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Original Intellectual Record Shop COOL HAND are go!
COOL HAND

古物商許可番号
第731269400017号
(広島公安委員会)

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Amusement
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Gary Usher Story
   
Gary Lee Usher
1938 - 1990
 
Gary Usher Story 
VANDA 23 から。執筆:小林康樹 &竹内義彦
Written by Koki Kobayashi & Yoshi Takeuchi
Supported by Gary Usher Jr. (
Metal Blade Records Inc.)

http://www.myspace.com/sprayface
   Gary Usher,Jr. Interview
               A Son Tells Great Father's Memory
               ゲイリーアッシャージュニアが語る父の想い出
 
 世界最大のインターネット辞典 Wikipedia の編集部から当サイトで掲載している
 写真の使用許可をしてほしいと打診があり、それら幾つかのレア盤等写真の
 掲載許可を致しました。これらの写真は Wikipedia にも掲載していますので
 興味のある方はご覧下さい。また同様に当サイトに掲載しています写真に
 Wikipedia のリンクを貼っておりますので人名検索等にお役立て下さい。
 
 INTRODUCTION
 私がビーチボーイズの初期のサウンドに夢中になり始めたのは、いつのことだった
 だろう。それは随分と昔のことなのだが、まだそんなに経っていないような気も
 する。当時、私はまだアメリカに行ったことがなかったが、私がアメリカに対して
 抱いていたイメージは「豊か」とか「明るい」といったものだった。
 ビーチボーイズの音楽にはそういったものが全て詰まっていたような気がする。
 だから夢中になったのかも知れない。ビーチボーイズの次にはジャン&ディーンも
 聴くようになり、その次はサーフィン/ホットロッド サウンドにも夢中になった。
 私とゲイリーアッシャーの出会いは「SHUT DOWN」というオムニバスアルバムで、
 この中にスーパーストックスの「CHEATER SLICKS」「WIDE TRACK」
 「FOUR ON THE FLOOR」「STREET MACHINE」の4曲が収録されていて
 この4曲が凄く良かった。
 この4曲の作者のところには全て GARY USHER-ROGER CHRISTIAN とクレジット
 されていた。後に判ったことだが、このゲイリーアッシャーとはビーチボーイズの
 デビューアルバムでブライアンウィルソンと曲を書いているのと同じ人物で、
 ロジャークリスチャンもブライアンウィルソンの共作者として、その名前を見つける
 ことができた。「ビーチボーイズ以外にこんな良い曲を作るのは何者なんだろう?」
 こうして私の好奇心は一挙にゲイリーアッシャーへと注がれた。
 もっと決定的だったのは次に手に入れたアルバム「HOT ROD RALLY」
 だった。これもオムニバスアルバムだったが今度はスーパーストックスが
 6曲も入っていた。しかも全曲 USHER-CHRISTIAN の曲。ドキドキしながら
 レコードを聴いてみた。良かった、いや「SHUT DOWN」よりずっと良かった。
 
 こうして私はゲイリーアッシャーサウンドへとのめり込んでいった。
 私の心の中では USHER-CHRISTIAN のクレジットは BRIAN WILSON と同じく
 永遠のものなのだ。
 
 ANOTHER CALIFORNIA GOLD / GARY USHER STORY
 カリフォルニアが生んだ偉大なる音楽、サーフィン&ホットロッド ミュージック。
 色々なグループやプロデューサー達が活躍したが、ビーチボーイズ スタイルの
 スタジオワークスを残したプロデューサーの中でブライアンウィルソン、
 ジャンベリー、テリーメルチャー、ブルースジョンストンらと共に決して忘れては
 ならないのがゲイリーアッシャーである。ブライアンウィルソンとジャンベリーは
 グループの一員兼プロデューサーとして活躍したが、ゲイリーは違っていた。
 ゲイリーは色々なレコード会社から色々なグループ名義で次々とレコードを
 発表していったのである。
 その為にゲイリーが携わった仕事の数は膨大な量にのぼっている。
 これは各レコード会社の営利面の思惑が多分に絡んだ結果そうなったものだが
 この悪く言えば量産的という作品の殆どをゲイリーは、ある一定以上のクオリティー
 に仕上げているという点は特筆に値する。
 ゲイリーはこう語っている「あの当時一枚のアルバムは $2000 から $3000 で
 作ることが出来た。レコード会社は5000枚から10000枚のレコードを売れば
 プロフィット(採算を得る)できたんだ」 なるほど、5000枚から10000枚と言えば
 たいした数ではない。こうして各レコード会社はサーフィン&ホットロッド ミュージック
 を「儲かる音楽」として認識し次々とあらゆるレコードをリリースしていったのだった。
 ゲイリーは1967年から数年間、コロムビアレコードとプロデューサーとしての
 契約を交わしていた。
 この間に残したバーズの「YOUNGER THAN YESTERDAY」(67年)、
 「THE NOTORIOUS BYRD BROTHERS」(68年)、
 サジタリアスの「PRESENT TENSE」(67年)、
 といった作品がロック界でも比較的有名で、それぞれ評価を受けている。
 しかし、これらは全てサーフィン&ホットロッド時代以降の作品であり、
 ゲイリーをもっと正しく評価するならば、彼がスタジオワークスを身に付けた
 サーフィン&ホットロッド時代の作品に着眼しなければならない。
 思えばサーフィン&ホットロッド時代は後に有名になる人達が、その才能を
 磨いた時代だった。テリーメルチャー、スティーヴバリ、フィルスローン、、、
 数えあげたらキリがないが、そういった意味でもサーフィン&ホットロッドは
 おもしろい。ゲイリーはこの時代、スタジオミュージシャン達を使って、
 ある時は SUPER STOCKS、そしてまたある時は HONDELLS といった具合に
 グループをでっちあげ、次々とレコードを発表していったのは有名だが、
 他にも SURFARIS や KEITH GREEN、DON BRANDON といった実在の
 グループやシンガーのレコード製作にも携わっていた。
 こうした事情もあって彼がライナーノート等で紹介される時は
 必ずといってよい程「謎の人物」という代名詞が付いていた。
 
 THE EARLY YEARS
 ゲイリーアッシャーは本名を GARY LEE USHER といい、1938年12月14日
 カリフォルニア州で生まれた。その後マサチューセッツ州 WESTBOROに移り住み
 少年時代をそこで過ごしたが、この時期から家族で歌い始めた。当時の多くの
 ティーンエイジャーがそうであったように、ゲイリーのアイドルもまたエルビス
 プレスリーやバディホリー、ジーンヴィンセントを代表とするロッカーだった。
 そしてテレビやラジオのロックンロールスターや、それらのトップ10カウントダウンを
 確認しながら興奮している一人の若者だった。
 地域のラジオステーションに
 リクエストされる数によってラジオ局
 認定のトップ10も異なり、カテゴライズ
 される音楽のタイプによってチャートの
 種類が存在する事をゲイリーは
 学んでいく。ゲイリーの興味は次第に
 大きくなっていったが、その頃には
 エルビスを中心にヒットソングレコード
 を購入し続けていた。
 そしてそれらからレコード会社によって
 異なる特色がある事を知る。
 ゲイリーは一般的なレコードコレクター
 と興味を持つ部分が違う事を自覚し
 始めていたのかもしれない。
 
 ゲイリーは高校卒業後に、大学進学のために叔父の BENNY JONES を頼って
 再びカリフォルニアに戻っている。ガソリンスタンドでアルバイトをしながら
 購入した FORD SKYLINER に高校時代の友人 HARRY WILSON を同乗させ
 1957年の夏、ゲイリーは約束の地カリフォルニアに再び戻ってきた。
 叔父ベニーの家はカリフォルニア州のイングルウッドとホウソーンの境界線にあり
 これがブライアンウィルソン達の住むホウソーンとは直ぐ近くで、またゲイリーの
 祖母もホウソーンに住んでいた。特に当時からヤンチャなガキだった
 DENNIS WILSON の名はゲイリーの叔父達の耳にも届いていたが
 この時点ではゲイリーはまだウィルソンファミリーとは出会っていない。
 ゲイリーとハリーは先ずカリフォルニアのライフスタイルに驚かされた、
 また同地には沢山のラジオステーションが存在し、様々な音楽がプレイ
 されていた。1957年の秋にはゲイリーは EL CAMINO JUNIOR COLLEGE に
 籍を置き、学費や生活の為にバンクオブアメリカという銀行に勤め始めた。
 この銀行でゲイリーは RICHARD BRIAN BURNS(通称 DICK BURNS)に出会う。
 ゲイリーより後に銀行で勤め始めた
 この男はゲイリーより1つ年上で、
 CREW CUT の短髪アイヴィー風の
 出で立ちをしていた。
 お互いスタイルの異なるこの二人だが
 RICHARD BURNS も東海岸出身で
 あった為か、急速に仲良くなった。
 二人は仕事の休憩中に休憩室で
 ピンポンをしたり、時にはエルビスや
 音楽の事で討論を始めたりした。
 学生時代からギターをプレイしていた
 リチャードは休憩中にゲイリーに
 そのギタープレイを披露していた。
 学業と夜間の銀行業務の狭間で
 ゲイリーは疲れていた。学業に対して
 充分な時間を持てない中でゲイリーは
 両方の生活を維持させる事を重荷に
 感じだしていた。

     銀行員時代
 
 この過酷な状況から脱するためにゲイリーはアーミーに入隊するという、
 もう一つの選択肢を考えた。愛車を売ったゲイリーは2年間の契約でアーミーに
 入隊し MONTEREY の軍事学校で教育を受ける。
 ゲイリーは小さなトランジスターラジオを頼りにローカルステーションの
 K.D.O.N. にチューンを合わせては音楽を聴いていた。その後、アトランタ州の
 キャンプゴードンにミリタリーポリスとして配属されたゲイリーは音楽環境の
 悪い同地から、ラジオ局にリクエストを送り続けた。この時期にゲイリーは
 カントリーミュージックやブルーグラスに興味を持ち始めたという。
 まだギターコード3つしか知らなかったゲイリーだが、週末にクラブに出かけて
 初めて人前でプレイする機会を得た。1958年の夏にはヴァージニアの
 FORT MEYERS キャンプに配属され、マサチューセッツ州に残してきた
 ガールフレンドの CLAUDETTE COLEMAN に再会する。

ミリタリーポリス時代
 
1958年9月に PHIL SPECTOR
率いるロスアンジェルスの3人組
TEDDY BEARS が「TO KNOW HIM,
IS TO LOVE HIM」(DORE 503)を
リリースし、この曲は瞬く間に
全米1位を獲得した。
多くの若者同様にゲイリーもこの
名曲に大きな影響を受けた。
その後休暇を得たゲイリーは
BURBANKに住んでいるリチャード
の家に滞在し、大きなショックを
受けた。リチャードは仲間たちを
引き連れレコーディングセッション
を行っていたのだ。
既に次の配属先である朝鮮が
決まっていたゲイリーにとって
このニュースには驚かされた。
 間もなくしてゲイリーはハワイ経由の飛行機に乗り、南朝鮮や日本の基地に
 配属される。極東のキャンプに配属されたゲイリーは音楽の事で頭がいっぱい
 だった。立川の空軍基地に降りたゲイリーは、そこを経由して南朝鮮に入る。
 ゲイリーは軍隊の仲間達とバンドを結成してシンプルなハーモニーを入れたり
 したと言う。南朝鮮のキャンプで辛く退屈な時間を過ごしていたゲイリーだが
 軍用ラジオ放送を聴きながら RICHARD BURNS のバンドの事を思っていた。
 その後ギターマガジンの広告を見つけたゲイリーは本を注文し、日本製の

1959年東京近郊の Camp Drake にて

ギターを購入する。基本的な
コードだったが努力の甲斐あって
ゲイリーのギタープレイは上達
していった。こうして G.I. グループ
のギタリストとなったゲイリーは
毎週末にクラブでプレイをしていた。
またメンバーの CHRIS WREN
とデュオ GARY & CHRIS を結成し EVERLY BROTHERS や他人気
ミュージシャンの真似事をしていた
ゲイリーは歌える事の喜びを
感じていた。
この頃からゲイリーは数曲の
オリジナルソングを書き始める。
この極東での軍役を終えて
アメリカに戻るまでには30〜40曲
を書き溜めていたという。

1959年、南朝鮮でのキャンプにて
 
 1959年カリフォルニアに戻ってきたゲイリーは真っ先に RICHARD BURNS に
 会いに行った。リチャードは開口一番「俺の出した新しいレコードを聴いてくれよ」
 とゲイリーに言ってきた。驚かされたゲイリーはリチャードからそのレコードを
 渡され、落ち込んで家に帰った。呆然としながらそのレコードを聴いていた
 ゲイリーはリチャードのそのギタープレイが上手いので、またも驚かされた。
 3コードのギターだったが、それは紛れも無いロックンロールで、リチャードは
 バンドのリズムギターを担当していた。
 リチャードは BOBBY FRY AND TROUPE のメンバーとして活躍していた。
 BOBBY FRYBERG こと BOBBY FRY とリチャードは彼の奥さんの妹に紹介
 されて知り合った。ニューヨークの PLAYBACK RECORDS から彼らのシングル
 はリリースされていた HIGH WAY ROBBERY / RICHIE (PLAYBACK PB-1111)
 
 両面とも BOBBY FRY の書いたオリジナルで、BOBBY はギターの早弾きが
 上手かった。このユダヤ系移民の BOBBY FRY のバンドは BURBANK を本拠地
 にし活動を始めていた。その後彼らは LET'S SPLIT / X-2 (DORE 527)を
 リリースした。同時にリチャードは SPECIALITY RECORDS でアセテート盤を
 残しているが当時 A & R だった SONNY BONO にリリースは却下された。
 

RICHARD BURNS & BOBBY FRY
1959年2月とクレジットされた
ゲイリーのアセテート盤
「SQEEZE ME BABY」
この時点で CAPITOL RECORDS
にコンタクトを持ったのだから
ゲイリーの自信が伺える。
ティーンロッカーのミディアム
チューンで派手なギターブレイク
を導入させる等、単調なフレーズ
ながら効果的なアクセントを
使い、この作品の最終的な
アレンジはほぼ完成させている。

 
 1959年に SCARLETS の歴史的名演がリリースされる。
 SCARLETS - STAMPEDE / PARK AVENUE (PRINCE 1207)
 その後間もなくしてこの音源を DOT RECORDS が買い取り
 (DOT 45-16004)セカンドプレスをリリースした。
 この A面 STAMPEDE こそがサーフィンインストのプロトタイプとされるもので
 リードギターのトレモロとリヴァーヴ、そしてエコーを効かせたサックスをフューチャー
 している。このシングルは当時の西海岸のユースカルチャーに一石を投じた。
 1961年に DICK DALE & HIS DEL-TONES によって LET'S GO TRIPPIN'
 がリリースされるまでギターのリヴァーヴサウンドはヴァイヴレーションと
 共に徐々に成長していく。
 
 ゲイリーはその間、何する事もなくリチャードバーンズのバンドについて
 まわっていたが、結婚して所帯を持ったリチャードは以前までのようにバンドの
 練習に参加出来なくなっていた。ゲイリーはリチャードの穴埋めとはいかない
 もののバンドのメンバーとして参加し、日本製の安物ギター片手に練習を
 続けていった。ベースギタープレイヤーにまわったリチャードとリズムギター
 を担当するゲイリー、そしてジャズに詳しいドラマーの BILL VAN BUREN
 を加えてバンドは新たなフォーメーションを組んだ。念願であったバンドメンバー
 になったゲイリーだったが兵役が少し残っていた為に、間もなくして
 マサーチュセッツの FORT DEVENS に引き戻される。FORT DEVENS に
 行ってからもゲイリーはギターの練習を続けた。得意のレパートリーは増え
 ベンチャーズの WALK DON'T RUN から LINK WRAY の RUMBLE まで
 プレイ出来た。ゲイリーは小さなコンボを組んで週末にはそれらの曲をクラブで
 披露していた。ゲイリーの妹の SANDY と彼女の夫はまだ WESTBORO に
 住んでいて、週末のゲイリー達のライブにはゲイリーの身内や知人だけで
 客が集まっていた。そこで紹介された LINDA BRUSA とゲイリーは恋に
 落ちた。LINDA の両親からも支援されていたゲイリーは彼女のために幾つかの
 曲を書いていた。
 一晩$40でステージに立っていたこのバンドはクラブのオーナーと趣向が
 合わず、間もなくして解雇される。しかしゲイリーはアマチュアながらステージ
 でプレイをし初めて報酬を得た、と同時にこのシステムに着目していた。
 
 LOS ANGELES で活躍しているリチャードバーンズに対して対抗意識を
 持ち始めたゲイリーは、軍隊から貰う支給金と妹 SANDY から支援して貰った
 お金約$100を持ってゲイリーは夢を適えるべく WORCESTER に向かい
 5曲のレパートリーの中から2曲を録音しに行った。スタジオのマネージャー
 から「幾ら持ってるんだい?」と尋ねられたがゲイリーはたったの$114しか
 持っていなかった。ゲイリーのセッションは簡素なもので、ただゲイリーは持ち歌の
 レコーディングを体験したかった若者に過ぎなかった。
 金銭面でマネージャーと交渉したが、あまり思わしくない様子だった。
 「午後2時からレコーディングセッションを始めるから」とマネージャーに告げられ
 指定の時間に戻ってきたゲイリーは「BETTY MY DARLING」という曲を渡される。
 ゲイリーはこの最悪の展開が信じられなかった。ゲイリーのオリジナルソングでは
 リハーサルに時間が必要となるために$114では歌入れしか出来ないのだ。
 初めてのレコーディングでそんな悔しい思いをしたゲイリーは楽曲管理、スタジオ
 システム、レコードのカッティング他多くの事を学んでいった。しかしゲイリーは自分
 ならもっと良い曲が書けると信じていた。改めて次回のセッションに挑んだゲイリーは
 2曲のオリジナル「HONEST,FAITHFUL AND TRUE」「YOU GOTTA GIVE
 IT TO ME」を録音する。この2曲はガールフレンド LINDA BRUSA の為に
 書いていた曲で「YOU GOTTA GIVE IT TO ME」には性描写が含まれている。
 このマサーチュセッツでのレコーディング体験でゲイリーはビジネスの核心に
 触れていった。また曲作りにピアノが必要である事に気付いたゲイリーは
 軍内の友人 OTIS KENNISTON に頼んで彼の姉からベーシックなピアノレッスン
 を受けた。これはヒット曲を分析するためにも役立った。
 こうして軍役が終わり、1956年式のポンティアック ボンネヴィル コンヴァーティブル
 を手にしたゲイリーは、いよいよカリフォルニアに戻ってきた。
 早速リチャードバーンズに会ったゲイリーはレコーディングした音源を聴かせた。

リチャード(ディック)バーンズ自慢の
ダブルネックギター
当時リチャードバーンズは
BOBBY FRY のバンド
を仕切っていて、ローカルエリア
で演奏していたものの、ゲイリー
が留守にしていた間、レコードの
ニューリリースはなかった。
リチャードは銀行員を続けて
おり、ゲイリーも取り合えず
学業と銀行員に復帰した。
休憩中にリチャードが新曲
をプレイしてゲイリーに聴かせ、
ゲイリーも曲を気に入り二人は
曲を完成させた。
ディックはゲイリーを誘ってバンド
の仕事であるノースハリウッド
高校でのパーティー集会に
参加させた。
 
 そこに集まった約500人の高校生達の前でゲイリーはリズムギターを披露した。
 こうしたライブパフォーマンスを始めながらゲイリーは BOBBY FRY & THE TROUPE
 のメンバーに復帰した。その間、ゲイリーは軍役中のレコーディングで覚えた技術
 を駆使して叔父ベニーの家やリチャードの家でテープレコーダーレコーディングを
 始めた。そこでリチャードの書いた新曲にゲイリーがヴォーカルを吹込んで
 DARK WAS THE NIGHT 他数曲をテープに録音した。
 同時にゲイリーは FORT DEVENS時代に書いていたオリジナルのインストチューン
 「MOOVIN' OUT」をポータブルテープレコーダーに吹込み、それをその後ハリウッド
 の FIDELITY RECORDING STUDIOS でアセテート盤としてプレスした。
 そこでアセテートに吹込まれた曲は「MOOVIN' OUT」と「TILL ETERNITY」を
 ノンクレジットで、「BLUE BLUE DREAM」と「JUST GIVE ME ONE MORE CHANCE」
 を GARY USHER & TWISTERS 名義で、その後改めて「YOU'RE THE GIRL」と
 「JUST GIVE ME ONE MORE CHANCE」を GARY USHER 名義で残している。
 因みに「YOU'RE THE GIRL」はその後 TITAN RECORDS でのデビューシングル
 のB面で使われる。
 
 ロスアンゼルスには無数のレコードレーベルが存在し、またそれらはいつも
 曲を探し回っていた。彼らはローカルヒットを生み出し、その後その曲を
 メジャーレーベルに買い上げてもらう事をを願っているようなレーベルだった。
 ゲイリーが吹込んだアセテート盤音源に興味を持ったのは DORE RECORDS
 のオーナー LEW BEDELL だった。ハリウッドの FIDELITY スタジオに近い
 位置に事務所を構える DORE RECORDS は既に TEDDY BEARS や JAN & DEAN
 という人気グループを抱えていた。リチャードの書いた DARK WAS THE NIGHT に
 興味を持った LEW BEDELL は幾つかの質問をしてきた。
 「これはグループなのか」「グループの名前は」「誰が曲を書いた」「誰が歌ってる」
 等だ。ゲイリーは狂ったように喜んだ。早速リチャードにこの事を伝えて
 翌日二人は大騒ぎをした。LEW BEDELL から「ミーティング後にもう一度
 歌を聴いてみたい」と連絡を受けてゲイリー達は DORE からの電話を待った。
 その後ゲイリー達は日時を指定されてオーディション用のセッションを行う。
 「自由にセッションミュージシャンを使って良い」と返事を貰ったゲイリーは喜んだ。
 当時 BOBBY FRY & THE TROUPE はリチャード(ディック)バーンズをフロント
 に立てて DICK & THE INDIGOS と名乗っていたのだが、もちろんゲイリーは
 録音に彼らバンド仲間を使い、そこにリーチャードバーンズの友人で THE SHIELDS
 のメンバーだった CHARLIE WRIGHT がピアノで参加した。
 リチャードはその時に風邪をひいていた為に何度かヴォーカルに挑戦してみた
 ものの上手く出来なかった。
 そこで録音されたのはゲイリーが歌うニューヴァージョンの DARK WAS THE NIGHT
 とタイトルのないインスト曲だった。
 その後のセッションで2曲のインストを録音する。これは2曲ともゲイリーの
 オリジナルだった。初めてプロフェッショナルなレコーディングを体験したゲイリー
 は興奮していた。
 録音スタジオは AMERICAN RECORDING という小さなスタジオで、それは
 ハリウッドパラディアムの左横に在った。スタジオのオーナーは PODOLOR
 FAMILY で、DON PODOLOR が運営していた。DON PODOLOR はブッキング
 エージェントでもあり、ADMIRAL RECORDS というレーベル運営もしていた。
 因みに DON の弟は名ギタリスト
 RICHARD ALLEN PODOLOR だ。
 ゲイリーはレコーディング後にも
 DON PODOLOR からダンスパーティー
 等のブッキングをしてもらえるかもしれない
 と思った。DON はゲイリーに対して
 とても良くしてくれたが、ゲイリー達の
 録音には何のオファーも入らなかった。
 この時に録音されたインスト曲の1つは
 後に「CACTUS JUICE」とタイトルを
 つけて FOUR STAR MUSIC で
 楽曲管理され、1963年に CHAMPS
 によって録音されリリースされている。

RICHARD ALLEN PODOLOR
 (AKA RICHIE PODOLOR)
 
 その後もゲイリーは INDIGO RECORDS や DEL-FI RECORDSに掛け合ったが
 誰も興味は示さなかった。DORE RECORDS でのセッションにも参加した
 CHARLIE WRIGHT はその時 DEL-FI のプロデューサーになっていた。
 ゲイリーはチャーリーに頼み込んでもう一度セッションレコーディングの
 許可を得た。そこで録音されたのはニューヴァージョンの「GIVE ME ONE MORE
 CHANCE」と「YOU'RE THE GIRL」の2曲だった。ブッカーの DON PODOLOR
 の口ぞえで U.C.L.A. をはじめ幾つかのクラブサーキットを行っていたが
 RECORD DEAL の虜になっていたゲイリーはコンタクトを探し続けた。
 それはレコーディングアーティストとしてのステイタスに憧れていたからだ。
 新興レーベルの TITAN RECORDS は GEORGE BROWN が設立した
 レコード会社で、ファーストリリースした STRANGERS の THE CATERPILLER
 CRAWL はローカルヒットを記録した。GEORGE BROWN にコンタクトをとった
 ゲイリーはレコーディングセッションの音源を GEORGE に聴かせた。
 「ピアノでプレイできるか?」と尋ねられたゲイリーは緊張しながらも
 それを聴かせて見せた。ゲイリーの印象も良かったためか、叔父の家で
 ホームレコーディングしてきたその音源は GEORGE BROWN の心を動かした。
 新曲の DRIVEN INSANE が良い反応を得たのでゲイリーは喜んだ。
 早速ゲイリーはリチャードバーンズに伝えてレコーディングに参加させた。
 このセッションでは YOU'RE THE GIRL のサビのアレンジを変更した。
 参加したのはリチャードバーンズのリズムギター、BILL VAN BUREN のドラム、
 CHARLIE WRIGHT のピアノ、そしてゲイリーがヴォーカルとベースを担当。
 レコーディングにはハイパートをハーモニーにして歌わせる為に幾つかの女性も
 参加させた。その中には GINGER BLAKE も含まれている。
 エンジニアーは PHIL YEEND だった。
 その後 GEORGE BROWN は BEVERLY HILLS の自宅にゲイリーを呼んで
 契約を取り交わした。その際、GEORGE は彼の奥さんのステージネームである
 DOLORES NANCE を「DRIVEN INSANE」の共作者としてクレジットさせた。
 すでに JODY REYNOLDS のヒット曲「ENDRESS SLEEP」のソングライターとして
 有名だった彼女の名をクレジットする事で世間の興味を持たせようとしたのだ。
 自分の名前に自信が無かったゲイリーは不安を感じながらも、GEORGE に上手く
 説得され、それを認めた。 1961年3月、遂にゲイリーのソロシングルがリリース
 される「DRIVEN INSANE / YOU'RE THE GIRL」(TITAN 1716)
 DRIVEN INSANE はエモーショナルなロッカバラードで、BUDDY HOLLY を
 模倣した HICCUP (しゃっくりスタイル)を取り入れている。
 YOU'RE THE GIRL は当時の典型的なティーンポップでガールバッキング
 コーラスとトレモロ風のギターブレイクが効果的に使われている。
 

BOB EUBANKS
以前クラブサーキットで
知り合いになった K.R.L.A.の
ラジオディスクジョッキー
BOB EUBANKS は自身の
番組でリスクを承知で、ゲイリー
の新曲をプレイしてくれた。
当然売れはしなかったが、
ゲイリーは「いずれは音楽業界
で成功したい」という野心を
抱いていた。

