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Original Intellectual Record Shop COOL HAND are go!
COOL HAND

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第731269400017号
(広島公安委員会)

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Club60's
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Vol. 23
01 Bobby Pedrick - Summer Nights
02 Steve Sperry - Our Summer Love
03 The Traits - Summertime Love
04 Ronnie Dawson - Summer's Comin'
05 Ron Fraiser - Summer Skies
06 Billy Bryan - All Summer Long
07 Joe Jones - California Sun
08 Eddie Rambeau - Summertime Guy
09 Davey Summers - Calling All Cars
10 Joe Mondo & His Combo - Last Summer Love
11 The Chateaus - Summer's Here (School Is Through)
12 The Happy Tones - Summertime Nights
13 Jerry Norell And The Beach Girls - What Is Surfin' All About
14 Neil Scott - One Piece Bathing Suit
15 Dave Hill - The Only Boy On The Beach
16 The Dynamics - Coast To Coast

17 The Sonics - Summer Job
18 Johnny Cymbal - Summertime's Here At Last
19 Danny Day - This Time Last Summer
20 The Kleen-Kuts - (You're My) Summer Love
21 The Happenings - Girls On The Go
22 Ray Chafin - Summer Wind
23 Terry Black - Wishing Star
24 Johnny Rivers - Summer Rain
25 Eddie Jason - Stay And Love Me All Summer
26 Brian Hyland - Stay And Love Me All Summer
27 Joey Welz - Rhapsody For A Summer Night
(I Will Sing A Rhapsody)

Vol.23
More Teen, Teener, Vacal section
Other stuff with beach pop, summer pop etc

 

Bobby Pedrick
23-01
Bobby Pedrick - Summer Nights
(7: Bigtop 45-3024) 1959
先ずはレーベルヴァリエイションの説明。
初版にはレーベルロゴに Reg. U.S. Pat. Off. (米国特許登録) の
クレジットが無い。

当時13歳の天才少年 Bobby Pedrick によるサマーソングの名曲で
この曲は Aldon Music の名ソングライターコンビである
Doc Pomus-Mort Shuman が書いた。因みにこの曲は1964年に
Kids pop の The Quinto Sisters がカヴァーしており
そちらは 11-38 を参照。

美しいハイトーンヴォーカルを持つ Bobby Pedrick はその後も
活躍を続け、長いキャリアを持った歌手である。
本名は Robert Pedrick Jr で彼は New Yorkの Brooklynで
生まれた。Bobby Pedrick, Jr という名義で彼が初めて
ポップチャートに登場したのは1958年、まだ12歳のときだった。
曲は Doc Pomus and Mort Shuman が書いた "White Bucks
and Saddle Shoes" で全米74位のヒットとなった。
Bobby & The Consoles のリード・シンガーとして、彼は1963年
Diamond Records から "My Jelly Bean" というタイトルの
マイナー・ヒットを出した。1965年までに彼は MGM Records と
2枚の不運なシングル契約を結んだ。
1967年、彼は名前を Robert John に変更し、Columbia Records
と契約し、執筆パートナーの Mike Gately の協力を得て一連の
シングルをリリースした。1970年から1971年まで Herb Alpert の
A&Mに短期間在籍した後、1971年に The Tokens の 1961年の
ヒット曲の "The Lion Sleeps Tonight" カヴァーヴァージョンを
リリースし、1972年にBillboard Hot 100にランクインし、
チャート3位まで上昇し、100万枚以上を売り上げた上に
レコード協会よりゴールドディスクを受賞した。
その後彼は "I Can't Move No Mountains" という曲も書いて
Blood, Sweat and Tearsが彼らの1972年のアルバム New Blood
のために録音した。

 

Steve Sperry
23-02
Steve Sperry - Our Summer Love
(7: Cuca Records J-1008) 1960
Wisconsin 州 Atkinson 出身のシンガーソングライターの
Steve Sperry は Ram Productions のアーティストマネジメントと
Rampro レーベルを始める前に本件シングル
That Ain't So / Our Summer Love (Cuca J-1008) をリリースした。
素晴らしいサマーバラードの隠れた傑作である。

彼は Wisconsin 州のいくつかのバンドで演奏し Cuca でリリースし
Chicago 地区のジングルライターやプロデュース作業も行った。
その後彼は 1977年にリリースした “Flame” (Mercury 73905) で
Billboard Chart 91位を記録しワンヒットワンダーにもなっている。

 

The Traits
23-03
The Traits - Summertime Love
(7: TNT TNT-181) 1960
(LP: TNT TLP-101) 1965
Original issue has 12 songs, "Treat Her Right" is missing.
(LP: TNT TLP-101 Mono) 1966 Reissue.

Texas 州 Three Rivers 出身の Roy Head を中心に結成された。
彼らは1958年に TNT レーベルと契約し、初期はロカビリー、
ロックンロールなどを録音した。

Vocals by Roy Head.
Guitar by George Frazier, Tommy Bolton.
Bass by Bill Pennington.
Drums by Jerry Gibson.
Keyboards by Dan Buie.

彼らは1958年に Texas 州 San Antonio の TNT レーベルと契約、
本件は1960年にシングルリリースされた素晴らしい
サマーソングでグループメンバー達によるオリジナル曲だ。

その後彼らは1963年には Jimmy McGriff の出版社が関与した
同じく San Antonio の Renner レーベルからシングル2枚をリリース、
翌年には California 州 Hollywood のレーベルで、登録されたのは
殆どが Texas 州 Houston 地区のミュージシャンだった
Suave Records からシングル1枚をリリースした。恐らくこの時期に
彼らは同地に移ったと思われ、1965年に Texas 州 Houston の
Back Beat と契約し、Roy Head & The Traits 名義でリリースした
”Treat Her Right” (Back Beat 546) が1965年に全米2位の大ヒットとなった。
Back Beat はソングライター兼プロデューサーでビジネスマンの
Don Robey が運営する Peacock Records, Inc. 傘下のレーベルだ。

彼らが最初に契約した TNT レーベルはTNT 火薬 (トリニトロトルエン
Trinitrotoluene、略称TNT)を模した爆発ロゴで、この TNT レーベルは
オーナーの Bob Tanner の "Tanner 'N' Texas" と掛け合わせた
ダブルミーニングである。TNT レーベルは1954年に蓄音機のSP盤で
スタートし、1963年にリリースを終えたような状況だったが、
Roy Head & The Traits の ”Treat Her Right” が全米2位の大ヒットに
なるや、便乗商法で彼らの過去音源で1965年にアルバムリリースをした。
本件 “Summertime Love” はそのアルバムにも収録されているが
アルバムヴァージョンはアレンジの異なるギターが入っており、
TNT がアルバムリリースさせた時には彼らは他のレーベルに移籍して
いたので、恐らく権利関係のトラブルを危惧して TNT が異なる
ヴァージョンを収録したと思われる。

TNT でのアルバムのオリジナル盤と最初のリイシューには
12 曲が収録されており、当然ながら彼らの代表曲となった
"Treat Her Right" は Back Beat レーベルでリリースされたので
そのアルバムには収録されていなかったが、Scepterが Back Beat での
Roy Head & The Traits の版権を入手し、Scepter がアルバムを
1966年に再リリースした際には "Treat Her Right" が収録された。
その再発アルバムの裏表紙と Side A と Side B のラベルに
"Nationally Distributed By Scepter Records" とクレジットされている。
さらに裏表紙には、"Printing & Mfg. by: Tanner 'N' Texas, Inc.
1422 W. Poplar Street San Antonio, Texas." と記載されている。

