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Original Intellectual Record Shop COOL HAND are go!
COOL HAND

古物商許可番号
第731269400017号
(広島公安委員会)

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COOL HAND の主張
(OUR TRUE STORY の続編じゃ無いよ。興味無い人は捨てて下さい)
BGM Sound On / Off

まだ22才ぐらいの頃、私と相棒の新田は二人で JAZZ LIVE を観に
行った。二人は行く前に飯と酒を腹いっぱいに詰め込んで会場に入った。
会場では皆が瞑想でもしてるかの様に目をつむって体を揺すっていた。
酒に酔っていた私は静けさが漂う INTER PLAY の途中に釈然としない
疑問を大声でぶち上げた。
「何故 VOCALIST や GUITARIST や BASSIST,PIANIST は研究者の
敬意を込められた IST が付くのにDRUM だけは DRUMER と呼ばれるんや!
DRUMIST と呼んでやれえや!」(私が思うに当初は GUITAR,BASS,DRUM
で構成されていた JAZZ COMBO に SAX や ORGAN が導入されその
必要に応じて招かれた人が SAX PLAYER であり ORGAN PLAYER だ。
だから最初から居たDRUMER も道を極める研究者なのだから DRUMIST と
呼んであげなきゃいけない)
すると周囲は凍り付いた。横にいた新田は「う〜〜〜ん」と唸りながら
頭から湯気があがっていた。間もなくして彼は便所に行ったまま戻って
こなくなった。「またこいつ便器に顔突っ込んでいるな」と思って私は便所に
行ってみた。案の定便所を独占していた新田は便器の横で寝ていた。
便器の中には少し前に腹拵えで食ったラーメンのもやしが一本水の中に
浮いていた。「おお、こりゃ凄い!茶柱ならぬもやし柱が見事に立っとり
やがる!おい起きて見てみいや!」と新田の顔を叩いた。
彼はしどろもどろの状態で「う〜〜〜ん」とまだ唸っていた。私はこの光景
を見て「愛してやらなきゃいけない奴だな」と思ったのだ。

新田は幼い頃からの不遇な家庭環境の中で愛に飢えていた。
それを誤魔化さずに悩んでいた彼を私は尊敬している。
この日私が言った「〜が良くて何故〜は駄目なのか?」と言う疑問に自分
を投影してしまった新田は自身の過去の生い立ちで「自分が駄目なのか」と
感じていた心の葛藤に触れてしまったのだ。
その解決をする為に彼は長年連れ添っていた彼女と結婚する迄に
信じられないような長い時間をかけている。私は彼の吐いたもやし柱の中に
彼の心の吐露を見いだしてしまった。だから「これを水で流すかどうかは、
お前が決めえや」と彼に促した。すると余計に彼は「う〜〜〜ん」と唸って
しまった。新田はいつも溺れたくない癖に溺れてしまう。
もがけばもがく程にだ。私と新田は幼なじみだ。友人達の多くは幼なじみで
あるが彼がぼろぼろになっている時に本気で怒ってやれる奴は少なかった。
新田の住んでいたアパートの部屋には鍵が無かった。
誰でも入れて誰でも出ていけた。それを容認していた新田にも問題があった。
大事な物が盗まれてたり誰かが新田の留守に女を連れ込んで酷い事を
しても新田は部屋に鍵を付けなかった。随分昔のある日の夜に新田の
部屋を訪れたら見慣れぬ男がそこにいた。
新田はこの男を私に紹介した「こいつ仕事先で知り合ったバイトなんじゃけど、
高校の学生寮の門限破りの常習犯じゃけえ、これからうちに泊めてやる事
になったんじゃ」
その男は「Sです。初めまして。竹内さんの話はいろんなところで
伺ってますから、どんな怖い人が来るんじゃろうとどきどきしました」
このSは我々より年齢は一つ下で学年で言う一つ下の後輩となる。
この頃新田は定時制高校を中退して働いていた。
また私が高校留年した年でもある。このSは幼い頃に交通事故で両親を
亡くし姉と二人で親戚関係でたらい回しにあった過去を持つ。
その後、学生寮を持つ私立高校に入学したが仕送りの当てを持っていない
Sはバイトで稼がなければいけない。
そして新田同様に優柔不断なSは寮生活に不適合な男だった。
ちょうどこの頃私は駅前のボクシングジムに通っており、いつも帰りが遅く
帰り際に私は新田の部屋に寄っては新田とSの不思議な共同生活を
観察していた。「お前洗濯行ってこい!」と横着者の新田が顎でSを指図
しているのを見て笑った。Sは私に言った「竹内さん、僕にもボクシングを
教えて下さい」「じゃあ明日からジムに来いや。会長に伝えてやるけえ。
でもワシはもう直ぐジムを辞めるで」
「何でですか?」「今度は蹴りか関節技を習得したいし、あんまり会長が
好きになれんしのお。でも当分はお前に付き合ってやるよ、
お前が本気ならのお」

