは "Where Were You
 When I Needed You" のような曲で Steve Barri がその
 タイトルを思いつき、それから Phil Sloan が大まかに歌詞
 を書き、そして作曲した。彼らが書いた "Where Were You
 When I Needed You" を元にこのプロジェクトは発展する。
Phil Sloan
Phil Sloan

 当時グループは全員18歳以下だった為に契約には親の同意が
 必要だった。彼らはその後 Los Angeles に出向きライヴ
 パフォーマンスをしながら部分的な録音に参加する。
 当時 The Grass Roots という名前は Love の Artur Lee が
 既に時折使用しており、その名前でギグを行っていた。
 それを知った Dunhill Records は法的にトラブルが起こらない
 ように The Grass Roots のネーミングライセンスを取得している。
 Dunhill はグループメンバーを Hollywood のアパートで共同生活
 をさせ、ライヴパフォーマンスとレコーディングを続けさせた。
 グループと Sloan & Barri は改めてニューバージョンの
 "Where Were You When I Needed You" を含む他を録音
 させながらアルバム製作を始めた。アルバムにはメンバー写真
 は使用されずインパクトの強い写真を用いて市場の反応を伺う
 事になった。おそらくそれは Phil Sloan がソロシンガーとして
 やっていく事を決意しており、またメンバーが未成年だったから
収録曲とイメージにギャップ
がある事を Dunhill Records
が懸念していたからかも
知れない。グループはもっと
歌入れにも参加させて欲しい
と Dunhill Records にかけあった
がそれは拒否され録音の多くは
Phil Sloan によって歌われた。
しかしプランナーだった
Phil Sloan がソロ活動に専念
する事もあり、プロジェクトは
一時的に頓挫してしまった。

L-R: Bill Fulton, Denny Ellis, Dave Stensen, Joel Larson
 それを不満に思ったグループは空中分解してしまいメンバーは
 San Francisco に戻った。Bill Fulton と Denny Ellis は
  The Serpent Power (Vanguard) に参加し、Dave Stensen は
  Gunga Dave と名乗り San Francisco のローカルバンドに
 参加する。最後までグループを維持しようとしていた Joel Larson
 も San Francisco に戻って新たなバンドに参加する決意をした。
 彼はその後 The Byrds のメンバーだった Gene Clark が結成した
 Gene Clark & The Group に参加し、その後 Emitt Rhodes 率いる
 The Merry-Go-Round に加わる。(The Grass Roots には
 1974年から復帰) しかしその後ニューバージョンの
 "Where Were You When I Needed You" のシングルはチャートを
 ジャンプアップし全米28位の大ヒットとなっていた
 
 1967年に入り、改めて他のグループを探さなければいけない
 状況に陥った Dunhill Records は Los Angeles のバンド
 The 13th Floor をスカウトした。彼らはオリジナルソングも
 持っておりメンバーは Creed Bratton (lead guitar),
 Rick Coonce (drums),
 Warren Entner (vocal and rhythm guitar),
 そして日系人の Kenny Fukomoto (vocal and bass)
 からなる4人組みだった。彼らは Dunhill Records にデモ音源を
 送っており、Dunhill Records は良い感触を持っていた。
しかし間もなくしてグループの
ソングライターでもあった
Kenny Fukomoto が徴兵の
為にグループを脱退する。
契約を迫られていた彼らは
慌ててメンバーを探し、
ミュージシャンズユニオンに
出向きベースとボーカルが
出来る Rob Grill を見つけ出し
オーディションの末、グループ
に参加させた。Dunhill Records
は改めて彼らに The Grass Roots
を名乗るように命じ、
The Grass Roots プロジェクトは
第二章にて新しいグループで
進んで行く事となった。
 

The Grass Roots / AKA The 13th Floor
 

Mickie Most
Phil Sloan は Los Angeles
のサンセット大通りにある
ナイトクラブ The Trip の
ステージで Donovan を観て
いる聴衆の中にいた。
Donovan のマネージャーの
Mickie Most が Phil Sloan
のテーブルに来て「私は2日
以内に映画『A Must To Avoid』
用に Herman's Hermits の曲
が必要なんだ。明日までに曲
 を考えて翌日にデモを作って欲しいんだけど、それをイギリスに
 持って帰って録音してもいいかい?」と尋ねてきた。
 Phil Sloan は真夜中に Steve Barri に電話で事情を伝えたが
 Steve は興味を示さなかった。それで Phil Sloan は階下に
 行き Donovan のギターを使い "A Must To Avoid" の
 メロディーを書いた。翌日 Steve Barri に電話したが
 Steve は妻が病気で直ぐに来られなかった。
 Phil Sloan は歌詞のスケッチのほとんどを書き始めた。
 翌日 Demo Session にやって来た Steve Barri は歌詞を
 追加して曲を仕上げた。その後彼らは映画の名前を
 「Hold On」に変更した。なぜなら彼らはあえて
 「A Must To Avoid 避けなければならない」というタイトル
 の映画を出さなかったからだ。そのため Phil Sloan は
 別の曲を書かなければいけなくなり Herman's Hermits
 の Peter Noone のために Phil Sloan はギターを弾いて
 バンドの他のメンバーに新しい曲 "Hold On" を教えた。
 Phil Sloan は彼らのサウンドを変えたくなかったので
 録音に参加することは断った。
 
 Phil Sloan 曰く「私が Grateful Dead の Phil Lesh と
 San Francisco の Haight Ashbury で一緒に遊んでいたとき
 リムジンが停車し The Beatles の George Harrison が
 同地のヒッピーシーンの様子を見たがって出てきた。
 面白いことに、それはヒッピー達が麻薬中毒のゾンビの
 ようになり始めた場面であり、George はそのことを
 知らなかった。彼はヒッピー達が彼に向かって急いでいる
 ファンだと思った。危険なので私たちは George をリムジン
 に呼び戻した。実はアメリカ政府は、ヒッピーシーンを
 妨害するためにその地域に非常に危険な薬物を導入し、
 日々理想を語るこれらすべての素晴らしい人々をゾンビ
 に変えて一掃しようとしてた。この政府の方針は証明
 できないが、私たちは皆それを知っていた。それは世間
 一般の常識だった。政府はこの愛の世代を支持する
 つもりはなかったが、このやり方は1年で打ち切られた」
 
 Los Angeles を拠点とするバンド The 13th Floor
 (後の第2期 The Grass Roots) は
 William “Creed Bratton” Schneider, Erik “Rick” Coonce,
 Warren Entner そして日系人の Kenny Fukomoto の4人
 で1966年に結成された。Warren Entner は Phil Sloan とは
 Melrose avenue にある Fairfax 高校の同級生だった。
 その Fairfax 高校の卒業生である Phil Spector が
 The Teddy Bears の解散後に結成したトリオ
 Spectors Three は、レコーディングでは男性ボーカルは
 すべて Phil Spector が担当し、女性ボーカルは
 Los Angeles の大御所プロデューサー、ソングライターの
 妻でスーパーセッションシンガーの Rickie Page が
 担当した。しかし 公共の場での出演 (口パク) では、
 男性メンバーは Russ Titelman と Warren Entner で、
 女性メンバーは Annette Merar (後の Phil Spector の
 最初の妻) だった。因みに Warren Entner は
 The Grass Roots では後から参加した Rob Grill と
 "Midnight Confessions" でリードボーカルを分け合い、
 グループではギターとオルガンを担当した。
 The Grass Roots "Let's Live For Today" ではあの
 印象的なカウント "1-2-3-4" を Warren Entner が
 言ってる。彼は The Grass Roots の後に Heavy Metal
 band のマネージメント&コーチを行う Warren Entner
 Management を設立し Quiet Riot, Angel 他多くの
 バンドを育てた。

 話を戻し The 13th Floor だが、当初このバンド
 メンバー達は町で働いていた。Phil Sloan は Gazarri's,
 The Whiskey A Go Go, The Trip 等のクラブにいて
 The 13th Floor に出会った。その後彼らは第2期
 The Grass Roots となりヒット曲をいくつも出したものの、
 まだお金が入ってきてなかった。彼らはツアー中の夜中
 に Phil Sloan に電話をかけてきた「Phil, 俺らもう金が
 なくて食うにも住むにも困ってるんだ」
 Phil Sloan は大物に連絡をとって「The Grass Roots は
 金がなくて彼らの楽器は壊れていて食べ物がありません」
 大物は単にこう言った「Gazarri's に行って次のグループ
 を無料で手に入れたらいいじゃないか。何を気にして
 るんだ?なぜ君は彼らに執着しているんだ?私は君が
 私たちと一緒にいると思った。なぜ彼らのことを気に
 かけているんだ?」
 それが Phil Sloan が The Grass Roots を去ることに