同時期1965年に彼らがリリースした “Just A Little Bit” (Scepter 12116)
は全米39位のスマッシュヒットとなり、1966年までは Back Beat
からのリリースと Scepter からのリリースでスマッシュヒットを繰り返す。
Roy Head はソウルフルなシャウトを得意とする Blue Eyed Soul Singer
で、彼は柔軟な体を活かした派手なダンス・パフォーマンスでも
人気を博した。

 

Ronnie Dawson
23-04
Ronnie Dawson - Summer's Comin'
(7: Swan S-4054-S) 1960
Frank Slay-Bob Crewe 作による Teener summer pop の隠れた逸品。
しかし当時全米を揺るがした大事件によってこの名曲も大きな被害を
受けている。ここに1959年から1960年にかけての名曲群が埋没してしまう
原因が隠されているので、深堀りしてその項を記述する。
因みに Kirby St. Romain の1963年の全米49位のヒット曲
“Summer's Comin'" は同名異曲である。

Texas 州 Dallas 出身の Rockabilly / Rock & Roll singer の
Ronnie Dawson は1956年に最初のバンド Ronnie Dee & The D-Men
を結成した。Dallas の The Big D Jamboree radio show に定期的に
出演し、グループの最初のレコードはカントリーシンガーの
Jack Rhodes が書いた曲 “Action Packed” で、その曲は
Johnny Dollar によって録音され1958年後半に Back Beat
レーベルからリリースされていた曲のカヴァーだった。

Ronnie Dawson の歌声は彼の実際の年齢よりも数歳若かったような
印象を与えた。彼は Gene Vincent と共に全国ツアーを行っていた
にもかかわらず、テレビに出演しても、このレコードはローカルで
プレイされるだけだった。彼の2枚目のレコード "Rockin' Bones"
には Ronnie Dawson のニックネームである The Blond Bomber が
クレジットされ1959年にリリースされたが再びチャート化に失敗した。

その後、彼は老舗のウエスタン・スウィング・グループだった
The Light Crust Doughboys と共演し1957年から1960年の間の
一時期シングルを1枚リリースした。そのシングルはグループと
ハーモニカ奏者で後にグラミー賞を受賞するシンガーソングライター
の Delbert McClinton とのシングルだったのだが、
この曲は Ronnie Dawson がソロ歌手として契約する前に
Johnny & The Jillsとしてクレジットされていた。
Johnny & The Jills - Pauline / Poor Little Johnny Smith
(Do-Boy Records 003/004)

有名ラジオDJ, テレビ番組ホスト Dick Clark の Swan レーベルで
Dick Clark は Ronnie Dawson をティーンアイドルとしてパッケージ化
しようとした。そしてペイオラスキャンダルが勃発する直前に、
彼は Dick Clark の人気テレビ番組 American Bandstand に出演した。

ペイオラスキャンダル Payola scandal : Payolaとは、支払いを意味する
Pay とレコードプレイヤーの代名詞であった Victrola の合成語で、
レコード会社がDJに働きかけて特定のレコードを流してもらう見返りに
DJにリベートを支払うことをさす言葉である。DJは雇用的に不安定な
職業で賃金も低かったため、生活の大半をこのペイオラに頼っていた。
また1950年代当時はペイオラを違法とする法律も存在しなかったため
そのやりとりは業界内で慣例化し、謝礼行為として認知されていた。
しかし1958年、米国作曲家作詞家出版者協会(ASCAP)はペイオラを
放送倫理の腐敗と激しく非難し、下院議会に意見を諮っていた。
議会はこの意見を聴き入れ、ペイオラを商業上の賄賂とみなし、
違法とする法律を制定した。これにより、1959年から1960年にかけて
ペイオラに関わったDJをはじめとする音楽関係者の多くが、容赦なく
業界から追放された。1950年代アメリカで最も長くDJ兼テレビ司会者
を務めた Dick Clark は Philadelphia を本拠地にする Swan や
その他の小規模レコード会社に投資していたが、レコード会社や
ラジオ局に関わるペイオラ疑惑に続く議会の捜査を受け、
Swan レーベルを手放した。

同時期に人気を博したラジオDJの Alan Freed は1959年11月に
所属のWABC局から「過去いかなるレコード会社からも金品を
もらっていない」という宣誓書に署名を求められたが、これを断ったため
WABC局は Alan Freed を解雇した。その後 Alan Freed は1960年5月
に商業贈収賄(Commercial bribery)の罪で告発され、その結果1962年
に罰金300ドルと6ヶ月の謹慎処分の実刑判決を受けた。
WABCから解雇された Alan Freed は New York を離れ、California 州
Los Angeles のKDAY局、Florida 州 Miami のWQAM局などを渡り歩いた。
しかし、かつてのように自由なスタイルで仕事を任されることはなく、
いずれも長続きしなかった。次第に彼は自暴自棄に陥り、アルコールに
依存する日々が続いた。また、罰金のために多額の負債を抱えたことで
自宅を差し押さえられ、生活すらままならなくなった。
1965年1月、Alan Freed は肝硬変と尿毒症を患い43歳で死去した。

Ronnie Dawson の本件 “Summer's Comin'“ (Swan S-4054-S)
は Pittsburgh ではある程度の人気を博したが上記のペイオラ
スキャンダル上での魔女狩り裁判を恐れ Ronnie Dawson は後に
このレコードの疑惑を否認した。ペイオラスキャンダルはミュージシャン
のそれまでの立ち居地をも揺るがす大事件だったのだ。

Ronnie Dawson は Texas に戻り、セッションギタリストやドラマー
として活動した。そして Bruce Channel の "Hey! Baby" や
Paul and Paula の "Hey Paula" など Major Bill Smith 作品の録音に
参加した。彼はまた Commonwealth Jones 名義でシングルを
リリースした。そして1960年代半ば、彼はフォークミュージックを
ベースとしたヴォーカルグループ The Levee Singers に参加した。
彼らは1960年代に Ronnie Dawson をフィーチャーした3枚のアルバム
をリリースし、いくつかの全米ネットワークテレビ番組に出演した。
Ronnie Dawson は1960年代の終わりにグループを脱退し、
カントリーロックバンド Steel Rail を結成した。
彼は1970年代を通じて Texas のクラブでパフォーマンス
を行って、その地域のラジオ局でさまざまな製品のジングルや
コマーシャルも録音した。

 
23-05
Ron Fraiser - Summer Skies
(7: Vin 1026) 1960
恐らく Mississippi 出身と思われ、良質なティーン系ポップシングルを
数枚リリースしているが詳細は謎のまま。

 
23-06
Billy Bryan - All Summer Long
(7: Everest 19420) 1961
Billy Bryan 唯一のリリースで、女性コーラスをバックに
素晴らしい Teener summer pop を聴かせる。
作者は A. Baron-B. Ross (Addy Baron-Bernice Ross) とクレジット
されているが、彼らは Siv Malmquist の1961年のワールドヒット
"Danke Fur Die Blumen" (Wedding Cake) や1962年の
James Darren "Dream Big" (Colpix Records CP 630)
の作者としても知られる。

 

Joe Jones
23-07
Joe Jones - California Sun
(7: Roulette R-4344) 1961
先ずはラベル説明を。オレンジラベルは1963年のリイシュー。
同様に1963年に Roulette Golden Goodies Hits Series として
4種類のラベルクレジットのマイナーチェインジをしながら
リリースされる。