Sはボクシングを学べば学ぶほど本気になっていった。私は学校で停学
になったのを境にジムは辞めたがSはずっと続けていた。
高校を卒業してから私は家屋解体の道に進んだがSは地元の工場で
働きながらもジムに通っていた。ある日私はSがその後見つけた下宿先
に訪れて「おまえボクシング続けるなら東京に行け、じゃなかったらこんな所で
一生懸命頑張ってもチャンスは無いで。お前東京に行け」
その頃、新田は人から金を借りては遊びほうけると言うろくでも無い生活を
満喫していた。Sもその被害にあっており、私は新田にSから借りた金を
返済する様に命じてSを東京に行かせた。

その後私は職場でのやくざとの喧嘩や周囲の覚醒剤問題に巻き込まれ
辛くて散々な日々を過ごしていた。
やくざの事務所の前でやくざと喧嘩をし5人がかりで事務所に引きずりこまれ
監禁された事もある。周りからは「金にならん喧嘩はするな」と怒られ
益々どろどろとした人間関係に引きずり込まれて行く自分を知った。
自分の20才の誕生日の日に後輩から相談を受けた
「竹内さん、いつの間にかわしの家が少女売春の事務所になっとるんです、
おなごをひっかけて同棲しとったらその女がワシのおらん間に友人を集める
ようになって気が付いたらあいつらそこで電話取って売春しとるんです。
で勝手にやくざが入って来て事務所の様に使ってるんです」
早速私はその後輩の家に行ってそいつらを殴る蹴るして追い出したら、
後日そいつらは顔面及び歯の治療費を私の会社に請求しやがった。
結局会社は違うやくざを立てて交渉をしたが会社に大きな借りを作って
しまった。そんなうんざりする様な毎日を送っていたら一つの朗報が私に
届いた。なんとSが日本バンタム級チャンピオンになったのだ。
Sから電話があり「竹内さん今度チャンピオンベルトを持って広島に
戻ります。次の初防衛戦には竹内さん来て下さいよ。こっちの後援会の
人達にも竹内さんを紹介したいし」
「そうか、頑張ったのお!遂にチャンピオンになったか。じゃあワシの挑戦を
受けてくれ。非公式な場でおまえを倒してワシもチャンピオンを名乗って
やるわい。新田にも伝えたか?」「はい伝えました。そちらに戻ったら3人で
飯でも食いましょう」と久々にBIGNEWS が飛び込んで来た。
栄光の日本バンタム王者だ、過去どれだけの逸材がここから生まれた
だろうか。私が授けたローリングフックでSはチャンピオンになったのだ。
Sが広島に戻って来てみんなでささやかな PARTY をした。
Sは試合の影響でまだ顔は腫れていたが絞り込まれた体からは強い
自信が漲っていた。彼は幼い頃に両親を亡くして家族と言えるのは
お姉さんと親戚だけだった。彼の苦労を知っているだけに我々も本当に
嬉しかった。その後Sの初防衛戦の日取りが決まって私と新田は
後楽園ホールに出向いた。その東京行きの航空券を購入する際に
K(悪い事ばかりして失明してしまった悪友)の所へ行き
「今度東京に行って来るけえ、お前の障害者手帳を貸してくれえや。
新田を保護者につけてワシが目の見えんふりをしたらええじゃろ?
そしたら半額以下で航空券購入出来るで」とまた悪い事を頼んで