Bones Howe
なった原因だった。
Phil Sloan は P.F. Sloan として
ソロ活動に専念したいので
The Grass Roots プロジェクト
からの脱退が間近に迫って
いた。Phil Sloan はグループ
に誠実さを持たせたかった。
Phil Sloan は彼らに自ら
オリジナル曲を書くように
伝えていた。
最終的に Phil Sloan は

グループのために曲を書きたく
 なくなっていた。Dunhill Records は Phil Sloan と徹底的に
 戦っていた。会社の幹部は言った「彼らのドラマーに彼らの
 レコードで演奏させてどうするんだ?」
 しかし "Where Were You When I Needed You" はプロのヒット
 ドラマーである Hal Blaine ではなくエンジニアーの
 Bones Howe が得意のドラム演奏を披露して録音されてた。
 何故なら Phil Sloan はそこに完璧なドラムプレイよりも、
 ミスを恐れず叩くドラマーの情熱が欲しかったからだと言う。
 Phil Sloan は語った「私は Rosie And The Originals の
 "Angel Baby" を聴いて育った。あの歌を覚えているかい?
 『キーは何、キーは何?』ピアノ奏者は実際に『どのキー?』
 と言う。彼はどのキーを弾けばいいのかわからなかったので
 それを聞くことができ、レコードは全米5位になった。
 そして Jerry Lee Lewis の "Great Balls Of Fire" という
 ドラム・リフを覚えているなら、そこではダブル・ドラム・リフ
 を演奏してる。典型的なドラム・リフを演奏する代わりに、
 ドラマーは自分がしていることに情熱を傾けていたので
 間違いを犯した。この曲は全米2位になり、その間違いが
 Fleetwood Mac の Mick Fleetwood に影響を与えた。
 プレイヤーが情熱的で本物である場合、人々は興奮する。
 Mick Fleetwood はあの曲でドラマーが叩いたドラムが
 犯した間違いを聴いてドラマーになったと言った。
 私は間違いを恐れないドラマーが欲しかった。
 それは Capital Records が Brian Wilson に求めていた
 ものとは正反対だった。彼らは Dennis Wilson がミスを
 犯したと言って彼にプレーさせなかった。私は Brian Wilson
 に "Dennis は最高だ、彼は間違いを犯すので。それは
 Ringo Starr や貴方が考えることができる誰とでも
 一緒ですよ" と伝えた。音楽を聴くティーンエイジャーには
 リスクを負わなければならない情熱的な何かがあるんだ。
 彼は完璧になるのではなく、それを行うことを学ぶだろう。
 ええ、それは完璧だが、私にはニキビがある(笑)」
 その後 The Grass Roots は全盛期に50以上のテレビ番組
 に出演し、2,000万枚以上のレコードを売り上げる事になる。


 Los Angeles の RCA スタジオで “Paint It Black の製作中
 の Mick Jagger が真夜中に Phil Sloan に電話をかけてきて

Mick Jagger
共同プロデュースを打診
してきた。Phil Sloan は
慌ててスタジオに駆け込んだ。
Phil Sloan はスタジオ内の
ケースに入ったシタールを
見て、使用を提案した。
そして、その夜それを演奏
したのは Brian Jones では
なく Keith Richards だった。
「後で Brian Jones が
オーバーダビングしたのか
どうかは解らないが、Keith が

その夜それを演奏しているの
を見た」と Phil Sloan は言って
いる。録音は1966年3月6日と
9日に行われている。
 
 当時から Los Angeles 西部の Topanga Canyon や
 Laurel Canyon にはミュージシャン達が多く住んでいて
 その後有名になる若き日の The Byrds, The Doors, Love,
 Buffalo Springfield, Frank Zappa, The Mamas & The Papas,
 Steven Stills, Neil Young, Joni Mitchell らサイケデリック
 ムーヴメント期の Folk Rock 世代がコミューンを形成し、
 そしてその後は次世代となるシンガーソングライター期に
 Jackson Browne, Linda Ronstadt, Little Feat, The Eagles
 のメンバー達もそのエリアで大きなコミューンを形成する。

Laurel Canyon Musicians
 

Richie Furay
Phil Sloan はよくコミューン
に顔を出していて Jim Morrison
とは放浪仲間だった。
Phil Sloan が実家から出て
暮らそうとしていたとき
Richie Furay がルームメイト
を必要としていたので当時
Phil Sloan は Richie Furay
と一緒に Hillsdale の酒屋
Turner’s の近くで暮らしていた。
 ある日 Phil Sloan は Mick Jagger から電話を受け
 「Jim Morrison に俺のメッセージを送ってほしい」と言われた。
 Mick Jagger は言った「The Doors が世間から三流の
 Rolling Stones と見なされ Jim が落ち込んで自殺するかも
 しれない」The Doors はヒットしていたにもかかわらず、

Jim Morrison
アーティストとは見なされて
なかった。Mick Jagger は
The Doors をアーティストだと
思っていたので、Jim がドラッグ
でオンになって自殺するので
はないかと心配して、Jim に
話して励ましてほしいと言われた。
Phil Sloan は すでに酒を飲んで
ひどく酔ってた Jim Morrison に
メッセージを伝えた後、サンセット
大通りに出かけた。

 1960年代半ばまでに West Hollywood のサンセット大通り
 はヒッピーとロックンロール・カウンターカルチャーの若い
 メンバー達が支配する場所になっていた。1966年、市の
 行政は増大する迷惑行為を抑えるためのいくつかの対策
 を実施した。彼らはサンセット大通りで最も有名なロッククラブ
 である The Whisky A Go Go を標的にし、マネージャーに
 その名前を The Whisk に変更することを強制した。
 これは若い地元のロックミュージックファンに公民権の
 侵害と見なされ、何週間にもわたって緊張と抗議が高まった。
 1966年11月12日土曜日、チラシがサンセット大通りに沿っ
 て配布され、その日の後半に人々にデモを呼びかけた。

The Whisky A Go Go
 抗議活動の数時間前、Los Angeles のロックンロールラジオ局
 の1つが強制閉鎖と取り壊しに直面しているサンセット大通り
 とクレッセンツハイツ大通りの角のクラブ Pandora’s Box で
 集会を開くと発表し、人々に慎重に歩くよう警告した。
 その夜 Jack Nicholson や Peter Fonda (警察に手錠をかけ
 られた) などの有名人を含む1,000人もの若いデモ参加者が
 発動されたこれらの外出禁止法の抑圧的な施行に抗議して
 ついに暴動が噴火した。

Sunset Boulevard riot at Pandora’s Box 1966
 Phil Sloan はその暴動の夜に Pandora’s Box で演奏して
 いた Arthur Lee 率いる Love に会いに行っていた。
 その時 Phil Sloan は Steven Stills と一緒にいた。
 Phil Sloan は Arthur Lee に The Grass Roots の
 ネーミングライセンスに関する会社のメッセージを届けた。
 暴動は外で起こっていた。Steven Stills と Phil Sloan が外を
 歩いていたとき暴動を起こしてた連中はバスをひっくり返し、
 そこに線を引いた。
 Steven Stills は言った「ここで何かが起こっているよ Phil、
 ほら、あそこに銃を持った男がいるよ」
 彼はその後、"For What It's Worth" の歌詞になるセリフを
 しゃべっていた。彼らの前で銃を持った男が人々に注意
 するように言っているのを見た。
 Steven Stills はこの暴動をジャーナリストの目で見ていたが、

Steven Stills and
Neil Young
同時に彼らは恐れていた。
実際、Steven Stills は
それが起こっているときに
頭の中で歌を書いていた。
当時 Phil Sloan は毎晩のように
The Whiskey A Go Go で
Buffalo Springfield を観ていた。
彼らは町のすべてのレコード
レーベルから断られていた。
最後に Neil Young は言った
「Phil, 俺はバンドを辞めるよ、
1年やったけど何も起きなかった」
「君たちは The Byrds と同じ
くらい大きくなるだろう。ほら、
私は The Beatles への判断で
正しかった。私は Rolling Stones
との作業で正しかった。
 私は The Byrds のレコードに取り組んだ。大丈夫、君たちは
 The Byrds と同じくらい大きくなるよ」
 Neil Young は言った「俺らのデモテープを Dunhill Records
 に持って行ってくれないかい?」