 
 TITAN RECORDS のオーナーの GEORGE BROWN は同レーベル所属
 ガールシンガーの SAUNDRA GLANTZ こと GINGER BLAKE とゲイリーを
 幾つかのタレントショーに参加させた
 そのタレントショーには TEDDY BEARS の紅一点 ANNETTE KLEINBARD こと
 CAROL CONNORS もソロデビューを果して出演しており、そこでゲイリーは
 BOB EUBANK からDJ仲間の ROGER CHRISTIAN を紹介される。
 1st シングル DRIVEN INSANE はテディベアーズのヒット「TO KNOW HIM IS TO
 LOVE HIM」によく似たバラードで、片面の「YOU'RE THE GIRL」はロカルンバ
 調のポップス。いずれもこの時代に流行していたスタイルだ。当時22才だった
 ゲイリーのヴォーカルスタイルは節々を強調したピチカート唱法と呼ばれている
 もので、これも当時流行していたものだ。ゲイリーはインタヴューで
 「あの頃はテディベアーズの TO KNOW HIM IS TO LOVE HIM のような
 サウンドに凝っていた」と語っている。このレコードのバックコーラスには
 後のハニーズのメンバーとなるジンジャーブレイク(当時16歳)が参加しているが、
 彼女もこの頃ジンジャーという芸名でタイタンレーベルからシングル1枚発表してる。
 ジンジャーはゲイリーが当時乗っていた黒のポンティアックを借りては彼女の
 従姉妹の MARILYN AND DIANE のローヴェル姉妹を乗せてドライヴしていた。
 
 翌月になってゲイリーは DON PODOLOR から1本の電話を受ける。
 DON によると新しいレコーディングのオファーが入ったらしく、若いシンガーの
 PHIL TOWLE が設立したレーベル LAN-CET での話だった。その話に興味を
 持ったゲイリーは次の日に PHIL TOWLE に電話をした。そもそもこのレーベル
 はカリフォルニア知事の演説をレコードにしたりしていて、いわゆる名士の節税の
 ために設立されていたレーベルなのだが、ゲイリーはこの時点では知らされて
 いなかった。ゲイリーは PHIL TOWLE から黒幕の LANCE ASHTON という男の名
 を聴かされた。この男は業界から委託業務を請け負っていて、このレーベルで
 若いタレントをリリースしようとしていた。そんな話が DON PODOLOR 経由で
 ゲイリーの耳に入ったのだが、なんとそこには TERRY DAY こと
 TERRANCE PAUL MELCHER (DORIS DAY の最初の夫 AL JORDON との間
 に生まれたが1951年に DORIS DAY と MARTY MELCHER が再婚して
 間もなくは母方の TERRY DAY を名乗っていたが後に TERRY MELCHER となる)
 も呼ばれていたのだ。その後 TERRY DAY
 はLAN-CET 側から「もし君の家族が
 資金援助してくれたら」と言われて契約を
 していない。一方ゲイリーは契約を結び
 5月にセカンドシングルがリリースされた。
 「TOMORROW / LIES」(LAN-CET 144)
 これはアップテンポのポップスで中々
 の出来でASHTON-PARTRIDGE の曲。
 これは LANCE ASHTON と彼の妻に
 よって書かれた曲だった。

TERRY MELCHER
 ここでも BUDDY HOLLY を模倣した歌唱法や HICCUP を取り入れて
 ROCKER STYLE で歌われている。ギターブレイクも効果的に使われ
 中々の出来だ。B面はスローバラードでこの曲ではリチャードバーンズが
 ゲイリーの共作者としてクレジットされている。
 このシングルは GARY USHER AND THE HIGHBROWS 名義でリリースされた
 のだが HIGHBROWS とはリチャードバーンズの銀行仲間による寄せ集めの
 バックヴォーカルグループだ。
 
 バックの演奏はリチャードバーンズ率いる DICK & THE INDIGOS が務めた。
 LAN-CET はゲイリーをピュアなティーンポップシンガーとして売り出したかったが
 この弱小レーベルではプロモーション活動も充分ではなかった。
 PHIL TOWLE によって手書きで書かれたプロモーション用のインサートを付けて
 レコードは放送局に配布された。仕方なくゲイリーは自らが自分のレコードを
 持ってプロモーション活動を始めた。SAN BERNADINO にプロモーションツアー
 に出かけたゲイリーは300枚のレコードを持って行ったが、売れたのは20枚
 だったと言う。
 
 当時ゲイリーは GINGER BLAKE と
 付き合っていたのだが、GINGER は
 電話交換師の仕事をしていた。
 ある日、マサチューセッツの LINDA BRUSA
 から長距離電話が入ってきて、偶然それを
 オペレートした電話交換師の GINGER は
 取り次ぎ先の男性の名前を LINDA から
 聴いて驚いた。LINDA の指名したのは
 ゲイリーだった。GINGER は早速ゲイリーに
 「マサチューセッツの女性から貴方宛に
 長距離電話が入ってるわよ」とゲイリーに
 告げた。それを聴いたゲイリーは、
 この偶然を知り唖然としたという。
 実はゲイリーは LINDA BRUSA と
 遠距離恋愛を続けていたのだ。

  GINGER BLAKE
 その後ゲイリーは LINDA BRUSA のいる第2の故郷マサチューセッツ州に
 プローモーションツアーに出かける。
 高校時代の友人達や地元のローカルステーション W.O.R.C. に手厚く歓迎され
 ゲイリーのこのセカンドシングルは地元のラジオ局のトップ10ヒットとなった。
 事実 BOSTON 方面にはディストリビューターを持っていなかった LAN-CET に
 とってこのサクセスは快挙だった。しかし翌年 LAN-CET RECORDS は閉鎖した。
 
 その後 LOS ANGELS に戻ってきたゲイリーは銀行員に復帰しながらも
 DICK & THE INDIGOS のメンバーに戻った。リチャードバーンズは
 リードギターとベースをかけもっていたが、新たにサックスの LES WEISER や
 ドラムの WAYNE EDWARDS が加入していた。他のバンド THE EMERALDS
 のベースをかけもちにしていた FRANK FAYAD が参加する事もあったが
 この THE EMERALDS は後の STANDELLS のリーダーの LARRY TAMBLYN
 が結成していたバンドで、ドラムの WAYNE EDWARDS も元々 EMERALDS の
 メンバーだった。LES WEISER の奥さん KATHY はリチャードと同じ銀行に
 勤めていた関係で、リチャードとは旧知の間柄だった。
 RICHARD BURNS、WAYNE EDWARDS、FRANK FAYAD、LES WEISER の
 4人は DICK & THE INDIGOS として DON PODOLOR にブッキングしてもらい
 ダンスパーティー等でも活動していた。
 
 さて一方、1961年の11月に発表されたビーチボーイズの「SURFIN'」は徐々に
 チャートを昇っていた。ちょうどその頃にゲイリーは仕事に身が付かぬ程に
 音楽の事ばかりを考えていたのだ。ゲイリーはラジオの音楽を聴いては曲を書く
 毎日を送っており、そんなゲイリーを見て叔父のベニーは苛立っていた。
 「何をしているんだゲイリー。そんな無駄な時間を過ごすんなら今直ぐにでも
 レコードビジネスに入ればいいじゃないか」と叱咤激励をした。
 年が明けてローカルヒットとなったビーチボーイズの「SURFIN'」はゲイリーの
 聴くラジオでも頻繁に流れ出した。ゲイリーはこの曲をアマチュアのガレージ
 サウンドだけど不思議とフレッシュな感じのする曲だと思った。
 当時 SURFIN' MUSIC と言えば DICK DALE の奏でるギターが代名詞であり
 ゲイリーも DICK DALE のファンだった。ゲイリーは SURFIN' というスポーツに
 コンタクトは持っていなかったが、ビーチボーイズのサウンドからは何か特別な
 印象を持っていた。
 
 ここで簡単にビーチボーイズのデビューまでを説明しよう。
 ロサンゼルスの弱小レーベル CANDIX でデビューしたこのビーチボーイズ
 だが当初はブライアンウィルソンのアイドルだった FOUR FRESHMEN のような
 ヴォーカルスタイルでのデビューを夢見ていたが、やはりブライアンの得意
 だった HULLY GULLY を歌う程度のものだった。またブライアンらの父
 マリーは録音技師の HITE MORGAN と彼の妻 DORINDA MORGAN とは
 旧知の間柄だった。と言うのも1951年にマリーは「TWO STEP SIDE STEP」と
 言うダンスソングを書いて HITE MORGAN が設立していた GUILD MUSIC で
 管理させていた。この曲は LAWRENCE WELK のラジオ番組で使われ、1952年
 には THE BACHELORS がこの曲を録音している。またブライアンは15歳の時に
 DORINDA MORGAN の紹介で ORIGINAL SOUND RECORDS のオーディションを
 受けた事もある。ブライアンが高校時代に所属していたフットボール部の友人
 アルジャーディンは以前 BOB BARROW らと TIKIS (その後 THE ISLANDERS に
 改名)というフォークグループを結成しており THE ISLANDERS のメンバーを母体に
 ブライアンとカールウィルソンが参加し CARL AND THE PASSIONS と名乗った。
 1960年の秋にブライアンの母オウドリーはブライアンとアルジャーディンに
 HITE MORGAN に連絡するように打診し、ブライアンとアルはデビュー前から
 MORGAN STUDIO とのコンタクトを持つことになる。そしてこの高校の友人達を
 中心に結成していた CARL AND THE PASSIONS は MORGAN STUDIO の
 オーナー HITE MORGAN の息子 BRUCE MORGAN が書いた「RIO GRANDE」と
 いう曲を HITE MORGAN のスタジオで歌ってみせた事もある。これがブライアンの
 体験した初めてのセッション録音だと言われている。しかしこのプロジェクトは
 大きな進歩を見せる事なく中止されている。
 
 その後ブライアンは1961年1月に結婚したばかりの従兄弟のマイクラブに出会い、
 マイクは改めてグループの結成をブライアンに持ちかけた。
 同様にブライアンは6月にエルカミーノ大学に進学する前のアルジャーディンからも
 グループの結成を持ちかけられ、彼からはカールウィルソンとマイクラブの参加を
 提案された。8月中旬に彼らはブライアンウィルソン、デニスウィルソン、
 カールウィルソン、マイクラブ、アルジャーディンの5人でオーディションを受けた。
 彼らのオーディションにあたってスタジオオーナー兼録音技師の HITE MORGAN
 は彼らに「他のグループにはないオリジナルスタイルが必要だ」と説明した。
 HITE MORGAN は前年にスタジオを完成させており録音に興味を見せていた。
 ブライアンは既に得意とするメロディーラインは持っていたがオリジナルとなる
 テーマに悩んでいた。
 後日メンバーのデニスウィルソンは「じゃあ SURFIN' について歌ったら?」と
 当時西海岸の若者達の間で流行し始めていた SURFIN' をブライアンに提案する。
 事実このファミリーグループの中で一番ヒップな遊びに精通していたデニス
 なしではこのアイディアは生まれなかったであろう。さっそく曲作りに入った
 ブライアンはピアノの前に座り「SURFIN', SURFIN', SURFIN'」と短調なフレーズを
 口ずさんでいた。そこにマイクラブが「BA-BA-DIPPITY-DIPPITY-BA-BA」と
 バスヴォーカルを入れていきブライアンはマイクに「それを続けて」と
 言いながらコードを探していった。
 それから20秒後にはこの曲の骨格は出来上がっていた。
 
 1961年9月にイギリスからゲストが訪れた際に両親のマリーとオウドリー、
 そしてアルの母がメキシコシティーに3〜4日のヴァカンスに出かける事になった。
 父マリーは当時過食症気味だったカールに注意を促し、息子達に食料を
 購入できるだけの金を渡して旅行に出発している。
 早速彼らは楽器ストアーに出向き、その金で楽器を揃えた。
 ブライアンは既にキーボードを得意としていたが、カールに向って
 「カール、君はギターをプレイしてくれ。僕はベースを選ぶ。そうすれば僕ら
 のサウンドはロックンロールになるから」と告げた。
 アルは STAND-UP ベースを、デニスはドラムを選び、そしてマイクは
 楽器を演奏できなかったがサックスを選んでいた。彼はこの時点でサックス
 の練習などした事がなかった。カールは近所の友人 JOHN MAUS から
 当時エレキギターを教わっている。JOHN MOUS は友人 SCOTT ENGEL と
 サーフィンインストバンド MOONGOONER を結成しておりビーチボーイズ
 と同じ CANDIX RECORDS からデビューを果たす。(CANDIX 335)
 SCOTT ENGEL は後に MIKE GORDON 率いる THE ROUTERS に参加し
 JOE SARACENO のプロデュースでヒット曲「LET'S GO」(1962年11月3日
 ピーク全米19位)をリリース。その後 JOHN MOUS と SCOTT ENGEL は
 WALKER BROTHERS を結成する。また JOHN MAUS はアルジャーディンの代役
 で初期ビーチボーイズのメンバーとなる DAVID MARKS にもギターを教えていた。
 (因みに後年カールはホーソーン高校からハリウッドのプロフェッショナル養成高校
 へと転校し、そこで後の SUNRAYS のメンバー達と出会う)
 
 その間彼らは練習してマリーとオウドリーの帰宅を待ち構えていた。
 帰宅した両親を出迎えるように彼らは「これから貴方達に曲を披露しましょう」
 と伝え、バンドアンサンブルで「SURFIN'」をプレイしてみせた。
 それを見たマリーは興奮し大喜びしていた。ここでヴォーカルグループ
 のハーモニーとテーマミュージックとしてのサーフィンソングは融合の瞬間を
 迎える。SURFIN' SOUND (INST) は DICK DALE によって開花していたが
 SURFIN' SONG (後にハーモニーに代表される歌のスタイル)は完成されて
 いなかった。ブライアンウィルソンは早速ユースカルチャーシーンから歌詞を
 リサーチし、親しみやすいフックとメロディーを書いていった。
 
 後日 MELROSE AVENUE にある HITE MORGAN のオフィスに出向いた
 彼らは HITE MORGAN の前で幾つかのカヴァー曲を歌ってみせた。
 ここで歌われたのは BRUCE MORGAN のオリジナルの「RIO GRANDE」と
 トラッドソングの「SLOOP JOHN B」だった。HITE MORGAN は彼らに
 「音楽ビジネスは、製品を売ることにすべて関係している。やはりオリジナル
 ソングが必要だな」と告げた。そして長い沈黙の後にデニスが
 「僕らはオリジナルソングを作ったんだ」と告げた。
 続けてブライアンは「それは SURFIN' と言う曲なんです」と言った。
 それを知った HITE MORGAN は「じゃあ歌って聴かせてくれ」と言ったが
 ブライアンは自信なさそうに「それはオリジナルソングです。しかし、
 それはまだ完成していません」と伝えた。デニスは HITE MORGAN に
 この SURFIN' と言うスポーツを説明してみせた。「じゃあ」と言う事で
 彼らの2回目のスタジオ入りが決まりオリジナルソング「SURFIN'」
 を HITE MORGAN に聴かせた。結局この歌は連日のセッションで
 12 TAKES の録音がされている。9月15日にブライアンウィルソンとマイクラブは
 HITE MORGAN の持つ GUILD MUSIC とソングライター契約を結ぶ。
 この時のラインナップは
 BRIAN WILSON - VOCALS / PERCUSSION
 CARL WILSON - VOCALS / GUITAR
 DENNIS WILSON - VOCALS
 MIKE LOVE - VOCALS
 ALAN JARDINE - VOCALS / ACOUSTIC BASS
 ブライアンは曲を完成させたい衝動にかられ、来る日も来る日もアレンジに
 手を入れていった。当初のミックスはバランスが悪く、それを見ていたマリーまでも
 が口出しはじめた。デモの音源を完成させるにあたってブライアン、
 マイク、カール、アルが改めて MORGAN STUDIO に入り
 ようやく最終ヴァージョンを完成させている。B面にはBRUCE MORGAN の
 書いた「LUAU」を録音させた。HITE MORGAN はどちらか言えば録音には
 興味を持つものの、レコードのリリースに対して冷めた感じだった。
 彼らのセッションテープには THE PENDELTONS とクレジットされていた。
彼らは改めて当時サーファー達
が愛好していたシャツのメーカー
PENDELTON をトレードマーク
にして、PENDELTONS として
デビューしたかったのだ。
しかし HITE MORGAN は権限を
行使するかのように彼らに
THE SURFERS とひねりもない
グループ名を命名した。
そしてデモ曲を CANDIX RECORDS
の JOE SARACENO に売り込んで
リリース契約にこぎつけている
 
 当時 CANDIX RECORDS の社員だった JOE SARACENO は以前
 TONY SAVONNE とデュオを組み ERA RECORDS から TONY & JOE として
 1958年に「THE FREEZE」全米33位のヒットとなった経歴を持つ。
 その後スタジオミュージシャンを使って ROUTERS や MAR-KETS でヒット曲を
 生み出し VENTURES のプロデューサーとして活躍をするのだが、当時はまだ
 CANDIX RECORDS の社員として外交を務めていた。1961年11月中旬
 JOE SARACENO はレコード配給会社の BUCKEYE RECORD DISTRIBUTORS
 に務める RUSS REGAN に曲を聴かせ「近々当社から THE SURFERS という名で
 彼らをデビューさせる」と告知プロモーションをしたところ「既にその名前の
 グループは存在していてハワイアンミュージックをリリースしている」と言われた。
 RUSS REGAN は曲を聴いて「サウンドはJAN & DEAN に似てるな」と言った。
 そして「何か良い名前はないか」と JOE SARACENO と RUSS REGAN が
 話し合い RUSS REGAN は思い付くままに次々とバンド名を挙げていき
 THE LIFEGUARDS, THE BEACH BUMS, THE HANG TENS, THE WOODIES と
 候補名が挙がっていった。
 JOE SARACENO は「なんか好きになれないなあ」と答え
 RUSS REGAN が「じゃあ THE BEACH BOYS ってのはどうだ?」と言い
 「おお、それだっ!なんでその名に気づかなかったんだろう」
 と最終的に THE BEACH BOYS と言う名前になり合意に至った。
 彼らは知らなかったようだが既に BEACH BOYS と言うグループも存在しており
 1959年に KAPP RECORDS からハワイアンソングをリリースしている。
 当時、日本でも東芝からシングルがリリースされている。
 
   
 結局この2曲のマスターテイクは
 X 301 とラベルにクレジットされて
 極少数枚を7インチにプレスして
 プロモーション用に1961年12月に
 配布されている。その後ステレオミックス
 されたヴァージョンは HITE MORGAN
 によって保管されていた。
 録音技師の HITE MORGAN は
 デモヴァージョンをレコード化するつもり
 だったらしい。そしてそれがローカルラジオ
 にてどのようにプレイされていくのかだけ
 に興味を持っていたようだ。

    X RECORDS 301
 
 1961年12月23日に DICK DALE が RENDEZVOUS BALLROOM で行った
 ライブに参加したビーチボーイズは初のライブパフォーマンスを披露した。
 
 西海岸ティーンエイジャーのライフスタイルをキャッチーなメロディーに
 乗せて歌われたこの曲はローカルラジオステーションから火がつき
 1962年2月17日をピークに全米75位という快挙をなし、5万枚以上という
 セールスも記録した。もちろんこの結果に HITE MORGAN が驚いたのは
 言うまでもない。1st PRESS は楽曲管理として HITE MORGAN の持つ
 GUILD MUSIC がクレジットされており、その後 TITAN RECORDS の
 GEORGE BROWN が設立した ERA RECORDS SALES INC がクレジット
 されている。そして全国ヒットとなり1962年に改めて増量プレスされている。
 BEACH BOYS - SURFIN' / LUAU (CANDIX 301)1961年
 BEACH BOYS - SURFIN' / LUAU (CANDIX 331)1962年
 

GUILD MUSIC

 ERA RECORD SALES INC
 

ERA RECORD SALES INC PROMO

   CANDIX 331 / 1962
 
 その後、ゲイリーの叔父のベニーは近所に住むウィルソンファミリーの子供達が
 ビーチボーイズである事をゲイリーに教えた。そしてベニーはゲイリーに
 「おまえもウィルソン兄弟も、どこか似た者同士みたいだ」と告げた。
 昔気質で頑固者のベニーからすれば、23歳になっても音楽の事ばかり考えている
 ゲイリーも地元でヒット曲を生んだガキどものウィルソン兄弟も同じだったのだ。
 所謂、音楽の麻疹にかかったどうしようもない若者達だったのだ。
 そしてゲイリーは次の日曜日にウィルソン兄弟を訪ねていった。
 ブライアンとゲイリーが運命的な出会いをしたのは1962年の1月頃と言われている。
 ゲイリーは先ずウィルソンファミリーのボス MURRY WILSON とその妻 AUDREE
 に自己紹介をし、長男でビーチボーイズの BRIAN WILSON に会った。
 ブライアンは内省的な性格の19歳の若者だが、ユーモアのセンスもあり
 とても好感の持てる人物だった。
 先ず二人は互いの音楽の趣向を外交的に話し合ったが、ブライアンは興味深い
 事に自分が FOUR FRESHMEN のファンである事を告げた。ゲイリーは
 ブライアンが他の若者とは違う音楽的なセオリーで曲を考えている事を知った。
 ゲイリーはビーチボーイズより先にレコードデビューしていたし、このビジネスの
 難しさを身を持って体験していた。この二人の初めてのミーティングで
 ゲイリーは自分のバックグラウンドやキャリアをブライアンに教えた。
 ブライアンはゲイリーの言葉にのめり込むように聴き入り、「もっと話して
 欲しい」と言ってきた。ゲイリーは TITAN RECORDS や LAN-CET RECORDS
 で体験した多くの事柄をブライアンに教えた。
 それはレコーディングセッションでのリーダーシップの在り方も含む。
 ゲイリーはブライアンと初めて会った時の事をこう回想している。
 「私はブライアンに自分がリリースしたシングルのことを大げさに話しました。
 ブライアンは興味を持ったらしく、自分達の音楽をどう思うかと尋ねてきました。
 私は素直に『いいね、すごくいいと思う』と答えました」要するにゲイリーは
 ブライアンに自分のレコードは大ヒットしたとホラを吹いたわけだが、まだ駆け出し
 で不安症のブライアンは、この年上で自信満々で業界人特有のヒップさを持った
 ゲイリーに魅かれていった。こうして意気投合した2人はすぐ一緒に曲を書くように
 なったが、初めて2人が書いた曲は会ったその日に書かれた「LONELY SEA」
 であると言われている。ゲイリーが自分のオリジナルソングを数曲聴かせて
 ブライアンはピアノをプレイし始めた。ゲイリーはその今まで聴いた事のない
 コード進行に驚いた。そしてハーモニーが入る事を前提にしたかのような
 メロディーにも驚いた。ブライアンは先ずメロディーを書いて、そのラインを
 応用して幾つものパターンを作る。ゲイリーはそこにシンプルな海に対する
 イメージを詩にして二人は「LONELY SEA」を完成していった。気が付けば二人は
 一晩中曲作りに没頭していた。次に書かれたのは「COUNTY FAIR」で他にも
 デモだけで終わった「MY ONLY ALIBI」「TIMBER」「I'M FALLING FOR YOU」が
 二人によって作られた。
 
 その後も2人は曲を作り続けていくが、その中では後に西海岸の若者達を
 熱狂の渦に巻き込んでいく「409」も含まれている。
 因みに2人が共作した曲でビーチボーイズが後に発表したのは次の通りである。
 COUNTY FAIR
 TEN LITTLE INDIANS
 CHUG-A-LUG (ROOT BEER)
 409
 HEADS YOU WIN, TAILS I LOSE
 CUCKOO CLOCK (COO COO CLOCK)
 LONELY SEA
 IN MY ROOM
 POM POM PLAY GIRL
 WE'LL RUN AWAY
 
 ビーチボーイズの「SURFIN' / LUAU」 (CANDIX 331)はローカルで TOP 5、
 全米75位のスマッシュヒットとなった。(ピーク1962年2月17日)
 2月8日にビーチボーイズは WORLD PACIFIC STUDIOで新曲「SURFIN' SAFARI」
 「LITTLE SURFIN' GIRL」(後の SURFER GIRL)、「JUDY」
 「KARATE」(後の BEACH BOYS STOMP)をセッション録音した。
 また本録音アレンジャーの HITE MORGAN の申し出によって HITE MORGAN の
 息子 BRUCE MORGAN の書いた2曲
 「BARBIE」「WHAT IS A YOUNG GIRL MADE OF」を3月8日にデモ録音する。
 どうやら HITE MORGAN は自分の録音がマーケット上でどのようなリアクションを
 得るのかという部分に執着していたようにも見受けられる。しかし最終的に
 録音エンジニアーは CHUCK BRITZ が担当している。
 これに父親マリーが同意し、4月19日に
 UNITED WESTERN STUDIO にて
 セッション録音が行われる。
 これは KENNY AND THE CADETS 名義で
 HITE MORGAN 所有の RANDY RECORDS
 からリリースしたがヒットはしなかった。
 この録音に参加したのは
 BRIAN WILSON, CARL WILSON,
 ALAN JARDINE, バックアップヴォーカル
 で母 AUDREE WILSON とセッション
 ミュージシャンの VAL POLIUTO
 がバスヴォーカルを担当している。
 VAL POLIUTO は THE JAGUARS のメンバーとして HITE MORGAN の持つ
 他のレーベル DECK RECORDS でシングルをリリースしている。
 そしてこの時期、進学するためにアルジャーディンがバンドを一時脱退する。
 ビーチボーイズは「MR.MOTO」のヒットを飛ばしていた BELAIRS のリードギタリスト
 PAUL JOHNSON に代役を打診したが PAUL はそれを断り、結局カールの
 ギター仲間だった DAVID MARKS がビーチボーイズに参加する事になった。
 間もなくしてブライアンウィルソンはエルカミーノ大学を落第し、悪童デニスウィルソン
 はホーソーン高校を退学させられる。
 
 ゲイリーとブライアンは4月16日に改めてセッション録音を開始している。
 これはゲイリーのオリジナル曲とブライアンとの共作によるもので
 「THE BEGINNING OF THE END」「ONE WAY ROAD TO LOVE」「VISIONS」
 「MY ONLY ALIBI」が共同プロデュースされた。
 ハリウッドの WESTERN RECORDERS で録音されたこのセッションは
 エンジニアーを CHUCK BRITZ が務め、ここでゲイリーはブライアンやマリーに
 スタジオ録音が何であるかを懸命に教えた。ゲイリーはブライアンに何を
 教えようとしているのかを強調してマリーに説明した。マリーは渋々とそれを
 黙認していた。「THE BEGINING OF THE END」はゲイリーとロジャー
 クリスチャンが書いた小曲で当初はブライアンが歌って録音された。
 (その後この曲は GLEN CAMPBELL が歌ったデモヴァージョンも残されている)
 このセッションではバッキングヴォーカルと演奏をビーチボーイズが務めている。
 法的にブライアンの書く曲はいまだに HITE MORGAN が管理する契約が
 残っている為に、ビーチボーイズは新たに自分達の楽曲を管理する会社を
 設立する必要があった。(当初の曲を管理したGUILD MUSICは HITE MORGAN
 の所有する音楽出版社だ) ゲイリーはブライアンに自分達の書く曲を管理
 させる音楽出版社の必要を説明し、二人の書く楽曲の管理を DON PODOLOR
 にして貰おうと提案した。
 ブライアンはそれに同意したが、あまり乗り気ではなかった。ブライアンは
 ファミリーから離れて単独で契約が出来るほど強い人間ではなっかったのだ。
 ゲイリーはブライアンにレコードビジネスについてアドヴァイスを続けていた。

 その間マリーは自分が投資していったビーチボーイズのセッションのマスター
 音源を持って旧友の KEN NELSON にかけあった。
 KEN NELSON は CAPITOL RECORDS
 のカントリー&ウェスタン部門で働く
 A&R で、以前は GENE VINCENT を
 育てた経歴を持つ。マスターを受け取った
 KEN NELSON はマリーに「NICK VENET
 に音源を聴かした方が良い」と勧めた。
 メンバーの演奏能力には否定的だった
 ものの、ブライアンの書く曲に興味を
 示した CAPITOL RECORDS はこの
 ティーングループとの接見を要請する。
 マリーはビーチボーイズにデモで歌わせた
 アカペラの「THEIR HEARTS WERE FULL
 OF SPRING」に「これはビーチボーイズを
 知るためのサンプルだ」とメッセージを
 添えてNICK VENET に音源を手渡している。
 これは4月19日のセッションで録音した