障害者手帳を借りた。
「竹内無くすなよ!これが無くなったら大変じゃけえのお」
「解った解った。無くしゃあせんよ」そして新田を私の介護役につけて安く
航空券を購入してサングラスをかけて搭乗した。するとスチュワーデスの
サービスが違うのなんの。もう私を抱きかかえる様にかっわいい
スチュワーデスさんが柔らかい胸を押しつけてくる。
小声で新田に「こりゃあたまらんのお。あんたが今読んどる漫画が
良く見えんけえ、もう少しこっちに向けてくれえや」
「何言いよるんや、あんたは目が見えん人なんじゃろ?漫画なんか見んで
ええわい」「馬鹿、お前声がでかい!ばれたらどうするんなら」
するとスチュワーデスさんが私のもとに来て「何か不都合な事があったら
言って下さいね」と私の顔を覗き込むように言うので
「もう少ししゃがんで欲しいそうです」と新田が言いやがった。
私がサングラス越しにスチュワーデスの胸を覗き込んでいる事を知ってる
からだ。咄嗟に私は「すいません喉が乾いたので水を貰えますか」と場を
取り繕った。
新田は「ふっふっふっふ、この機内じゃあ、あんたはワシに逆らえんのお。
大人しくしとけや」と私に言った。「あほか、お前も共犯じゃ。羽田空港に
着く迄はあんたとワシは一身一体なんじゃ。くれぐれもワシを労わるように
してくれーよ」
羽田に着いて直ぐにサングラスを外して空港から走って出た。
一緒に搭乗していた客は唖然とした顔で我々を見てた。
その日の夜に後楽園ホールに行き控え室にSを訪ねた。
心地好い緊張感の中で彼は集中力を高めていった。
「ワシらは後援会の人達と一緒に応援するけえの一発派手なの頼むで」と
客席に戻った。Sは冷静な試合運びで勝利をものにした。
Sが持っている一枚の写真がある。それはその日の試合の後の祝勝会で
後援会の女の娘達とふざけあっている私の写真だ。
新田はその横で酔い潰れている。

ボクサーは大変だ。三ヶ月に一回の防衛戦で飯が食っていける程の良い
ファイトマネーは貰えない。試合を組むにもジムの力関係が出てくる。
Sはアルバイトを続けながら次の防衛戦を待った。しかしSは自分の力で
運を手繰り寄せたけど次の試合では結果を出せなかった。
そしてジムの力関係を浮彫りにする不正な行為が行われたのだ。
試合は接戦の末に判定負けしたけど勝ち負けを決める卑劣な行為が
Sのいない控え室で行われたのを私と新田は目撃した。
それ以上私はここで書く事はしない。KO で勝てば良かったとは思うが。
その日Sの家に泊まった我々は酒を飲んだ。Sの彼女が夜通し懸命になって
横たわる彼の面倒を見ていた。
私は「おい、これ飲んでええか?」と以前彼が後援会から頂いた高級酒を
持って尋ねた。「いいっすよ。どうせ飲まないし」とSは言った。
新田はあまり飲まなかったが私は2本飲んだ。
夏祭りが始まろうとするのに蒸し暑さを感じさせる気怠い朝を迎えた。
ここ東京の下町では後援会の女の娘達もはっぴを来て用意していた。
「夏祭りで一緒に遊んでいこうよ」と我々は誘われたが時間が無いので
その場で別れた。Sがジムにファイトマネーを取りに行った後に我々は
駅で彼と別れた。

  (喉かわいただろ?)