 Phil Sloan は "Nowadays Clancy Can’t Even Sing" と
 "Mr. Soul" を Dunhill Records の幹部に聴かせた。
 幹部は言った「もしそれらが音楽だと思うなら、私は Dunhill
 Records に所属していない」Protest song ばかり持ち込んで
 くる Phil Sloan に幹部連中は嫌気がさしていた。
 Buffalo Springfield のデモを持ち込んだのがきっかけで
 Phil Sloan は A&R の職務からクビにされた。
 Phil Sloan の友人が同じオフィスで働いている
 Sonny and Cher に Phil Sloan から引き継いだ
 Buffalo Springfield のデモテープを手渡した。
 Sonny Bono はそれらのサウンドが好きじゃなかったけど
 好意で Atco にデモテープを送ってくれた。ドアの外で聴いて
 いた Atco の幹部の息子が「ねえ、これを僕にリミックス
 させてくれたら、お父さんが勝者になると思う」と言った。
 それがきっかけで Buffalo Springfield はトントン拍子で
 Atco との契約に至った。

Buffalo Springfield

 当時の Los Angeles のミュージックシーンについて
 後年 Phil Sloan は語っている「Los Angeles で始まった
 全ての The Doors, The Byrds, The Turtles 等は、
 Los Angeles 自体のフォーク純粋主義者のグループによって
 信じられないほど嘲笑され、起こったすべての新しいことを
 文字通り非難した。1950年5月から2014年春まで発行されて
 いたアメリカのフォークミュージックとフォークソングの季刊誌
 Sing Out! がある、この購読者達こそがフォーク純粋主義者
 だった。彼らは Bob Dylan がエスケープするのを許したが、
 Bob Dylan が生み出した全てのものに全く感謝しなかった。
 例えば The Walker Brothers は私が住んでいたサンセット
 沿いの町でプレイしていた。私は彼らが非常に才能がある
 と感じていたが、彼らはフォーク純粋主義者に嘲笑され、
 若者文化を偉そうに見下す勢力とそのエリアのレコード会社
 の両方によって自殺を余儀なくされていたので、
 The Walker Brothers は Los Angeles から出ることに決めた。
 彼らはイギリスのメガスターになり彼らにとってはうまく
 いったが、それはソロ活動を決意した私を失望させた。
 実際には私は Sing Out! の購読者であるフォーク純粋
 主義者よって抹消されかけたのではなく、フォーク純粋
 主義者から身を守ろうとしていた The Byrds, The Doors
 らから異端児扱いをされた。当時のシーンは非常に表面的
 なもので Dunhill Records は私が許可されるべき
 クリエイティブなスペースを私に与えようとはしなかった。
 彼らはブランド名を所有するのと同じように P.F. Sloan という
 名前を所有していると感じていて私は個性を剥奪された。
 The Grass Roots や The Mamas & The Papas のような
 グループは統合されたグループではなく回転可能な
 メンバーを持つグループだった。Dunhill Records は
 The Fantastic Baggys で行ったように好きなように
 私が書いた素材を出すことができた。
 
 P.F. Sloan という個性が登場したとき、Phil Sloan の書き方
 とは異なっていたことに私は気づいた。Phil Sloan が最初に
 メロディーを書き、P.F. Sloan が最初に歌詞を書いた。
 まるで歌詞が書かれた紙を持っていて、これは何だろう?
 これは詩ですか、これは論文ですか、これをどうすれば
 いいですか?そして、ギターを取り出してそれに小さな
 メロディーを書いてみようと思った。Phil Sloan とは逆に、
 メロディーから作業してそれに歌詞を付けていたので、歌詞
 から作業してそれにメロディーを書くのは楽しいことだった。
 だから P.F. Sloan と Phil Sloan のキャラクターは正反対
 だった。ヒット曲を書いたときは、整備士がキャブレターの
 問題を発見し、キャブレターが動き出すようなものだ。
 素晴らしいことを成し遂げたという喜びと解放感だけ。
 それは貴方をワクワクさせ、貴方がワクワクすると、他の人
 もワクワクするような気がする。そして、他の人の作品で
 それを聞いてもそれが貴方をワクワクさせ、他の人がそれに
 興奮していることを貴方は知っている。
 
 主にピアノとギターのどちらで作曲する傾向があったかと
 言うと、一般的には95%の確率でギターで曲を書いた。
 でもギターを買う金がなかったときは、Screen Gems Music
 の小さな部屋にあったピアノで曲を書いた。
 私は重要な事が楽器の中にあると正直に信じている人の
 一人です。私が最初に曲を書き始めたとき、非常に安価な
 ギターを持っていた。フレットよりも弦が高すぎて、文字通り
 曲を演奏するのに指から出血するほどだった。
 そして価値のある曲を書くということは、それが苦痛である
 ことを意味するという考えを私に植え付けた。
 そのギターで何十曲も書いたが、指が血を流すほど痛かった。
 それで、曲を書くには、痛みに耐えるだけの価値がなければ
 ならないという考えが生まれた。Jefferson Airplane の
 Marty Ballin は、ある時私に話をしてくれ、彼の友人が
 ギターに17,000ドルを費やすかどうか悩んでた。
 その男は Marty に電話してどうしようかと尋ねた。
 Marty は『もしそのギターに魔法がかかっているなら、
 俺はそれに50,000ドルを費やすだろう』と言った」
 
 メッセージ色の強いプロテストソングが求められた時代に
 呼応するかのようにソングライター Phil Sloan は1965年から
 アコースティックギターを片手に立ち上がり、シンガーソング
 ライター P.F. Sloan と名乗って本格的なソロ活動を始める。
 そして彼の書く歌は保守主義者層から強烈な批判を浴びた。
 しかしながら "Eve Of Destruction" がそうであったように政府
 に対する抗議賛歌としてそれらの活動家から大きな支持も得た。
 しかしそれが原因で Dunhill Records は Phil Sloan のソロ活動に
 対するプロモーションの展開に躊躇する。コマーシャルなトレンド
 を発信してきた新興レーベル Dunhill Records の中心ソング
 ライターであった Phil Sloan だが、彼のこのソロ活動は
 Dunhill Records にとって大きな痛手でもあった。

P.F. Sloan -
Songs Of Our Times
Released in Sep 1965

P.F. Sloan -
Twelve More Times
Released in Feb 1966
 
 Phil Sloan は Dunhill Records のために何百万ドルも稼いで
 いたが、彼らは Phil Sloan にその仕事に対して支払わなければ
 ならないという事実に腹を立てていた。
 出資者達は「この若造にお灸をすえてやれ」と言い出し、
 会社幹部らは Phil Sloan の頭に銃を突きつけるように
 こう言った「25時間以内に街から出て行ってほしい、さもないと
 殺すぞ」それで1967年に彼らの関係は終わった。

 Dunhill Records は彼にメッセージソングに拘らず、利益の
 追求だけをするように求めた。しかし彼は青年期における
 自己同一性のアイデンティティ確立、自己意識の構造、
 自我確立の過程のおいて P.F. Sloan という個性を確立させ
 シンガーソングライターへと成長した。
 その結果過激なプロテストソングと見なされた
 “Eve Of Destruction” を書いた19歳のユダヤ人 P.F. Sloan
 は右翼勢力から攻撃された。
 それによって Dunhill Records の経営陣も殺害の脅迫を受け、
 危機感を感じた Dunhill Records は P.F. Sloan を追放した。

 Phil Sloan は後年インタヴューで「それが行き着いたのは強欲、
 巨大な強欲だった」とこの件を嘆いている。
 これはベトナム戦争下での所謂レッド・パージ(赤狩り)のような
 見せしめの意味もあったのかも知れない。共産党員やその
 支持者またはそれとみなされた者が、その思想信条や政治的
 立場を理由に公職や企業から不当に解雇される一例。
 つまりこれは文字通りの脅威であり Phil Sloan はそれを非常に
 真剣に受け止めた。