本件は1964年に The Rivieras がカヴァーして全米5位の大ヒットと
なった名曲 “California Sun” のオリジナルファーストヴァージョンで
1961年の3月に全米89位のスマッシュヒットを記録した。
1926年8月12日に Louisiana 州 New Orleans で生まれた
彼は1960年のヒット曲 “You Talk Too Much” で最もよく知られている。
Joel Scott (Philles Records 101) は彼の変名リリースだ。
Joe Jones は50年代には B.B. King と作業を続け、1963年には
地元 New Orleans で The Dixie Cupsを発掘した事でも有名。
彼は1973年に Los Angeles に移り、そこで自身の音楽出版会社を
設立するまで黒人 R&B アーティストの擁護者となり、彼らの
権利回復を支援した。

 

Eddie Rambeau
23-08
Eddie Rambeau - Summertime Guy
(7: Swan S-4112) 1962
本件、才能ある若者が歌った素晴らしいサマーポップだが
ここにも1960年初頭のペイオラスキャンダルの影響が伺える。
彼は本名を Edward Cletus Flurie と言う、1943年6月30日に
Pennsylvania 州 Hazelton 生まれ、Eddie Hazelton の変名もある。
Edward Cletus Flurie は彼が書いたハイスクールミュージカルに
出演していたとき、ソングライターでミュージシャンの Bud Rehak
と出会い、Bud Rehak は彼のマネージャーになった。
Bud Rehak がピアノを弾いて、Edward はレコードホップ (高校等
のティーンエイジャー向きイヴェントで、会場でレコードをかけて
躍らせるダンスイヴェント) などで歌い、彼はその才能でDJたちに
感銘を与えた。

1961年 Pennsylvania 州 Plymouth 出身の DJ の Jim Ward が
Edward のために Philadelphia の人気レーベル Swan による
オーディションを用意してくれた。
そこで Edwardは芸名 ”Rambeau” を名乗ることに同意した。
彼はレーベルと契約し、1961年6月の卒業式の日に、新しい名前
Eddie Rambeau として最初のシングル "Skin Divin'" をリリースした。
当時18歳の Eddie Rambeau は、Swan レーベルが本拠を置く
Philadelphia に引っ越した。

翌1962年、Eddie Rambeau はさらに2枚のシングル
"My Four Leaf Clover Love" と "Summertime Guy" を録音した。
そのほんの数分前に彼は後者の曲を Dick Clark の人気テレビ番組
American Bandstand でデビューさせようとしていた DJ の Dick Biondi
から利益相反の可能性があると知らされた。
Chuck Barrisが書いた曲 "Summertime Guy" はその年の初めに、
やはり Chuck Barrisが Freddy Cannonのために "Palisades Park" を
書いていたために、両者の曲を同じ放送回で演奏すれば矛盾した
対立構造になる可能性があると指摘されたので「代わりにレコードの
B面を演奏しなければならなくなるだろう」と言われた。
1959年から1960年に勃発したペイオラスキャンダルで槍玉に
あげられた Swan レーベルは当時神経質になっていただろう。

有名ラジオDJ, テレビ番組ホスト Dick Clark の Swan レーベルだが
レコード会社がDJに働きかけて特定のレコードを流してもらう見返りに
DJにリベートを支払うペイオラを下院議会は商業上の賄賂とみなし、
違法とする法律を制定した。これにより、1959年から1960年にかけて
ペイオラに関わったDJをはじめとする音楽関係者の多くが、容赦なく
業界から追放された。1950年代アメリカで最も長くDJ兼テレビ司会者
を務めた Dick Clark は Philadelphia を本拠地にする Swan や
その他の小規模レコード会社に投資していたが、レコード会社や
ラジオ局に関わるペイオラ疑惑に続く議会の捜査を受け、
Swan レーベルを手放した。

Dick Clark の American Bandstand が放映されて以来 Chuck Barris
はABCに雇用されており、同じネットワーク上で Eddie Rambeau
の "Summertime Guy" のパフォーマンスは、Freddy Cannon との間で
全国のすべてのABC系列局、ラジオとテレビの両方から問題が
発生する可能性があった。Chuck Barrisは後にこの曲 "Summertime Guy"
をインストゥルメンタルヴァージョンとして改良し、彼のテレビ番組
The Newlywed Game (新婚ゲーム) のテーマソングとして使った。

Eddie Rambeau は Bob Crewe のお抱えシンガーソングライターとして
活躍し、1965年から1966年にかけてはソロアーティストとして
4回チャートインした。
彼の最高位チャート曲 "Concrete and Clay" は全米35位を記録した。
彼が Bob Crewe and Bud Rehak と共著した Diane Renay の "Navy Blue"
は全米6位 (アダルト・コンテンポラリー・チャートで1位) を記録し、
彼は Marcy Jo (Marcy Sockel) とのデュエット
Lover's Medley The More I See You / When I Fall in Love でも
1963年に全米132位を記録した。


Chuck Barris
 

Russ Regan (Davey Summers)
23-09
Davey Summers - Calling All Cars / Good Ship Love
(7: Vim 101) Feb 1963
(7: Zen 107) Mar 1963
(7: Warner Bros. 5363) May 1963
本件レコード業界幹部でも有名な Russ Regan の変名リリースで
自作によるサマーポップの佳曲。B面の “Good Ship Love” は
The Marketts / The Routers の仕掛け人で The Ventures の
プロデューサーとしても有名な Joe Saraceno との共作で
Harold Dorman の "Mountain Of Love" クリソツ (死語) の曲。
両面プロデュースを Sonny Bono, アレンジを Jack Nitzsche が
担当し1963年2月に先ず節税レーベル Vim 101 でリリース、
翌3月に彼自身が書いた1962年の全米25位のヒット曲
The Pastel Six "The Cinnamon Cinder" でも知られる Zen から
Zen 107 で再リリース、その版権を Warner Bros. が買い上げて
1963年5月に Warner Bros. 5363 で再々リリースさせた。

Russ Regan (本名Harold Rustigan) は UNI Recordsと
20th Century Recordsの両方の社長を歴任し、Motownでも働いた。
Russ Reganは40年連続でナンバーワンヒットを記録した
稀有な経営者である。
1961年に彼は Los Angeles のティーングループがまだ
Carl & The Passionsと呼ばれてたときデビューシングルのために
"Surfin'" という曲をレコーディングした時に The Beach Boys
の名前を提案した事でも知られる。

1961年当時 Candix Records の社員だった Joe Saraceno は以前
Tony Savonne とデュオを組み Era Records から Tony & Joe として
1958年にリリースした "The Freeze" が全米33位のヒットとなった
経歴を持つ。その後スタジオミュージシャンを使って The Routers や
The Mar-Kets でヒット曲を生み出し The Ventures のプロデューサー
として活躍をするのだが、当時はまだ Candix Records の社員
として外交を務めていた。
1961年11月中旬 Joe Saraceno はレコード配給会社の
Buckeye Record Distributors に務める Russ Regan
に曲を聴かせ「近々当社からThe Surfers という名で彼らを
デビューさせる」と告知プロモーションをしたところ
「既にその名前のグループは存在していてハワイアン音楽を
リリースしている」と言われた。Russ Regan は曲を
聴いて「サウンドは Jan & Dean に似てるな」と言った。
そして「何か良い名前はないか」と Joe Saraceno と
Russ Regan が話し合い Russ Regan は思い付くままに
次々とバンド名を挙げていった。
その中で The Lifeguards, The Beach Bums,
The Hang Tens, The Woodies と候補名が挙がっていった。
Joe Saraceno は「なんか好きになれないなあ」と答え
Russ Regan が「じゃあ The Beach Boys ってのはどうだ?」と言い
「おお、それだっ!なんでその名に気づかなかったんだろう」
と最終的に The Beach Boys と言う名前になり合意に至った。
彼らは知らなかったようだが既に The Beach Boys と言うグループも
存在しており1959年に Kapp Records からハワイアンソングを
リリースしている。1963年日本でも東芝からシングルが
リリースされた。解説は木崎義二さん。