     KEN NELSON
 
 ばかりのものだ。ここでは「409」も録音されている。
 初期のビーチボーイズにとってサーフィンと共にトレードマークになっていた
 ホットロッド。そのアイデアをビーチボーイズの音楽に持ち込んだのはゲイリーで
 あるという。当時アメリカの自動車産業は熾烈な競争に入っていた。
 その中でも CUBIC INCH WAR と呼ばれるピストンキュービックの大型化に
 関しては世間の興味の的となっていた。もちろん若者達の憧れもビッグキューブ
 のエンジンを搭載した車に乗る事だった。

CHEVY 409
 
 ゲイリーはインタビューにこう答えている「私は今まで何度もどのようにして
 ホットロッドミュージックと関わったのかという質問を受けてきました。
 そのつど私はブライアンウィルソンと 409 を書いた時のことを話してきたのです。
 当時私はシボレーの348型に乗って
 いました。私はそれよりも大きなエンジンを
 積んだ409型に憧れていました。ある日、
 ブライアンと一緒にいた時にアイデアが
 浮かんだのです。ブライアンは簡単な
 3つのコードをピアノで弾いていました。
 ひらめいた私はそのパートをブライアン
 に続けさせたのです。そして SHE'S REAL
 FINE MY 409 SHE'S REAL FINE MY 409、
 MY 409 と歌詞を付けていったのです」
 名作「409」の冒頭で聴ける車の音は、
 購入して間もないゲイリーの1959年式
 CHEVY IMPALA 348型のものだという。

ラジオ番組でのインタビューを
収録したシングルレコード
 
 ここで再びゲイリーの回想である「テープレコーダーを回して車のエンジン音を
 録音するためにアクセルを吹かし、夜中1時にその辺を3〜4回ターンさせました。
 すると一成に近所の家の明かりがつき、とうとうパトカーのサイレンの音が
 聴こえてきたので、車のライトを消して一目散に逃げたのです」
 延長コードでつないだレコーダーを持つブライアン、爆音によって叩き起こされ
 激怒する父親マリーウィルソンがそこにいた。「警察官が聴き込み調査をして
 あの夜に暴走した車を探してるよ」とデニスはその後ゲイリーに教えた。
 ビーチボーイズはゲイリーの書いた「409」「LONELY SEA」、そして新たに編曲
 した「SURFIN' SAFARI」と「JUDY」を4月19日録音している。録音が行われた
 ハリウッドの WESTERN RECORDERS はゲイリーが薦めたスタジオだ。
 エンジニアーの CHUCK BRITZ は緊張するブライアンの性格を良く理解していた。
 スタジオ内でもリーダーシップをとろうとする父親マリーウィルソンはコントロール
 ルームから幾度となくセッションに指示をしていた。マリーは昔自分が
 ソングライターとして成功出来なかった時の夢を息子達のバンドで叶えようとし、
 ビーチボーイズに対して昔のスタイル
 同様にヴォーカルをフロントに立てた
 サウンドにしたかったのだ。マリーは
 CAPITOL RECORDS に対して抱いて
 いたサウンドイメージを息子達に
 押し付けようとしていた。それはデモで
 録音された「THEIR HEARTS WERE
 FULL OF SPRING」にも表れている。
 しかしコントロールブースの中でマリー
 と CHUCK BRITZ の意見は対立して
 いたがゲイリーによって歌われた
 「409」の仮歌を聴いて CHUCK BRITZ
 は確信を得た。

    CHUCK BRITZ
 
 こうして NICK VENET の待つメジャーレコード会社 CAPITOL RECORDS に
 マリー、ブライアンそしてゲイリーの3人が先ず乗り込んでいった。
 Mr.HOLLYWOOD とも形容された NICK VENET は当時弱冠21歳で
 CAPITOL RECORDS のウェストコースト地区のロックンロール部門を担当する
 同社最年少の重役であった。NICK VENET はマリーに「マスター音源を買い取る
 用意がある」と告げた。即ちメジャーレーベルとの契約の第1段階をクリアー
 したのだ。また NICK VENET は「我々は5%の印税を払ってもいい」と
 持ちかけてきた。

NICK VENET
しかしそのロイヤリティー契約に
おいてメンバー+マリーで等分
された筈だ。その意味において
プロデューサー、アレンジャー、
ソングライター契約等、沢山の
契約条項が待ち構えていた。
楽曲管理はCAPITOL RECORDS
の所有するBEECHWOOD MUSIC
を勧められたがゲイリーは
その時の会話からマリーが
自分達で音楽出版社を
設立準備し始めた事に気付き、
マリーはブライアンとゲイリーが
勝手に自分達の音楽出版社を
設立準備していた事に気付く。
NICK VENET は「それでは
我が社の法務部に契約書を
作成させるから後日また会おう」
と言ってきた。
 
 初日の交渉が終わり事務所を出て3人がエレベーターに乗り込むやいなや
 マリーはゲイリーに顔を近づけて暴言を吐いた「ゲイリー、お前は俺の息子を
 騙そうとしてるんだな!」ゲイリーは「貴方は楽曲管理を理解してないじゃないか
 だから私とブライアンで我々の音楽出版社を設立しようとしてるんだ」と
 言い返した。するとマリーは激怒し「じゃあお前とブライアンはカールやデニスを
 カットし、小銭もやらないどころか俺の存在も無視してるんだな。お前は
 CAPITOL RECORDS に嘘を偽証しやがって」とまくし立てた。
 その横でブライアンは死にそうな顔をしていた。
 その後 CAPITOL RECORDS は「SURFIN' SAFARI」「LONELY SEA」「409」の
 3曲のマスターテープを各$300で買い取り、1962年7月16日に
 BEACH BOYS と CAPITOL RECORDS は正式契約を結ぶ。
 
 マリーはその昔次男デニスが生まれてからすぐ当時勤めていたタイヤ工場
 でのアクシデントで左目を失い義眼となっている。その他多くの複雑な経緯
 から家族の大黒柱だったマリーは異常なまでにファミリーを守ろうとする
 懸念にかられる。事実戦後アメリカの繁栄は、マリーら世代による多くの労働者の
 生産力なしでは語れない。その為かこの世代は華やかな60年代のアメリカの
 裏で苦悩し精神的な被害者意識を持っており、子供に対する虐待に現れる
 ケースも多かった。
 
 後日ブライアンはゲイリーに打ち明けた。「お父さんが音楽出版会社の
 名前をつけたよ」、ゲイリーは「何て名前だい?」と尋ねるとブライアンは
 「SEA OF TUNES」と答えた。ゲイリーは笑って「OK じゃあそれをマリーに
 実行させよう」と言った。 以前マリーはゲイリーに言った「もしお前とブライアンが
 音楽出版社を設立したら、その時は
 俺が会社を運営するからな」
 ゲイリーは少し疎外感を感じながらも、
 SEA OF TUNES がマリーによる
 自分に対する引き離し工作である事を
 確信した。
 マリーはマリーで基礎固めに必死に
 なっていた。しかし音楽出版社設立の
 アイディアはゲイリーによるもので、
 マリーもその必要性に気付き独善的な
 手法でそれを行っていたのだ。
 その後ゲイリーはマリーから印税を
 受け取る事になった。

MURRY GAGE WILSON
 
BEACH BOYS - SURFIN' SAFARI / 409 (CAPITOL 4777)
左から BRIAN WILSON, MIKE LOVE, DENNIS WILSON,
CARL WILSON, DAVID MARKS

 晴れて「409」はビーチボーイズのキャピトルからのファーストシングルとして
 「SURFIN' SAFARI」のカップリングでリリースされ、1962年にチャートの76位
 まで昇るヒットを記録した。(ピーク1962年10月13日)ゲイリーにとって初の
 ヒット曲となったこの曲はゲイリーに富と
 名誉をもたらした。
 マリーウィルソンはゲイリーに ADVANCE
 として$1000〜$1500を渡している。
 そして金を手にしたゲイリーが手にした
 車は409ではなく、プリモス426型だった
 という飛躍までもたらした。

    日本盤シングル
 
 当初 CAPITOL RECORDS はサーフィンというテーマに疑問を感じていた
 ために「409」を A-SIDE としてプロモートしようと考えていた。
 この曲は当初 「FOUR HUNDRED AND NINE」と言うタイトルで登録され
 その後「409」と改められた経緯を持つ。
 しかしそんな最中にサーフィンがユースカルチャーに浸透している事を知り
 慌てて「SURFIN' SAFARI」を A-SIDE に切り替えた。所謂両A面として
 このシングルはリリースされ、新人グループのメジャーデビュー盤としては
 最も望ましい成績を残したのだ。海岸部では「SURFIN' SAFARI」がオンエアー
 され、内陸部では「409」がオンエアーされる事によってビーチボーイズは
 一気に若者達に迎え入れられた。このビッグヒットを受けて NICK VENET は
 ブライアンに違うヴァージョンの「409」を打診した。ブライアンは違うヴァージョン
 のアイディアを持っており、それは LOW RIDER をテーマにしたものだった。
 ブライアンは若者の意識をリサーチしており、サーファーとローライダーが
 友好関係を作れる環境を考えていた。CHICANO 系の多いローライダーが
 サーファーとの間に一線を引いていたのは事実だが、ユースカルチャーの
 テーマミュージックを製作するにあたって大いに危険も含んだヴィジョンだった。
 後にNICK VENETのインタビューで明らかになったこのローライダーヴァージョン
 だが、ゲイリーの口から語られた事はなかった。
 
 また「SURFIN' SAFARI」と「409」の
 ダブルヒットを受けてブライアンはラジオ
 インタビューでこう答えている
 「既に我々(ブライアン&ゲイリー)は
 6つの曲を書き終えています」と告げた。
 その後DJの NELSON EDDY は
 「次のシングルは CHUG-A-LUG に
 なるでしょう」と告知した。
 この CHUG-A-LUG は「ROOT BEER」
 と言うタイトルのヴァージョンもあり
 ゲイリーとブライアンの共作として
 残されている。
 ビーチボーイズとゲイリーは次の
 レコーディングセッションについて
 CAPITOL にサインをし、ブライアンは
 リハーサルに控えて次々と曲を
 仕上げていった。

    BRIAN WILSON
 
 ある日、ゲイリーとブライアンがブライアンの部屋で一緒に曲を書いていたら
 マリーが入ってきて「お前達は他にも違うテーマの曲は書けないのか?」と
 尋ねてきた。ゲイリーは「例えば?」と訊き返すと「例えば、愛とか花とか」と
 マリーは答えた。するとゲイリーは「愛?花?へっ」と鼻で笑った。
 マリーはゲイリーの首根っこを掴んでゲイリーを家の外にほおり出したという。
 
 この時期、ゲリーの住む叔父ベニーの家にゲイリーの従妹の KAREN JONES
 が遊びに来ていた。KAREN は彼女の友人の BONNIE DELEPLAIN を連れて
 来ていた。BONNIE はまだ若く、ビーチボーイズらと同じ世代で、また彼女は
 ビーチボーイズのファンだと言う。ゲイリーは BONNIE と KAREN を連れて
 ビーチボーイズのステージに出かけた。若く明るい BONNIE とゲイリーは
 直ぐに親密になりデートを重ねていった。後年この二人は結婚をする。
 
 ★1962年8月5日 マリリンモンロー死去
 
 デリケートなブライアンウィルソンは、こうした成功の後も「自分には才能が
 ないのではないか?」と言ってふさぎ込んでしまう事も多かったが、ゲイリーは
 そんなブライアンに当時ヒット曲を連発していた GERRY GOFFIN & CAROLE KING
 の事を話し「俺たちには才能があるんだ、俺たちはカリフォルニアの
 GOFFIN & KING になるんだ」と言って励まし初期のビーチボーイズ&ブライアン
 ウィルソンを支えていったのだった。
 ちょうどその頃 CAMEO-PARKWAY RECORDS から一連のダンスナンバー TWIST、
 MASHED POTATOES らがリリースされ、まさにダンスソングが大流行していた。
 ブライアンはゲイリーから聞いた GOFFIN & KING に興味を持ち、当時大ヒット
 していた GOFFIN & KING 作の「ロコーモーション」が彼らのベイビーシッターを
 していた LITTLE EVA (EVA BOYD)という黒人の少女が歌っている事を知った。
 ブライアンはこれに触発されロコモーションに似た曲をゲイリーと書き上げた。
 するとブライアンはゲイリーに「自分たちも歌える黒人をスカウトしよう」と
 ロスアンゼルスの黒人居住区 WATTS にゲイリーの車で出かけようと
 もちかけた。ゲイリーは「そんな黒人街に行ったら殺されてしまう」と言って
 反対したが、ブライアンはゲイリーの忠告を聞き入れず、結局ゲイリーも渋々と
 ブライアンについていった。二人は WATTS 地区に入り幾つかの黒人に
 「誰か歌える黒人女性を知らない?」と尋ねてみた。そして一人教えてもらう度に
 その住所に訪ねて行った。ドアをノックし「我々はレコードをリリースしてチャート
 インしたんだ」と自己紹介をしてみた。馬鹿げた行為だが、黒人がサーフィンの
 ヒット曲を知ってる訳もなく、ましてや生活習慣から聴いているラジオも違うのに
 突然二人の白人の若者が黒人居住区に現れてこのようなスタンスで自己紹介を
 したのだ。それでも二人はこう続けるしか
 なかった「我々は貴方のお嬢さんが
 歌えると聴いた。我々はお嬢さんの歌を
 レコードに出来るんです」と、こんな交渉
 を幾つか繰り返しながらも二人は無事に
 殺されることもなく BETTY という名の
 黒人女性にコンタクトをとって帰ってくる。
 この女性の本名を明かさない条件で
 リードヴォーカルに参加させレコーディング
 されたのが「THE REVO-LUTION」と
 「NUMBER NINE」の2曲だ。実は後年に
 なってゲイリーとブライアンによって
 明らかにされたが、この女性は若き日の
 BETTY EVERETT だったのだ。

   BETTY EVERETT
 
 ゲイリーはこのレコーディングの前に銀行員時代の友人 BILL TURNER に
 融資の打診をしてセッション費用を借り入れた。(後年 BILL TURNER は
 銀行の頭取となる)このシングルのレコーディングはブライアンがプロの
 ミュージシャンを用いた初めての録音で、当初 PLAS JOHNSON のホーンと
 SHARKY HALL のドラムだったが、後で STEVE DOUGLAS のホーンと
 HAL BLAINE のドラムに差し替えた。因みに PLAS JOHNSON は DAVID GATES
 らと DEL-FI RECORDS のセッションサーフバンド DEUCE COUPES 等にも
 参加していたセッションプレイヤーだ。またカップリングの「NUMBER NINE」は元々
 ゲイリーとブライアンがデモで書いた「VISIONS」が原型で、当初はゲイリーと
 ビーチボーズで演奏を録音していたものだ。マスターを完成させた二人は喜んだ。
 マリーの息のかからない所でレコーディングを完成したのだ。その後二人は
 BUCKEYE RECORD DISTRIBUTORS に務めるレコードディストリビューターで
 BEACH BOYS の名付け親でもある RUSS REGAN にこの「THE REVO-LUTION」
 の楽曲管理の権利を持ちかけ契約を
 成立させている。当時 DOT RECORDS
 のプロモーションを手掛けていた
 RUSS REGAN の勧めもあり RACHEL AND
 THE REVOLVERS 名義でこのシングルは
 1962年9月に DOT RECORDS から
 リリースされた。A面は RUSS REGAN の
 所有する ALGRACE 音楽出版で管理
 されているが、B面のパブリッシャーの
 NUMBER ONE PUBLISHING とは
 ゲイリーとブライアンによる初の音楽出版
 会社だ。因みに後にブライアンのルームメイト
 BOB NORBERG とそのガールフレンド
 CHERYL POMEROY によって録音された
 BOB AND SHERI のB面の曲である
 HUMPTY DUMPTY も ALGRACE 音楽出版
 で管理させている。

     RUSS REGAN
 両面ともゲイリーとブライアンの共作だが、プロデュースはブライアンのみが
 クレジットされた。「THE REVO-LUTION」はロコモーションを意識しただけあって
 力強いアップテンポダンサーに仕上がっている。冒頭でカウントを入れて
 「ROTATE ROTATE」と掛け声をガールバックシンガーと一緒に入れているのは
 ブライアンウィルソンだ。曲中サックスや手拍子がフューチャーされ、
 サウンドも厚くかなり工夫のあとが見受けられる典型的なヒットソングタイプの
 曲で出来も良いがヒットを記録することはなかった。
 B面はのどかなピアノの旋律で歌われるバラードで、この曲調は他の曲の
 ヴァリエーションに繋がる。このシングルは現在ではブライアンウィルソンが
 ビーチボーイズ以外をプロデュースした最初期の作品の一つという事で
 コレクター達の間でかなりの高値で取引されている。
 
 ブライアンウィルソンは父親マリーに束縛
 されるのを嫌って独立する事を決意した。
 イングルウッドの CRENSHAW PARK
 アパートに引っ越したブライアンは友人の
 ROBERT (BOB) NORBERG と共同生活
 を始める。彼は前述の BOB AND SHERI
 の BOB NORBERG で、1964年には
 SURVIVORS と名乗りブライアンの
 プロデュースでシングル1枚をリリースした。
 このブライアンが家を出るという
 単独行動はマリーには知らされて
 いなかった。後日ゲイリーからブライアンの
 引越しを知ったマリーは激怒した。
 マリーはブライアンの独立心を認めて
 やれるほど優しい父親ではなかった。
 立場上、家族外者のゲイリーがブライアンの引越しをマリーに告げたのだが
 マリーの持つパラノイアは怒りへと変わり、ゲイリーは睨みつけられた。
 
 マリーとゲイリーの仲を悪化させた決定的な事件があった。
 有名な「MYNA BIRD STORY」だ。ある日ゲイリーとビーチボーイズは
 マリーに悪戯してやろうと企て、鳥の鳴き声を編集したテープを作った。
 マリーの寝室はストリートに面した側にあり、ベッドは窓の右横だった。
 彼らはゲイリーの白い CHEVY に乗り込み車をゆっくりと走らせた。
 そしてマリーのベッドに近い窓の下にテープレコーダーを置いて突然大音量で
 鳥の鳴き声のテープを再生した。すぐさま車に隠れて彼らは笑いを堪えていた。
 突然のバードコールで飛び起きるマリー、咄嗟に窓から叫び声をあげたマリーは
 「誰だそこにいるのは!ブライアンか?誰かそこにいるのは解ってるんだぞ!」
 と町中に響き渡るような大声で怒鳴った。それを見て彼らは小便を漏らしそうに
 なる程に笑った。特にその中でゲイリーの笑い声がマリーの耳に届いてしまった
 為に「アッシャー!お前だな!お前が見えないけど、はっきりと聴こえるぞ!
 お前が仕掛けたんだな!」と発狂した。この事件があって以来、ゲイリーは
 ウィルソンファミリーの家には入れてもらえなくなったと言う。

DENNIS WILSON
また暴君マリーの怒りを
生み出し続けていたデニスも
家を追い出された。
困惑した当時17歳のデニスは
帰る家もなく、その夜は友人の
車の中で寝た。可哀想に
感じたゲイリーはデニスの相談
にのって慰めた。デニスは
ゲイリーに「もしお父さんの
怒りが治まったら家に戻れる
かもしれない」と打ち明け、
そしてゲイリーはデニスの
ために部屋を貸した。
 
 その後1962年10月にビーチボーイズは初のアルバム「SURFIN' SAFARI」
 (CAPITOL T-1808 / DT-1808)をリリースした。
 このアルバムにはブライアンウィルソンとマイクラブの共作曲や
 エディコクランのカヴァー「SUMMERTIME BLUES」等も収録されたがその中心と
 なっていたものはブライアンとゲイリー
 の共作曲で、全12曲中、6曲までが
 ブライアンとゲイリーの共作曲で占め
 られていた。演奏能力に問題があった
 為にプロのセッションミュージシャンが
 参加しているが、このファースト
 アルバムはチャートの32位まで昇り、
 新人グループのデビューアルバムと
 しては大成功を収めた。リリースされた
 当時、ブライアンとデニスは出来立て
 の数枚を持ってゲイリーのアパートに
 やって来て彼らは一緒になって
 喜んだ。ゲイリーとブライアンは

 
 プロダクションが如何なるものかを強く意識しはじめていた。
 事実ブライアンは自宅で曲を書いている時が一番居心地が良く、またゲイリーは
 スタジオでセッションミュージシャンと録音している時が最も心地よかった。
 それらがパッケージされ商品となるまでに何をすべきかに気付いたのだ。
 この二人の願望はロックスターになる事ではなく、クリエイターになる事なのだ。
 
 CAPITOL RECORDS は11月にグループのセカンドシングルとしてアルバムから
 「TEN LITTLE INDIANS」と「COUNTY FAIR」をシングルカットしている。
 A面はアメリカ民謡をブライアンがアレンジしたものだが両面 WILSON-USHER と
 クレジットされている。ブライアンのアレンジ能力はすでにこの頃から目をみはる
 ものがあるが、このシングルはチャートでは49位までしか上がらなかった。
 新人グループのセカンドシングルとしてはそんなに悪い成績ではないが
 その後のビーチボーイズの成功を考えるとこのシングルカットは CAPITOL の
 勇み足的失敗だったと考える研究家達もいるようだ。当時 CAPITOL は
 LETTERMEN を獲得しており NICK VENET はゲイリーに対し「LETTERMEN 以外
 にヴォーカルグループが必要か?」と大見得をきっていた。そんな CAPITOL も
 まさかビーチボーイズがその後に大成功するとはこの時点では思っていなかった
 ので「売れるうちに売ってしまおう」と考えていた。
 しかも「サーフィン」という新しいテーマで売った新人グループのセカンドシングルに
 テーマを持続させない曲を持ってきた事が興味深い。NICK VENET や CAPITOL
 もこの「サーフィン」というテーマが一過性の流行で持続力は無いのでははないかと
 考えていたようで、ビーチボーイズのプロモーションに対しても模索中だったと
 いう事だろう。しかしB面に後に名作「I DO」として甦る「COUNTY FAIR」が
 配されているのは注目に値する。ブライアンは確実にソングライターとして
 成長していたのだ。ブライアンとゲイリーはパートナーシップを保ち、互いに成長
 していった。しかしそれを快く思わない者もいた。絶対権力主義者であり
 ブライアンの父親マリーウィルソンである。ソングライターの経験もあるマリーは
 ゲイリーのことを「いい加減で、だらしのない男」としか見ておらず、息子のブライアン
 とゲイリーが共同作業をしているのを見て常に苦々しく思っていた。また自分の
 言うことを聴かない悪ガキのデニスウィルソンがゲイリーになついているのを見て
 激怒した。カークレイジーだったデニスはゲイリーから車の事を教わっていたのだ。
 トラブルメイカーのデニスはいつもゲイリーに「車を運転させて」と嘆願していた。
 ゲイリーはまだ未熟だったビーチボーイズにギターを教えたりもしていた為に
 ファミリーに外部者を認めていないマリーのパラノイアは日増しに大きくなった。
 マリーはこのままブライアンとゲイリーが共に仕事をすれば、ブライアンまで
 ダメになってしまうと考え、二人を切り離すために、何かにつけてゲイリーに難癖を
 つけた。マリーの持つパラノイアは事あるごとに癇癪となりゲイリーは当然のように
 これに反発。しかし当時グループのマネージャーとして絶対的な権力を持っていた
 マリーにブライアンは逆らう事は出来ず結局2人のパートナーシップはマリーの思惑
 通りに解消された。
 
 この時期までに GARY USHER - BRIAN WILSON の共作で未発表となった
 曲は多数存在する。
 ROOT BEER (CHUG-A-LUG の別ヴァージョン)
 COO COO CLOCK (CUCKOO CLOCK の初期ヴァージョン)
 DANS TES YEUX (フランス語:あなたの目)
 LORI
 LUONA SUN
 SO LONG
 MUJ DUM (GARY USHER-BRIAN WILSON-JIRI SOUKUP)
 等が確認されているが BEACH BOYS の為に書かれた曲と、それに相応しく
 ない曲が二人の手によって書かれた。
 特に「MUJ DUM」の共作者である JIRI SOUKUP は理学博士であり
 ブライアンとゲイリーのオカルト好きから発生した曲と思われる。
 この後も二人の友情は続き、ブライアンはゲイリーのプロジェクトに
 しばしば力を貸している。
  
 さて、ブライアンウィルソンはゲイリーアッシャーと別れてから暫くの間、
 地元カリフォルニアのラジオ局 KFWB のDJであるロジャークリスチャンと組んで
 自らのグループを率いて活躍していくのであった。ロジャーが所属していた
 ラジオ局 KFWB は当時から SURFIN' & HOT ROD MUSIC を好んでオンエアー
 しており、このラジオ局がプッシュする曲は南カリフォルニアのユースカルチャー
 シーンに多大な影響力を持っていた。
 しかしロジャークリスチャンとの付き合いはゲイリーの方がずっと古く、
 ブライアンウィルソンにロジャーを紹介したのはゲイリーアッシャーだった。
 彼は本名を ROGER VAL CHRISTIAN と言う。ゲイリーとロジャーの出会いは
 ゲイリーがまだタイタンレコードのアーティストだった時代まで遡る。

 ROGER CHRISTIAN
ゲイリーは後にハニーズの
メンバーになるジンジャー
ブレイクと共にカリフォルニアの
サンバーナディノで行われた
タレントショーに出演した。
当時ジンジャーもまたタイタン
所属のシンガーだった。彼女は
ゲイリーのソロシングルの次番号
で「DRY TEARS / SPARE TIME」
をリリースしていた。このショー
の司会がロジャークリスチャン
だった関係で、二人の交際は
この時から始まった。
 NEW YORK の BAFFALO 生まれのロジャークリスチャンは1959年に
 カリフォルニアに移住してきてDJを務めていた。ロジャーはホットロッドソングの
 歌詞を書くにあたって自動車整備士が持つ修理マニュアルの本からもフックと
 なる部分を引用した。また彼は LYRONS DRAG STRIP 等のカーレース場の
 スタッフとしても活動し、場内アナウンスをしながら作詞のアイディアを集めていた。
 
 このサンバーナディノではよく
 COUNTY FAIR と呼ばれる郡のお祭りが
 行われていたらしく後にビーチボーイズ
 も同地で行われていたショーに出演
 していた。ブライアンは自分にとって
 このショーがとても楽しいショーだった
 ことからゲイリーと共に「COUNTY FAIR」
 と言う曲を作ったという。
 この曲「COUNTY FAIR」はその後、
 ロジャークリスチャンの書いた詩に
 入れ替え、力強いバッキングを
 施し「I DO」という名曲に生まれ変わる。
 
 さて、これより少し後の話になるがゲイリーはブライアンにロジャー以外の重要な
 人物を紹介している。それはジンジャーブレイクとその従姉妹の
 マリリン ローヴェルとダイアン ローヴェルの姉妹だ。
 ある日、ゲイリーはジンジャーブレイクを電話で誘い出しハリウッドの
 コーヒーショップ PANDORA'S BOX に出かけた。この店はライブステージがあり
 そこには幾つかのゲイリーの友人達も集まっていた。そこでジンジャーは初めて
 パフォーマンスをした後のビーチボーイズと出会う。
 このファミリーグループであるビーチボーイズは、その後ジンジャーの従姉妹の
 MARILYN ROVELL & DIANE ROVELL と行動を共にしていく。
 ブライアンはもう一つのファミリーグループを自分達と一緒に歌わせようとし
 彼女達を HONEYS と名づけた。元々サーファーの使う言葉の HONEYS
 (サーファーボーイの彼女達)はその後ブライアンの助けを得て CAPITOL から
 レコードデビューをを果たしたが、ブライアンウィルソンとマリリンローヴェルが
 1964年に結婚したのは皆さんも御存知の通りである。