 Phil Sloan の書いた曲のその後の展開に恐れた Dunhill Records
 社長の Jay Lasker は Phil Sloan に対し過去作曲した曲と
 今後ヒットする可能性を持った曲のロイヤリティーを会社に
 譲り渡すように要求してきた。
 Phil Sloan は語っている「Jay Lasker は死体の写真を私に
 見せて言った『ボールをプレーしなければこれが君に起こる
 ことだ』Jay Lasker が実際に言ったのは『これは君の家族が
 どのようになりたいのか?』ということだった。
 誇大妄想狂の Jay Lasker は力が欲しかった。 彼は私に彼の
 靴にキスしてほしかった。彼は成功もお金も気にしない。
 彼は The Beatles で何百万も稼いだ。彼が Vee-Jay Records
 のトップに就任した時、私は The Beatles を彼に持っていった。
 当初 The Beatles は Everly Brothers フォロワーと見なされて
 いた。しかし私は彼らがもっと多才な事に気づいてた。
 私は直ぐに Lou Adler に掛け合った。彼は The Beatles を
 ゴミ箱に捨てようとしたが私の意見は Jay Lasker に届いて
 Vee-Jay Records は The Beatles をリリースした。
 当時私は週10ドルでとても幸せな16歳だった。誰かが私の
 意見を信じるとは思ってなかった」
 そして Chicago 出身の Lou Adler はその時「我々は欲しいもの
 を手に入れる方法がある」と言って Chicago の街中の写真を
 見せたと Phil Sloan は言っている。それで Phil Sloan は
 Los Angeles を離れ、彼らの要求全てに署名することを余儀
 なくされた。その結果彼は自身の曲のロイヤリティーを
 Dunhill Records に譲渡している。
 
 彼のソロ活動は Dunhill Records の専属ソングライターとして
 コマーシャルなヒットソングを量産させたかった会社の意に
 反していたのかもしれない。恐らくこの契約がその後の
 Phil Sloan と Steve Barri の立ち位置を別けたのだろう。
 多くを失う事でスタートさせた Phil Sloan のソロシンガーとして
 のキャリアだがギターマシンガンを持った20才の若者の決意は
 その作風から多くを伺い知る事が出来る。
 彼はギター片手に戦い続けた。
 ロイヤリティーを会社に譲渡したが、完全にサインアウト
 させることができなかったために Phil Sloan は BMI から
 若干のお金を受け取っている。当時、Phil Sloan は BMI から
 年間約4,000ドルしか稼いでいなかった。そのため彼は
 ビールの配達を始め、生命保険のセールスマンになろうとした。
 最終的には仕事量が多すぎて、彼はただ体調を悪くした。
 彼の中にいた詩人 P.F. Sloan は彼が本当に信じていた
 ものだったので、別の名前で曲を書いたり、最初から
 やり直したりするというオプションは無かったと言う。

 Phil Sloan は New York に住んでオープニングアクトの
 仕事をしたり、ビールを配達したり、新しいキャリアを
 歩もうとしていたが、それを受け入れることができなかった。
 彼は Atlantic Records と契約し Atco からレコードを
 リリースしたが制作中に神経衰弱に陥った。Atco は彼を
 信じてくれたが、彼は家族と離れて暮らすことができず、
 あらゆる種類の病気を発症し、生命を脅かすものもあり
 12年間緊張病の状態になった。アーティストや前衛作家達
 が集っていた1968年の Greenwich Village は非常に暗い

Measure Of-Pleasure
(Atco Records)
場所だった。そこでは大量の
ドラッグが使用されていた。
New York のシーンで信頼を
得たいのであれば、それらの
薬をやっていて、残念ながら
彼はそれに巻き込まれた。
しかし彼はそれから降りること
ができた。基本的に彼は単純
な家の男だったと自覚したと言う。

 Phil Sloan は California が恋しくなり、家族が恋しく
 なった。New York での生活に向いていないと感じて
 いた Phil Sloan は活動を休止してヘロイン中毒の廃人
 になっていた。そんな時 Peter, Paul & Mary の Paul
 こと Noel Paul Stookey が Phil Sloan の命を救った。
 Paul Stookey は Phil Sloan が死にかけているのを

Paul Stookey
見つけて、1970年に
Phil Sloan の両親に電話を
かけて言った「Sloan さん、
貴方は息子を家に帰らさな
ければなりませんが、
息子は帰りたがりません」
それで Phil Sloan の両親は
New York に飛んで、
Phil Sloan を子供時代の家
に連れ戻し彼は寝室で
約14年間寝たきりだった。
Mums Records から1972年
にリリースしたアルバム
Raised On Records の頃に
彼はもはや無気力の廃人と
 なっていた。彼は重度の低血糖性緊張病と診断されたが
 治療法がなかった。両親は彼をいくつかの精神病院にも
 入れたが、それはうまくいかなかった。

 Phil Sloan は言う「当時 Jimmy Webb は Los Angeles の
 すべての出版社から断られた。彼は Oklahoma 出身だった。
 Los Angeles の人々は Oklahoma 出身の人が好きではない、
 イギリス人が好きではない、褐色の肌の人が好きではない、
 日本人が好きではない。Los Angeles のメインストリームは
 基本的に他地域から来た人をよそ者扱いをする風習が強い。
 Jimmy Webb は Harmony というレコーディングスタジオを
 経営している女性に出会った。そこで私は15 歳のときに
 レコーディングを行っている。1967年に彼女は Jimmy Webb に
 私と話すべきだとアドバイスした。
 Jimmy Webb は Hollywood Hills でこの女性と一緒にいた。
 私が Jimmy に会いに行った。Jimmy Webb が私のため
 に演奏した最初の曲は "Wichita Lineman" だった。
 Jimmy はいくつかのコードを演奏し、徐々にリラックスして
 荷を下ろし始めた。すぐに私は自分がソングライターの声を
 聞いていることに気づいた。
 Feeling と Emotion に満ちていた。ほとんどのソングライター
 は声を持っていないが、この声は心に残り、変わっていて
 生々しくて素晴らしかった。続けて "By The Time I Get
 To Phoenix" と "Up Up and Away" を演奏してくれた。
 当時彼は "MacArthur Park" に取り組んでいて、
 彼は言った『インストゥルメンタル・セクションをカット
 しなければならない。今は長すぎる』
 私は彼に『カットしなくていい、全てを演奏するように』
 と助言した。私は彼が聴かせてくれたこれらの曲を
 聴いて目から涙がこぼれ落ちた。
 彼は『それで Phil、あなたはこれらの曲をどう思いますか?』
 と尋ねてきた。私は『それらのすべてがナンバーワンの記録
 だよ』と言った。彼はただ泣き崩れ、私も泣いていたが、
 彼は『これを聴くことができるのは世界であなただけです』
 と言った。私は Jimmy にすべての曲が大ヒットになる可能性
 があることを保証し『Songwriters don't cry tears,
 they cry diamonds. ソングライターは涙を流さず、ダイアモンド
 の涙をながす』と冗談を言った。
 この時点で "Eve Of Destruction" の後の Barry McGuire
 の次のシングルは The Mamas & The Papas がバック
 グラウンドで歌っている "California Dreamin’" に
 なる予定だった。私と John Phillips は Barry McGuire の
 次のシングルのために書き直してイントロ部分を加えて
 録音した。The Mamas & The Papas の "Go Where You
 Wanna Go" はアルバムカバーに便器が写っている事で
 初版を回収した彼らのデビューアルバム
 "If You Can Believe Your Eyes and Ears" から先行で
 シングルリリースした。Picture Sleeve を付けて限定
 リリースしたその曲がヒットしなかったので、Dunhill の
 幹部は The Mamas & The Papas を重要視しなくなっていた。
 私はこの曲でギターを演奏した。1966年にまだ Imperial
 Records の契約下にいた Johnny Rivers がレーベル
 Soul City を設立し、その後 The 5th Dimension がこの曲
 をカバーして Johnny Rivers がプロデュースをしたシングル

Jimmy Webb
は彼らにとって初のチャート
ヒットとなった。(1967年1月14日
をピークに全米16位)