Sonny Bono


Jack Nitzsche


Joe Saraceno
 

Joe Mondo
23-10
Joe Mondo & His Combo - Last Summer Love
(7: EPI Records 1003) 1963
Joe Mondo は Connecticut 州 Stratford 出身のシンガー
ソングライターで、本件は彼の自作の素晴らしいサマーバラード
の傑作。タイプ的には Mike Donato with The Tridels の
"Summertime Love" のようなサウンドと言える。
Joe Mondo は1972年に突如自主盤ヒッピーフォークアルバムを
リリース Joe Mondo - Ain't No Cows (Cow Records C-1001)
こちらもメロディアスで内容が良いのでアンダーグラウンドサイケ
コレクターにもお勧めだ。

 

Paul Leka


The Chateaus (AKA The Glenwoods)
The Glenwoods
上段左から Joe Reed, Alexander, Sheila O'Brien, Dale Frashuer,
Kathy O'SuIlivan, John Castle, Frank A. Borelli and Gary DeCarlo

下段左から Ronnie Schlrlllo, Norman Zachlod, Bill Garneau.
23-11
The Chateaus - Summer's Here (School Is Through)
(7: Coral 62364) 1963
Connecticut 州 Bridgeport 出身のヴォーカルグループで若き
Paul Leka が在籍していた。The Glenwoods (Jubilee 45-5402)
としても知られる彼らのサマーポップの逸品。
Paul Leka-Nick Dellolio による自作で、Henry Jerome が監督を
務めた。

Members are
Johnny Castle (Lead), Frank A. Borelli, Gary DeCarlo "Garret Scott",
Joe Reed, Dale Frashuer, Paul Leka (Piano).

Steam の名曲 "Na Na Hey Hey Kiss Him Goodbye" という曲は
1961年に遡る。Connecticut州 Bridgeport のティーンエイジャー
3人が曲を共作したとき彼らは "Kiss Him Goodbye" と呼びかけた。
結局この曲は録音されず、リリースされることもなかった。
3人のティーンエイジャーは Gary DeCarlo, Dale Frashuer, Paul Leka
だった。3人全員が Bridgeport 地区の高校に通っていた。
Paul Leka (Bassick 高校) 、Gary DeCarlo (Central 高校) と
Dale Frashuer (Roger Ludlowe 高校) だった。
その後すぐに、Gary DeCarlo と Dale Frashuer は The Glenwoods
として知られるグループに加わった。
そのグループの他のメンバーは Joe Reed, Johnny Castle (Castlelenetti)
そして Frank A. Borelli だった。グループ名は何度か変わり
最初に The Citations, 次に The Chateaus へ。
グループのメンバーも変わり Norman Zachlod 別名Zack Norman、
Ronnie Schlrlllo と Bill Garneau も一時的にグループの一員になった。
Paul Leka はグループに混じってピアノを弾いていた。

結成されたばかりのグループが1959年にNew Yorkに進出し、
最初のレコード That's The Way It Will Be / Elaine (Jubilee 45-5402)
を作成した。どちらもFrank A. Borelli が書いて Connie Francis の
一連のヒット曲でも有名な Stan Vincent がアレンジしたシングルは、
Jubilee Records から The Glenwoods 名義でリリースされた。
彼らの名前は Brooklyn の通り、Glenwood Avenue に由来していた。
2年後に Coral Label から彼らのセカンドシングルとして本件は
リリースされ Summers Here (School Is Through) / Honest I Will
その際 The Chateaus (シャトーズ) とクレジットされた。

Paul Leka が Dale Frashuer に作曲とプロデュースをするために
一緒に New York City に行くよう説得したとき、グループは解散した。
1962年、Norman Zachlod が Zack Norman 名義で Gary DeCarlo 作
"Hey Doll" と Norman Zachlod作 "Givin' Up Love" を録音し
シングルは Poplar Recordsより発売される。

1968年に Gary DeCarlo は Paul Leka をプロデューサーとして迎え
New York の Mercury Records で4曲をレコーディングした。
これらの曲は会社の重役たちに感銘を与え、彼らはそれらをすべてを
A面シングルとしてリリースしたいと考えていた。
B面が必要だった Paul Leka と Gary DeCarlo は彼らが高校時代に
作った古い曲 "Kiss Him Goodbye" を復活させた。
昔のバンド仲間である Dale Frashuer を参加させ、Gary DeCarlo を
リードヴォーカルにして彼ら3人は1回のレコーディングセッション
でこの曲を録音した。フルバンドを使用する代わりに Paul Leka は
エンジニアに Warren Dewey を迎えた。
Gary DeCarlo の4枚のシングルのうちの1枚からドラムトラックを
つなぎ合わせ、そして Paul Leka 自らキーボードを演奏した。
Billboard Hot 100 チャートでは当時架空のバンドによるものと
されていた。Mercury 傘下の Fontana レーベルからリリースされ
彼らが Steam と名付けたグループ名義のシングル
“Na Na Hey Hey Kiss Him Goodbye” (Fontana F-1667) は
1969年12月6日に全米1位を獲得し年末の大ヒットとなった。

 

The Happy Tones (AKA The Untouchables)
23-12
The Happy Tones - Summertime Nights
(7: Colpix Records CP 693) 1963
The Untouchables は1959年に The Valiants のメンバーが数名の
新メンバーを加えて結成された California 州 Los Angeles 出身の
Doo-wop R&B vocal group だった。
彼らはグループ名を The Untouchables に変更し、元A&Rマンの
Herb Alpert と Lou Adler の指導のもとレコーディングを開始した。
彼らは所謂セッショングループなので、若干メンバー構成を
変えた様々な名義の録音が存在する。
The Chavelles, The Alley Cats, The Del-Mars, The Electras,
The Ring-A-Dings, The Sabers, The Untouchables, The Valiants.

1960年、Chester Pipkin の弟 Gary Pipkin が Sheridan Spencer の
後任となった。
Members are
Brice Coefield, Don Trotter, Ed Wallace,
Sheridan Spencer (AKA Rip Spencer. Cousin of Brice Coefield),
Chester Pipkin (Brother of Gary Pipkin = Gary Hart),

最初に Madison Records からいくつかのリリースを出した後、
Lou Adler は彼らに Screen Gems とのスタジオセッションを確保し、
セッション中に本人達の知らないうちに録音されたトラックを
The Happy Tones 名義で数枚リリースした。
なので The Happy Tones とは The Untouchables の
Madison Records 時期のグループ構成と認識されている。
1961年3月、彼らは Liberty Records に移籍し、数枚のリリースを行い
グループ名を The Electras に変更した。

しかし彼らは The Electras のリリース前の1961年の初めに
Screen Gems に少し寄り道をしていた。Screen Gems は映画ビジネス
の補助としてレコード会社 Colpix を設立しており、彼らは最初に
レコーディングしたうちの一つだった。彼らに新しいレーベルで
セッションを提供したのは Lou Adler だった。後に A&M Records
で Herb Alpert のパートナーとなる Jerry Moss も当時そこにいた。
彼らは "Summertime Nights" というシングル曲を録音したのだが
またしても、彼らの知らないうちにグループの名前が変更されていた。
ラジオ DJ 用プロモ盤がプレスされたとき、それらは The Happy Tones と
呼ばれていた。メンバーの Rip Spencer はその曲をラジオで聞いたが、
販売用のコピーを見たことがなかった。おそらく片面ディスクとして
プレスされてラジオ局へ送られたものと思われる。
サウンドは The Jamies "Summertime, Summertime" に似た
R&B vocal group スタイルでサックスブレイクが入っている。
そして数人のDJ達がその市場性をテストした後、1963年6月に
Colpix は1961年の Screen Gems のその音源を正式にリリースした。
その際B面曲として "Papa Shame" を収録、それは昔のメンバー
Brice Coefield, Chester Pipkin, Rip Spencer, Don Trotter, Ed Wallace
で録音されていた音源だった。