HONEYS (DIANE ROVELL, MARILYN ROVELL, GINGER BLAKE)
 
 ある日 NICK VENET がゲイリーに尋ねた「ゲイリー、今年はいったい幾ら
 稼いだんだい?」 ゲイリーは「たぶん$6、000ぐらいだと思う」
 NICK は笑って続けた「来年は$15、000から$20、000は稼げるよ。翌年には
 $30、000から$40、000、さらに翌年は$50、000から$100、000は稼ぐ」
 ゲイリーは「NICK、からかってるのか?」と聴きかえした。
 NICK は「からかってない。君は才能を
 開花させたんだ。そしてやるべき事に
 気付いたんだよ」CAPITOL RECORDS に
 おいて西海岸のロックンロール支配人
 だった NICK VENET はユースカルチャー
 をどのように表現すれば金になるのか
 知っていた。その為に必要な素材、
 ミュージシャン、楽曲、レコーディング等を
 どのようなパッケージにすれば良いのか
 ゲイリーも解り始めていた。

      NICK VENET
 
 今も CALIFORNIA GOLD と呼ばれる永遠の夏をテーマとした音楽スタイルは
 ゲイリーアッシャーやロジャークリスチャン、ビーチボーイズらの書く歌詞によって
 表現されたものを起源とする。これまで SURF MUSIC とは DICK DALE を筆頭に
 エレキギターのインストミュージシャンの代名詞だったが、ビーチボーイズの
 出現により、それらライフスタイルの描写が歌詞によって行われはじめた。
 これはアメリカンロックンロールの中のテーマミュージックが西海岸の若者達に
 よって開花していく瞬間でもあった。職業作家が圧倒的に多かった東海岸では
 この時期に CAMEO PARKWAY を中心に TWIST らのダンスブームが発生し
 メジャーレーベルもこのムーヴメントに便乗し多数のダンスミュージックを手掛ける。
 この時点では音楽産業の中心はニューヨークであり、カリフォルニアは無数の
 ローカルレコード会社が存在するものの、音楽産業の中心ではなかった。
 しかし徐々にではあるが BEACH MOVIE 等によって全米にカリフォルニアの
 ライフスタイルが紹介されていく。
 これらの序曲があって CALIFORNIA GOLD という音楽スタイルは1963年に
 産声をあげる。これは同地のライフスタイルが金になるとメディアが紹介し、
 トレンドの発信がカリフォルニアからされ始めた事が大きい。
 
 この頃、NICK VENET はゲイリーに「映画音楽の製作に興味ないかい?」と
 打診してきた。ゲイリーは「もちろん興味あるよ!」と喜んで答えている。
 その後 NICK VENET はゲイリーに AMERICAN INTERNATIONAL PICTURES の
 AL SIMMS を紹介している。NICK VENET
 と AL SIMMS は1959年公開の
 映画「GHOST OF DRAGSTRIP HOLLOW」
 にインスト曲を挿入した時からの
 付き合いで彼はプロデュースを担当した。
 この映画はモンスターコメディーの
 カルトムーヴィーで、映画でも使用された
 インスト曲は RENEGADES 名義で
 シングルカットされている。このグループは
 俳優志望だった若き KIM FOWLEY、
 BRUCE JOHNSTON、SANDY NELSON の
 3人を母体とし BRUCE JOHNSTON の
 初期ワークスとしても知られる。
 その一連の音楽作業を RENEGADES が
 行っていたのだが、この時点ではまだ
 ゲイリーとの接点はなかった。
 NICK VENET は AL SIMMS に
 「BEACH BOYS と作業している男で
 次回の BEACH MOVIE にうってつけの
 男がいる」と紹介した。

 数時間後にゲイリーはサーファー風のパンツ WHITE LEVIS といったラフな
 スタイルにギターを抱えて表れた。これはゲイリーのイメージ戦略でもあった。
 そこでゲイリーはイメージしていた曲をプレイして AL SIMMS に数曲聴かせた。
 AL SIMMS が描いていたビーチムーヴィー路線のアイディアはゲイリーの考えて
 いたヴィジョンと合致したのは言うまでもない。この映画製作会社は当時メジャー
 よりも先に BEACH MOVIE を手掛けており、これらの需要の先端を担っていた。
 これに続いてメジャー映画会社も若者をターゲットにした BEACH MOVIE を
 製作していった。AL SIMMS はゲイリーと契約し映画上でのスクリーンクレジット
 も入れる事を約束した。1962年12月中旬のミーティングで「どの場面で
 どんな曲が何曲必要か」と議論になった時にAL SIMMS は「それは全てゲイリー
 にまかせる」と伝えた。
 この映画「BEACH PARTY」はアネットとフランキーアヴァロンの二人を主演に
 1963年8月に公開される。まさにゲイリーアッシャーは西海岸産の映画音楽への
 進出をもってカリフォルニアのイメージーリーダーへと歩んでいく。

 1962年11月にゲイリーは TRI-FIVE の「COME AND GET IT / LIKE CHOP」
 (DAMARK 2400)のシングルの製作に携わっている。
 このレーベルは LONDON RECORDS を配給元としており後に VENTURES の
 プロデューサーとしても有名になる JOE SARACENO が所有していた。
 彼は BEACH BOYS の名付け親としても有名で当時は CANDIX RECORDS の
 社員だった。このレーベルは恐らく税金対策用のレーベルだったのだろう。
 レーベル名は彼の二人の息子 DANA と MARK から名づけられたと言われている。
 これは両面ともに GARY USHER-MIKE BORCHETTA の共作だ。
 MIKE BORCHETTA はゲイリーの初期のパートナーで、他にも FOUR SPEEDS
 のシングルでゲイリーと共作している。
 このシングルによる取引は MIKE BORCHETTA が行ったもので
 誰もがシングルをリリースしたかったこの時期にフリーランス A&R マンとして
 実績のあった MIKE BORCHETTA がその人脈から契約をとってきたシングルだ。
 A&R とは Artist & Repertoire の略で、Artist を何処にどのように置けば最適か
 アレンジする職務をいう。即ち A&R とは人脈の幅広さに左右され、ミュージシャン
 のサクセスに関わる重要な仕事である。
 MIKE BORCHETTA は非常にアグレッシヴな人物で、ゲイリーは彼の事を
 「ハイスピードイタリアン」と呼んでいた。有能なプロモーションマンだったが
 録音に際しての手順を知らなかった MIKE BORCHETTA はゲイリーや
 DICK BURNS らを頼らざるを得なかった。リーダーシップをとりたがり、いつも時間に
 追われ機敏な行動をしていた MIKE BORCHETTA はゲイリーに依頼してセッションを
 集めたと言う。このシングルは両面共にオルガンやピアノをフューチャーした
 アップテンポのインストだが、印象深い作品とは言い難い。
 参加メンバーは GARY USHER, DICK BURNS, CARL WILSON, DENNIS WILSON,
 RANDY THOMAS と言われている。キーボードは RANDY THOMAS が担当し
 リズムギターをゲイリーが、ベースギターを DICK BURNS が担当した。
 当時ゲイリーと同居していた DENNIS WILSON がドラムを担当。リードギターは
 CARL WILSON が担当しているがガレージでリハーサルを行ったという
 急造セッションだった。CARL WILSON は録音前に BELAIRS のヒット曲
 MR.MOTO をみんなの前でプレイして見せた。因みに以前 AL JARDINE が
 ビーチボーイズを一時期脱退する時に穴埋めとしてビーチボーイズは BELAIRS
 の PAUL JOHNSON に代役を打診しているが PAUL はそれを断っている。
 「COME AND GET IT」はビーチボーイズのLP「SURFER GIRL」
 に収録されている「BOOGIE WOODIE」や「THE ROCKING SURFER」に酷似して
 いる。している。と言うより全く同じ曲であると言っても差し支えないほどである。
 この辺を考えるとやはり TRI-FIVE のレコーディングには何らかの形でブライアン
 ウィルソンも絡んでいる可能性が大きい。ブライアンは「THE ROCKING SURFER」
 に GARY USHER-MIKE BORCHETTA のクレジットを書き忘れたと言われている。
 この曲は古いアイスクリーム売りの車から流れていたメロディーを引用したと言われ
 ビーチボーイズの「THE ROCKING SURFER」には「GOOD HUMOR MAN」
 という原題が付けられていた。ブライアンはこの曲がトラッドソングなので
 「COME AND GET IT」をアレンジしたものであってもゲイリーらのクレジットを
 する必要はないと考えていたようだ。ゲイリー自身も「もし私が同じ立場で
 アルバムを作っていたら、私もブライアンと同じようにトラッドソングとして
 クレジットしただろう」と語っている。この TRI-FIVE の録音は FOUR SPEEDS の
 R.P.M. のセッション中に行われていた。
 この曲のB面の「LIKE CHOP」は1961年の3月27日にピークで全米38位
 になった PAUL REVERE & THE RAIDERS のファーストヒット「LIKE, LONG HAIR」
 をモチーフにしてタイトルに「LIKE」を用い、B.BUMBLE & THE STINGERS が
 1962年にチャイコフスキーの「THE NUTCRACKER」を改作してヒットさせた
 「NUT ROCKER」を真似てトラッドソングの「CHOPSTICK」を題材にしたものだと
 言われている。有能なプロモーションマンだった MIKE BORCHETTA が
 JOE SARACENO の所有する LONDON RECORDS 配下のレーベルで
 製作させたこのシングルだが、実はリリースには至っていない。
 しかし翌年1963年の夏にはケンタッキーの PADUCAH 辺りでは地元放送局の
 W.K.Y.B. によってこの TRI-FIVE と FOUR SPEEDS の「R.P.M.」は数回ラジオで
 オンエアーされた。これも MIKE BORCHETTA の功績と言って良いだろう。
 
 この頃マリーウィルソンの思惑でブライアンとのコンビを解消させられた
 ゲイリーはこんな事を考えるようになっていた「西海岸のあらゆるレコードで
 素晴らしい演奏を聴かせている優秀なスタジオミュージシャン達を集め、
 それに自分が手を加えれば決してビーチボーイズにも負けないレコードを
 作ることが出来るだろう」これは後に実現される事になるが、まだ少し先のことだ。
 ブライアンから離れたゲイリーは1963年の2月に SUNSETS 名義の
  C.C.CINDER / THE CHUG-A-LUG (CHALLENGE 9186)をリリースした。
 セッションは1962年12月からスタートしており、両面ともアップテンポの軽快な
 ナンバーで、コーラス入りのサーフスタイルポップといった感じ。因みにグループ名
 は DICK BURNS が命名しており、リードヴォーカルも彼が担当している。
 
JANUARY 1963 WESTERN
RECORDERS
PRODUCER-ARRANGER
GARY USHER

GARY USHER - RHYTHM GUITAR,
BACK VOCAL

DICK BURNS - BASS,
LEAD VOCAL

RANDY THOMAS - DRUMS,
KEY BOARD, BACK VOCAL
 
 A面は BOB FELDMAN-JERRY GOLDSTEIN-RICHARD GOTTEHRER. の
 書いた曲で、このニューヨークのソングライター&プロデューサーグループは
 その後ガールグループ ANGELS の MY BOYFRIEND'S BACK で全米1位を
 獲得する他、自らも BANG RECORDS を設立し STRANGELOVES としても
 ヒット曲を量産する。通称 BASSETT HAND と呼称していたこの3人組は
 流行歌としていち早くから SURFIN' & HOT ROD 曲に着手していて、
 その後も ANGELS の変名である POWDER PUFFS 他の架空の
 ガールグループや変名バンドを用いてサーフィンソングをリリースさせた。
 この「C.C.CINDER」は当初彼らが BEACH BOYS に歌わせたくオファーした曲と
 言われている。この曲を聴いた NICK VENET はヒットすると判断した。
 この曲は1962年12月29日にピークで全米25位となった PASTEL SIX の
 「THE CINNAMON CINDER (IT'S A VERY NICE DANCE)」に対する
 カウンターソングのような曲だった。
 NICK は「TEN LITTLE INDIANS」の次の BEACH BOYS のシングル用にと
 すぐさまブライアンウィルソンに打診した。曲を聴いたブライアンはこれを頑なに拒否
 してレコーディングを断った。NICK VENET はヒットの確信を持ってゲイリーに
 打診した。NICK VENET はゲイリーが MIKE BORCHETTA と共作を始めた事に
 気付いていたが、東海岸のプロダクションが西海岸にアプローチしてきた事に
 興味を持ったゲイリーは仕方なくレコーディングを受諾した。
 B面は MIKE BORCHETTA との共作で ROOT BEER を題材にした曲。
 派手なサックスブレイクを導入させるなど、ゲイリーとブライアンウィルソンが
 共作した同名曲とは全く異なる作風されたが、ゲイリーとブライアンウィルソンが
 設立した NUMBER ONE PUBLISHING が音楽出版社としてクレジットされている。
 この時点でゲイリーはまだ FOUR STAR MUSIC と楽曲管理の契約は行っていない。
 このB面のセッションは$200の費用で
 15分間の録音で終了している。
 共作者で共同プロデュースをした
 MIKE BORCHETTA は大のBEACH BOYS
 FAN で BEACH BOYS のプロモーション
 活動のために CAPITOL RECORDS に
 出入りしていた男だ。自らが BEACH BOYS
 に近づくために CAPITOL に出入りして
 いた程だ。レコードプロモーションが
 得意な MIKE BORCHETTA は CAPITOL
 RECORDS 本社でゲイリーと知り合った。
 意気投合したゲイリーはすぐさま彼に
 セッションを見せた。MIKE BORCHETTA
 はハンサムガイでその名のとおり
 イタリア系で、BRIAN WILSON 同様に
 初期のゲイリーのソングライティング
 パートナーとして活躍したが、
 とてもビジネスライクな人物としても知られ
 後年 MIKE CURB が CURB RECORDS を
 設立した際には共同出資者としても名を
 連ね、現在では NASHVILLE のカントリー
 レーベル LOFTON CREEK RECORDS
 のオーナーである。
 

   MIKE BORCHETTA
 
 話を戻して SUNSETS だが、ここでは DICK BURNS がリードヴォーカル
 を務め、当初予定されていた WAYNE EDWARDS のリズム感に難がある為に
 RANDY THOMAS がドラムとオルガンを担当した。この曲が好きになれなかった
 ゲイリーはすぐさま次回作へと行動を移し WESTERN RECORDERS STUDIO に
 戻って行った。
 
 これに続き発表されたのは FOUR SPEEDS 名義の R.P.M. / MY STING RAY
 (CHALLENGE 9187) だった。このシングルは1963年の3月にリリースされて
 いるが、資料によると1962年の12月にレコーディングセッションが行われてる。  
 当時ゲイリーは DENNIS McCARTHY を連れて TIJUANA (ティファナ)に小旅行に
 出かけた。その時に書いたのが「R.P.M.」だ。このシングルと FOUR SPEEDS の
 セカンドシングル共に MIKE BORCHETTA が共作者で共同プロデュースと
 なっているが、実際には「R.P.M.」の多くはゲイリーが単独で書いており、
 楽曲の管理は両面とも NUMBER ONE 出版社となっている。
 その為か MIKE BORCHETTA はセッション費用を払うことで FOUR SPEEDS の
 共作者&共同プロデューサーとなったと言われてる。元々 MIKE BORCHETTA は
 CHALLENGE RECORDS のオーナーの一人 JOE JOHNSON や株主で CHAMPS
 のメンバー DAVE BURGESS、楽曲管理の FOUR STAR MUSIC とは旧知の間柄
 だったし、マスターテープを CHALLENGE RECORDS に売り込んだのも彼だった。
 CHALLENGE RECORDS はその配下として FOUR STAR MUSIC という楽曲管理
 会社を持っており、1962年12月にゲイリーはレコードアーティストとして契約し
 1963年4月にはソングライターとして FOUR STAR MUSIC と契約をしている。
 恐らくビジネスライクな MIKE BORCHETTA はセッション費用の肩代わりの
 代償としてロイヤリティーの半分を得る為に共作者としてのクレジットを
 取引したのだろう。そういった裏事情は1枚のシングルがリリースされるまでには
 良くある事だ。そこに互いの思惑があったにせよ、ゲイリーの自信作である
 FOUR SPEEDS 名義の一連のホットロッドチューンはドライヴ感を携えた
 素晴らしいロックンロールだ。「R.P.M.」で収録されたホットロッドの爆音は
 SAN FERNANDO DRAG STRIP の短距離コースで録音されたテープを
 ゲイリーが編集したものだ。これは以前ゲイリーが BEACH BOYS の「409」で
 体験した録音方法をさらに進歩させたものでゲイリーはこの曲を「409」に類似させ
 さらに進化させた事に満足していた。初期ゲイリー作品によくある間奏部での
 キーボードの反復メロディーはゲイリーもリッチーバーンズも共にリズムギターを
 担当していたことからリードギターパートをオルガンでという産物だった。
 結果的にそれが効して疾走感溢れるヴォーカルが際立ちこれら満足の高い
 レコーディングによってゲイリーは BEACH BOYS との対抗意識を表した。
 この時に集められたメンバーはゲイリーアッシャー(リードヴォーカル)、
 デニスマッカーシー(キーボード)リッチーバーンズ(ギター)を中心に構成された。
 SUNSETS と FOUR SPEEDS はリリースナンバーが連番なので、ほとんど
 同じメンバーによってレコーディングされたものと推測されていたが、ゲイリーは
 根本的なリズムセクションを代えてレコーディングに臨んでいる。
 ゲイリーはカーソングを FOUR SPEEDS で、サーフィン他のユースカルチャーは
 SUNSETS でとプロジェクト化していた。そうする事によってヒットの可能性を
 2局面から見出そうとしていたという。
 先ず FOUR SPEEDS のセッションには WAYNE EDWARDS に代え、当時ゲイリー
 の家に同居させていたデニスウィルソンをドラムスで参加させ、
 MY STING RAY ではブライアンウィルソンと MIKE BORCHETTA もバックコーラス
 で参加させている。(因みに MY STING RAY はゲイリーがデニスの為に書いた曲)
 BASS には FRANK FAYAD (後に ARTHUR LEE 率いる LOVE に参加する)を
 DICK BURNS のバンド THE INDIGOS から参加させた。
 ブライアンは当時から自分の声が大きくフューチャーされ、それが元で
 父親マリーウィルソンとトラブルが起こる事に神経質になっていた。
 それを理解しているゲイリーもまたマリーとトラブルになるのを避けるために
 ブライアンの声が目立たないように神経質になっていた。このセッションでは
 リリースされた2曲の他に MIKE BORCHETTA と書いた「BAREFOOT ADVENTURE」
 もレコーディングされたが、これはお蔵入りとなった。「R.P.M.」と「MY STING RAY」
 の2曲は共にヴォーカル入りのアップテンポのホットロッドナンバーで、63年初頭の
 リリースを考えれば驚くほどの出来の良さである。
 
 JANUARY 1963 WESTERN RECORDERS
 MY STING RAY / R.P.M / BAREFOOT ADVENTURE
 PRODUCER-ARRANGER GARY USHER
 GARY USHER - RHYTHM GUITAR, LEAD VOCAL
 DICK BURNS - BASS, BACK VOCAL
 DENNIS McCATHY - KEY BOARD, BACK VOCAL
 DENNIS WILSON - DRUMS
 FRANK FAYAD - BASS
 MIKE BORCHETTA - BACK VOCAL
 BRIAN WILSON - BACK VOCAL
 
 この FOUR SPEEDS はゲイリーも含めた4人で写っているプロモーション写真が
 残されており、カリフォルニアではローカルヒットとなり、実際にもショーで出演して
 演奏していた。この「R.P.M.」は SAN BERNADINO から火がつき、一気に
 LOS ANGELES や ORANGE COUNTY のラジオ局までオンエアープレイを
 始めた。もちろん友人の ROGER CHRISTIAN は毎晩この曲をプレイしていた。
 またこのローカルヒットという意味においては MIKE BORCHETTA のプロモーション
 の功績も大きい。そしてゲイリーはここで「愛車賛歌」というホットロッドミュージック
 シーンの一つのスタイルを確立させたのだ。過去カントリーブルーズや R&R や
 ロカビリーシーンにおいて改造車を題材にした曲は確かに存在した。
 それらの多くは富の象徴としてキャデラック等を題材にしたり、またそれを皮肉った
 歌だった。またはローカルカーレースの風景描写をした曲や反抗のイメージとして
 警察との対立を描いたものだった。ティーンのライフスタイルとしてホットロッドを
 歌い、若いリスナーの共有意識を持ちかけたイディオムとしてのロックンロールは
 まだ開拓されていなかったのだ。ゲイリーが書いた「409」や「R.P.M.」はこれに続く
 ホットロッドテーマミュージックの新たな扉を開いたのだ。

FOUR SPEEDS 左から GARY USHER, DENNIS McCARTHY,
LES WEISER, DICK BURNS そして MASHAK MOTORS の Mr.MASHAK
左から DICK BURNS、
GARY USHER,
LES WEISER,
DENNIS McCARTHY,
彼らは通称 The TROOPS と
名乗りその後 ANNETTE らの
映画「BEACH PARTY」でも
バッキングを担当した。

推測するとゲイリーは当初、
このグループでビーチボーイズ
のような活動をしたいと思った
のではないだろうか?
FOUR SPEEDS の1stシングル
はロスのローカルチャートの
トップ10に入ったが、全米ヒット
とまではいかなかった。
 彼らは SUNSETS として、または FOUR SPEEDS としてステージに上る時は
 基本的にこの4人で編成していた。彼らは要求されるスタイルに応じて
 二つのステージバンドをこなしていたのだ。
 LOS ANGELES 近郊の東部 ALHAMBRA に THE SAVOY というクラブがあった。
 彼らはそこにブッキングされステージライブを行った。そこのハウスバンドであった
 THE SAVOYS と共演した時だ、LES WEISER が SAX SOLO を派手にプレイして
 いる最中にバランスを失って倒れこみ、隣にいたゲイリーもデッキに足をひっかけ
 DENNIS McCARTHY ともどもステージに倒れた。みんなは爆笑だった。
 しかし LES WEISER は演奏を中断させず熱いプレイを続行したという。
 
 CAPITOL の A&R 部門の幹部 KARL ENGEMANN は LEN BARKER から
 「テレビのゲーム番組のホストを探している」と依頼を受けた。
 主催者側は「 THE LETTERMEN がいい」と要求してきたがスケジュールの都合で、
 他のグループを探す事になったらしい。KARL ENGEMANN は THE LETTERMEN
 のメンバー BOB ENGEMANN の兄で LETTERMEN のスケジュールも管理していた。
 そこに居合わせたゲイリーに KARK ENGEMANN が「やってみるか?」と訊ねた。
 ゲイリーは「FOUR SPEEDS としては出演できないけど SUNSETS としてなら
 出演できる」と答えた。その契約は1人につき$100のギャラだった。
 ゲイリーが主催者に電話をしたところ「君達は CAPITOL RECORDS の契約下に
 いるのか?」と訊ねられ、ゲイリーは躊躇しながらも「はい、そうです」と答えた。
 聴けば主催者側はホスト役に古いタイプのヴォーカルナンバーを歌ってほしい
 と依頼してきた。すぐさまゲイリーはディックバーンズに電話でテレビ出演を伝え、
 古いヴォーカルナンバーの練習に入った。
 因みに KARL ENGEMANN は後1966年に BRIAN WILSON からアルバム
 「SMILE」の製作準備や詳細を聴かされた。彼はそのプロジェクトを許可して
 CAPITOL RECORDS にこの計画を議題上で通達した人物としても知られる。
 

SUNSETS としてテレビ出演した1963年
左から DENNIS McCARTHY, GARY USHER,
RICHARD (DICK) BURNS, LES WEISER
 
 BEACH BOYS, HONEYS,
 FOUR SPEEDS が共演した
 SANTA MARIA のライブポスター

 その後ゲイリーはマルチな才能
 を発揮し様々なレーベルに様々
 なレコードを残すことになるが、
 もしこの FOUR SPEEDS が
 ビーチボーイズのようなメジャー
 な人気を得ていたとしたら、
 その後のホットロッドミュージック
 シーンもかなり変わっていたと
 思われる。ゲイリーがホットロッド
 ミュージックシーンに与えた
 影響はとても大きなものだった。
 またゲイリーのこのヴィジョンが
 西海岸の多くの若者達に一つ
 の指針を提示していった。
 
 ゲイリーは FOUR SPEEDS の
 ツアー中にその後ゲイリーの多くの
 セッションでリードヴォーカルを務める
 CASTELLS のヴォーカリスト
 CHUCK GIRARD に出会う。
 SOCK HOP CIRCUIT と呼ばれる
 ロックンロールパーティー形式の
 ツアーで出会った二人だがゲイリーは
 「俺がやってる多くのセッションに
 興味あるかい?」とチャックに尋ねた。
 チャックは既に CASTELLS のリード
 シンガーとして活動していた為に契約
 違反になる事を恐れていたが、
 金額面で合意に達し、その後ゲイリー
 のセッションに参加していくことになる。
 チャックは適応能力の高いシンガーで
 ゲイリーの数多くの覆面グループ、
 またはHONDELLSでもリードヴォーカル
 を務めた。

    CHUCK GIRARD
  
 さて、同じ3月にやはり CHALLENGE RECORDS から1枚のシングルをリリース
 ROCHELL AND THE CANDLES - ANNIE'S NOT AN ORPHAN ANYMORE
 / LET'S RUN AWAY AND GET MARRIED (CHALLENGE 9191) 
 B面はゲイリーと MIKE BORCHETTA のクレジットだが実際には DAVE BURGESS
 との共作品。これはおよそゲイリーの作品らしくないスタイルである。
 このグループはロスの R & B VOCAL GROUP で
 ROCHELL HENDERSON, JOHNNY WYATT, T.C.HENDERSON, MEL SASSO の
 4人で形成されていた。録音には DICK CAMPBELL がギターで参加している他
 バッキングは THE CHAMPS が担当しているようだ。
 このレコードのレーベルにはクレジットが二種類あり、一つにはゲイリーの名が
 ソングライターとしてクレジットされてるもの、もう一つのほうは同レーベルの
 CHAMPS の DAVE BURGESS だけがクレジットされている。

DAVE BURGESS-GARY USHER

     DAVE BURGESS
 
 4月には SUNSETS のセカンドシングル PLAYMATE OF THE YEAR / LONELY
 SURFER BOY (CHALLENGE 9198)がリリースされている。
このA面はゲイリー作の軽快
なアップテンポナンバーで
リードはディックバーンズが
とっている。B面はリパブリック
賛歌をアレンジしたもので
USHER-CHRISTIAN-BORCHETTA
の共作クレジットとなっている。
録音は WESTERN RECORDERS
で行われており録音は3月に
完成させられた。
   MARCH 1963 WESTERN RECORDERS
 PRODUCER-ARRANGER GARY USHER
 GARY USHER - RHYTHM GUITAR,LEAD VOCAL ON LONELY SURFER BOY,
 BACK VOCAL
 DICK BURNS - DRUMS, LEAD VOCAL ON PLAYMATE OF THE YEAR,
 BACK VOCAL
 DENNIS McCARTHY - KEY BOARD, BACK VOCAL
 LES WEISER - SAX, BACK VOCAL
 
5月にはビーチボーイズの
2nd アルバム「SURFIN' U.S.A.」
(CAPITOL T-1890 / ST-1890)
がリリースされたた。
このアルバムではゲイリーと
ブライアンの最初の共作である
「LONELY SEA」を収録している。
 