Johnny Rivers が Jimmy Webb
と契約したのは このシングルの
時だった。Jimmy Webb はまだ
無名のソングライターだったが、
編曲を行うために雇われた。
Jimmy Webb は私に電話を
かけてこう言った
『私は The 5th Dimension のため
に働いているんだけど、彼らのため
に曲を書いてみませんか?』
 私は The Mamas & The Papas のために書いてデモ録音していた
 "Another Day, Another Heartache" を提出した。
 Jimmy Webb がアレンジを施しそれをリリース、それは
 The 5th Dimension のセカンドヒットとなり (1967年4月29日を
 ピークに全米45位) そのセッションが Jimmy が以前私に
 聴かせてくれてた "Up-Up And Away" の録音に続いた。
 Jimmy Webb はメジャーなメガスターになったが彼は常に
 P.F. Sloan になりたいと思っていた。つまり、どういうわけか
 まだ彼が売れないソングライターだった時に彼は心の中で
 私を耳の聞こえないシンガーソングライターと関連付けた。
 彼は自分自身をシンガーソングライターだと思っていたが、
 誰も彼の歌を聴いていなかった。彼は言い続けていた
 "If P.F. Sloan can do it, I can do it "「スローンならできる、
 私ならできる」と。Jimmy にとって P.F. Sloan はスーパー
 ヒーローになっていた。1967年に私は Dunhill Records
 を去り、それが世界の大部分の終わりだった。
 その頃は Jimmy のスターは上昇し、私のスターは下降
 していた。1968年当時、私は New York に約 1年間住んで
 いて Nico, Lou Reed, Andy Warhol などの周りの
 The Chelsea Hotel に滞在していた。
 私は New York から戻ってきて、精神が打ち砕かれ、
 ヴィレッジでショーをしていた。私は Los Angeles に戻ってきて
 回復しなければならなかったので、Jimmy Webb は私を彼の
 家に招待してくれた。Jimmy は巨大な家を所有しているが、
 私には金がなかった。私の金はすべて、死と訴訟の脅威の
 下で Dunhill によって没収された。私が彼の豪邸のドアを
 開けると男達がが床に座ってた。何人かの男が飛び上がって
 『あなたは誰ですか?』と言い、私は『私は P.F. Sloan です、
 Jimmy が私に会いたがってる』と答えた。『あなたは入っては
 いけない。ここから出て下さい。ここを誰の家だと思ってるんだ?
 おい、Jimmy 誰かが入ってきたぞ』Jimmy が降りて入って
 くると、彼はこう言いった『なんてこった!この人が誰だか
 わからないのか?』彼らは『いいえ、この男が誰であるかは
 気にしません』Jimmy は私を隅に連れて行き彼は泣き出した。
 後日私は Jimmy に会いに West Hollywood にあるナイトクラブ
 The Troubadour に行った。私はコーヒーを飲む金すらなかった。
 私は Jimmy にコーヒーを飲むお金がないことを伝えるべきか
 どうか疑問に思ったが、私は彼が私を助けてくれるかどうか
 尋ねた。Jimmy は言った『もちろん、私の車について来て、
 私の家に戻ってください。あなたのキャリアを再構築する
 ことについて話しましょう』しかし私は病気のため道に迷った。
 夜の12時のようだったが、私は彼の自宅に現れる事は
 出来なかった。その後、私は1971年に Jimmy Webb が歌った
 歌の中の男 P.F. Sloan になっていた。」

 この歌 "P.F. Sloan" は Jimmy Webb が1970年12月21日に
 シングルリリース (Reprise Records 0978)、The Association
 がカバーして1971年3月13日にシングルリリース
 (Warner Bros. 7471) して話題になった。
 当時 P.F. Sloan は重度の低血糖性緊張病で無気力になっていた。
 彼はそんな状況で制作したアルバム Raised On Records を
 1972年 Mums Records からリリースしているが、もはや彼は
 廃人のような風貌になっていた。ここで収録されたサウンドは
 ゆったりとしたリラクゼーションと言うより、無気力な男の虚脱感
 が全体を覆っている。Mums Records は Dunhill Production
 創設メンバーの一人だった Bobby Roberts が設立した新興
 レーベルで、彼は The Mamas & The Papas のマネージャー
 も務めた人物だった。このアルバムは、恐らく Phil Sloan を
 親身になってサポートした Bobby Roberts が Phil Sloan の
 リハビリテーションを促すために作ったように思える。

Raised On Records
(Mums Records)

 その後隠遁生活を送ってた Phil Sloan だが1980年代中期
 から少しずつ曲を書き始めた。長年無気力な生活を送ってた
 Phil Sloan は「それについての唯一の良い点は、ディスコ時代
 全体を逃したことだよ」と笑った。1985年 Phil Sloan は
 New York の Bottom Line でショーを行い、Steve Barri の
 リクエストで "Kick That Little Foot Sally Ann" を演奏し彼ら
 の関係は修復され始めた。1994年、Steve Barri が住んでいる
 Los Angeles の The Troubador でトリビュート・コンサートが
 開かれ Phil Sloan と Steve Barri は一緒にステージに立ったが
一緒に演奏することはなかった。

Bottom Line

Phil Sloan Bottom Line Live

 1986年に Phil Sloan は Ashram (アシュラム : ヒンドゥー教の
 僧院) である Sai Baba を訪問し始めた。癒しの力を主張する
 論争の的となっているインドのグルである Sai Baba に出会い
 Phil Sloan は2年ごとにインドから戻ってきて、ゆっくりと回復し
 始めた。Phil Sloan は2001年までに再び演奏を始めるのに
 十分なほど気分が良くなったと言った。例えば2003年には、
 California 州 Redwood City のシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)
 である Congregation Beth Jacob で開催された、ユダヤ人の
 宗教的なシンガー兼ソングライター Shlomo Carlebach への
 トリビュートコンサートに参加した。Hollywood に設立された
 最初のシナゴーグ Hollywood Temple Beth El で、
 Rabbi (ユダヤ教指導者) Norbert Weinberg は
 Zohar (ゾハール : 光輝の書と呼ばれるユダヤ教神秘思想
 Kabbalah (カバラ) の中心となる基本文献) と Torah (トーラー :
 ユダヤ教の聖書タナハにおける最初の「モーセ五書」のこと)
 の解釈の研究を Phil Sloan に勧めた。


Brian Wilson and
Eugene Landy
1988年頃、Brian Wilson
のいわゆる心理学者
Eugene Landy 博士が「自分
が "Eve Of Destruction"
を書いた」と馬鹿げた主張を
していたことを Phil Sloan
は知った。その1週間以内
に Eugene Landy は医師
免許を失った。
当時 Phil Sloan の知名度は
非常に低かったので、
 Eugene Landy は明らかにその曲を選んだのだと Phil Sloan は
 思った。Phil Sloan はそれについてビルボードに手紙を書いて
 いる。当時 Phil Sloan は語っている「私は Brian Wilson が
 生活に満足していることを願うばかりです。彼の元妻の Marilyn
 は今でも私の親友の一人なんだ。彼女は現在、不動産業者で
 あり、私の新しい家を見つけるのを手伝ってくれた。
 しかし Los Angeles のシーンは人々が想像するほど小さくはない。
 私が Gary Usher に会ったのは一度だけで、彼はとても
 スピリチュアルな人だという印象を受けた。彼はヒンドゥー教
 Krishna クリシュナの信奉者であり、厳格な菜食主義者だった」

 

Clive Davis
Dunhill Records の当時
の社長だった Jay Lasker
が1989年に亡くなって Phil
Sloan は Dunhill Records
から彼が受けた真実を語り
始めた。Phil Sloan は
New York の Bottom Line
で細々と gig を続けていた。

当時 Arista の社長を続けてた
ユダヤ系のエグゼクティブ
Clive Davis は1990年に
Phil Sloan に電話をして
別バージョンの "Eve Of
Destruction" を書くように
依頼した。
 当時、Phil Sloan は一文無しだったが、彼は世界自然保護基金
 The World Wildlife Fund のために "Eve Of Destruction '90" を
 書いて贈った。その曲は Barry McGuire With Rocking Children
 名義でリリースされた。

 Phil Sloan は語っている「私は Los Angeles の Cedars Sinai
 という精神病院に入れられた。そこには、患者にロボトミー手術
 (脳の前頭前野の神経線維の切断を伴う脳神経外科的な精神障害
 の治療法) をするのが好きな精神科医がいた。彼が私をロボトミー
 手術をする前夜、私はすぐに逃げようとしたができなかった。
 彼らはロボトミーの丸薬を私に与えてしまい、母と一緒に
 暮らすために私を家に送った。私はその間ずっと部屋にいた」

 Phil Sloan は入院し、「ロボトミー丸薬」を投与されたと主張し、
 彼の記憶から丸一年が消えた。
 2006年、彼は Los Angeles Times に次のように語っている
 「つまり、うつ病と低血糖、それはすさまじい戦いだ…。
 久しぶりのカタトニア昏迷状態」