 
23-13
Jerry Norell And The Beach Girls - What Is Surfin' All About
(7: Legend LEG-124) 1963
初期のシングではB面のグループ名が Morty Jay And The Surfin’ Cats
とクレジットされていた。ただし後のシングルではピクチャースリーヴ
を付けて The Surferin' Cats と訂正し、ラベルのクレジットも同様に
修正されている。B面曲 “Salt Water Taffy” は1963年11月9日に
Billboard チャートインし、最終的に93位に入るワンヒットワンダー
となった。しかし全ての Billboard や Cash Box のリストでは
Surfin’ Cats が掲載されている。
Morty Jay は New York を拠点とする音楽編曲家で
ここでオルガンを弾いているのは Morty Jay と思われる。
彼らはスタジオミュージシャンによる架空のユニットグループだった。
より正確に言えばソングライターの Mack Wolfson は本件シングル
ではドラムを担当し、後に Golden Crest Records の社長となる。
結局のところこのシングルのB面の演奏において、それほど多くの猫は
必要なかったという事だ (笑)

 

Neil Scott (Neil Bogart)


The Concords
23-14
Neil Scott - (Chantilly, Silly Sort Of Daffy As A Dilly Little
Fussy Little Frilly Little) One Piece Bathing Suit / Little Girl
(7: Herald H-581) 1963
Neil Scott こと Neil Bogart は本名を Neil Scott Bogatz と言い
1943年2月3日に New York の Brooklyn で生れた。
Neil Bogart は Peter Guber と共に後に Casablanca Records の創設者
となる人物で、彼は1960年代に歌手としてこの業界に参入し、
自分自身を Neil Scott と名乗っていた。
本件は彼が1963年にリリースしたサマーポップのダブルサイダー
であるが、1966年5月にこの音源は Wayne Roberts 名義で
プロモ盤のみが 20th Century-Fox 644 Promo で配布された。

B面の “Little Girl” は同郷 Brooklyn 出身のヴォーカルグループ
The Concords をバックに従えて歌っており、彼らは幾つかの
変名リリースがある。Mike And The Utopians (Cee-Jay Record Co.),
The Sherwoods (Dot Records 45-16540),
The Snowmen (Herald H-597)

Members are
Dickie Goldman (Lead), Mike Lewis (First tenor),
Murray Moshe (Second Tenor), Charles Presti (Baritone),
Steve Seider (Bass)

Neil Bogart はその後 Cameo Parkway Records の重役を務めて
Kama Sutra と提携し Buddah Recordsを設立した。Buddah 時代の
Neil Bogart の方向性とスタイルはマーケットに新風を巻き起こした。
彼は Super K としても知られる Jeff Katz and Jerry Kasenetzと
協力しポップソングを制作し Bubblegum music への創造的な
アプローチを形作った。それは彼が1973年に Casablanca Records
を設立して有名になる前で、後の Donna Summer などの
ディスコ作品の原型となっている。Casablanca Records に参加した
T.Rex や Kiss のようなアーティストの Glam rock style にも
Bubblegum music の影響は顕著に表れている。
Neil Bogart は1980年に Boardwalk Records, Inc. を設立し、
すぐに Joan Jett と契約した。
Neil Bogart のプロデューサーとしてのキャリアは、彼がよく表現する
言葉「空に手を伸ばすのに、なぜ山頂を目指すのですか?」で
最もよく要約されている。

1982年5月8日 Neil Bogart はリンパ腫関連の癌で亡くなった。
Kiss と Donna Summer は両方とも Neil Bogart の死後、
彼の追悼に捧げたアルバムを制作した。
彼の妻は1983年に Carole Bayer Sager と協力して、
ロサンゼルスの小児病院にてボガート小児がん研究プログラム
を設立した。

 

Dave Hill (David Hess)
23-15
Dave Hill - The Only Boy On The Beach
(7: Apogee A-106) 1964
映画俳優の David Hess は New York City 出身で
本名を David Alexander Hess と言う。
彼はもともと1957年からソングライターとして
活動しており、シンガーとしても
David Hill And His Men (RCA Victor 47-7322) 1958年
Billy The Kid (Kapp Records, Inc. K-261X) 1959年
David Dante (RCA Victor 47-7860) 1961年4月
をリリースしていた。

特に1961年の David Dante 名義の自作曲 "Speedy Gonzales"
(Buddy Kaye-David Hill-Ethel Lee) は Pat Boone が1962年に
カヴァーして全米6位の大ヒットとなり、慌てた RCA Victor は
David Dante 名義のシングルを RCA Victor 47-8056 で再発するも
ヒットはしなかった。Speedy Gonzales は Warner Bros. の
アニメキャラクターでソンブレロを被った褐色肌に重度の
メキシコ訛りの英語という、メキシコ人のステレオタイプ的な
特徴を有するネズミで「全メキシコ最速のネズミ」という異名を持つ。
短編アニメシリーズを手掛ける Looney Tunes and Merrie Melodies の
人気キャラクターで、いつも上下白い服装に赤のスカーフを巻いている。
因みに Pat Boone version でコーラスパートを歌ってる女性は
Robin Ward である。

本件はそんな David Hess が Dave Hill 名義でリリースした
シングルで、自作による美しいビーチポップを歌っている。
Cha Cha リズムを配したバラードで、若き Dave Gates が
アレンジを担当している。

David Hess はその後俳優としてのキャリアを進み、彼の長編映画
デビュー作 Wes Craven 監督の Exploitation horror film の
The Last House on the Left (1972年) の Krug Stillo 役で
国際的な注目を集めた。また彼はイタリア映画で犯罪者や強姦犯として
いくつかのハードな役を演じた Hitch-Hike (1977年) と
The House on the Edge of the Park (1980年)
Wes Craven 監督の Swamp Thing (1982年) でも助演を務めた。
エクスプロイテーション・ホラー映画とは1950年代以降に量産された
アメリカのB級映画のジャンルで、興行成績をあげるため、
センセーショナルな時事問題やタブーとされる題材をあえて
取り上げている低俗な作品群を指す。チケットの売れ行きを伸ばす
ねらいでテーマの話題性を「利用する Exploit」ためにこの呼び名が
ある。一般に物語や演技よりもポルノや暴力、薬物乱用など
主流の映画が扱わない題材を映画館で見せること自体を
売り物として、低予算で量産される。

彼はスラッシャー映画 To All a Goodnight (1980年) で監督デビューを
果たした。スラッシャー映画 (Slasher film) は、ホラー映画の
サブジャンルのうち、サイコパスの殺人鬼が集団をつけ狙い、多くの
場合は刃物で殺害する内容のものを指す。「スラッシャー」という
用語は人殺しを含むホラー映画全体を指して使用されることがあるが、
映画批評家はスラッシャー映画を、スプラッターや
サイコロジカルホラーなどとは一線を画す特徴をもつ一つの
サブジャンルであるとみなしている。

因みに私の長女は私をサイコパスと見なしてる (爆笑)




David Hess


David Gates
 

Norman Welch
23-16
The Dynamics - Coast To Coast / Summertime U.S.A.
(7: USA Records 769) 1964
Chicago 出身のバンドで彼ら唯一のリリース。
メンバーでソングライターの Norman Welch はその後も
音楽を続けており、Norman A. Norman の名で南カリフォルニアで
ギグをやっていた事が確認されている。
元気なビーチポップダンサーだが、なんとプロデュースは
The Diamonds "Little Darlin'" でも有名な David Carroll が
担当しており、Illinois 州の地元つながりとは言え、
素晴らしいキャスティングである。
グループメンバーを列記しておく
Members are
Roger Maltz, Dan Michel, Peter Logan,
Norman Welch, Kim Balstad.