広島に帰って私と新田はまたいつもの生活に戻ったが私は常日頃から
抱いていた危機感の矛先が変わった。「この国はどっか間違ってる」と強く
確信しだしたのだ。まだ理想と現実の違いを認めたくなかった若さがあった
にせよ、自分の理想と現実の間に違和感を感じていた。
働いて酒飲んで割り切って笑えるには精神年齢が低かったのかも
知れないが、行動の焦点を改めなければと漠然と感じていた。
今しか無い時間の中で懸命に自分を見つけ出そうともがいていた。
惰性で生きて行く事には興味無かったし、危険な仕事をしていると言った
誇りが強くなればなるほどに社会に適合出来ない自分を恨んだ。
その頃まだ22〜23才ぐらいだったが歩いているとやたら占い師に声を
かけられた。ある占い師は「あなた凄い気が出てるわね。お金要らないから
占わせて」と言って占星術で占ってくれた。
「あなたはヒットラーと同じ星ね。ヒットラーと物凄く近い運命を持ってるわよ。
良い事ならいいけど悪い事をしたら人は大きく貴方を見る様になるから
注意して」と言われ、また違う占い師は私の顔を見るなりげっそりとした顔で
「あんた凄すぎるわよ。今のままなら24才で死ぬわよ。もしも運勢が変わって
死ななかったら徐々に貴方の通った道には花が咲いて皆がついてくる
でしょうね」と言われた。
もとより私はこの手の占いに興味が無かったが、占い師達の言葉で日々の
苛立ちが凄い気となっている自分を知った。

そんなある日、新田が私に話を持ちかけた。その頃新田は運送屋で
運転手をしていたのだが仕事で精密機械の一部を明日の朝迄に横浜の
工場に届けると言う条件付きの仕事を受けたのだ。
だから私は交代用の運転手を引き受けてやった。奇しくも24才の誕生日
の前で、夕方に広島を出発して夜8時ぐらいから近畿地方は暴風雨となり
150キロ以上で直進する事はとても危険な状況だった。
台風の進行方向に沿って台風を追いかけて行くのだから暴風圏を
追い越したりその中で走ったりする訳だ。
私は出発する前に占い師に言われた事を新田に伝えた。
すると彼は「あんた占いを信じるんか?もし占い通りにこの台風で死ぬんなら
ワシも一緒に死んでやるよ」と大見得を切って言いやがった。
「じゃあ横浜に向けて出発するか」と台風を追いかけた。
言葉に表さなくてもお互い運転中に嫌な予感と闘っていたのは事実だ。
横浜に着いて山下公園の横に車を停めてコンビニで購入したパンと
スポーツ新聞を手に暫しの休憩を取った。ラジオを聴いているとどうやら静岡
辺りから高速道路の一部が封鎖されている様だった。
「こりゃあ途中で下を走って帰らんといけんのお」
「明日も朝からきつい一日になりそうじゃのお」「まあええ、交代しながら
運転して帰ろうや」
この一件があってから私の体は占い師の言った呪縛から解けた。
そしてもっと大事な事を知った。目的地に向かって道を進む事とそれに伴う
心構えなり判断の仕方だ。道が閉ざされていたら違う手段でも目的地に
向かう努力が必要だし、危険と隣り合わせでも自分の進む方向だけは
睨んでないと自分の意思に反した方向に流されてしまう。
米軍の隊員の格言に「雨が降れば傘を捨てて歩け」と言う言葉がある。
それは隊員の士気を高めると同時に視界が悪いからこそ自分の目で
目的地を確認する事を怠るなとの意味を持つ。
私はその後米国に渡ったがこの意識は ROAD MOVIE さながらの
米国生活で役に立った。常に状況を確認する意識を持つ事で何を必要と
するのかを知らなければいけない。それを必要としない人はとても安全な
ところに身を置いている証拠だ。以前米国での買い取り話を掲載したが
PASADENA では地元のPUNK ROCK GROUP に監禁された事もあるし
ATLANTA ではここで紹介出来ない危険な目にあった。
TEXAS や FLORIDA で刃物を突き付けられた事や CHICAGO や NEW YORK
での発砲騒ぎ等、挙げれば切りが無い程の体験が現在の自分を形成
させている。この横浜往復の件があってから自分の中のギラギラしていた
ものを隠せる事が出来るようになった。