 
 Phil Sloan は1990年代半ばから徐々にポジティヴな姿勢
 を見せ、アルバムをリリースする事で我々ファンの前に
 復活した姿を見せてくれた。我々ファンは彼の生み出して
 来た作品から、そこで何が起こったのか考え知る必要が
 あるのではなかろうか。

Serenade Of The Seven Sisters

(Still On The) Eve Of Destruction
 CD「Serenade Of The Seven Sisters」は日本で先行リリース
 された。当時 Phil Sloan がアメリカでコンサートをやると、どんな
 に小さな会場でも必ず日本から大勢のファンが集まっていた。
 "From A Distance" が日本でヒットした1968年に、彼は日本に
 行きたかったと言う。Phil Sloan に対する評価の高さから
 新アルバムを日本で1994年6月25日に先行発売したのだろう、
 帯には「孤高のヒーロー、22年振りの復活」と書かれた。
 このアルバムは「(Still On The) Eve Of Destruction」と
 タイトルとパッケージを替えて1997年にアメリカでもリリース
 された。1995年 Phil Sloan がインドを訪問する途中
 Los Angeles にいる友人のシンガー Elliot Kendall が日本に
 立ち寄ることを勧め7月16日に初来日し、日本に5日間滞在した。
 Phil Sloan は日本に滞在した際のインタビューで答えている
 「私は16歳の時に Los Angeles のレーベルでA&Rを担当した。
 当時の私の最も鮮明な思い出の一つは1963年にイギリスから
 シングルの箱が届いたときのことだ。当時、イギリスの音楽に
 対する非常に強い偏見差別があり、そこから来たものは
 通常ゴミ箱に入れらた。この特定のボックスには The Beatles
 の4つのデモが含まれていた。シングルは "Love Me Do",
 "Please Please Me", "From Me To You", "Thank You Girl"
  だったと思う。私は彼らの可能性に気づき、Vee-Jay レーベル
 は米国で最初の契約を結んだ。残念ながら、これらの初期の
 レコードはどれもヒットしなかった。後で彼らが Los Angeles に
 来たときに私は彼らに会って、1965年の Hollywood Bowl での
 ショーを観た。しかし誰もサーフミュージックに興味を持って
 なかったんだ!The Rolling Stones のマネージャー
 Andrew Loog Oldham は The Beach Boys やその他の
 サーフ・グループに夢中だった。彼と Mick Jagger が
 Los Angeles にいたとき彼らは The Baggys のデモ曲をいくつか
 聴いた、Mick Jagger はそれらが『Fantastic! 素晴らしい!』と
 言って気に入った。ありそうもないことだが、それが
 The Fantastic Baggys の名前の由来なんだ。
 私は Rolling Stones とも仕事をした。私は実際には
  "Paint It Black" セッションのプロデューサーだったが、
 クレジットはされなかった。そのレコードにシタールがあるのは
 私の考えで、スタジオの隅にあるのを見て、その曲には
 少し特別なものが必要だとわかっていたのでアレンジして
 シタールを入れたんだ」

 
 後年 Phil Sloan は語った「私は本当に疑問と解決の人生を
 生きていた。私は幼い頃に散らばった砂金のかけらを拾うと
 いう探求に生きていた。その大部分は世界で、そして実際に
 私が誰であるかを探すことだった。何年にもわたって続いてきた
 非常に強い精神的な衝動があった。自分で音楽を録音したり、
 歌ったり、曲を書いたりしていないという意味で音楽は
 あまりそこにはなかった。私は事実上、ワールドミュージック、
 特にインド音楽などに夢中になっていた。過去の曲からの
 印税はいくつかはあったが、基本的に私を支えてくれたのは
 友人だった。George Harrison はかつて『誰もが曲を書くことが
 できる』と言ったが、私は同意する。私たちの人生は歌なので
 誰もが歌を書くことに同意できる。おそらくそれを書き留める
 ことに集中している人がいて、より多くの人が聴きたい曲を
 書く人がいるかどうかにかかわらず、私は同意できる。
 みんなの人生は歌であり、誰もが人生の歌を書いていると
 信じている。ご存じのとおり、私は四半世紀にわたって
 レコーディングを行っていないが、基本的にアルバムの
 すべての曲はインスピレーションから生まれた。
 ニュース自体からではない。"Eve Of Destruction" は私に
 名声と称賛をもたらした曲だったが、私をその領域に連れて
 行ったのはこの曲だった。それはまた、文字通り私を音楽から
 遠ざけるほど素晴らしい経験でもあった (笑)。
 "Eve Of Destruction" は元々、他の5曲と一緒に一夜に
 して書かれたものだ。"You Baby" は私が13歳の頃から
 取り組んでいた曲で、R&B のリフという理由だけで 21歳
 の頃にリリースされた。"Still On The Eve Of Destruction"
 は出てきた新しい歌詞を考えると実は15分で出来た。
 その歌詞は真実のように聞こえるが、私が間違っている
 ことを願っている。私は1965年に "Sins Of The Family,
 Fall On The Daughter" というオリジナルのレコードを
 持ってツアーに出かけた。それは成功したレコードだった。
 Barry McGuire と一緒にツアーに出かけたし、
 The Grass Roots も一緒だった。基本的には当時私が
 行ったツアーはその程度だ。私が言えることは、当時は
 非常に多くのことが起こっていたということ。
 私は The Byrds と一緒だった。私は The Beatles と一緒
 だった。私は Rolling Stones と一緒だった。
 The Lovin' Spoonful, The Grass Roots,
 The Mamas & The Papas, The Beach Boys, Jan & Dean
 などと一緒にいた。私はスタジオにいて、同時にみんなと
 一緒に仕事をしていて、人々のために曲を書いたり、
 これらのアルバムでギターを弾いたりしていた。時間は本当
 に重要だった。外出するのは問題ないが、それはその時間
 を奪うだけだった」

 
 昨今では P.F. Sloan は "Pioneer Of Folk Rock" と評価され
 Alanis Morissette, Joan Osborne, Hootie And The Blowfish
 等は P.F. Sloan が自分のキャリアに影響を与えたと認めている。
 1990年 The National Academy Of Songwriters (全米ソング
 ライター アカデミー) は P.F. Sloan をレジェンドとして認め、
 Los Angeles で行われた彼らの第5 回 "Salute To The American
 Songwriter" コンサートで P.F. Sloan は自身のヒット曲の
 メドレーを演奏した後、スタンディング・オベーションを受けた。
 このコンサートは Jerry Leiber and Mike Stoller, Barry Mann,
 Jimmy Webb, Carole King, Jackson Browne, Stevie Wonder,
 Willie Dixon, Stephen Stills, Brian Wilson ら過去多くの
 ソングライターが登場している。

 シンガーソングライター、ジャーナリストそして Songtalk や
 American Songwriter magazine の編集者である Paul Zollo
 は「音楽と言葉を一致させた最も重要なソングライターの1人」
 に P.F. Sloan を選んだ。
 
 Phil Sloan 曰く 「Catatonia (カタトニア = 極度の緊張状態
 による昏迷状態) は素晴らしいものだ。昏睡状態の
 ようなものですべてを認識しているけど、何も思い出せない。
 何が起こったのかというと、Sai Baba というインドの聖人が
 夢に出てきたんだ。私は彼のことを聞いたことがなかった
 のだけど、私はインドに行き、彼は私を癒し始めた。
 数年のうちに、私は歩くことも話すこともできるようになり、
 また曲を書き始めたんだ」
 2005年、Phil Sloan は Tennessee 州 Nashville で
 プロデューサーの Jon Tiven と共に一連のレコーディング
 を行った。Jon Tiven はギターを演奏し彼の妻の Sally は
 ベースを担当した。レコーディングにはゲストで
 Frank Black, Buddy Miller, Lucinda Williams, Felix Cavaliere,
 Tom Petersson, Gary Tallent が参加している。。

Sai Baba
Phil Sloan はユダヤ神秘
主義の彼の研究を
インスピレーションの重要な
源として挙げている。彼のプロ
としてのキャリアを終わらせた
数十年にわたる身体的
および精神的病気との
闘いの後、Phil Sloan は
Hightone Records から
リリースされたCD "Sailover"
で戻ってきた。
アルバムタイトルとなった曲
"Sailover" とは Sai (Baba)
からの "Sai-Lover" と
"Sailover (come on over)"
 (船に乗ってやって来る) の二つの意味を掛け合わせている。
 インドでスピリチュアルな指導者である Sai Baba に会い、
 癒された Phil Sloan の感謝の表現でもあった。