 同5月には CHAMPS - CACTUS JUICE / ROOTS (CHALLENGE 9199)
 がリリースされた。A面はゲイリーが
 以前書いていたインスト曲だが、
 CHAMPS のイメージに沿ったラテン風
 のアレンジが施されている。これは
 陽気なダンスインストナンバーで
 ラララコーラスを導入させている。
 音楽出版クレジットは 4 STAR MUSIC
 この時期のゲイリーの曲の管理は CAPITOL RECORDS が BEECHWOOD MUSIC
 CHALLENGE RECORDS が FOUR STAR MUSIC、そして下記の CHANCELLOR
 RECORDS が DIJON MUSIC、単独またはブライアンとの共作は NUMBER ONE
 とされている。
 
また同じ5月にFRANKIE AVALON
がゲイリーの曲 BEACH PARTY
(CHANCELLOR 1139)をリリース。
これはゲイリーとロジャーの共作で
1963年8月に劇場公開される
映画「BEACH PARTY」の主題歌の
先行発売シングル。
この曲は後にリリースされる名曲 COMPETITION COUPE のプロト
タイプとなる曲で、BEACH PARTY
は劇中ではアネットとフランキー
アヴァロンの二人によって歌われた。
二人はそれぞれにこの曲を
レコーディングしてリリースしている。
フランキー盤「BEACH PARTY」の
B面にはゲイリー作ではないが
やはり映画で使われた曲
DON'T STOP NOW が収録された。
B面はRUSSELL FAITH とフランキー
のマネージャー BOB MARCUCCI
の書いた曲。
 ゲイリーによれば両面ともゲイリーと DICK BURNS 率いる TROOPS がバック
 コーラスでレコーディングに参加しているとのこと。出来は良かったがフランキー
 のレコード面での人気に陰りを見せていた時期のレコードであったためにチャート
 上のリアクションは小さいものだった。因みにフランキーはこのレコードをリリース
 した後間もなくしてレーベル を UNITED ARTISTS へと移籍している。
 
 フランキーアヴァロンのB面となった「DON'T STOP NOW」はファズギターが
 効果的なアップテンポなダンスナンバーだが、映画「BEACH PARTY」で使用
 された曲のセッションと同じく SUNSET STUDIO と GOLD STAR RECORDINGS
 STUDIO で録音された。実はフランキーのリードヴォーカル(劇中ではアネット
 とのデュエット)を後からトラックダウンしたのだ。ゲイリーらはクレジットされて
 いない事に不服を感じながらもチャージを受け取り、これら業界の風習を知った。
 ゲイリーはこの契約社会においてバックミュージシャンの THE TROOPS を
 契約下に登録していなかった事を後悔した。事実ゲイリーはフランキーアヴァロン
 の為のマスターテープを作成するまでに DICK BURNS らと何度もセッションを
 行っている。映画での曲の使用権、またそのセッションで録音された演奏は
 異なるレコード会社に所属するフランキーアヴァロンのシングルで使用されたのだ。
 複雑な事にこの映画にも出演したDICK DALE も劇中で使われた2曲
 SURFIN' AND A SWINGIN / SECRET SURFIN' SPOT を録音する事になる。
 注意しなければいけないのはこれらの曲が最終的に誰の功績になるのかだ。
 
 AMERICAN INTERNATIONAL PICTURES の AL SIMMS は「第一に、君の曲が
 レスバクスターのスコアに加えてサウンドトラックに組み入れられるので、
 君にとって多くの利益を出すだろう。さらに、フィルムの中で注目される歌、および
 追加ボーナストラックを収録するだろう、よって君のスクリーン上の功績がさらに
 認められるだろう。アネットとフランキーアヴァロンによるこれらの歌がレコード化
 され、君にとってよいチャンスを得ることができるだろう」とゲイリーに言った。
 ゲイリーとロジャークリスチャンはこの映画のサーファーが水に潜るシーン等の
 撮影に参加してみたが、アシスタントディレクターの CLARK PAYLOW にメガフォン
 で怒鳴られ「お前ら邪魔だから退け!」と言われた。冬場の撮影ながら主演の
 アネットとフランキーアヴァロンがNGを出す度に水に濡れた体を震わせながら
 浜辺で待機していたと言う。また「今度はそこを歩け」と指示され通行人役ながら
 二人は散々な目にあっている。しかしゲイリーは映画に出演できた喜びとともに
 これら映画制作の舞台裏を知る。ゲイリーはスタジオを見学しながらも
 アイディアが浮かべば、どこでもノートに書きこんで曲を作っていた。
 それは彼ならではのユーモアと特有の観点から構成したサマーヴィジョンだった。
 この映画はカリフォルニアサウンドの先駆けで視覚的にビーチライフスタイルを
 全米に公開したと言う意味でも重要なポイントとなる。
 映画の中で収録された6曲の歌のうち、サーフィン&ビーチに関連する3つの曲は
 ゲイリーとロジャークリスチャンが書いたものだ。タイトルソングの「BEACH PARTY」
 「SECRET SURFIN' SPOT」「SURFIN' AND A SWINGIN'」その3曲はすべて新鮮で、
 活発的で、当時のアメリカの平均的ティーンエイジャーが捜していたヴィジョンを
 集約していた。このアルバムでは当時 A.I.P. のビーチムーヴィーの為の
 専属ソングライターコンビだった GUY HEMRIC & JERRY STYNER の書いた曲も
 収録されており、彼らもまたゲイリーらと同様に GOLD STAR RECORDINGS
 のスタジオで録音していた。因みに GUY HEMRIC & JERRY STYNER はその後
 JACK KELLER と共作で WESTWOODS の I MISS MY SURFER BOY TOO と言う
 TRADE WINDS へのアンサーソングを書き、GOLD STAR STUDIO で録音した。
 オリジナルサウンドトラックアルバム
 「BEACH PARTY」は映画公開に
 合わせてリリースされる。
 (BUENA VISTA BV-3316 MONO /
 ST-3316 STEREO)
 
  BEACH PARTY PROMO

ANNETTE ACETATE ALBUM

     日本盤シングル
 
 因みに日本ではシングルカットがされている
 BEACH PARTY / SWINGIN' AND SURFIN' (コロムビア DISNEYLAND LL-558-BS)
 映画は日活映画配給で「BEACH PARTY」は公開されたのだが
 邦題「やめないでもっと」と言う凄まじいタイトルが付けられていた。
 因みにB面の SWINGIN' AND SURFIN' は GARY USHER-ROGER CHRISTIAN の
 書いた曲で、その後7月にアメリカでは DICK DALE - SURFIN' AND A SWINGIN
 としてシングルカットリリースされた。
 
 
 6月にはいよいよ CAPITOL からもゲイリーの関わったシングルがリリースされた。
 LLOYD THAXTON - IMAGE OF A SURFER / MY NAME IS LLOYD THAXTON
 (CAPITOL 4982)がそれで、ゲイリーはプロデュースとソングライティングを担当。
 録音は3月に完成されていたものと
 思われる。LLOYD THAXTON は当時
 HOLLYWOOD 13チャンネルで自身の
 テレビショーを持っていた人気司会者だ。
 曲は両面とも USHER-LANDOWE の
 共作クレジットだが MIKE BORCHETTA
 との共作として BMI に登録されているので
 MIKE BORCHETTA の変名ではないかと
 推測される。
 録音メンバーは DICK BURNS 率いる
 THE TROOPS が行っている。
 MAY 1963 CAPITOL STUDIO
 PRODUCER-ARRANGER GARY USHER
 LLOYD THAXTON - LEAD VOCAL
 GARY USHER - BACK VOCAL
 DICK BURNS - BASS, BACK VOCAL
 PLUS OTHER MEMBERS OF THE TROOPS

   LLOYD THAXTON
 
  
 A面はヴォーカル物だがロイドのヴォーカルスタイルは歌というより語りに近い
 ので特にどうという出来でもないように思えるが、バッキングの方は興味深い
 アレンジが施されている。A-SIDE は後に発表される LITTLE NIFTY FIFTY の
 プロトタイプとなる曲調なので是非 SUPER STOCKS あたりでもう一度録音して
 欲しい曲だった。B-SIDE はサックスをメインにしたダンスインスト。
 この時期から CAPITOL RECORDS はユースカルチャーを把握し本格的に
 SURFIN' & HOT ROD に本腰を入れたプロモーションを展開していく。
 
 この6月にはとても重要なオムニバスアルバムが CAPITOL からリリースされた。
 V.A.「SHUT DOWN」(CAPITOL T/DT-1918)がそれだが、このアルバムでは
 初めて SUPER STOCKS 名義の作品が4曲発表されたのだ。
 WIDE TRACK
 FOUR ON THE FLOOR
 STREET MACHINE
 CHEATER SLICKS
 このうち FOUR ON THE FLOOR と CHEATER SLICKS は FOUR SPEEDS で
 使ったものをリメイクし、ヴァージョンを変えて収録された。アレンジは大きく
 変わっていないが、SUPER STOCKS ヴァージョンではランディトーマスを加えた
 5人でレコーディングされた。
 因みに CAPITOL はこのアルバム
 「SHUT DOWN」に続くかたちとして
 BEACH BOYS のニューアルバムを
 「SHUT DOWN VOL.2」としてリリース。
 この「SHUT DOWN」ではTナンバーの
 モノラルとDTナンバーのデュオフォニック
 (擬似ステレオ)の2種類がリリース
 されたが、DTナンバーの方に録音
 された SUPER STOCKS の曲は全て
 トゥルーステレオで収録されている。
 
 
 同じ6月には FOUR SPEEDS のセカンドシングル FOUR ON THE FLOOR /
 CHEATER SLICKS (CHALLENGE 9202)もリリースされた。
 ゲイリーとロジャークリスチャンの共作、
 プロデュースはゲイリーと MIKE BORCHETTA
 A面ではゲイリーがリードヴォーカルを
 務め、前作同様にホットロッドヴォーカル
 物で出来も良かったがヒットはしなかった。
 FOUR SPEEDS 名義のレコードでは
 これが最後となった。DENNIS McCARTHY
 のパワフルなリードヴォーカルも素晴らしく
 効果的なサックスブレイクとハンドクラッピン
 を導入させる。FOUR ON THE FLOOR とは
 4速ミッション搭載車の意味で、
 これは0〜4仕様に改造された車を指す。
 所謂 2 SIDER シングルだ。
 
 7月には DOT から PENDELTONS 名義で BAREFOOT ADVENTURE /
 BOARD PARTY (DOT 16511)をリリース。A面は以前 FOUR SPEEDS で
 録音されお蔵入りとなっていた MIKE BORCHETTA との共作だが、
 リードヴォーカルを俳優の DON BRANDON に差し替えてコーラスアレンジも
 若干変えて発表された。B面はピアノを効果的に導入したダンスナンバー。
 プロデュースはゲイリーと TOM AYERS がクレジットされている。
 因みにこの PENDELTONS のレコードはその昔ビーチボーイズの変名ではないか
 と言われ、そのためかプライスガイドでは非常に高いプライスが付けられた。
 実際にはビーチボーイズとは違うがビーチボーイズがデビューする前に
 PENDELTONS と名乗っていた時期があった為に混乱を招いたのだろう。
 このレコードはゲイリーの関わったレコードな中でも非常に珍しくプライスも高い。
 
 同じ7月にはもう一枚 GARY USHER AND THE USHERETTES 名義で
 THREE SURFER BOYS / MILKY WAY (DOT 16518)もリリースされた。
 A面は GARY USHER-ROGER CHRISTIAN-T.COST (AKA NICK VENET)
 の共作で、当初はアネットらの BEACH MOVIE の為に書かれていたようだ。
 B面はGARY USHER-ROGER CHRISTIAN 書いた曲で両面プロデュースも
 担当した。このシングルもセールス面では全くの失敗に終わったレコードだが、
 最近では$300 から $400 or MORE で取引されるレコードになっている。
 THE USHERETTES と記載されたバックの女声コーラスグループは
 HONEYS の事でこれも高いプライスの付いている要因だ。A面のAメロを
 彼女達が歌いBメロからリードがゲイリーに変わるアップテンポの曲。
 B面では彼女達のコーラスはフューチャーされておらず、代わりにディックバーンズ
 らのバックコーラスが入っている。こちらはゲイリー得意のティーンロッカーで
 サックスブレイクとハンドクラッピンを導入させる。
 JUNE 1963 STUDIO UNKNOWN
 PRODUCER-ARRANGER GARY USHER
 GARY USHER - RHYTHM GUITAR, LEAD VOCAL
 DICK BURNS - BASS, BACK VOCAL ON MILKY WAY
 DENNIS McCARTHY - KEY BOARD, BACK VOCAL ON MILKY WAY
 RANDY THOMAS - DRUMS, BACK VOCAL ON MILKY WAY
 GINGER BLAKE - BACK VOCAL ON THREE SURFER BOYS
 MARILYN ROVELL - BACK VOCAL ON THREE SURFER BOYS
 DIANE ROVELL - BACK VOCAL ON THREE SURFER BOYS
 
 更に7月にはもう一枚 CAPITOL からゲイリー関連のシングルがリリースされた。
 DICK DALE & THE DEL-TONE の SURFIN' AND A SWINGIN /
 SECRET SURFIN' SPOT (CAPITOL 5010) 両面ともにゲイリーと
 ロジャークリスチャン作で、映画「BEACH PARTY」に出演したディック自身
 によって劇中で歌われている。
 レコーディングにはゲイリーやゲイリーのミュージシャン達がノンクレジットながら
 参加しているとのこと。A面のタイトルは当初 SWINGIN' AND SURFIN' として
 完成されていた。
 ディックデイルは友人の LEO FENDER
 (FENDER 楽器のオーナー)に注文し
 携帯用リヴァーヴユニットを開発させた
 経歴を持つ。左利きギターリストの
 ディックはフェンダーストラトキャスター
 を小刻みに奏でるスタッカート奏法で
 強烈なリヴァーヴをかけた。
 このへヴィーなサウンドで彼は人気を
 博していた。その凄まじいサウンドは
 大きなうねりと迫力を持ったもので、
 彼の素晴らしいピックさばきはサーフギター
 のみならずギタープレイスタイルにおいて
 革命的な存在だった。ゲイリーはこう
 語っている「私とディックデイルの最初の
 出会いは、彼が映画 BEACH PARTY

     DICK DALE
 の中で私とロジャーが書いた曲を歌うことになった時でした。私は彼と映画の
 セットの上で会いました。彼は当時西海岸ではビッグな存在だったので、
 彼のボディガードもしました。当時彼は黒いキャディラックに乗ってました。
 その後、私と彼は一緒にスタジオに入り、彼が映画で歌う2曲をレコーディング
 しました。私は彼と出会うちょっと前にプロデューサーになったばかりだったので、
 彼のようなビッグなアーティストと仕事ができるなんて信じられませんでした。
 しかも私がプロデュースをし、バッキングに加わったそのレコードは L.A. の
 チャートのトップ10に入ったのです」
 そして KING OF THE SURF GUITAR と呼ばれていたディックデイルも
 ゲイリーとの出会いによってヴォーカルナンバーを多く取り上げるようになった。
 因みにフランス盤の EP ではバックコーラス無しの SECRET SURFIN' SPOT
 が収録されている (FRANCE CAPITOL EAP-1 20554)
 
 
 8月には VAULT RECORDS から GRAND PRIX というグループのシングル
 CANDY APPLE BUGGY / 41 FORD (VAULT 906)がリリースされた。
 これはこれは表面上は CHALLENGERS のドラマーでコンポーザーである
 RICHARD DELVY の作品という事になっているが、レコーディングには
 ゲイリーアッシャーもバックヴォーカルで参加したと言われている。
 これは後に BOYCE & HART として人気作家となる若き BOBBY HART が
 リードヴォーカルを務め BELAIRS の PAUL JOHNSON がギターで参加している。
 A 面はB.HARRIS-S.RIDDLE-R.DELVY B面はR.HEISS-T.HUGHES
 両面とも PAUL JOHNSON の派手なギターがフューチャーされており
 プロデュースは RICHARD DELVY

 更に8月には SUNSETS の3rd シングル MY LITTLE SURFIN' WOODIE /
 MY LITTLE BEACH BUNNY (CHALLENGE 9208)を発表。録音は7月に完成した。
 JULY 1963 RADIO RECORDERS STUDIO
 PRODUCER-ARRANGER GARY USHER
 GARY USHER - RHYTHM GUITAR, LEAD VOCAL
 DICK BURNS - BASS, BACK VOCAL
 DENNIS McCARTHY - KEY BOARD, BACK VOCAL
 WAYNE EDWARDS - DRUMS, BACK VOCAL
 両面ゲイリーとロジャークリスチャンの共作、プロデュースはゲイリーが担当。
 A面は当初 SURFIN' WOODIE としてゲイリーとロジャークリスチャン、ブライアン
 ウィルソンの3人によって書かれ、その後映画「MUSCLE BEACH PARTY」で
 収録されている。このシングルでは両面ともゲイリーがリードヴォーカル
 をとっている。A面は曲調といい、アレンジといいこの時期の典型的な
 ゲイリーアッシャーサウンドだ。B面の方は、やや引きずるようなミドルテンポの
 曲でこれは当時未発表ながら ASTRONAUTS もレコーディングしている。
 ASTRONAUTS の録音は SUNSETS がリリースした8月の一ヵ月後の9月で
 どのような経緯でこの曲が録音されたのか興味深い。
 
 HOT PASTRAMI のヒットでも有名な DARTELLS がシングルをリリース。
 CONVICTED / SWEET PEA (DOT 16551)

DARTELLS
 B面はゲイリーが書いたヴォーカルものだがこれがおよそゲイリーらしくない
 ホーンセクションを取り入れたライチャスブラザース風のジャンプナンバーだ。
 このスタイルは TROOPS 時代に書かれていたものと推測出来るが、
 リズムアンドブルーズスタイルのためにマニアコレクターにしかお勧めできない。
 プロデュースは PENDELTONS でも登場した TOM AYERS が担当している。
 因みにこの DARTELLS にはギターリストとして DICK BURNS という人物が
 在籍しているが、これは同名異人である。
 
同9月にビーチボーイズの
3rd ALBUM「SURFER GIRL」
(CAPITOL T-1981 / ST-1981)
がリリースされた。このアルバム
にはゲイリーとブライアンの共作
IN MY ROOM を収録。
この後にアルジャーディンが
グループに復帰する。
 
 10月に入ると VAULT RECORDS から QUADS というグループ名義で
 SURFIN' HEARSE / LITTLE QUEENIE (VAULT 907)もリリースされている。
 SURFIN' HEARSE とは「サーフィン葬儀車」の意味。葬送行進曲のフレーズを
 ピアノでフューチャーした作品で、引きずるようなミドルテンポで歌われる。

PAUL JOHNSON
これも同レーベルの GRAND PRIX
と同様に若き BOBBY HART が
リードヴォーカルを務めており
BELAIRS の PAUL JOHNSON
がギターで参加している。
PAUL JOHNSON はルックスも
良く、以前 AL JARDINE が
ビーチボーイズを一時期脱退する
時に穴埋めとしてビーチボーイズ
に参加を打診されているが
それを断っている他にも
その後ゲイリーが HONDELLS
のヒットに合わせてツアーメンバー
の参加を打診したが、それも
断り DAVE ALLAN 率いる
THE ARROWS に参加したという
顔に似合わず硬派なギタリストだ。

 

TEST PRESS
QUADS のレコーディングだが、
これは元 BELAIRS のメンバーで
CHALLENGERS を結成させた RICHARD DELVY のプロダクション
で前記の GRAND PRIX と
実質的には同じグループに
ゲイリーが参加した。
因みにB面のLITTLE QUEENIE
はその後リリースされたアルバム
には未収録のチャックベリー
カヴァー。
 
 COMPETITORS 名義のシングルが10月にリリースされた。これは11月
 リリースのアルバムからの先行シングルで両面ともゲイリー作曲&プロデュース。
 LITTLE STICK NOMAD / POWER SHIFT (DOT 16560) A面ではその後すぐに
 ゲイリーのプロデュースでシングルをリリースする俳優の DON BRANDON が
 ヴォーカルをとっている。B面は CAR EFFECTS と TWANGY なギターを効果的に
 使った軽快なインストナンバーに掛け声とコーラスを導入させている。
 
 更に同じ10月には CAPITOL からオムニバスアルバムの名盤
 「HOT ROD RALLY」(CAPITOL T/ST-1997)がリリースされた。
 このアルバムではSUPER STOCKS が6曲収録され、HOT ROD ROG
 (ROGER CHRISTIANの変名)が2曲、そして SHUT DOWN DOUGLAS
 (STEVE DOUGLAS の変名)が4曲収録された。HOT ROD ROG は
 BELAIRS の PAUL JOHNSON がギターで参加している他、演奏や
 バックヴォーカルをゲイリーとゲイリーのミュージシャン達がやっているので、
 全12曲中8曲までがゲイリーアッシャーのプロダクションと言える。
 更に SHUT DOWN DOUGLAS のトラックもゲイリー達が演奏に参加
 しているので、実質的にはゲイリーが仕切ったコンセプトアルバムと言えるだろう。

日本盤

       アメリカ盤
 
 STEVE DOUGLAS は西海岸
 きってのロックンロールサックス
 プレイヤーとして多くの作品に参加
 している。
 有名なところではフィルスペクターや
 ビーチボーイズ作品、そして多くの
 SURFIN' & HOT ROD 作品で迫力の
 サックスプレイを聴かせる。

 STEVE DOUGLAS
 
 なお HOT ROD ROG 名義で収録した LITTLE STREET MACHINE は
 もう一つのオムニバスアルバム「SHUT DOWN」に SUPER STOCKS 名義
 で収録された STREET MACHINE と同一曲で、リードだけを変更したもの。
 このアルバム「HOT ROD RALLY」で収録された SUPER STOCKS 名義の
 曲の中では LITTLE NIFTY FIFTY の出来が素晴らしい。
 この仕事ぶりが認められ、ゲイリーは
 後に SUPER STOCKS 単独名義の
 アルバム製作を許される事になる。
 このオムニバス「HOT ROD RALLY」
 は当時日本でもリリースされたが、
 日本だけでシングルカットされており
 スーパーストックス - ホットロッドシティ
 シャットダウンダグラス - ツインカット
 アウトのカップリングで発売され
 一部の熱心なファンの間では話題に
 なったという。
 
 これらのリリースに合わせて CAPITOL
 ははプロモーション用アルバムを製作。
 「HOT ROD MUSIC ON CAPITOL」
 (CAPITOL PRO-2480) ここで収録された
 のは SUPER STOCKS 名義の
 FOUR ON THE FLOOR と
 HOT ROD CITY、そして HOT ROD ROG
 名義の LITTLE STREET MACHINE
 
 10月28日に BEACH BOYS のシングル BE TRUE TO YOUR SCHOOL /
 IN MY ROOM (CAPITOL 5069)がリリースされた。CAPITOL RECORDS は
 このシングルリリースを期にビーチボーイズと長期契約を結んでいる。
これは所謂両A面扱いのシングル
でブライアンウィルソンとゲイリーの
共作である IN MY ROOM は
1963年11月2日をピークに
全米23位のヒットとなった。
この曲はブライアンの内向性を
現したバラードで、父マリーも
この曲の完成度を高く評価した。
因みに冒頭で挿入される美しい
ハープはマイクラブの妹モーリーン
によるもの。当時 BEATLES が
ドイツ語詞による歌を録音したため
CAPITOL RECORDS から
 「BEACH BOYS も同様にドイツ語詞で歌ってみてはどうか」と打診されて
 IN MY ROOM を「GANZ ALLEIN」(完全なる孤独)と訳し、ドイツ語で1964年3月
 に録音した。作詞者であるゲイリーもこの IN MY ROOM を気に入っており
 その後 CURT BOETTCHER に歌わせて SAGITTARIUS の TOGETHER RECORDS
 移籍第1弾シングルとしてリリース。そのシングルも1969年8月2日をピークに
 全米86位ながらチャートに入っている。
 
 ★1963年11月1日 南ベトナムでクーデター勃発
 11月に入り、REPRISE からは TIMERS 名義でシングルをリリース。
 NO GO SHOWBOAT / COMPETITION COUPE (REPRISE 231)
 このシングルはゲイリーアッシャーとブライアンウィルソンのプロジェクトで
 A面はビーチボーイズのカヴァーだが、ワイルドな仕上がりでゲイリーのカラー
 が強く出た仕上がりになっている。このレコーディングに CASTELLS の
 CHUCK GIRARD が参加しているが、これがきっかけに CHUCK はゲイリーの
 セッションに多数参加していくことになる。またこれが後にブライアンから
 名曲 I DO をプレゼントされる布石にもなったのである。
 チャックによると NO GO SHOWBOAT では高い方のパートをブライアンと
 チャックがファルセットで歌い、低い方のパートをゲイリーとチャックが歌った
 という。B面の COMPETITION COUPE は素晴らしい疾走感を持った
 ドライヴィングホットロッドチューンの大傑作。
 
 同じ11月に入って ROADSTERS 名義の MAG RIMS / CANDY MATIC
 (DONNA 1390)がリリースされている。A面はゲイリーとディックバーンズ
 が書いた曲だが、ゲイリー達がレコーディングに関わっているかは不明。
これはワイルドなホットロッド
インストだが、凄まじい音圧を
かけた傑作で,この曲はゲイリー達
が演奏したデモ音源も確認
されている。
因みにB面はルーズなテンポ
だがギターの技巧が聴き物の
エレキインスト。
 
 また同じ11月にディックデイルが「CHECKERD FLAG」(CAPITOL T/ST-2002)
 のアルバムをリリースしたが、この中で MAG RIMS を MAG WHEELS
 と改題して取り上げている。ディックはこのアルバムの中で他にも
 BIG BLACK CAD や
 426 SUPER STOCK といった
 ゲイリーアッシャーの曲を収録。
 これらはゲイリー達がバッキングに
 参加したものだ。更にゲイリーは
 このアルバムでノンクレジットながら
 THE SCAVENGER と GRUDGE RUN
 の GARY PAXTON が書いた2曲を
 除いた10曲でアレンジを担当したという。
 アルバムからのシングルカットで
 THE WEDGE / NIGHT RIDER
 (CAPITOL 5098)がリリースされている。
 因みに THE SCAVENGER は既にシングルカットされており10月26日
 をピークに全米98位のヒットとなった。この曲の作者は SKIP & FLIP や
 HOLLYWOOD ARGYLES でも有名な GARY PAXTON で、彼は共通の友人
 でもある KIM FOWLEY に紹介されゲイリーアッシャーと出会い、この DICK DALE
 のアルバムで共に名を連ねる事となった。その後この二人は CAPTIVATIONS や
 ROAD RUNNERS 等を手掛けてる。ついでに補足だが、GARY PAXTON 自身も
 翌年自らの GARPAX レーベルで THE SCAVENGER をソロ名義でシングルリリース
 している。
 
 また11月に ED ROTH のイラスト RAT FINK をモチーフにしたアルバム
 Mr.GASSER AND THE WEIRDOS 名義を CAPITOL がリリース。
 「HOT ROD HOOTENANNY」(CAPITOL T-2010 / ST-2010)
 これにもゲイリー達がヴォーカルで参加している。演奏は HAL BLAINE
 STEVE DOUGLAS、DAVID GATES、JERRY COLE、LEON RUSSELL らに
 よるもので、ヴォーカルには他にも DARLENE LOVE、ROBIN WARD も
 参加した異色のノヴェルティアルバムだ。
 ED "BIG DADDY" ROTH はその奇抜なデザインのキャラクターを用いて 
 SURFIN' / HOT ROD のサブカルチャーシーンに独自の BEATNIK 思想を
 持ち込んだ人物で、現在も高い支持を得る。