4秒。これは私が22才の時に500ml の缶ビールを飲み干した最短記録だ。
恐らく正確には4秒台だったと思うがこの記録は友人の米兵達も抜け
なかった偉大な記録だ。その後、調子に乗って次々と挑戦者の相手を
していたら先輩が「今度は日本酒で勝負じゃあ」と言って来たので
逃げ出してみんなでサウナに行った。今度はサウナ風呂で腕相撲大会が
始まりそのサウナ風呂は大騒ぎになってしまった。
しかしこれらの馬鹿げた余興の記録はその場に立ち会った目撃者だけが
知っている記録で何も残る物では無い。
一部の人達は知ってると思うが私は若い時から沢山の心霊体験や UFO を
目撃してきた。その全ては必ず誰かと一緒に見ている。
私が最初に目撃して、そして周りにいる誰かに教えるといった具合にだ。
これらの目撃は不思議と事前に私は解るのだ。
「おい、今日は UFO が表れるから一緒にドライブしよう」
「今日は誰か死ぬで、誰か知ってる奴が」
と言った具合に誰かに前以て告げる。若しくは交通渋滞に巻き込まれて
いる最中に UFO を発見し周りにいる人達に「UFO じゃあ!」
「何っ!ああ、ほんまじゃあ!」と大騒ぎを起こす。
過去7回の UFO 目撃で翌日の朝刊に掲載された件が4回ある。
それ以外は全て一緒に目撃した人しか解らない記録だ。
私は相棒の新田と CANADA に滞在していた夜に「あっ誰か死んだ。
ワシらの知ってる誰かが死んだ」と新田に告げた。
新田は昔から私が霊感の強い事を知ってるから驚きはしなかった。
「何で解るんや?」と言うので「突然胸を締め付ける様に強い悲しみが
訪れるんじゃ、それと同時に過去の事が突然走馬灯の様に浮かび
上がるんじゃ」と答えた。

その後帰国して後輩から私の解体屋時代の友人が交通事故で死んだ
事を聞かされ凄く辛い気持ちになった。もし彼が生死の境で私の事を
思い出してくれていたのかと思うと過去に彼と過ごした時間がとても貴重な
ものに思えて悔いが残った。それはもっと大事な時間を過ごせたのか
どうかだった。しかしその時間は記録に残されない、記憶にのみ残された
過去だ。だから私は記憶が失われないように体験した事を文字として
残す事によって記録を保存するようにした。
そうする事で改めて自分の脳裏に強く記憶は残るしいつでも自分を振り返る
事が出来る。だから私には目の前に存在する RECORD の数々が
MUSICIAN の残した日記の様に思えてならない。
1967年の誰かの日記であったり1976年の誰かの独り言であったりだ。
だから私は自分の生まれた年を前後に残された記録から自分を
知ろうとした。それを確認しながら RECORD DEALER として自分自身の
成り立ちを考証している。

思えば過去多くの事で挫折し、苦悩し、もがき苦しんできた。
そしてそれを見守るようにいつも音楽がそばにあった。
そしてそれらの音楽を残してきた人もまた、我々リスナーに何かを
伝えようともがき苦しんできたのを知った。
友人 ALZO の死に際し私は多くを知ったのだ。
それは CREATIVE とかカッコイイとかの次元ではなく、結果として本意を
伝えたのかだと思う。

   
深い森へと続く
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