 Phil Sloan は "Sailover" の曲が彼の Kabbalah ユダヤ教
 神秘思想のカバラ研究に「直接起因する」と感じた。
 Phil Sloan は言った「この歌は神からの贈り物でした。
 私はその歌を通して世界の歴史についての情報を与えられた。
 それは神秘的なユダヤ教では珍しいことではなく、私が19歳
 でユダヤ教を与えられたことは、とても素晴らしい贈り物だった。
 私はそれが特別であることを知っていた、そしてそれが物事
 を変えることを知っていた」

 Phil Sloan はこの曲を神との対話と見なしている。
 「私は神に『このクレイジーな世界全体があまりにも
 苛立たしい』と言うと、神は私に『しかし、あなたは私が
 すでに知っているこれらの問題について何度も何度も
 私に話してください』と言いました」と彼は言った。
 彼は約18か月間勉強し「ユダヤ教と人々との関係について、
 より深くより深く理解することができた。
 1993年に私は Sai Baba のために幾つかの Bhajan
 (バジャン : ヒンズー教の献身歌。また、それを歌い行う
 宗教儀式そのものをもさす) を録音した。そのうちの1つが
 世界的なヒットとなり、過去18ヶ月間の Bhajan のヒット
 パレードで第1位になった。Bhajan はインドの音楽形式で、
 曲が進むにつれてテンポが速くなる」と語った。

Sailover

PF Sloan CDEP Sampler
 
 ソングライター Phil Sloan はミュージシャン P.F. Sloan
 となって1965年にデビュー・アルバム "Songs Of Our Times"
 をリリース。そして1966年にセカンド・アルバム
 "12 More Times" をリリース。1967年に Philip Sloan 名義
 のシングルリリースで最高潮に達し、サイケデリックな色合い
 のA面 "Karma (A Study of Divinations)"と、多くの人が
 彼の最高の曲と考えているB面 "I Can't Help But Wonder
 Elizabeth" で彼のレコードは急速に成熟度を増した。
 1967年に Dunhill Records を去った彼は New York に
 戻り、1968年に Atco からアルバム "Measure Of Pleasure"
 をリリースした。1969年 "From A Distance" が遅れて
 日本で大ヒットとなり、当時ドラッグで廃人生活を送っていた
 彼は California に戻り、1972年にアルバム "Raised On
 Records" をリリース。その後80年代に入りインドのグル
 である Sai Baba に出会い癒され、長い隠遁生活から
 抜け出して少しずつ曲を書き始めた。1994年に日本で
 "Serenade Of The Seven Sisters" をリリースし、
 1997年にはこの作品の改訂版 "(Still On The) Eve Of
 Destruction" がアメリカでリリースされた。
 2006年には Jazz レーベル Concord Music Group の
 傘下の Hightone Records から PF Sloan 名義で
 (Not P.F. Sloan) で Sai Baba に対する感謝の表現で
 アルバム "Sailover" をリリース。そして2014年5月に
 アルバム “My Beethoven" がリリースされる。
 
 2015年1月8日 California 州 Altadena にあるライヴハウス
 The Coffee Gallery で行われた "Eve Of Destruction" の
 リリースから50周年の記念イヴェントで P.F. Sloan は
 50年ぶりに Barry McGuire と共演した。
 60年代、彼らが最後にライヴ共演を行った時、聴衆は彼らに
 "Eve Of Destruction" を3回続けて歌わせたと言う。
 今回のこのイヴェントには元 The Byrds の John York も
 参加した。その際 Phil は「私達が "Eve Of Destruction" を
 祝うためにそこにいたとは言い難い。私達は同じ戦争と破壊
 の恐怖を経験している。特にISIS、進行中の戦争、これら全て
 のテロ攻撃がある今日の世界ではナイーブに聞こえる。
 実際に注意を向ければ私はこれを修正できるという観点から
 見ていた。何故ナイーブなのかについて話すと、私達が
 あの時代の恐怖を経験した後、私達の子供達は平和な世界

Barry McGuire and P.F. Sloan
で成長するだろうという
考えがあった。しかし現在
のようなテロ攻撃はカード
(予測できる選択肢) には
なかった。Barry McGuire と
一緒に歌う事は、私がずっと
やりたかった事だった。
昨年10月に私が Barry McGuire
に送ったバースデーカードで
そのアイデアを打ち出し
『私はあなたと私が一緒に
ステージに立つ時が来たと思う』
と伝えたんだ」

 Goldmine の Mike Greenblatt が2015年1月30日の
 Phil Sloan とのインタビューの際、Phil Sloan は言った
 「私は Lou Adler について悪いことは何も言いたくない。
 私は軽く踏まなければなりません。彼は何百万ドルもの
 Hollywood の王族に深く根を下ろしており、私はかろうじて
 生き残っています。 私は王族の窓に石を投げたくない。」
 その時 Goldmine が Lou Adler に尋ねたら代理人の
 Howard Frank を通じて「どんな事でも P.F. Sloan が
 言わなければならない」と自身のコメントを拒否した。
 

P.F. Sloan -
My Beethoven

  Glenn Gould
 Phil Sloan のアルバム My Beethoven の録音は、彼が
 ベートーベンの曲をフィーチャーした Los Angeles での
 コンサートに出席したときに始まり、彼に深い影響を与えた。
 彼は、伝説的な作曲家と彼自身の類似点を完全に理解
 することに集中した。この発見の旅は、彼が完了するのに
 10年以上かかった。彼はその過程でピアノを弾いて作曲する
 事を学んだ。この作業により、彼は人生の試練と苦難の中で
 遭遇した傷を癒す事ができた。この音楽プロジェクトにより、
 彼は罪を犯した者を許し、怒りを忘れて、彼の人生を平和と
 愛と静けさの中で前進させた。

 Phil Sloan は語っている「私にとって最高の瞬間は
 "Eve Of Destruction" が1位になったのを見て、
 合衆国憲法に、私の歌が語った投票年齢を変更する改正が
 追加されたこと、そして何年もかかった新しいアルバム
 "My Beethoven" を完成させてリリースしたことです。
 最悪の瞬間は、Dunhill Records から追放され印税が没収され
 二度と音楽を録音することはできないと言われたことです。
 私がベートーベンの精神に触れたとき私はピアノを持って
 いなかった。ピアノを買うお金がなかったんだ。しかしカナダの
 ピアニスト Glenn Gould がベートーベンを演奏しているのを
 聴き始め、私は Arthur Rubinstein ではなく Glenn Gould
 を選んだ。でも、Arthur Rubinstein らのアルバムも買って
 聴いてライナーノーツを読んだ。最高のピアニストは
 Vladimir Horowitz だと言われてるよね。Horowitz は
 ベートーベンを改善できると言っている、彼は自分が
 ベートーベンをやるともっとドラマを付け加える事ができると
 思ったらしい。しかし私は『ファック!』それを言って
 すみませんが、私はベートーベンが書いたとおりの
 ベートーベンが欲しいです。Arthur Rubinstein も同じことを
 言っていたが 『Glenn Gould は書かれたとおりに
 ベートーベンを一音一音演奏する』と言っていた。
 それで、私はピアノを手に入れる前に Glenn Gould を
 約6年間聴いていた。それでも私は充分に得ることが
 できなかった。なぜなら、ベートーベンは音楽家として
 常に私を驚かせたからだ。100回聴いたにもかかわらず、
 彼がどこへ行くのか私には想像もできなかった。
 だからベートーベンからは常に喜びと驚きを感じていた。
 そして、魔法のように非常に安価なピアノが私の前に
 登場し、Glenn Gould に夢中になったので私はちょうど
 ピアノの前に座って、ピアノを弾き始めた。
 私は15歳か16歳の頃にピアノを少し弾いていたが、
 四分音符を弾いて叩くだけだった。でも、私は Glenn Gould
 から学んだようです。彼は私の先生でした。それから
 歌詞に取り組み15年かけて作曲を始めた。
 そして、レコーディングには約2年かかった。
 『"The work is its own reward" 仕事はそれ自身の報酬
 である』という歌のセリフの1つがあるように。