Backup vocals: Nora Marsh & Debby Sabusawa (Debbie Sabusawa).
Debby Sabusawa (Debbie Sabusawa).は1975年に
Chicago の Cavda Records から Wolfman Jack との
カップリングシングルをリリースした女性である。

Wolfman Jack - Free Shots
Debbie Sabusawa - Something For Nothing
(Cavda Records 333)


David Carroll
 
23-17
The Sonics - Summer Job
(7: Byron B-101) 1964
Connecticut 州 New Haven 出身のガレージバンドが残した
彼らの唯一のリリースだが、これが素晴らしいヴォーカルグループ
マナーを持ったサマーテーマ・ビートポップの隠れた逸品。
もろちん否、もちろん Washington 州 Tacoma の同名ガレージパンク
バンドとは関係ない。

 

Johnny Cymbal
23-18
Johnny Cymbal - Summertime's Here At Last
(7: DCP International DCP 1146) 1965
今さら説明は不要のビッグ・ヒット "Mr. Bassman"(1963)
で有名な Johnny Cymbal だが、実は彼は Scotland
生まれのイギリス人である。
DCP Records は、Paul Anka などを見出したことで
有名なアレンジャーの Don Costa のプロダクション
Don Costa Production が発展したもので1964年に設立、
会社名はその頭文字を取ってDCP Records となった。
プロデュースを担当したのは、"Mr. Bassman" でも
アレンジを担当した Alan Lorber だ。彼は New York の
プロデューサー、アレンジャー、指揮者で、ポップスのみならず
Jazz やポピュラー・ミュージックの現場でも仕事もこなし、
C&W ミュージックの聖地 Nashville のレコーディング現場に
New York Style を始めて持ち込んだ人物としても知られている。
ポップス作品では、Phil Spector 初期のプロデュース曲
である Gene Pitney "Every Breath I Take" の
アレンジも有名だ。本件はサウンドとしては Johnny Cymbal
の従来からの路線で、Jungle beat (the Bo Diddley beat) を使ってるが
女性コーラスが入る典型的な Teen Pop ものである。


Alan Lorber
 

Danny Day (Hal Davis)
23-19
Danny Day - This Time Last Summer
(7: V.I.P. VIP-25019) 1965
Danny Day とは Motown のソングライター兼プロデューサー
の Hal Davis の変名だ。The Jackson 5 や Brenda Holloway の
プロデューサーとして有名な彼は Ohio 州 Cincinnati 生まれで
本名を Harold Edward Davies と言う。

本件は若き Jimmy Webb が書いた極上のサマーバラードだが
先ず1964年に Brenda Holloway がこの曲を録音し
プロデュースは Hal Davis & Marc Gordon が担当したが
お蔵入りとなり発売はされなかった。

その後、Hal Davis がこの曲を録音しプロデュースは自らが盟友と
共同で行った Davis & Gordon (Hal Davis & Marc Gordon)
それが1965年に Motown の子会社 V.I.P. から Danny Day
という名前でリリースされたのが本件シングルである。

因みに Hal Davis がプロデュースして Motown の女性歌手
Blinky (AKA Lindy Lou Adams, Sondra Williams)
もこの曲を1970年に Motown M-1168 のために録音して
1971年には SOUL S-35089Fも制作されたが、どちらも未発売
となっている。奇しくも女性歌手のヴァージョンばかり
録音されても発売に至っていない。

Jimmy Webb は Motown で他にもいくつかの素晴らしい曲を
作曲している。
1969年の Chuck Jackson "Honey Come Back" や
1971年の Eddie Kendricks "I did it all for You" が Jimmy Webb
が書いた曲である。

トランペット奏者、プロデューサー、ソングライター、
独立系ディストリビューター、レコードエグゼクティブでも
有名な Henry Stone のマネージメントを受けて Hal Davis は
10代で歌手として音楽キャリアをスタートさせた。
彼は主に小さなレーベルから一連のシングルをリリースし、
1960年に Los Angeles に移り、そこでレコーディングを続けたが、
ソングライターおよびレコードプロデューサーとしての仕事が増えた。
そこで Hal Davis は若き歌手 Brenda Holloway を発見し、
そして1960年代初頭には地元の小さなレーベルで彼女との
デュエット曲を録音した。
1962年頃、彼は Berry Gordy に会って自らを売り込んだ。
Berry Gordy は Hal Davis を Motown の最初の Los Angeles 事業
の責任者に任命して、Motown の West Coast 部門となる
MoWestレーベルをオープンさせた。
Hal Davis は盟友 Marc Gordon と協力して、Los Angeles の
ミュージシャン達と Motown sound を融合させる事で
Brenda Holloway と彼女の妹の Patrice Holloway のレコードで
成功を収めた。


Marc Gordon, Marvin Gaye, Hal Davis


Jimmy Webb
 
23-20
The Kleen-Kuts - (You're My) Summer Love
(7: Vitality Records 701) 1966
Alabama 州 Pollard 出身のガレージバンドで
Johnny White & The Kleen-Kuts としても知られる。
Florida 州の Seven Ways Productions がプロデュースを担当し、
Nashville の RCA studios で録音され、Sound Of Nashville が
プレスをした完全な南部産シングル。

50's スタイルのサウンドで聴かせる素晴らしい Teener summer pop だが
ベトナム戦争激化の裏で、南部の時代錯誤か、はたまた意図的な
マインドトリップの勧めか。
すでにのどかで平和な時代じゃなくなっていた1966年に
このサウンドでリリースしたのは、ある意味で凄い。

 

The Happenings
23-21
The Happenings - Girls On The Go
(7: B.T. Puppy Records 45-517) 1966
New Jersey 州 Paterson 出身のヴォーカルカルテット。
The Four Graduates, The Honor Society 名義のリリースでも
知られる名グループだ。
本件は素晴らしいサマーバラードだが、元々は彼らが Rust レーベル
のために The Four Graduates 名義で録音していた。
作曲は B.T. Puppy Records のスタッフライターでサイケアルバム
Extemporaneous (B.T. Puppy Records BTPS-1015) でも有名な
Brute Force (Stephen Friedland) で、エンジニアーは50年代から
Atlantic の Chris Connor, MJQ ら一連の名盤ジャズアルバムを
手掛けた Johnny Cue が担当してる。
もろちん否、もちろん Big Time Productions (The Tokens) の
プロデュースなので、悪いはずが無かろうといった
名グループが美しい曲を歌った名盤だ。

 

Ray Chafin
23-22
Ray Chafin - Summer Wind
(7: Tower 238 Promo only) 1966
Tennessee 州 Memphis 出身のシンガーソングライターで
彼を代表する超有名曲だが、実はプロモ盤のみが配布されただけで
発売には至っていない。
彼は本名を Raymond Lee Jr. Chafin と言い、現在では旧友の
Jimmy Griffin - The Archive Series を手掛けた Wraysong Records の
オーナーである。

 