ED "BIG DADDY" ROTH

当時フランスでもリリースされた EP
 
 11月にはゲイリーにとって重要なアルバム COMPETITORS 名義の
 「HITS OF THE STREET AND STRIP」(DOT DLP-3542/25542)がリリース
 された。このアルバムでゲイリーはプロデューサーとしてクレジットされているが
 レコーディングにはゲイリーの他にリッチーバーンズ、デニスマッカーシー
 ランディートーマスの4人で行われ、俳優の DON BRANDON がリードヴォーカル
 を務めた「LITTLE STICK NOMAD」等が収録されている。
ゲイリーも含めたったの5人で
レコーディングされたためか、
音はやや控えめだがアレンジは
アルバムを通じて良い。
このアルバムはゲイリーが過去に
色々なグループ名義でリリース
してきた楽曲を用いている。
例えば CHEATER SLICKS や
426 SUPER STOCK 等で
占められておりゲイリー作品の
初期の集大成といえるものだ。
 因みに COMPETITORS のシングルは
 当時日本でもリリースされており
 ホットロッド第1号 / ホットロッド409
 (ビクター JET-1464) なぜかB面は
 ビーチボーイズのカヴァー「409」に
 差し替えて発売された。

     日本盤シングル
 
 ★1963年11月22日ジョンFケネディー大統領暗殺
 12月にはゲイリー関連のアルバム「HOT ROD CITY」(VAULT V/VS-104)
 がリリースされた。このオムニバスでは CUSTOMS名義のゲイリーのグループが
 RPM, COMPETITION COUPE, HOT ROD CITY, 54 CORVETTE, NIFTY FIFTY
 の5曲を収録。他にも先に紹介した QUADS, GRAND-PRIX らの4曲が収録
 されている。この QUADS と GRAND-PRIX では BOYCE & HART として
 人気作家となる BOBBY HART がリードヴォーカルを務めている。
 彼は後の VENTURES メンバーで JAMES BURTON に憧れて西海岸に
 出てきたばかりの GERRY McGEE とも当時行動を共にしていた。

   当時のBOBBY HART
 CUSTOMS 名義で収録した曲はどれもゲイリーが過去に別名義でリリース
 してきた曲だが、この CUSTOMS ヴァージョンは荒々しくワイルドなガレージ
 サウンドとなっており、こちらも評価が高い。
 元 BELAIRS のドラマー RICHARD DELVY
 とキーボードの JIM ROBERTS が
 CHALLENGERS を結成させて
 VAULT RECORDS の契約グループと
 なった。RICHARD DELVY は早速
 プロダクションを設立し本件アルバムの
 企画を作りレコーディングの指揮をとって
 いる。その人脈で QUADS と GRAND-PRIX
 の録音では BELAIRS のリードギタリスト
 PAUL JOHNSON が参加している。

      BELAIRS
  
 同じ12月には CAPITOL からもオムニバスアルバム「BIG HOT ROD HITS」
 (CAPITOL T/ST-2024)がリリースされた。
 これはビーチボーイズやディックデイル
 等の既発の音源を集めたもので
 ゲイリー関連では SUPER STOCKS の
 HOT ROD CITY と HOT ROD ROG の
 LITTLE STREET MACHINE が収録
 されている。
 
 BRUCE JOHNSTON & TERRY MELCHER によってスタジオ録音されて
 大ヒットとなった RIP CHORDS の「HEY LITTLE COBRA」(1963年12月14日
 ピーク全米4位)がある。この曲はキャロルコナーズの書いたホットロッドの名曲
 だが、キャロルコナーズは名車 COBRA の発案者である CARROLL SHELVY
 から依頼を受けてフォードモーターズのキャンペーンソングとしてこの作品に
 着手した。当初、兄と一緒に書き始めたキャロルコナーズは中々曲を完成出来ず
 ゲイリーは作曲中のキャロルコナーズにブリッジの部分をアドヴァイスしている。
 出来上がった曲は TERRY MELCHER が気に入り、キャロルコナーズの
 手から離れ、レコーディングは RIP CHORDS = BRUCE & TERRY に
 手渡された。キャロルコナーズの話によると、この曲の試作段階では
 BRIAN WILSON と JAN BERRY にも歌わせたらしいが、そのヴァージョンは
 録音されなかった。この流れでいくと、そこにはゲイリーもいたと思われる。
 
 これと同様に BRUCE JOHNSTON と STEVE DOUGLAS のセッション
 ユニットである VETTES の「LITTLE FORD RAGTOP」にもブリッジの部分を
 アドヴァイスしている。これも12月にリリースされたもので、こちらはヒット
 しなかったが NICK VENET がプロデュースを手掛けたホットロッドの傑作。
 
 1963年に LONDON RECORDS の配給でリリースされたシングル
 ROAD RUNNERS - QUASIMOTO / ROAD RUNNAH (FELSTED 8692)
 だが、これにゲイリーは参加。両面とも軽快なインストチューンで
このシングルの A-SIDE
QUASIMOTO は作曲者クレジット
が THE ROAD RUNNERS と
なっており B-SIDE ROAD
RUNNAH は B.BUCKLES と
なっている。この B-SIDE は
翌年にGARY PAXTON の
コンセプトで LONDON RECORDS
からアルバムをリリースした
THE ROAD RUNNERS でも
音源は使われる。
 
 アルバム「THE NEW MUSTANG」(LONDON LL-3381/PS-381)で収録された
 「ROAD RUNNAH」はこのシングルヴァージョンよりテンポを遅くされている。
 またこの曲は、やはり LONDON RECORDS の配給下にあった PYRAMIDS の
 アルバムの1964年のセカンドプレス - THE ORIGINAL PENETRATION ! AND
 OTHER FAVORITES (BEST BR-16501 / BS-36501) に収録された。
 PYRAMIDS の著作権も GARY PAXTON の GARPAX RECORDS が持っており
 共に LONDON RECORDS の配給下にあることからこれらの関係は深い。
 このシングルの参加は GARY USHER, CHARLIE CASPER, DAVE SCHEIBACH,
 JERRY SCHILLINGER,JOHN YOUNGBLOOD とされており、このメンバーは
 LONDON RECORDS でのアルバムでもクレジットされている。
 
 こうしてゲイリーにとっての1963年は終わった。
 以上に紹介した通り、ゲイリーはこの63年にたくさんのセッションをこなし
 数々のレコードをリリースしてきた。これはゲイリーにとって非常に有意義な
 年だった言えよう。また各レコード会社やスタジオミュージシャン達と強力な
 コンタクトを得たという点においても、実りの多い年だっただろう。
 こうしてゲイリーは西海岸を発信地に若者のユースカルチャーやライフスタイルを
 テーマとしたサーフィン&ホットロッドミュージックシーンを監督する足場を
 固めていった。この年にゲイリーが発表した様々なレコードは、ゲイリーが
 ブライアンウィルソンから離れ、音楽業界の中で自分が生きるべき道を
 試行錯誤の末に模索した結果でもある。
 しかし不幸にもゲイリーアッシャーには、まだ大きなヒットがなかった。
 

1964年 MASSACHUSETTS THE EVENING GAZETTE 誌にて
以前住んでいたマサチューセッツ州 WESTBORO 出身の
ホットロッドコンポーザーとして紹介されたゲイリーアッシャー。
ここでも書かれているがゲイリーのように二つの音楽出版を用い
キャピトルと複数の契約をするのは初めての事だった。
これはテーマミュージックの普及に際して一人の若きコンポーザーが
多面的な活動をメジャーレーベルに認めさせた事実を物語っている。
 
 THE GOLDEN YEAR 1964 / JUST A HARD WORKING GUY
 1963年にゲイリーアッシャーがアセテート盤に残したデモヴァージョンの歌が
 ある。この曲は「CONEY ISLAND WILD CHILD」という歌で
 GARY USHER-ROGER CHRISTIAN が作者としてクレジットされている。
 この曲は GARY LEE USHER-ROGER VAL CHRISTIAN 名義で BMI に登録
 された。ゲイリーの歌うこのヴァージョンはかっこいいアップテンポロッカーで
 ニューヨークのロングアイランドにある名物遊園地コニーアイランドをテーマ
 にしている。間奏部分でもフレディキャノンの1962年大ヒット
 PALISADES PARK を意識したオルガンフレーズが入り、また以前
 ブライアンウィルソンと共作した COUNTY FAIR と同様にアミューズメントパーク
 路線を踏襲したものだった。ハンドクラッピングのビートが入ったこの傑作は
 エンディングでも3部コーラスを導入させるなど完成度の高さを誇る。
 しかし何故かお蔵入りになっていたこのアセテートオンリーの曲が東海岸の
 PHILADELPHIA と BOSTON の二つのグループによって録音され発売された。
 先ずは1964年に BILLY HARNER AND THE EXPRESSIONS により
 CONEY ISLAND WILD CHILD / FEEL GOOD (LAWN 244)がリリースされた。
 また翌年の1965年には BOSTON のMYST が CONEY ISLAND WILD CHILD
 / I'M CRYING (OPEN 1252)をリリース。

BILLY HARNER & THE EXPRESSIONS

       MYST
 
 この CONEY ISLAND WILD CHILD は
 テーマからして東海岸側からオファーの
 入りやすい曲で、もしくはオファーが入り
 その後に曲が書かれたのだろうか。
 曲そのものは NIFTY FIFTY や LITTLE
 STICK NOMAD をプロトタイプにした様な
 ワイルドなフレーズをつなぎ合わせた
 曲で、ゲイリー自身もこの曲によって
 次なるテーマミュージックを模索して
 いたように思える。ブライアンウィルソン
 より年上のゲイリーアッシャーは元々
 自身のアイドルが50年代後期のロッカー
 だった為に、かっこいいロッカーチューン
 も書けるソングライターであった事を
 改めて知る作品だ。
 
 
 以前ゲイリーが TIMERS 名義でリリースした COMPETITION COUPE を
 コロラドの ASTRONAUTS もレコーディングしており、彼らのホットロッドアルバム
 COMPETITION COUPE (RCA VICTOR LPM / LSP-2858)に収録され
 1964年1月にシングルカットもされた。
 COMPETITION COUPE / SURF PARTY (RCA VICTOR 47-8298)
 こちらも間奏のギターソロも決まっており、聴き応えのあるヴァージョンに
 仕上がっている。B面はタイトなエレキインスト。両面とも AL SCHMITT が
 プロデューサーとしてクレジットされているが、B面ではゲイリーがプロデュース
 を手助けしている。因みに ASTRONAUTS は本来インストバンドだが DICK DALE
 や SURFARIS等のストラトキャスター派とは異なり、TRASHMEN や CHALLENGERS
 や PHIL SLOAN も得意としていたエコーチェンバーが綺麗にかかりやすく
 中間音域にヴァリエーションを持つジャガーやジャズマスターを用い、その心地よい
 ドライヴ感を売り物にしていた。

ALBUM

  COMPETITION COUPE
  を収録したプロモ EP
 
 ★1964年1月20日 CAPITOL RECORDS に移籍した THE BEATLES
   の CAPITOL からのファーストアルバム「MEET THE BEATLES !」
   がリリースされる
 

 ゲイリーは非常に需要の多いプロデューサーであった。大ヒットしたレコードが
 あったわけでもないのに、これだけの数のレコードを製作できたというのは
 ゲイリーの持つ独特なヴィジョンがユースカルチャーに浸透していったからだ。
 だがこの当時はフィルスペクターやブライアンウィルソンといった若く、鋭い
 感性を持った有能なプロデューサー達が台頭してきた頃でもあった。
 各レコード会社は彼らの成功を横目にロックンロール部門に力を入れ、
 彼らに続く有能なプロデューサーを必要としていた。
 当時の音楽業界にこうした背景があったため、作曲、プロデュース、アレンジ、
 更には歌も歌えるというマルチな才能を持ったミュージシャンを求めていたのは
 ビートルズのアメリカ進出を見るまでもなく必然的な流れだった。
 しかしビートルズのアメリカ進出前夜には、アメリカの音楽業界は間違いなく
 世界をリードしていた。ゲイリーに対する需要は、ゲイリーがかつては
 ブライアンウィルソンのパートナーだったという肩書きも有利に働いていた。
 しかしまた肩書きだけでは通用しない世界において、ゲイリーは着実に力を
 つけて、その才能を開花させようとしていた。
   
 1964年に入ると、先ずゲイリーは DECCA のプロデューサーである
 CHARLES DANT に呼ばれ、SURFARIS のアルバム「HIT CITY '64」の
 製作を手伝って欲しいとの要請を受けた。SURFARIS は「WIPE OUT」で
 一世を風靡した GARAGE BAND だった。あまりにも有名な彼らのファーストプレス
 「SURFER JOE / WIPE OUT」(DFS 11/12)だが、これは ORIGINAL SOUND
 RECORDS の PAUL BUFF が持ってる PAL STUDIO (当時 FRANK ZAPPA は
 ここのエンジニアーでこのシングルも彼が担当した)で録音して
 100枚(500枚説もあり)を1962年10月にリリースした。レーベル名 DFS は
 彼らのマネージャー DALE FRANCIS SMALLEN から名づけた。
 この録音は「SURFER JOE」がメインで、B面の録音が必要となり
 セッション中に片手間で録音した3つの曲のうち1つが「WIPE OUT」だった。
 他の2曲は LIVELY ONES のカヴァー「HOT DOGGIN'」「HIGH TIDE」だった。
 このシングルはその同年12月に PRINCE RECORDS から再リリースされるが
 これは RICHARD DELVY と JOHN MARASCALCO の運営する会社だった。
 JOHN MARASCALCO は LITTLE RICHARD の一連のヒット曲の共作者
 としても有名で、ロスアンジェルス周辺の多くのローカルレーベルの運営に
 携わっている有名な出資者で、PRINCE RECORDS と同様に VAULT RECORDS
 もその後 RICHARD DELVY と共同運営をしていく。
 当時自身のバンド BELAIRS を維持しながら PRINCE RECORDS を経営してた
 RICHARD DELVY こと RICHARD DELVECCHIO (後の CHALLENGERS)だが、
 彼は若いのに金の儲け方を知ってる人物で「WIPE OUT」が売れると判断して
 エンディングを短くフェイドアウト処理し増量プレスする。RICHARD DELVY は
 すぐさまラジオ局の友人達にプッシュした。DOT RECORDS がこの曲に
 興味を示してきたので RICHARD DELVY は高値で売り払っている。
 結果として DOT 盤のシングルは「WIPE OUT」が1963年6月22日を
 ピークに全米2位の大ヒットとなりカップリングの「SURFER JOE」まで全米62位
 のヒットとなった。早速 DOT RECORDS はアルバムを作って売り出そうとし、
 RICHARD DELVY は SURFARIS のメンバーを DOT のスタジオに連れて行き

THE SURFARIS
カヴァー曲を中心にアルバム
録音を行った。
しかし SURAFARIS の録音した
トラックが荒かったとめに
RICHARD DELVY は「オーヴァー
ダビングをしなければいけない」
と RON WILSON に伝えたが、
結果として「SURFER JOE」と
「WIPE OUT」以外のアルバム
収録曲は RICHARD DELVY 率いる
CHALLENGERS がプレイした
音源が収録されていた。
このアルバムの音源を聴いて
SURFARIS のメンバーは驚いた
という。RICHARD DELVY は
原曲のトラックの所有権を持って
はいたがそれ以外の録音に
 対して手を加える権利があったのかという部分で SURFARIS のメンバーと
 論争になった。 また「WIPE OUT」のヒットで売れっ子となった SURFARIS だが
 彼らが未成年だった為にツアーメンバーは SURFARIS 本体ではなく
 後の MAR-KETS の別ユニットとしても活動する VULCANES (VALCANES)
 が SURFARIS を名乗ってライブをする。この VULCANES は SURF BUNNIES
 なんかのバックを努めるセッショングループだった。
 
 結局 SURFARIS は DOT RECORDS とは継続契約をせず DECCA RECORDS
 の辣腕プロデューサーだった CHARLES "BUD" DANT に打診して DECCA
 RECORDS と契約を結んだ。その結果最初に DOT RECORDS からリリース
 された彼らのファーストアルバムはメンバー写真の使用権について
 DECCA RECORDS がクレームをつけた為に DOT 盤の増量プレスについては
 メンバーの写真を使ってない。これらの事柄を考慮すれば使い捨てされそうになった
 SURFARIS が DECCA RECORDS に移籍し、またその後も中々チャンスに
 恵まれなかった為に GARY USHER のプロデュースに頼ったのもよく解る。
 SURFARIS は WIPE OUT のヒット後に
 多額の契約金で大手の DECCA へと
 移籍してきたのだが、期待を裏切り
 大きなヒットを出せずにいた。
 ゲイリーはロジャークリスチャンと共作
 したヴォーカル曲 WAX, BOARD AND
 WOODIE を DECCA に提出した。
 このアルバムにはこの曲しか提供
 しなかったが、これがきっかけとなり
 後にゲイリーは DECCA にプロデューサー
 として迎えられる事になった。
 DECCA は RON WILSON のヴォーカルと
 ドラムプレイこそが SURFARIS の価値だと
 思っていた。しかし CHARLES DANT は SURFARIS のセッション録音に
 いつも不満を持っており試行錯誤していた。後年 RON WILSON は「録音された
 音源は時折デモ音源のままミックスされていた」と CHARLES DANT の
 失敗を嘆いている。恐らくそれが原因だったのか、その後日本でリリースされた
 シングルの「太陽のビート / サムシン エルス」のB面は片チャンネルだけの
 音源でプレスされている。BRITISH INVASION の勢力がアメリカのミュージック
 シーンに影響を与え始めていた事に気づいていた GARY USHER は彼らを
 名うてのセッションミュージシャン達と一緒に録音を体験させる事で活路を
 見出そうとし RON WILSON のヴォーカルを引き立てようと努力している。
 
 2月にはゲイリーのソロシングル THE BEETLE /JODY (CAPITOL 5128) が
 リリースされた。THE BEETLE は綴りこそ違うがビートルズをモチーフにした曲で
 ビートルズアメリカ上陸のカウンターリアクションとして製作された。
 両面ともゲイリーとロジャークリスチャンの共作で、プロデュースは CAPITOL
 のヴォーカル系専門プロデューサーの KERMIT WALTER と共同で行った。
 イントロのへヴィなギター、力強いバック、スリリングな曲の展開、
 タイトな HAL BLAINE のドラムも決まったこのティーンロッカーはリスナーに
 インパクトを与えるには充分な出来だったが、ヒットには至っていない。
  
 3月に入ると DICK DALE AND THE DEL-TONES - MR.ELIMINATOR /
 THE VICTOR (CAPITOL 5140)がリリースされている。これにもノンクレジット
 ながらゲイリーとゲイリーのミュージシャンがバッキングヴォーカルとして参加。
 
 さて、この3月にはゲイリーが音楽を担当した映画「MUSCLE BEACH PARTY」が
 封切りされた。これはアネットとフランキーアヴァロンが出演した
 「BEACH PARTY」の続編で映画には
 DICK DALE, DONNA LOREN,
 STEVIE WONDER らも出演している。
 因みに MUSCLE BEACH とは
 VENNIS BEACH の俗称で、同地では
 筋肉自慢のコンテストが頻繁に行われ
 ている事から、そう呼ばれている。
 前作「BEACH PARTY」に続き音楽を
 依頼されたゲイリーはロジャー
 クリスチャンと話し合った末に、
 ブライアンウィルソンにも協力を
 要請している。ゲイリーアッシャー、ロジャークリスチャン、ブライアンウィルソン
 が共作し、3人がこの映画のために書いた曲は全6曲である。
 
 @ SURFER'S HOLIDAY / ANNETTE, FRANKIE AVALON
 冒頭のシーンでみんなでビーチ向かう車の中で歌われる。リードヴォーカルは
 アネットとフランキーで、ディックデイルのギターソロがフューチャーされている。
 ゲイリー自身が同じバックトラックでリードをとったデモヴァージョンも存在し、
 ゲイリーによれば、これにアネットとフランキーがヴォーカルを被せたらしい。
 
 A MY FIRST LOVE / DICK DALE AND THE DEL-TONES
 アネットとフランキーが出かけたダンスパーティー。そこでディックデイルが
 デルトーンズを従えて歌う。奇抜なメロディーの曲だが、力強いバッキングが
 施されている。
 
 B MUSCLE BEACH PARTY / DICK DALE AND THE DEL-TONES
 MY FIRST LOVE に続きディックデイルが歌う。
 
 C RUNNING WILD / FRANKIE AVALON
 ダンスパーティーの途中、フランキーが突然立ち上がり、これを歌う。
 
 D MUSCLE BUSTLE / DICK DALE AND DONNA LOREN
 ディックとドナローレンが歌う。

DICK DALE & DONNA LOREN

 E SURFIN' WOODIE / CAST (ACAPPELA) LEAD BY DICK DALE
 ビーチでみんながディックを取り囲んで歌う。アカペラでリードはディックだが
 たったのワンコーラスで次のシーンへと移ってしまう。



 
これらの曲は、映画のワンシーンで
使われているものなので、
途中セリフが入ってしまいレコードの
ようには楽しめないが、映画で使われ
ているヴァージョンは全てレコード化
されていないので貴重である。
映画で使われたヴァージョンの
バックトラックのレコーディングでは
GARY USHER, DICK BURNS、
DENNIS McCARTHY,LES WEISER,
他にもブライアンウィルソンもピアノと
バックコーラスで参加していると
ゲイリー自身が語っている。
この映画が公開された3月には
アネットがこれにあわせてアルバム
「MUSCLE BEACH PARTY」
(BUENA VISTA BV/STER 3314)を
リリースした。
前作アルバム「BEACH PARTY」
(BUENA VISTA BV/STER 3316)
より若い番号なのは ANNETTE
のソロアルバムと分けていた
為だろうか。
 
ANNETTE ALBUM

   ANNETTE SINGLE
 
インタヴューレコード

    日本盤シングル
 
 このアルバムに収録された3曲 MUSCLE BEACH PARTY,
 SURFER'S HOLIDAY, MUSCLE BUSTLE はアルバム用に再レコーディング
 されたもの。SURFER'S HOLIDAY は当初はタイトルを
 SURFIN' HOLIDAY として書かれていた。この曲は MUSCLE BEACH PARTY
 のB面で日本盤のみシングルカットされている。因みに JAN & DEAN も
 UNRELEASED ながらこの曲を1963年に録音した。その為に当初は JAN & DEAN
 のアルバムに収録予定の曲だったとも推測される。
 
 ゲイリーとロジャークリスチャンはこのアルバムのために新たに
 CUSTOM CITY, DRAGGIN' U.S.A., REBEL RIDER, WAIKIKI,SHUT DOWN AGAIN
 の5曲を提供している。アルバムはそこそこの ヒットとなり1964年3月に
 CUSTOM CITY / REBEL RIDER (BUENA VISTA 432) と
 MUSCLE BEACH PARTY / I DREAM ABOUT FRANKIE (BUENA VISTA 433)
 がシングルカットされた。CUSTOM CITY / REBEL RIDER のシングルは
 MUSCLE BEACH PARTY / I DREAM ABOUT FRANKIE と連番でプレスされ
 アルバムリリースと時期が重なった為にプロモーションも弱く短期間で
 回収されているために非常にレアである。またゲイリーとロジャークリスチャン、
 ブライアンウィルソンの3人の個性が表れている MUSCLE BEACH PARTY だが、
 この曲調は BEACH BOYS の「CHERRY、CHERRY COUPE」(原曲 LAND AHOY)
 から、その後ゲイリーの SUPER STOCKS の「SURF ROUTE 101」や
 「MALIBU BLUES」にも通低する、のどかな主旋律を持つ。
 また、3人によってこの映画の為に書かれた RUNNIN' WILD は、その後
 FRANKIE AVALON のアルバム「SONGS FROM MUSCLE BEACH PARTY」に
 収録される。
 
 

Stock Copy

      Promo Copy
 
 3月6日には DONNA LOREN も映画で歌った MUSCLE BUSTLE を
 シングル(CHALLENGE 59237) で発売しているが、これも改めて
 レコーディングしたものだった。彼女は元々キュートなガールポップシンガーで
 あったのだがここではパワフルなヴォーカルで弾けている。
 アネットは舌ったらずのキュートなガールポップヴァージョンで、ドナローレンの
 ヴァージョンはアップテンポのダイナミックダンサーで歌われる。
 両方ともガールポップファンの人気は高い。
 この曲もゲイリーとロジャークリスチャン、ブライアンウィルソンの3人で書かれた。

DONNA LOREN
余談だが PHIL SLOAN 率いる
FANTASTIC BAGGYS の
アルバム用フォトセッションに
参加している右端の男
JERRY CARGMAN (JERED
CARGMAN)は PHIL SLOAN の
高校時代のクラスメイトで、
彼は後に女優 DONNA LOREN
と結婚し、この夫婦は現在
ハワイで ADASA という
ジュエリーショップを経営している。
 

このロビーカードに写ってる上段一番左(帽子を被った DICK DALE の左隣)
が映画に出演してた GARY USHERだ。ひさしの棒に隠れた
かんじになってるが、赤っぽいシャツを着てる。
左が GARY USHER
右が DICK DALE
 
 3月には CAPITOL RECORDS から
 NEW RELEASE PROMOTION 用に
 アルバムが製作された「GREAT NEW
 RELEASES FROM THE SOUND CAPITOL
 OF THE WORLD」(CAPITOL PRO-2557)
 ここで収録されたのは BEACH BOYS の
 FUN FUN FUN と共に SUPER STOCKS
 の D-GAS CHEVY,MR.GASSER の
 ICE CREAM WAGON だった
 
 同じく3月に MARKETTS がアルバム
 「OUT OF LIMITS」(WARNER BROS 1509)
 をリリース、これにはゲイリーが1曲
 だけだが提供している。
 COLLISION COURSE がそれだが、
 インスト曲。これはゲイリーと
 リッチーバーンズの共作なのだが、
 レコードにはゲイリーとロジャー
 クリスチャンがクレジットされている。
 MARKETTS (元 MAR-KETS) は
 BEACH BOYS の名付け親でもある
 JOE SARACENO が THE ROUTERS の
 MIKE GORDON を中心に西海岸の
 セッションミュージシャンを集めたグループで

 
 このアルバムでは MIKE GORDON, GENE PELLO, MIKE HENDERSON,
 TOMMY TEDESCO, RAY POHLMAN らを使って録音している。
 PRODUCE - JOE SARACENO, ARRANGE - RAY POHLMAN
 ENGINEER - BONES HOWE となっている。因みに RAY POHLMAN と
 JOE SARACENO はその後 WORLD PACIFIC RECORDS でも幾つかを
 コラボレートしていく。ゲイリーが書いた「COLLISION COURSE」だが
 この曲は元 BELAIRS のドラマーで
 その後 CHALLENGERS を結成させた
 RICHARD DELVY がプロデュースした
 GOOD GUYS の名義のアルバム
 「SIDEWALK SURFING」
 (GNP CRESCENDO GNP/GNPS2001)
 でも取り上げている。RICHARD DELVY
 はこの曲を「ASPHALT WIPE-OUT」と
 タイトルを変えて GOOD GUYS 唯一
 のシングルとしてもリリースした
 (GNP CRESCENDO 326)
 因みにこのグループ GOOD GUYS は
 第3期 CHALLENGERS が実態である。
 RICHARD DELVY は他人の作曲クレジット
 を変更する事でも有名な人物だが、
 更にややこしい事に GOOD GUYS
 のヴァージョンに拍手だけを被せた
 だけのテイクが RICHARD DELVY
 率いる CHALLENGERS のライブ
 アルバム「AT THE TEENAGE FAIR」
 (GNP CRESCENDO GNP/GNPS2010)
 にも収録されている。
 つまりこのライブアルバムは当時よく
 あった擬似ライブ盤のようだ。
 
       CHALLENGERS
 

 
またこの3月に依然好調の
ビーチボーイズがアルバム
「SHUT DOWN VOL.2」
(CAPITOL T-2027 / ST-2027)
をリリースした。
この中にはゲイリーとブライアン
ウィルソンの共作である
POM POM PLAY GIRL が収録された
 同時にこの3月には CAPTIVATIONS というグループのシングル
 RED HOT SCRAMBLER GO ! / SPEEDSHIFT (GARPAX 44179)にも
 ゲイリーはノンクレジットながら参加している。KIM FOWLEYからゲイリーを
 紹介された GARY PAXTON だが、彼は「IT WAS I」のヒットでも有名な
 SKIP & FLIP を後に BYRDS に参加する SKIP BATTIN とでっちあげたり、
 HOLLYWOOD ARGYLES や BORIS PICKETT 等のノヴェルティー色の
 濃いダンスナンバーをロックンロールシーンに送り込みヒットさせた人物としても
知られる。
また後に MILLENNIUM の
母体となった BALLROOM の
セッションを仕切ったり
ETERNITY'S CHILDREN の
セカンドアルバム「TIMELESS」で
プロデューサーを務める等才能
豊かなミュージッククリエイターだ。
 この GARPAX というレーベルは
 LONDON RECORDS 配下による
 GARY PAXTON のレーベルで、
 この CAPTIVATIONS のシングル製作も
 彼によるものだ。
 A-SIDE は B.BIGLOW-G.PAXTON
 B-SIDE は P.NUCKLES-G.PAXTON
 のクレジットだが参加メンバーが凄い
 GARY PAXTON - LEAD VOCAL,
 ROY DURKEE - BASS VOCAL,
 GARY USHER - BACKING VOCAL
 BRUCE JOHNSTON - BACKING VOCAL
 BUZZ CASON - BACKING VOCAL
 
 因みにこの CAPTIVATIONS は
 RED HOT SCRAMBLERS-GO /
 SPEEDSHIFT (PENTACLE 1635)でも
 テンポを落としたヴァージョンで同年に
 シングルをリリースさせたが、こちらは
 ゲイリーは参加していない。PENTACLE
 では SCRAMBER から SCRAMBLERS
 へとタイトル表記を変えている。

   GARY PAXTON
 補足だが1966年にイギリスの QUIET FIVE が FABULOUS QUIET FIVE
 名義で CAPTIVATIONS のカヴァーシングルをアメリカのみでリリースしてる。
 RED HOT SCRAMBLER-GO / I UNDERSTAND
 (CASA GRANDE CG-8462-45) このシングルはイニシャル番号が
 (CG-1965/1964)となっており恐らく A面は1965年に録音
 (B面は1964年か?)されたものと推測される。
 A面は CAPTIVATIONS のカヴァーだが、これにはゲイリーは
 参加していない。このシングルには RECORDED IN LONDON,ENGLAND と
 クレジットされており、彼らはイギリスでは THE QUIET FIVE と名乗っていた
 バンドで、後に MARK WIRTZ のセッションシンガーやコレボレイターとしても
 名を馳せるオランダ出身のシンガー KRIS IFE のデビューバンドでもある。
 彼らは本国イギリスでは THE BEATLES, ROLLING STONES, DONOVAN,
 THE BYRDS, THE RONETTES, PJ PROBY らのライブツアーのオープニング
 アクトとしても活動していた。以前「このバンドはマサチューセッツのバンドだと」
 の報告があったが、レポーターはこのバンドのライヴ活動を
 当時マサチューセッツで見たとのこと。それは QUIET FIVE が当時渡米して
 活動した貴重な形跡でもある。

 またこの FABULOUS QUIET FIVE 名義のシングルは QUIET FIVE のメンバー
 を中心に新たなフォーメイションに変えた最初で最後の録音がされている。
 Kris Ife (Rhythm Guitar, Harmony Lead Vocals),
 John "Satch" Goswell (Saxophone),
 Tex Marsh (Drums),
 John Howell (Piano, Backing Vocals),
 Roger McKew (Lead Guitar),
 Richard Barnes (Bass, Lead Vocals)
 A-side Lead Vocals Richard Barnes, Kris Ife, John Howell.