 書いていた曲を脇に置いて、後で戻ってくることを私は
 "My Beethoven" でやった。それは、17年間のプロセスで
 私の中にあるでたらめをすべて取り除くための行為だった。
 それまで私は自分の中にたくさんのでたらめがあることに
 気づいてなかった!私は歌詞を書いていてこれは素晴らしい
 と思った、しかし6か月後、私はそれを見て自分が何を
 言いたいのか解らない、これはでたらめです! 幸いなことに、
 実際のレコーディング中は、スタジオノートを保管していた。
 しかし、今日そのメモを振り返ってみると、複雑すぎて
 ほとんど理解できなかった。そして私はゆっくりと、
 しかし確実に、でたらめの層をすべて剥がし、自分の魂と
 向き合うようした。ええ、その点で時間は贅沢だと思う。
 しかし貴方がグループにいるとき、またはヒットレコードを
 次から次へと出しているとき、時間はないだろう。
 半年という贅沢はありません。とにかく貴方がいろんな
 言い訳でできなかった日に戻ってください。そしてもう一度
 見つめなおす事だ。

 ソングライターは人間の家族のようなものだ。私たちは
 一人で仕事をしているが、全員がつながっている。
 私が他のソングライターから得たアドバイスは、彼らが曲
 から得たものだと思う… ほら、どこまで掘り下げて、それが
 商業的であることを彼らに示すことができますか?
 そして、ここでのゲームの名前は、創造性と商業性の間で
 稲妻に乗ることだ。ベートーベンもモーツァルトもそうだった
 ように、商業性と創造性の境界線は非常に微妙なんだ。
 だから私からみんなへのアドバイスは『商業化の波に乗って
 いるなら、自分で本当に書きたいと思う曲を見つけてみて
 ください』という事です。私は音楽業界の手によってかなり
 手荒な扱いを受けた。同じような問題を抱えないように、
 今日の若いソングライターにアドバイスをするのなら、
 最初のルールは、貴方が家族の一員だと言われたときは
 そこから出ることだ! 2番目のルールは、弁護士を雇おうと
 すること。率直に言って、真実は、誰かが貴方の歌が
 好きだと初めて言ったとき、貴方は嬉しくて溶けてしまうと
 いうことだ。貴方は15ドルの娼婦のようなものだ。
 プロになることは、つまり貴方がしたことに対して誰かが
 貴方にお金を払うことだ。しかし、貴方が私たちの家族の
 一員になったと言う人とは絶対に一緒に行かないで
 ください…そして、どうにかして弁護士とお茶を飲みながら
 友達になるようにしてください。そして、自分自身を信じてく
 ださい。なぜなら貴方が本当に間違っていて無関係だと
 思っていたことはすべて時間が証明してくれるからです。
 ですから、自分を信じてください。

 ご存知のように、私は多くの才能ある人々が道に迷うの
 を見てきたし、人々が最前線に立つのを見てきたが、
 私はいつも疑問に思っていた、それは持続性です。
 本当に何かあるとすれば、それは粘り強さだ。
 誰かが貴方の才能を聴くまで生計を立ててください。
 それには本当に粘り強さが必要です。それがキーワード
 です。才能よりも、それは粘り強さです。成長するにつれて
 より多くの才能が得られるからです。若いミュージシャンが
 20歳か24歳の今、貴方は自分がピークに達したと思って
 いますが、そうではない。その後の人生の経験は貴方の
 成長を助け、どんどん良くなっていく。
 だから粘り強さが必要なんだ。

 My Beethoven のアルバムについて。17年前に私が
 ベートーベンの生涯について読み始めたとき、それが
 私を最初に捕らえたものだった。Bob Dylan と私、そして
 ベートーベンとモーツァルトの比較…
 ベートーベンがフォークギターを弾き、100以上のフォーク
 ソングを書いたという事実、ベートーベンが苦労していた
 という事実、私が共感できる多くの類似点があった。
 ベートーベンは私のような人間であり、私自身の苦しみを
 通して彼の苦しみに関係することができた。
 絶望に屈したくないというラインの『I know what self-pity is
 私は自己憐憫 (じこれんびん:自分で自分をかわいそうだ
 と思うこと) とは何かを知っている』というセリフ、私は
 ベートーベンの人生に本当に入り込み、彼が偉大な
 作曲家であることに気付くまで、私は非常に孤独だと
 感じていた。私はポップミュージックの作曲家だが、
 音楽への愛情と、私たちが二流と見なされていたという
 事実という2つの共通点を共有していた。私が音楽から
 燃え尽きてしまった後、私を音楽の美しさに戻してくれた
 のはベートーベンだった。そして彼の日記や手紙から
 彼の人生の詳細を読んで、私が彼と同じように多くの
 点で苦しんでいることに気づいた。彼は100年以上前に
 亡くなっているので、それが悲しくて奇妙であることは
 知っているが、ベートーベンは本当に私の親友になった。

 私はベートーベンの目を通して人生を見て、彼は私の
 人生を変えた。私はこのプロジェクトに15、16年以上を
 費やしたが、それは人生で最も幸せな時期だった。
 ベートーベンの曲を『神への十代の交響曲』と呼んだのは
 Brian Wilson だったと思う。だから、偉大なポップミュージック
 を書くことには真の芸術と美しさがあるように私には思える。
 商業的なフィルターをかけずに、心と魂から音楽を探求
 できること。ほとんどの場合、それらは大失敗になる。
 私は人生を音楽と共に過ごしてきて、そのような
 プロジェクトに参加する人達を知っているが彼らはいつも
 失敗している。今、私の人生は受け入れや経済的利益
 を求めるよりも、自己認識、愛、そして人を重視している。
 音楽は人とのコミュニケーションであり、私はいま多くの
 人とコミュニケーションする機会を与えられているので、
 とても感謝しています。私が以前に受けたひどい扱いを
 考えると、今60年代の自分の作品のセルフカバーに
 対して適切に支払われているかどうか、まだ少し難点は
 あるけど、以前よりは良くなっている。神に正直なところ、
 何年も経った後、私のような子供が薬剤師になる代わりに
 作詞作曲や歌を始めたという事実、人々が私が何年にも
 わたって行ってきたことを評価できるという事実は、
 ただ素晴らしい。すごい。とても感謝しています。」
 Elvis Presley と運命的な出会いをし、若くして流行音楽作家
 として曲を量産していった少年 Phil Sloan はアメリカの音楽
 産業の成長の裏で様々なシーンに関わってきた。
 その後彼はシンガーソングライター P.F. Sloan を名乗り
 ギターマシンガンを抱えて戦った。
 そしてアメリカ合衆国憲法を書き換えさせる程の歌を
 書いた事が原因で、彼は会社から追放され長くの間
 絶望的な日々を送った。
 しかし苦境に立たされ何度も自分自身を見つめなおし
 立ち上がってきた彼は、日本で「孤高のヒーロー」と評された。
 彼は1990年代半ばから徐々に前向きに意欲的にアルバム製作
 を行っていた。

 そして2015年11月15日 Phil Sloan は Los Angeles の自宅で
 静かに人生の最終章を書き終え、神の愛と祝福に包まれた。
 享年70歳、彼は数ヶ月にわたりすい臓がんを患っていたが、
 彼の死亡はその病気に起因していた。
 
 参考文献 / Works Cited
Joel Whitburn "Top Pop Singles 1955 - 1986"
What’s Exactly the Matter With Me? - P.F. Sloan and S.E. Feinberg
PF - Travelling Barefoot On A Rocky Road - Stephen McParland
Barry McGuire Interview - Richie Unterberger
Goldmine
Perception is reality for singer-songwriter P.F. Sloan
P.F. Sloan : Let’s Live For Today
Don't Sing This Song . . . It Belongs To P.F. Sloan
Interview: PF Sloan - Songwriting Magazine
PF Sloan : An Interview in Japan
P.F. Sloan : Songwriter Interviews - Songfacts
Gary James' Interview With Songwriter P.F. Sloan
Interview with singer/songwriter P.F. Sloan - Michael Limnios Blues Network
The Late, Gracious P.F. Sloan’s Interview & Performance In Songwriters
On Songwriting, Live - Paul Zollo
Jewish Journal
Los Angeles Times
P.F. Sloan: does he still believe we’re on the ‘Eve of Destruction’?
戻る
Copyright (C) 2004 coolhand-records.com. All Rights Reserved.