Terry Black
23-23
Terry Black - Wishing Star / Kick Me Charlie
(7: Canada Arc Records A1173) 1967
カナダのアイドル引き抜き合戦の裏話を一つ紹介。
Tommy Roe - It's Now Winter's Day (ABC Records ABCS 594)
1967年2月にリリースされたこのアルバムは Curt Boettcher
が所属していた Our Productions が制作を引き受けた。
Our Productions の設立者である Steve Clark は Vee-Jay Records
と ABC Records の A&R エグゼクティブで、Vee-Jay の西海岸部門
の子会社 Tollie Records のヘッドマネージャーだった男だ。
Steve Clark は作曲家として Curt Boettcher, Tandyn Almer そして
Tommy Roe と雇用契約をした。この作家の面子を見れば解るように
Flower movement に参入する意思がはっきりと表われた
プロダクション会社だった。1966年3月8日にリリースされた
The Association の "Along Comes Mary" (Valiant V-741)
Tandyn Almer 作、プロデュース Curt Boettcher が1966年6年4日
をピークに全米7位の大ヒットとなり、続く The Association の
"Cherish" (Valiant V-747) The Association の設立メンバー
Terry Kirkman 作、プロデュース Curt Boettcher が同年8月27日
をピークに堂々の全米1位のメガヒットを記録した。時代はまさに
永遠の夏よろしく Flower movement の絶頂期を迎え、
Our Productions と Curt Boettcher の制作する作品は大々的に
注目される事になる。当然子飼いのスタッフライターでもある
Tommy Roe のアルバム制作も Our Productions が担当し、
Curt Boettcher が得意としていた Gary Paxton Studios でユニット
グループでの録音 Something Young や The Ballroom 等に
集まってた若くクリエイティヴなミュージシャン仲間達も
Our Productions の制作する作品にスポット参加することになる。

まあヒッピー文化の一つである Flower movement の頃だから
ミュージシャンもヒッピー同様に束縛を嫌い自由気ままな生活を
謳歌していたので「自分が参加した録音がどこでどんな形で
リリースされたなんて知ったこっちゃねえよ」といったのが
当時の実情だった。そんな時代の寵児(じだいのちょうじ:
その時代の風潮に合った才能を発揮して成功し、人々に
もてはやされる人) となった Our Productions がカナダの
アイドルシンガー Terry Black の作品に着手していた。
実は Terry Black は既にアメリカ進出を果たしており、
アメリカでは成功しなかったが、プロデューサーでビジネスマンの
Lou Adler が彼の Dunhill Production を設立するために
当時カナダのティーンアイドルシンガーだった Terry Black の
本格的なアメリカ進出のサポートをした。

Chicago 生まれの Lou Adler は Vee-Jay Records にもコンタクト
を持っており、黒人オーナーで R&B 専門のレーベルだった
Vee-Jay Records が Four Seasons の移籍によって新たな分野を
開拓し始めていた計画を知る。Lou Adler は Terry Black を
Vee-Jay Records 傘下で西海岸部門の子会社だった Tollie Records
に招き曲を提供する。Tollie Records といえば Our Productions
設立前に Steve Clark がヘッドマネージャーをしていた会社だ。
Lou Adler は子飼いのソングライターコンビ若き日の
Phil Sloan and Steve Barri を連れて行き、彼らは Terry Black が
カナダ本国で所属していた ARC にも出向きレコーディング
サポートを行った。Terry Black のセカンドシングルで歌わせた
"Unless You Care" は Phil Sloan が16歳の時に Elvis Presley に
歌わせようとして書いた曲である。この曲の録音では Glen Campell
がギターソロを担当した。Terry Black はルックスもよく俳優志望で
あったために Lou Adler は Terry Black のアメリカ活動を仕切って
成功させようと目論んでいた。最終的に Lou Adler は1965年に
Dunhill Records を設立後に Terry Black を引き抜いたが、結局
アメリカで成功する事なく Dunhill Records との契約も切れて
カナダに戻っていった。

そんな元ティーンポップアイドルの Terry Black に
Flower movement到来で鼻高々となり鼻息荒い
Our Productions から白羽の矢が立った。
Steve Clark「どうや、Lou Adler なんかとは手を切ってウチで
やり直してみんかい」
Curt Boettcher「そのほうがええで、Steve のおやっさんも
面倒みたる言うとんじゃけえ、こっち来いや」
Tommy Roe「おう、ワシもええ曲書いてやったけえのう」
Terry Black「ほいじゃあ、おやっさん、ごいっとうさん、
よろしゅう頼みますけえ」
と、仁義なき戦い風の会話があったかどうかは解らんが、
アイドル期にアメリカ進出して失敗し、都落ちとなりカナダに
戻ってきた Terry Black が Our Productions の制作で人知れず
シングルをリリースした。当然ヒットせず話題にもならずだったが
勿体無いほど内容の良いシングルである。

A面 Sandy Salisbury 作品の良質なティーンサマーポップで、
上手に Curt Boettcher が軽やかなフラワーハーモニーを
ブレンドしてる。B面は Tommy Roe 作品で、Tommy Roe の
アルバム It's Now Winter's Day や Phantasy の延長線上にある
作風で、Curt Boettcher も本領発揮のアヴァンギャルド風な
ハーモニーで立体感を構築している。


Curt Boettcher


Sandy Salisbury


Steve Clark
 

Johnny Rivers
23-24
Johnny Rivers - Summer Rain
(7: Imperial 66267) Nov 11, 1967
(LP: Imperial LP-12372) May 1968
New York 州 New York City 出身で、本名を
John Henry Ramistella と言う。Johnny Rivers を語れば本数冊分の
文字が必要となるので、主だったストーリーは P.F. Sloan Story
を読むあるヨロシ。
http://www.coolhand-records.com/phil-sloan-story.html

雨音の効果音を配した美しいサマーソングの本件は
1967年に全米14位の大ヒットとなった。
アルバムクレジットを記述しとく
Written by Jim Hendricks.
Produced by Work (Johnny Rivers)
Strings, Horns by Marty Paich.
Engineered by Armin Steiner.
James Burton - Guitar.
Joe Osborne - Bass, Guitar.
James Hendricks - Rhythm Guitar.
Hal Blaine - Drums, Percussion.
Larry Knectchel - Keyboards.

 

Eddie Jason
23-25
Eddie Jason - Stay And Love Me All Summer
(7: Ascot Records AS 2233 Promo only) 1967
Barbara Keith, Sam Signaoff, Fat, Joe Droukas 等のプロデューサー、
出版社経営、タレントマネージャーでも知られる Eddie Jason が
歌手デビューした彼のデビューシングルで1967年7月にプロモ盤のみが
配布された。
この曲は1969年に Brian Hyland がカヴァーしたヴァージョンも
有名なサマーポップの名曲だ。
名ソングライターコンビの Al Kasha & Joel Hirschhorn の作品で
Hutch Davie がアレンジを担当。
プロデュースは Eddie Jason が自ら行っている。


Al Kasha


Joel Hirschhorn


Hutch Davie
 

Brian Hyland
23-26
Brian Hyland - Stay And Love Me All Summer
(7: Dot Records 45-17258) 24 May 1969
(LP: Dot Records DLP 25954) Jul 1969
Brian Hyland と言えば1960年に全米1位の大ヒットとなった
" Itsy Bitsy Teenie Weenie Yellow Polkadot Bikini"
(邦題: ビキニスタイルのお嬢さん) が有名で、その曲は
彼の代名詞としても知られるティーンサマーポップの名曲である。