 何故 QUIET FIVE が CAPTIVATIONS の「RED HOT SCRAMBLER-GO」を 
 録音したのか定かではないが、恐らく LONDON RECORDS との契約を期に
 楽曲管理に関して GARY PAXTON がイギリスのバンドにもアプローチを
 かけていたのではないかと推測される。
 
 話戻して GARY PAXTON の GARPAX だが、その連番でリリースされた
 ノヴェルティー作品にもゲイリーはコーラスで参加している。
 GARY PAXTON & THE ?'S - TWO HUMP, DUAL BUMP CAMEL NAMED
 ROBERT E. LEE / YOUR PAST IS BLACK AGAIN (GARPAX 44180)
 これはホットロッドカーやサーフィンをテーマにしたノヴェルティーソングだが
 ビーチボーイズのヒットソングや他のホットロッドヒット曲の有名なフレーズ
 を随所に散りばめた印象的な作品。B面はマリアッチブラスを配し感傷的
 なノヴェルティーバラード。
 
 GARY PAXTON はこの後の5月に ROAD RUNNERS のアルバム
 「THE NEW MUSTANG」(LONDON LL-3381/PS-381)をリリースしている。
 この中でゲイリーが3曲ほどリード
 ヴォーカルをとっており、この時期に
 ゲイリーアッシャーとゲイリーパクストン
 は共同作業を行っているので
 CAPTIVATIONS もその布石となった
 ワークスだとも考えられる。以前 DICK
 DALE のアルバム製作時に出会った
 この二人だがゲイリーパクストンのレーベル
 GARPAX が LONDON RECORDS
 の傘下であった関係もあり、恐らく FORD
 の新車のプロモーションタイアップの話で
 ゲイリーパクストンに依頼がきたものと
 推測される。
 参加は GARY FLIP PAXTON, GARY USHER,DICK BURNS,DENNIS McCARTHY
 そして ROAD RUNNERS のメンバー CHARLIE CASPER, DAVE SCHEIBACH,
 JERRY SCHILLINGER,JOHN YOUNGBLOOD となっている。
 DICK BURNS は LITTLE DUECE. COUPE でLEAD VOCAL
 DENNIS McCARTHY は 409でLEAD VOCAL
 GARY USHER は SUPER TORQUE 427 / COMPETITION COUPE / SHUT DOWN
 の3曲でLEAD VOCAL をとっている。
 ゲイリーサイドからはこの5曲のみの参加となっている。
 
 話を戻して COMPETITORS でリードヴォーカルをとった DON BRANDON の
 シングル BALLAD OF BONNEVILLE / DOIN' THE SWIM (DOT 16600)
 がリリースされた。レーベルにはクレジットされていないが、このシングルは
 ゲイリーのプロデュースによるもので A面もゲイリーの書いた曲。
 ユタ州境にある自動車最高速の記録を計測する大平原 BONNEVILLE を
 歌った素晴らしいバラード作品。B面はアップテンポのダンスナンバーで
 ANNETTE や FRANKIE AVALON で完成させていた SWIM 系の
 ダンスビートを進化させた事に気づく。このパーカッションを多様した深いエコー
 サウンドは次にリリースされる SUPER STOCKS の1stアルバムで踏襲される。
 

HAL BLAINE
このシングルではハルブレイン
やスティーヴダグラスの他、
レオンラッセル、フランクキャップ、
ジェイミグリオリら多くの
一流ミュージシャンが参加
しておりゲイリーにとって望ましい
レコーディング環境が何であるか
が伺える。
 
 同じく3月にいよいよSUPER STOCKS のシングルがリリースされた。
 THUNDER ROAD / WHEEL STANDS (CAPITOL 5133) A面は1958年と62年に
 ROBERT MITCHUM がヒットさせた BALLAD OF THUNDER ROAD を改作した曲。
 ROBERT MITCHUM の場合は歌というより語りに近い COUNTRY BLUES
 スタイルで、SUPER STOCKS のヴァージョンはゲイリーのオリジナル
 と言ってもいいようにメロディーを上手く加えている。この歌は親が造った
 密造酒を運ぶ息子のドライヴァーの物語で、JERRY COLE の超絶ギターで
 幕を開ける。この傑作は当時ではまだ珍しかったファズをかけており、
 迫力のヴァージョンとなっている。またギターソロも2小説残したところで
 ブレイクしたりと凄まじい作品に仕上げている。
 B面はゲイリーのオリジナルによるスリリングなインスト曲。
 
 3月には DICK DALE のアルバム「MR.ELIMINATOR」(CAPITOL T-2053 / ST-2053)
 がリリースされた。このアルバムでは 50 MILES TO GO と FIRING UP の2曲を
 除いた9曲でノンクレジットながらゲイリーがアレンジを担当している。
 このアルバムは多数の外部ライターの曲が取り上げられており、当時 ANNETTE
 なんかにも曲を提供していた GUY HEMRIC-JERRY HOWARD STEINER や
 若き STEVE BARRI-CAROL CONNORS らのコンビ他にも DRIFTERS の名曲
 UNDER THE BOARDWALK の作者 KENNY YOUNG が書いたヴォーカルチューン
を収録している。
因みに 50 MILES TO GO が
KENNY YOUNG の書いた曲で
この曲は同じ CAPITOL RECORDS
で CITY SURFERS もシングルと
してリリースしている。
このスタジオグループである
CITY SURFERS は THE BYRDS
結成前の若き ROGER CHRISTIAN
と BEACHCOMBERS (DIAMOND)
でサーフィンポップにトライした
FRANK GARI が関与していた 。
 
 1964年3月21日に JAN & DEAN が GARY USHER-ROGER CHRISTIAN の
 書いた曲を録音している。タイトルは A DEUCE GOER (AKA A DEUCE A-GOER)
 これは UNRELEASED TRACK として知られるが、その詳細は不明のまま
 お蔵入りとなっている。
 
 4月に MR.GASSER WITH
 WEIRDOS 名義のセカンドアルバム
 「RODS N' RAT FINKS」(CAPITOL
 T/ST-2057)もリリースされた。
 ゲイリー達はまたヴォーカルで参加し
 前作同様に ED "BIG DADDY" ROTH
 のキャラクターコンセプトのアルバム。
 THE LONELY STOCKER でゲイリー
 がリードヴォーカルをとっている。
 因みにアルバムにはオマケのデカール
 が付属していた
 

 
 またこの4月には PENETRATION のヒットで有名な PYRAMIDS が
 MIDNIGHT RUN / CUSTOM CARAVAN (CEDWICKE 130005) をリリース。

PYRAMIDS
A面はゲイリーとロジャーと
リッチーバーンズで書かれた
インストで後に SUPER STOCKS
でもレコーディングされた。
B面も SUPER STOCKS の
ヴァージョンが残っている
ホットロッドヴォーカルの傑作。
ただしゲイリーは PYRAMIDS の
レコーディングには参加してない。
PYRAMIDS は64年7月に公開
された映画「BIKINI BEACH」に
出演し RECORD RUN と主題曲
BIKINI BEACH を演奏している。
どちらもゲイリーとロジャーによる
作品でゲイリーがプロデュース
したもの。しかしこの2曲は劇中
のみの演奏で当時はレコード化
されていなかった。
 ところが RECORD RUN の方は CUSTOM CARAVAN に、BIKINI BEACH は
 VENTURA へと改作され CUSTOM CARAVAN は PYRAMIDS によって
 シングルカットされたのだ。(CEDWICK 45-13005)
 ここでは PYRAMIDS のマネージャー JOHN HODGE と LARRY WILSON が
 連名でプロデューサーとしてクレジットされている。また VENTURA の方は
 SUPER STOCKS の未発表曲として残されている。
連番でリリースされた PYRAMIDS CONTACT / PRESSURE
(CEDWICK 45-13006) では
クレジットはないがゲイリーの
アレンジによるもの。
両面とも彼らの名曲 PENETRATION
を踏襲したサーフインストの傑作。
 因みに映画「BIKINI BEACH」はやはり
 主演はアネットとフランキーアヴァロンで
 ゲイリーが音楽を担当した。
 PYRAMIDS がこの映画に出演する
 きっかけとなったのはロジャークリスチャン
 がPYRAMIDS のプロデューサーの
 JOHN HODGE を知っていたためと
 ゲイリーは語っている。

 FRANKIE AVALON PROMO
 
 当時イギリスの出版社に「ビートルズに対するアメリカの返答」と皮肉られた
 PYRAMIDS は黒人のギターリストを含む5人組で、話題作りのために
 メンバーの頭をスキンヘッドにしたり、野外ライブ会場に象に乗って現れたりした。
 マネージャーとして彼らが信用していた JOHN HODGE は彼らの稼いだ金を
 かき集め、それは彼らの知らないところで悪い投資に使われ、皮肉な事に彼らは
 この時期に$1の報酬も得なかったという。
 
 そんな紆余曲折の中で、4月には遂に SUPER STOCKS のファーストソロ
 アルバム「THUNDER ROAD」(CAPITOL T/ST-2078)がリリースされた。
 数あるホットロッドアルバムの中で
 人気、内容ともにトップランクのこの
 名作アルバムには、ハルブレインら
 西海岸のトップミュージシャン達が
 レコーディングに参加。ゲイリー
 アッシャーにとって SUPER STOCKS
 は特別な存在であり、ビーチボーイズ
 と同じ土俵であるCAPITOL RECORDS
 において、彼が成し得た全てを発表
 するものだ。このアルバムは
 ポスターを付けてリリースされた。
 
 

SUPER STOCKS - DRAGGIN' DEUCE
の ACETATE 盤 (ラフな初期ヴァージョンを収録)
 
 続く5月には KICKSTANDS 名義で
 「BLACK BOOTS AND BIKES」
 (CAPITOL T/ST-2078)をリリース。
 SUPER STOCKS とほぼ同じ布陣で
 レコーディングされ、アレンジャー
 などのクレジットはないものの
 ゲイリーは5曲を提供し、演奏にも
 加わっている。リードヴォーカルも
 CHUCK GIRAD と一緒に担当した。
 このアルバムでは2輪バイクをテーマ
 にしており、これは後に成功を収める
 HONDELLS への伏線となった重要な
 アルバムだ。事実このアルバムでは


 
 後に HONDELLS のアルバムでも収録した HAULIN' HONDA や
 DEATH VALLEY RUN をはじめとする5曲のオリジナルヴァージョンが収録
 されている。このアルバムはボーナス写真を付属させてリリースされた。
 
 同じ5月にはフランキーアヴァロンがアルバム「SONGS FROM MUSCLE
 BEACH PARTY」(UNITED ARTISTS UAL-3371/UAS-6371)を発表。
 この中に MUSCLE BEACH PARTY, SURFER'S HOLIDAY, BEACH PARTY,
 RUNNIN' WILD の4曲が収録されたがゲイリーはレコーディングに
 参加していない。この RUNNIN' WILD は映画用に以前ゲイリーと
 ロジャークリスチャン、ブライアンウィルソンの3人で書かれていた曲。
 

STEREO

      MONORAL
 
 更に5月にはもう一枚 ROAD RUNNERS のシングル
 SUPER TORQUE 427 / CUTE LITTLE COLT (LONDON 5208)もリリース
 されている。この ROAD RUNNERS については先に触れたが、この曲で
 ゲイリーはリードヴォーカルをとっている。因みにこの曲はゲイリー
 とロジャークリスチャンが書いたオリジナル作品で、SUPER STOCKS のアルバム
 「THUNDER ROAD」では 427 SUPER STOCK として収録されたものと同一曲。
 ラフな出来であるが、そこが魅力となった作品である。B面はノヴェルティー調
 だが CAROL CONNORS が書いた ZIP CODES - RUN, LITTLE MUSTANG
 (LIBERTY 55703) のフレーズが引用されており、彼らの接点が伺える。
 
 6月1日にゲイリーのソロシングル SACRAMENT / JUST THE WAY I FEEL
 (CAPITOL 5193)もリリースされた。A面はゲイリーとブライアンウィルソン
 の共作で HONEYS がバッキングコーラスで参加した。
 B面はゲイリーの単独作だが曲調はどちらもよく似ている。
 両面ともプロデュース&アレンジはブライアンが担当しており、ブライアンには
 珍しくアレンジにハーモニカを使っている。両面とも牧歌的フォーク調のナンバーで
 ゲイリーのカントリー好きな一面が伺える。特にB面では ANNETTE らに
 歌わせたのどかな旋律がここでも発揮されている。
 
 6月にはゲイリーがソングライティング、プロデュース、アレンジ、リードヴォーカル
 を担当した NEPTUNES 名義の SHAME GIRL / I'VE GOT PLANS
 (WARNER BROS 5453)をリリースした。両面ともゲイリーと RAUL ABEYTA の
 共作。A面はホットロッドチューンではないが SURFY HARMONY POP の
 名曲だ。B面は I GOT PLANS として当初は BMI に登録されていた。こちらの
 リードヴォーカルは DICK BURNS だろうか。このようにワンショットで変名グループ
 名義のシングルを製作しても高い水準を維持する辺りはさすがだ。ゲイリーが
 テーマを持って名義やレコードレーベルを使い分けていた事が良く解る。
 

 
7月にはビーチボーイズが
通算6枚目のアルバム
「ALL SUMMER LONG」
(CAPITOL T-2110 / ST-2110)
をリリースした。この中では
ブライアンとゲイリーの共作
である美しいバラードの名曲
WE'LL RUN AWAY が収録
されている。
 
 同じく7月には SUPER STOCKS のセカンドアルバム「SURF ROUTE 101」
 (CAPITOL T/ST-2113)がリリースされ、プロモーション用シングル
 SANTA BARBARA / MIDNIGHT RUN (CAPITOL PRO-2642/2643)が
 配布された。アルバムのタイトルソングでもある SURF ROUTE 101 とはロスの
 ハリウッドからヴェンチュラ経由で
 海岸線を北のサンフランシスコ方面
 まで走らせる101号線の事。
 因みにこの曲は「ROUTE 101」
 として当初登録されていた。
 この ROUTE 101 にはたくさんの
 サーフスポットが点在しており、
 このアルバムでも収録された
 VENTURA や SANTA BARBARA
 などの曲はそのサーフスポットの
 ことである。
 
 このアルバムはゲイリーには
 珍しくサーフィンだけをテーマにした
 アルバムで、それを意識したのか
 サーフインストナンバーが12曲中7曲
 を占めている。ヴォーカルものが多い
 ゲイリーの作品の中では異色作では
 あるが、内容、質ともに高くファンには
 人気の高いアルバムだ。
 このアルバムにジャケットには
 THE SUPER STOCKS FEATURING
 GARY USHER という活字が躍っている。
 これは CAPITOL RECORDS がゲイリー
 を大々的に売り出すキャンペーンだった。
 ジャケットに写る一番右の男がゲイリー
 アッシャーだ。撮影されたのは MALIBU
 BEACH 北部の ZUMA BEACH だ。
 

左から WAYNE EDWARDS, RICHIE PODOLOR, BILL COOPER,
DICK BURNS, そして GARY USHER



 アルバムにはゲイリーとブライアンウィルソンの共作 FIRST LOVE も収録された。
 レコーディングに参加したのは RICHARD (DICK) BURNS, BILL COOPER,
 HAL BLAINE, RUSSELL BRIDGES (LEON RUSSELL), STEVE DOUGLAS,
 CAROL KAYE らで、このアルバムにはジャケット右に丸く刳り貫きがされていて
 そこにボーナスシングルの
 Mr.GASSER & THE WEIRDOS 名義の
 シングルが入る。
 DOIN' THE SURFINK / FINKSVILLE
 (CAPITOL PRO-2644/2645)
 ここではバッキングヴォーカルをゲイリー
 が担当した。
 
 同7月 Mr.GASSER & THE WEIRDOS のアルバム「SURFINK」
 (CAPITOL T/ST-2114)がリリースされ、それを SUPER STOCKS のアルバム
 で告知させるスタイルとなっている。
 これは60年代 SURFIN' & HOT ROD シーンに奇抜なデザインのキャラクターで
 BEATNIK 的なサブカルチャーを流行させた ED "BIG DADDY" ROTH の
 レアワークスとしても人気が高い。このアルバムには SUPER STOCKS の
 SANTA BARBARA / MIDNIGHT RUN (CAPITOL PRO-2642/2643) がボーナス
 シングルとして付いている。

ジャケットにホールがないレア盤

通常はボーナスシングルが付いてる
 
 これらのリリースに合わせて CAPITOL
 はプロモーション用アルバムを製作した。
 「THE BIG SURFING SOUNDS ARE ON」
 (CAPITOL PRO-2659)
 このアルバムに収録されたのは
 SUPER STOCKS の NEWPORT BEACH、
 MIDNIGHT RUN、SURF ROUTE 101 の
 3曲と Mr.GASSER & THE WEIRDOS の
 RATFINK HIGH, PHANTOM SURFER,
 LITTLE FINK SURFS AGAIN
 
 同時にプロモーション用の4曲入り EP (CAPITOL PRO-2662/2663)
 A面は DICK DALE, JERRY COLE を収録。B面には SUPER STOCKS の
 SURF ROUTE 101 と Mr.GASSER & THE WEIRDOS の RAT FINK HIGH を
 収録した。


 
 更に7月 DON BRANDON の THE PARTY LAST NIGHT / CUANDOLALUNA
 (DOT 16644)をリリース。ゲイリーは A面のみプロデュースとアレンジを担当
 している。実はこの曲は DON BRANDON の先のシングル2曲と一緒に録音
 されていたもので、出来の良いアップテンポダンサーに仕上げており
 バックコーラスではゲイリーの声も確認できる。これも先の SWIM 系ダンサーで
 確立させていたスタイル。当時 PHIL SLOAN-STEVE BARRI もそうだったように
 業界では TWIST に続く新たなダンスムーヴメントを作り出そうと躍起になっており
 SWIM 系ダンサーチューンが西海岸のプロダクションから多く生み出されていった。
 
 ★1964年8月2日 ベトナム戦争開戦
 
 さて、9月にはいよいよゲイリーに大きなヒットをもたらす事になる HONDELLS
 のファーストシングル LITTLE HONDA / HOT ROD HIGH (MERCURY 73324)
 がリリースされた。そのリリースから2週間遅れた9月15日にはファースト
 アルバム「GO LITTLE HONDA」(MERCURY MG-20940/SR-60940)
 もリリースされたのだった。このアルバムはシングルの大ヒットに引っ張られる
 形で好調なセールスを記録した。

(MONO MG-20940)

    (STEREO SR-60940)
 
 この有名なヒット曲 LITTLE HONDAは、ビーチボーイズが出演した映画
 「THE GIRLS ON THE BEACH」の為にブライアンウィルソンとマイクラブが
 書いた曲で、ビーチボーイズは映画の中でこの曲を演奏している。この映画
 の音楽担当はゲイリーで、ゲイリーはこの曲のヒット性を確信していた。
 しかしブライアンがこれをビーチボーイズとしてシングルリリースする気がない
 事を知ると、ブライアンにこの曲を自分のグループでレコーディングさせて
 欲しいと申し出た。ブライアンはこの申し出を快諾、ゲイリーはセッションシンガー
 のチャックギラードをリードヴォーカルに据えて、ブライアンとほぼ同じアレンジで
 レコーディングした。
 

 映画「THE GIRLS ON THE BEACH」
 でアネットと共演する BEACH BOYS
 
 B面の HOT ROD HIGH はゲイリーとロジャークリスチャンが書いた名曲で
 その後 KNIGHTS 名義でもシングルカットした。こちらのヴァージョンは
 その後 HONDELLS の代名詞ともなるオルガンを間奏部に導入させている。
 ゲイリーの思惑通り、このシングルはぐんぐんとチャートを上昇し、最終的には
 1964年9月12日にピークで9位まで上がる全米トップ10ヒットとなった。
 チャックギラードは CASTELLS のリードヴォーカリストで、ブライアンが
 プレゼントし、プロデュースをした I DO が有名だが、CASTELLS の一員と
 して活躍するかたわらで沢山のゲイリーのセッションでも歌っている。
 彼は非常に器用なシンガーで、歌も大変上手い。チャックはヴォーカル面で
 ゲイリーの多くのグループの作品の質を高めている。この大ヒットに慌てた
 MERCURY RECORDS はシングル
 リリース後たったの2週間の9月15日
 にはアルバムをリリース。
 実体のないグループのために
 レコーディングをチャックギラード
 を中心としたセッションメンバーで
 まかない、プロモーション用グループ
 としてリッチーバーンズを中心に立てた
 グループを編成した。因みにこの時に
 元 BELAIRS のリードギタリストの
 PAUL JOHNSON もツアーメンバーの
 誘いを受けてるが、当時サイドギターと
 して DAVE ALLAN & THE ARROWS に
 参加していた彼はそれを断った。

    日本盤シングル

LITTLE HONDA と
MY BUDDY SEAT をカップリング
にした再発シリーズ

   実は両A面扱いだった
    White Label Promo
 

LITTLE HONDA がヒットした為にプロモーション用に架空の
メンバー写真が必要となり写真中央の RICHARD (DICK) BURNS
をフロントにたてた編成でグループ写真が撮影された。
 

日本盤シングル

    日本盤コンパクト
 
 BLACK BOOTS AND BIKES / DEATH VALLEY RUN も日本では
 シングルカットされた。また当時日本ではコンパクト盤としても発売されている
 
 同じ9月に BOBBY SHERMAN シングル YOU MAKE ME HAPPY / MAN
 OVERBOARD (DECCA 31762) のレコーディングにノークレジットながら
 参加している。楽曲は T.M.MUSIC inc の管理。これを皮切りに DECCA RECORDS
 のティーンアイドルシンガーのレコード製作にゲイリーは携わっていく。
 
 10月に入りゲイリーが製作したシングルがリリースされている。
 GO-GO'S - SATURDAY'S HERO / THE WILD ONE (RCA VICTOR 5435)
 がそれだ。元々 GO-GO'S は日本でも前作 CHICKEN OF THE SEA が
 ヒットとなった PERRY BOTKIN, Jr. を中心にしたスタジオグループだったが
 この GO-GO'S 名義のセカンドシングルではゲイリー中心のセッションに変え
 チャックギラードをリードヴォーカルに据えて製作された。
 A面は以前 SUPER STOCKS でも使った曲だが、GO-GO'S の
 ヴァージョンの方がバッキングも厚くコーラスアレンジも冴えており出来が良い。
 内容はビーチボーイズの BE TRUE TO YOUR SCHOOL と良く似た曲で
 チャックギラードの溌剌としたヴォーカルが素晴らしい。
 B面はHONDELLS や SUPER STOCKS でも使用したゲイリーの自信作。
 この GO-GO'S ヴァージョンも出来が良い。


 
 この THE WILD ONE は HONDELLS セッションを引き継いだ MIKE CURB も
 録音しており GRADS - THE WILD ONE / THE COOL ONE (MERCURY 72364)
 として同じ1964年にリリースされた。この GRADS のヴァージョンは他の3つの
 ヴァージョンよりもワイルドなアレンジでテンポも速く、他では聴けなかった勇猛な
 フレンチホルンが挿入される。この GRADS は一時期 HONDELLS のセッション
 からゲイリーが離れていた時に、プロデュースを担当した MIKE CURB の
 プロダクションによって録音された。B面は感傷的なギターインストにムーディー
 なサックスを導入させる佳作。
 
 ここで GARY USHER と縁の深い MIKE CURB のキャリアを簡単に説明しよう。
 MIKE CURB は HONDELLS のみならず、その後 MGM RECORDS の社長に
 なりゲイリーの設立した TOGETHER RECORDS に出資したり、CALIFORNIA MUSIC
 のリリースを請け負ったりとゲイリーとは多くの接点を持つ。
 1963年に17歳で BOBBY DARIN と
 ソングライター契約を結んだ MIKE CURB
 だが、これを際に MIKE CURB は多くの
 レーベルをまたいで次々と曲を書き始める。
 また NICK VENET のように西海岸の
 若き A&R としてマーケットの最先端へと
 歩んでおり、この時期までに MIKE CURB
 はプロデューサー&ソングライター
 として UNITED ARTISTS, MERCURY,
 SMASH, RCA, BRUNSWICK, COLUMBIA,
 DORE, DELTONE, CAPITOL, DOT,
 WARNER BROTHERS, REPRISE と複数の
 契約をしている。