New York 州 Woodhaven 出身の彼は子供の頃からギターとクラリネット
を学び、教会の聖歌隊で歌っていた。
14歳のとき彼はヴォーカルグループ The Del-Fi's を共同で結成し
デモは録音されたが、レコーディング契約を獲得できなかった。
Brian Hyland は最終的に Kapp Records とソロアーティストとして契約し
デビューシングル "Rosemary" を1959年後半にリリースした。
Kapp Records はブリル・ビルディングの作曲デュオLee Pockriss と
Paul Vance のコンビを雇い、Brian Hyland と協力して次作
"Four Little Heels (The Clickety Clack Song)" を制作したが、これは
マイナー・ヒットとなり、作曲デュオは Brian Hyland と引き続き
仕事を続けた。1960年8月 Brian Hyland は16歳のとき Lee Pockriss
と Paul Vance が書いた最初で最大のヒットシングル
"Itsy Bitsy Teenie Weenie Yellow Polka Dot Bikini" をリリースした。
この曲はBillboard chart で全米1位 (英国では8位) に達し、
リリースから最初の2ヶ月でほぼ100万枚、合計200万枚以上を
売り上げた斬新な曲だった。

その後 Brian Hyland は ABC-Paramount Records に移り、
そこで作曲・制作チームの Gary Geld and Peter Udell と協力し始め
"Let Me Belong to You" や "I'll Never Stop Wanting You" など
さらなるヒットを生み出した。

この時期の彼の他の大ヒット曲は1962年の "Sealed with a Kiss" で、
アメリカとイギリスのシングルチャートで1962年に3位になった。
もう1つの1962年のヒットは "Ginny Come Lately" で、全米で21位、
英国で第5位になった。彼の1962年のトップ30ヒット曲
"Warmed-Over Kisses (Leftover Love)" はカントリー・ミュージックの
要素を取り入れ、1964年のアルバム Country Meets Folk やシングルカット
された "I May Not Live to See Tomorrow" や "I'm Afraid to Go Home"
などに続いた。このサウンドアプローチは、British Invasion のバンドに
よってもたらされた当時の流行や市場の変化とは合わなかった。
Brian Hyland の商業的成功は限定的となったが、それを引き継ぎ
プロデューサーの Snuff Garrettや J. J. Cale, Leon Russell などの
セッション・ミュージシャンらと協力し "The Joker Went Wild" や
"Run, Run, Look and See" で更なるヒットを飛ばした。

Brian Hyland は Dick Clark の American Bandstand や
The Jackie Gleason Show などの全国テレビ番組に出演し、
The Caravan of Stars のメンバーとして Dick Clark と共に海外および
アメリカ各地をツアーした。
The Caravan of Stars は1963年のケネディ大統領暗殺の日に、
その大事件が起こった Texas 州 Dallas にいた。
この出来事を追悼して Brian Hyland は "Mail Order Gun" という曲を
書き、それを録音し最終的に1970年のアルバム
Brian Hyland (UNI Records 73097) に収録してリリースした。

長くなったが、本件はそんな流れで Brian Hyland が1969年5月に
リリースしたシングルで、オリジナルヴァージョンは Eddie Jason が
1967年に Ascot Records AS 2233でプロモシングルのみ配布したもの。
この Brian Hyland のカヴァーヴァージョンは故 Buddy Holly の親友で
Texas music scene の重鎮 Ray Ruff がプロデュースを手掛けているが
彼は Brian Hyland の1962年ヒット曲 "Ginny Come Lately” を個人的に
プロデュースした縁があった。当時その曲の作詞家やプロデューサーの
Stan Applebaum らとのレコーディング・セッションに立ち会った
Ray Ruff はそれを気に入り、1967年に地元 Texas 州 Amarillo
(プロレスラー Terry Funk の地元としても知られる) から Hollywood に
移り、Dot Records が Paramount Pictures に売却された際に
そこでA&Rとして働き始めた。Ray Ruff は Brian Hyland を
Dot Records に連れて行き一緒に仕事を始め、1969 年に Brian Hyland
の曲 "Tragedy" をプロデュースするに至った。
エンジニアーは Stan Ross が担当し、録音は彼の Gold Star Studios
で行われた。

アレンジを担当した Dick Hieronymus (Richard "Dick" Hieronymus)
はベテランアレンジャーで、1950年に彼は Roy C. Knapp school
of percussion で打楽器の編曲のクラスを受講し、そこで将来の
Wrecking Crew のリーダーとなる同級生の Hal Blaine と出会った。
1967年後半 Dick Hieronymus と Joe B. Mauldin (Buddy Holly の
ベース奏者) はインスト曲 "Prophesy Of Love" を作曲し、その曲は
Snuff Garrett のイージー・リスニング・プロジェクトである
The Midnight String Quartet (Viva Records) によって録音された。
1960年代が終わりに近づいていたとき Dick Hieronymus は
社内アレンジャーとして Dot Records に雇われ、その後数年間に
わたって同社のために多くのレコードを作曲やアレンジャーを行った。
その中には本件作品や Brian Hyland の1969年ミリオンセラーアルバム
となった Tragedy ? A Million To One も含まれ、その後もさまざまな
レコード会社向けにストリングスに特化した多くのレコード
アレンジメントを行った。


Ray Ruff


Stan Ross


Gold Star Studios


Dick Hieronymus (Richard "Dick" Hieronymus)
 

Joey Welz
23-27
Joey Welz - Rhapsody For A Summer Night (I Will Sing A Rhapsody)
(Palmer P-5023 Promo) 1967
(Bat B-1004 in 1964 is first press as “I Will Sing A Rhapsody”)
メリーランド州ボルチモア出身のピアニスト、
ソングライター、プロデューサー。Joey Welz が最も有名なのは
R&R グループにブギウギスタイルの演奏を持ち込んだ事だ。
彼は50年代に彼のグループ The Jay Rockers で得意のブギウギ
ピアノをプレイしていた。彼は左手でブギウギ スタイルを
使い始めた最初のロックン ロール ピアニストの一人だった。
彼はこれを、バンドにベーシストが不在で、左手を使って
ベースラインを演奏せざるを得なかったためだと考えている。
Joey Welz は Bill Haley And His Comets に参加したときも、
アップライト・ベースからの音は当時の増幅の限界により
聞き取れないことが多かったため、重宝したと述べている。
The Jay Rockers が Bill Haley And His Comets の前座を
務めたとき、Joey Welz は Bill Haley から注目をされた。
彼はドイツのベルリンの軍隊ネットワークのレコーディング
エンジニアとして勤務しながら、AFN フランクフルトで
Bill Haley And His Comets のライブ セッションをレコーディング
し、共同プロデュースした。 彼が Bill Haley And His Comets の
レコードで演奏するのはその時が初めてで
"Shake, Rattle and Roll" ではバッキング・ボーカルを提供し、
"Honky Tonk"ではピアノを演奏した。 このセッションは数年後
Hydra Records からリリースされた。1963年に彼は軍を退役すると
The Comets の Johnny Grande の退役に伴いピアニストとして
正式に Bill Haley And His Comets に加わった。
Joey Welz が Canadian-American Records とレコード契約を結び
Steve Lawrence と共作したシングル "Hey Little Moonbeam" を
リリースしたのもこの時期だった。Joey Welz は後に
Canadian-American Records の経営に参加するが、彼は1966年
まで Bill Haley And His Comets でプレーし続けることになる。
で、前説が長くなったが本件シングルは Bill Haley And His Comets
在籍時の1964年、Joey Welz が24歳の時に地元メリーランド州
ボルチモアのローカルレーベルでリリースしたシングルの
A面曲を “I Will Sing A Rhapsody” から "Rhapsody For A Summer Night
(I Will Sing A Rhapsody)" と改題してデトロイトのレーベル Palmer
で1967年にプロモ盤のみ配布したシングルである。
両面とも Joey Welz のティーンポップ然とした歌声の自作曲で
隠れた名盤である。

 
戻る】【続く】
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