    MIKE CURB
 1964年には MIKE CURB にとって初のフルアルバムワークスとなる
 「THE BUDDIES & THE COMPACTS」(MERCURY WING MGW-12293 /
 SRW-16293) を完成させ翌1965年にリリースされる。ここでは MIKE CURB
 VERSION の「LITTLE HONDA」が収録されているがオケは HONDELLS を
 流用している。また先に記載した「THE COOL ONE」や彼の書いた初期の名作
 「REBEL (WITHOUT A CAUSE)」、そして MIKE CURB 版「DON'T WORRY BABY」
 とでも言うべき作風の「SICKLE RIDERS NIGHTMARE」等クオリティーの高い
 オリジナルも随所に収録されている。その他にも架空のガールグループが歌う
 「LEADER OF THE PACK」や MIKE CURB が歌う RONNY & THE DAYTONAS の
 「G.T.O.」カヴァーも収録しており、テーマアルバムとして編集した事が解る。
 この RACER & BIKER コンセプトは後に彼が設立した SIDEWALK PRODUCTION
 低予算バイカームーヴィーでも活かされ、因みにそのセッションでは子飼いの
 MICHAEL LLOYD ら WEST COAST POP ART EXPERIMENTAL BAND も
 参加させている。

BUDDIES & COMPACTS

       BUDDIES
 

日本盤



これは当時日本でも編集盤
「太陽のリズム!エレキで飛ばせ!
RHYTHM OF THE SUN」
(フォンタナ SFON-10010)として
リリースされた。日本盤では
THE TIDES, THE DRAGSTARS
とのカップリング編集となっている。
 MIKE CURB が HONDELLS セッションを流用して1965年に製作したBUDDIES
 名義のアルバムがある。「GO GO WITH THE BUDDIES」(MERCURY WING
 MGM-12306 / SRW-16306)
 これは THE ARROWS の DAVE ALLAN
 がバックを担当し、MIKE CURB が17歳の
 時に書いた曲 WARPATH の為に
 録音したセッションを下敷きにしたもの
 だった。この曲 WARPATH は後の
 SUNRAYS のアレンジャーでも有名な
 HIAL KING も DAVE ALLAN と同じ
 1963年にシングルリリースしており
 TOWER RECORDS 設立時に
 MIKE CURB も関与していたと推測できる。
 因みに DAVE ALLAN & THE ARROWS
 には元 BELAIRS のリードギタリストの
 PAUL JOHNSON も参加している。

DAVE ALLAN & THE ARROWS
  
 そして MIKE CURB はその1965年当時19歳の時に HONDELLS のCMソング
 YOU MEET THE NICEST PEOPLE ON A HONDA (MERCURY 72479)で、
一躍脚光を浴びた。
この曲は BOBBY DARIN が
設立した T.M.MUSIC inc で
管理されているため
かなり初期の段階で書かれて
いた曲だと推測される。
プロデュース&アレンジも
MIKE CURB 自身によるもの。
また両面ともプロモーション用の
映像が残されている。
プロモ盤はピンクラベル
 
 MIKE CURB はこの時期に BUDDIES や
 SUDELLS 等の名義でも BIKERS SONG
 を発表している。因みに HONDELLS の
 セッションや、これら MIKE CURB の
 セッションバンドでは DAVE ALLAN を
 ギターで参加させた。
 その派手なギターサウンドを売り物にして
 いた TOWER RECORDS の子会社
 SIDEWALK PRODUCTION を1965年に
 MIKE CURB は20歳で設立しバイカー
 ムーヴィーを量産していく。
 そしてその後には当時財政赤字に悩んで
 いた MGM RECORDS の社長に抜擢され
 短期間で黒字経営に立て直し、その後も
 立身出世街道を歩んでいく。

MIKE CURB & DAVE ALLAN
 
 話を戻して10月 KNIGHTS の傑作シングル HOT ROD HIGH / THEME FOR
 TEEN LOVE (CAPITOL 5302)がリリースされた。A面は HONDELLS でも使った
 ゲイリーとロジャーの共作ナンバーだがこのレコーディングにはゲイリーは
 関わっていない。リードヴォーカルを CHUCK GIRARD が務めたこの傑作シングル
 のセッションは STEVE DOUGLAS が中心となってレコーディングがされ、
 HAL BLAINE らスタジオミュージシャンが参加した。HONDELLS ヴァージョン
 よりも若干テンポを落とし軽いエコーをかけている。B面はJIM ECONOMIDES
 が書いた感傷的なサマーポップインストの傑作。両面ともプロデュースは
 JIM ECONOMIDES で、アレンジは STEVE DOUGLAS
 同じ10月に KNIGHTS のアルバム「HOT ROD HIGH」(CAPITOL T/DT-2189)
 をリリース。これにはシングルカットされた HOT ROD HIGH も収録されたが
 シングルとアルバムではミックスが異なる。アルバムヴァージョンの間奏は
 冒頭ギターのみで続いてサックスブローが絡んでくるが、シングルヴァージョン
 は最初からギターとサックスが入ってくる。またシングルではブリッジの部分
 が短く編集されているためにドライヴ感が凄まじい。
 プロデュースは CAPITOL RECORDS の名プロデューサー JIM ECONOMIDES
 KNIGHTS のアルバムで
 リードヴォーカルをとっている
 のは殆ど CHUCK GIRARD
 だが、ゲイリーのリードも
 1曲だけ収録されている。
 それは MR.GASSER の
 セカンドアルバムでも使用
 した THE LONELY STOCKER
 と同じ曲だがタイトルを変更し
 LONELY LITTLE STOCKER
 としてリメイクされた。
 KNIGHTS のアルバムで
 収録されたヴァージョンの
 方が完成度は高い。
 
 これに続き SUPER STOCKS の 3rd アルバム「SCHOOL IS A DRAG」
 (CAPITOL T/ST-2190)がリリースされた。
 このアルバムも FEATURING GARY USHER とクレジットされており
 ジャケットの中央には「DRAGGIN' HIGH '64」と書かれ2つのホットロッドレースカー
 の写真がタグ状にプリントされている。
 またこのアルバムは KNIGHTS のアルバムと連番だが KNIGHTS が擬似ステレオ
 の DTナンバーだったのに対して SUPER STOCKS はステレオの STナンバーと
 なっている。CHUCK GIRARD の素晴らしいティーンヴォーカルのタイトルソングで
 幕を開けるこのサードアルバムではインスト曲を2曲だけに留め、ヴォーカル曲
 中心に収録された。またサウンド的には今までの SUPER STOCKS 名義の
 曲よりも、この頃好調なセールスを記録していた HONDELLS に近い。
 実はHONDELLS のファーストアルバム
 と SUPER STOCKS のサードアルバム
 は3日違いで録音されている。
 レコーディングメンバーも似通っている
 ので必然的にサウンドが似ている。
 ここでは後に新たなアレンジで蘇る
 タイトルソング SCHOOL IS A DRAG と
 以前 GO-GO'S 名義でも録音された
 SATURDAY'S HERO のファースト
 ヴァージョンが収録された他
 HARRY NILSON が書いた
 READIN',RIDIN' AND RACIN' や
 ゲイリーのリードヴォーカルによる
 LITTLE HONDA が収録された。
 アルバム最後を締めくくるロマンティックなサーフインスト「THE LAST WALK」は
 RICHARD PODOLOR が書いた名曲だ。
 
 更に10月、ゲイリーは WHEEL MEN 名義で SCHOOL IS A GAS / HONDA
 BEACH (WARNER BROS 5480) をリリース。A面は SUPER STOCKS の名曲
 SCHOOL IS A DRAG を改作したもので、全く違うアレンジを施し、メロディーも
 変える等、様々な工夫が伺える。ここで聴ける CHUCK GIRARD のリード
 ヴォーカルは、あどけないティーンヴォーカルで人気が高い。
 B面も HONDELLS で使った HONDA BEACH PARTY を再アレンジしたもので、
 GRID IRON GOODIE と言う違うヴァージョンも録音されており、それは上記の
 SUPER STOCKS のサードアルバムに収録されている。
 
 また10月には SURFARIS が HOT ROD HIGH / KAREN (DECCA 31682)を
 リリースしている。A面は HONDELLS や KNIGHTS でも使ったホットロッド
 ヴォーカルの名曲。 SURFARIS はリードヴォーカルにグループのドラマー
 である RON WILSON を据え、ゲイリー達がバックコーラス参加した。
 ここでは彼らは敢えて間奏部分を抜き取りヴォーカルメインで録音している。
 B面はドラマではビーチボーイズが歌った同名テレビ主題歌のカヴァー。
 アメリカではこのシングルはヒットしていないが、日本では両面とも別々にシングル
 カットをし、KAREN の方はヒットを記録している。因みに HOT ROD HIGH の日本盤
 シングルにはアメリカ盤には入ってない車の効果音が挿入されている。
 
 同じ10月に SURFARIS のアルバム「FUN CITY U.S.A.」(DECCA DL-4560/
 DL-74560) もリリースされた。

 日本盤シングル
 
 また11月には HONDELLS のセカンドシングル MY BUDDY SEAT
 / YOU'RE GONNA RIDE WITH ME (MERCURY 72366)が発表された。
 A面はゲイリーとブライアンの共作で
 コーラスにはブライアンウィルソンの他
 ブルースジョンストン、テリーメルチャー
 も参加した。ブライアンは以前参加した
 JAN & DEAN の SURF CITY によって
 自分のヴォーカルが大きくフューチャー
 されてしまった事を後悔し、HONDELLS
 のこのレコーディング参加には躊躇い
 があった。しかしチャックギラードの
 リードヴォーカルは上手くコントロール
 され、ブライアンが自分のヴォーカルが
 極端に目立たつ事を嫌った懸念を
 見事に排除している。ゲイリーは
 大ヒットした前作 LITTLE HONDA の
 フォローアップを狙ってこのシングルの
 製作に力を注いだ。
 奇抜なコーラスワークをフューチャーしたこの曲は BRUCE JOHNSTON も
 RIP CHORDS - DON'T BE SCARED (COLUMBIA 4-43221)でプロトタイプ
 を完成させており、その曲風も似ていた。B面は HONDELLS の中でも
 1、2を争う傑作ホットロッドチューン。MERCURY RECORDS もプロモーションに
 力をいれてピクチャースリーヴを付けて発売したがチャートでは87位までしか
 上がらなかった。
 
 
 同じ11月には Mr. LAS VEGAS こと WAYNE NEWTON が
 COMING ON TOO STRONG / LOOKIN' THROUGH A TEAR (CAPITOL 5338)
 をリリースした。A面は GARY USHER-RAUL ABEYTO (RAUL ABEYTA) の曲で
 両面ともプロデュースは BOBBY DARIN の持つ T.M.PRODUCTIONS 行っている。
 A面では TERRY MELCHER がアレンジを
 担当、また BRUCE JOHNSTON もバック
 で参加するなど同プロダクションの
 総力をかけた作品に仕上げている。
 これは BE MY BABY を意識した
 バスドラムとブリッジ部分に素晴らしい
 コーラスが入った傑作で全米65位の
 スマッシュヒットとなった。
 因みにこのシングルでは綴りが COMING
 となっている 1st PRESS と
 COMIN' となっている 2nd PRESS の
 2種類がある。またマトリクスナンバーの
 違いは現在までに3種類確認されている。

    WAYNE NEWTON

1st Pressing

      2nd Pressing
  
 この11月には CASTELLS がアレンジャーに PERRY BOTKIN Jr. を迎え
 LOVE FINDS A WAY / TELL HER IF I CRIED (WARNER BROS 5486)
 をリリース。A面はゲイリーと RAUL ABEYTA の共作で曲を提供したもの。

CASTELLS
RAUL ABEYTA は元々ティーン
ポップシンガーとしてデビュー
していたソングライターでその後
もゲイリーと共作活動をしている
が多くの未発表音源も確認
されている。B面はチャックの
自作だが彼はソングライターと
しても多くの自作曲を持っていて
これも出来が良い。
両面とも WHITE VOCAL
の作品。チャックのグループ
ヴォーカルの水準の高さが
現れた傑作だ。
 
 更に11月には GHOULS 名義のアルバム「DRACURA'S DEUCE」
 (CAPITOL T./ST-2215)もリリースされた。この GHOULS はグールスと
 発音し、「墓をあばいて死体を食う悪鬼、残忍な人」の意味。JAN & DEAN の
 LITTLE LADY FROM PASADENA をもじった LITTLE OLD LADY FROM
 TRANSYLVANIA(トランシルヴァニアはドラキュラが住んでるとされるルーマニアの
 地名)を収録する等、楽しいノヴェルティーアルバムだ。
 サウンドはしっかりとアレンジされて
 おり、1曲目の DRACURA'S DEUCE
 など女性コーラスをフューチャーしたり
 ゲイリーも真面目な仕事をしている。
 CHUCK GIRARD と RICHARD BURNS
 が本アルバムで交互にリードヴォーカル
 をとっているのも特長だ。
 またインスト曲の中には棺桶を開く
 「ギィ ギィー」といった効果音を入れ
 モンスター愛好家からも高い評価を
 得る。
 
 
 またこの頃に GARY USHER と
 ROGER CHRISTIAN が構成をした
 アルバム「THE BEATLES STORY」
 (CAPITOL TBO/STBO-2222)という
 2枚組がリリースされた。これは日本でも
 リリースされているのでビートルズファン
 には有名なアルバムだが、ドキュメント的
 なアルバム。語り手の一人として本来は
 RADIO D.J. である ROGER CHRISTIAN
 も参加している。

 
 この時期はゲイリーのノヴェルティー路線が開花したように MERCURY からも
 2枚のアルバムがリリースされた。
 WEIRD-OHS「NEW ! THE SOUNDS OF WEIRD-OHS」
 (MERCURY MG-20976/SR-60976)
 SILLY SURFERS「NEW ! THE SOUNDS OF THE SILLY SURFERS」
 (MERCURY MG-20977/SR-60977)
 この2枚はどちらもサウンド的には同じで、当時プラモデルでも販売されていた
 キャラクターをモチーフにしたものであった。
 その為このプラモデル会社の
 HAWK は HAILYというレーベル
 でこの2つのアルバムから6曲
 ずつピックアップして編集し
 宣伝用アルバム (HAILY 101)
 としてもリリースした。これらの
 アルバムでも CHUCK GIRARD
 がリードヴォーカルを担当し、
 楽しい SURF STYLE VOCAL
 を聴かせる。
 
 
 12月に入り HONDELLS の 2nd アルバム「THE HONDELLS」
 (MERCURY MG-20982/SR-60982)がリリースされた。
 このアルバムは先にシングルリリースされていた MY BUDDY SEAT と
 YOU'RE GONNA RIDE WITH ME をメインに BLACK DENIM や MY LITTLE BIKE
 といった多くの名曲も収録されておりグレードの高いアルバムに仕上がった。

 アメリカ盤アルバム

   日本盤アルバム

日本盤コンパクト

   日本盤シングル
 
 12月に PYRAMIDS の悪名高きマネージャー JOHN HODGE が手がけていた
 別のグループ DAVE MYERS AND THE HIS SURFTONES が
 GEAR!/ LET THE GOODTIMES ROLL (WICKWIRE 13008)をリリースしている。
 A面はゲイリーの作品。DAVE MYERS は DICK DALE の弟子と言われており
 実際に DICK DALE からギターを教わっていたという。まだ売れない若い頃に
 ギター奏法を教えるアルバイトをやってたという DICK DALE は DAVE MYERS
 にギターを教えている。
 この曲 GEAR も当然 DICK DALE
 スタイルのトレモロ演奏に強烈な
 リヴァーヴをかけた傑作インストだ。
 しかし不思議な事にこのシングルは
 2種類のレーベルクレジットが存在
 しており、1枚は作者が GARY USHER
 となっているが、もう一枚は
 JOHN HODGE がクレジットされてる。
 前者はパブリッシャーが
 NUMBER ONE MUSIC とされている
 のに対して後者では DORTHY MUSIC
 とクレジットされている。ここら辺にも
 JOHN HODGE のきな臭さが伺える。
 因みに NUMBER ONE MUSIC とはゲイリーとブライアンウィルソンが楽曲管理の
 為に設立した音楽出版社だ。以前 RACHEL & REVOLVERS のB面に収録された
 「NUMBER NINE」が NUMBER ONE MUSIC で管理されている。
 
 また12月にゲイリーはカントリーシンガーの大御所である HANK SNOW に
 HUMAN (RCA VICTOR 8488)という曲を書いている。曲は全くのカントリーソング
 だがゲイリーがカントリーシンガーにまで曲を提供していたというのは意外
 な事実だ。曲は 4 STAR 時代に書かれていた初期の作品で、作詞作曲も
 ゲイリーによる長閑な作品。因みにプロデュースは CHET ATKINS

HANK SNOW
 
 こうしてゲイリーにとって多忙だった1964年は終わったが、この年はゲイリー
 が待ち望んでいた大ヒットも生まれ、非常に充実した1年となった。
 ほんのついこの前まで、小さなスタジオでチープな機材を使ったレコーディング
 をしていたゲイリーだったが、今やメジャーレーベルの重役達からも注目
 されるプロデューサーに成長していた。
 しかし時代は徐々に移り変わり、とりまく社会情勢も変化していた。
 それは SURFIN' & HOT ROD MUSIC 黄金時代の終焉に近づいていた。
 
 DECCA YEAR / 1965
 この1965年には、ゲイリーの作品の殆どが DECCA RECORDS から
 発表されているが1月に LA LA LA LA のヒットで有名な BEACH DANCE POP
 GROUP の BLENDELLS - DANCE WITH ME / GET YOUR BABY (REPRISE 0340)
 にゲイリーが関わっている。このB面は HONDELLS のスタッフである
 WAYNE EDWARDS & RANDY THOMAS が書いたフリーキーなインスト曲で、
 ゲイリーも録音に参加したと言われている。

BLENDELLS
 
 この年1月、まず DECCA で最初にリリースされたゲイリーワークスは SURFARIS の
 BEAT '65 / BLACK DENIM (DECCA 31731)だった。A面はビートの効いた
 アップテンポの高速インストナンバーで出来も良い。この曲はリッチーバーンズと
 リチャードポドローが書いている。B面は HONDELLS のセカンドアルバムでも
 使ったヴォーカルナンバーでゲイリーはバックコーラスでも参加。
 これまでもゲイリーは SURFARIS のレコード製作に関わってきたが、このシングル
 で初めてプロデューサー&アレンジャーとしてクレジットされた。
 

 SURFARIS のドラマーの RON WILSON が         SURFARIS
 連続ドラムプレイの世界記録を作った。
 中央ドラムセットに座る RON WILSON の
 右隣でドラムスティックを持つ GARY USHER
 
 続いて2月に BOBBY SHERMAN の
 IT HURTS ME / GIVE ME YOUR
 WORD (DECCA 31741) を発表。
 A面はゲイリーのオリジナル曲。
 メロディアスなティーンポップの傑作。
 B面は RAUL ABEYTA-ROGER CHRISTIAN
 の共作。両面ともゲイリーがプロデュース
 とアレンジを担当。コーラスのオーヴァー
 ダビング等アンサンブルのアレンジも
 向上し良質のティーンポップに
 仕上げている。
 
 ★1965年2月7日 アメリカがベトナム戦争に介入
 ★1965年2月21日マルコムX暗殺
 
 3月中旬にゲイリーはシンガーとして所属していた CAPITOL から
 IT'S A LIE / JODY (CAPITOL 5403)をリリースした。A面はホットロッドでは
 ないがアップテンポのロッカーチューンで出来も良い。JIM WEISER の曲で
 この人物 JAMES L.WEISER はその後 DECCA からリリースされる L.A. TEENS の
 スタッフメンバーとなる。B面は BEETLE とのカップリングで既に発表していた
 JODY を収録した。両面ともゲイリーのセルフプロデュース。

 3月に WEIRD-OHS のアルバムから LEAKY BOAT LOUIE / DIGGER
 (MERCURY 72410)がシングルカットされている。レーベルからも判断出来るように
このセッションは HONDELLS の
レコーディングセッションを流用
しており、これらミュージシャンは
テーマに応じマルチタイプな
レコーディングを行っていた事が
解る。両面とも CHUCK GIRARD の
リードヴォーカル。
コミカルな歌詞だがフリーキー
なアンサンブルも SURFY STYLE
で仕上げられた傑作シングル。
 
 4月には L.A. TEENS の YOU'LL COME RUNNING BACK / I'M GONNA
 GET YOU (DECCA 31764)をプロデュースしているが、この頃からゲイリー
 の作風は変わっていく。12弦ギターをレコーディングで多様し、メロディーも
 イギリスのビートグループから影響を受けたような曲を多くレコーディング
 するようになった。この時期、ウェストコーストから生み出された多くの
 サウンドを「BRITISH INVASION に対するアメリカの返答」と言われたが
 これらの風潮やカウンターカルチャーは、ゲイリーも含める西海岸の若き
 クリエイターやミュージシャン達の意識の変化が及ぼしたものだ。A面は RONALD
 WEISER の単独作品。B面はオルガンを配した GS 調のストンパーチューンで
 RONALD S. WEISER-JAMES L. WEISER-WILLIAM S. SCHNEED の共作。
 両面ともゲイリーのプロデュース&アレンジ。
 当初は「エレキギターのうるさいフォーク」と世間から揶揄されていたが
 この年の5月には TERRY MELCHER のプロデュースの下、BYRDS が
 BOB DYLAN のカヴァー Mr.TAMBOURINE MAN (COLUMBIA 43271)
 をリリースし全米1位の大ヒットとなった。これこそがイギリス勢に対するアメリカの
 答えとして代表されるエポックメイキングな1枚だ。当時イギリスに衝撃を与えた
 BOB DYLAN の楽曲から多くの歌詞を抜き取り、壮麗なアレンジと美しい
 ハーモニーをブレンドさせたのは同じフィールド出身である TERRY MELCHER
 だった。彼はBRUCE AND TERRY - CARMEN /  I LOVE YOU MODEL "T"
 (COLUMBIA 43238)をリリースさせたばかりだった。このプロデュースはゲイリー
 を強く刺激したようで、ゲイリーはこの後ホットロッド作品と平行してフォークロック
 作品をリリースしていく必要に迫られる。ティーンリスナーは少しずつ成長しており
 意識変化が始まっていたのだ。
 
 
 同じ4月にリリースされたのが DEVONS - HONDA BIKE / FREE FALL
 (DECCA 31777)で、これはホットロッドミュージックの有終の美を飾る
 傑作シングルだった。A面は GARY USHER と BUZZ CASON の共作。
 CHUCK GIRARD のリードヴォーカルも素晴らしく RONNY & THE DAYTONAS
 スタイルのハーモニーが導入される。B面は RICHARD PODOLAR の
 書いたメロディックなサーフインストの傑作。因みに BUZZ CASON は
 ヴォーカルグループ THE STATUES 出身でその後 NASHVILLE の
 BUCKY WILKIN と共に行動し RONNY & THE DAYTONAS をヒットさせた
 ソングライターでもある。バディーホリーが死んだ後も活動していた
 THE CRICKETS は同郷のスナッフギャレットを頼ってロスに移る。
 同じ時期、活動の場をロスに移していた BUZZ CASON は解散前の
 THE CRICKETS のメンバーとしても活躍していた。
 
 
 話を戻して DEVONS だが、
 このレコーディングセッションでは
 4曲録音されていて、2曲が未発表に
 終わった。その未発表曲の中でも
 優れているのがビーチボーイズの
 THIS CAR OF MINE のカヴァー
 THIS BIKE OF MINE で、スピード感
 溢れる傑作カヴァーだったが
 何故かリリースはされなかった。
 DEVONS はチャックギラードをリード
 ヴォーカルにしたセッションバンドで、
 SUPER STOCKS のセッションの応用
 でもある。

    BUZZ CASON
  (AKA GARRY MILES)

当時、日本でもリリースされた
  DEVONS のレアシングル
奇しくもこの THIS BIKE OF MINE
はCD「HOT ROD U.S.A.」と
SUPER STOCKSのCD
「COMPLETE」に別々の異なる
ヴァージョンが収録された。
両方とも間奏のコーラスアレンジ
が異なり、チャックギラードの
リードヴォーカルも若干異なる。
また SUPER STOCKS のCDに
収録された方は間奏にオルガン
が加わる。
 
 
 これに続き4月 BOBBY SHERMAN の HEY LITTLE GIRL / WELL ALL RIGHT
 (DECCA 31779) をリリース。プロデュースとアレンジを担当。
 A面はNEVILLE JADE の書いたブリティッシュ風ビートチューンの傑作、
 演奏も然ることながら BOBBY SHERMAN の溌剌としたヴォーカルも素晴らしい。
 またB面はバディーホリーのカヴァーに素晴らしい12弦ギターを導入させる。
 両面とも素晴らしい出来となった。
 
 5月に SURFARIS はアルバム「HIT CITY '65」(DECCA DL/DL7-4614)
 をリリースしているが、このアルバムでゲイリーはプロデュースとアレンジを
 担当している。このアルバムには MY LITTLE BIKE 等のゲイリー作品も
 収録されているが、ビーチボーイズの
 DANCE, DANCE, DANCE のカヴァー
 やハーマンズハーミッツの I'M INTO
 SOMETHING GOOD、サーチャーズ
 LOVE POTION #9 等ブリティッシュ
 グループのカヴァーも収録されており
 この1965年がいかにブリティッシュ
 ポップの勢いがあったか伺える。
 サーフミュージックを売りにしていた
 SURFARIS であるがブリティッシュ勢
 の台頭によりスタイルの変化を余儀
 なくされていったのであった。
 このようにホットロッドとブリティッシュ
 ポップが一緒に収録されたこのアルバムは当時の時代の変化を的確に
 物語っている。またそれは逆説的に西海岸でブリティッシュビートと
 フォークロックの素晴らしい交配が行われていく事実をも物語っている。
 
 5月には SURFARIS のシングル THEME OF THE BATTLE MAIDEN /
 SOMETHING ELSE (DECCA 31784)がリリースされる。これもゲイリーが
 プロデュースしたものだが、A面は SURFARIS の自作曲で彼ら従来のスタイル
 である軽快なインスト。B面はエディーコクランのカヴァーで RON WILSON の
 歌うヴォーカルチューン。

日本盤
余談だが、このシングルは
当時日本でもリリースされており
B面はなんと片チャンネルしか
収録されておらず、ヴォーカル
がうっすらと聴こえる程度の
ふざけたシングルだった。
リズムギターだけが淡々と進んで
いく下手なカラオケレコードの
ようなもので、今では信じられ
ないが当時の日本盤では
このようなミスがたまにあった。
      
 
 さてこの5月にはゲイリーにとって最後のフル ホットロッドアルバムとなった
 REVELLS 「THE GO SOUNDS OF THE SLOTS」(REPRISE R/RS-6160)
 がリリースされた。録音は1964年のクリスマス前に WESTERN RECORDERS
 スタジオで行われており実質的には HONDELLS のサードアルバムと言っても良い。
 プロデュースは WARNER RECORDS の JIMMY BOWEN が担当し、ゲイリーは
 セッションリーダーを務めた。レコーディングに参加した他のミュージシャンは
 DICK BURNS (BASS), RANDY THOMAS (KEYBOARDS),
 JERRY LeMIRE (GUITAR), JOE KELLY (PERCUSSION),
 GLEN CAMPBELL (GUITAR), RICHIE PODOLOR (GUITAR),
 BILL COOPER (GUITAR), TOMMY TEDESCO (GUITAR),
 RICHIE FROST (DRUMS), CHUCK GIRARD (KEY BOARDS),
 HAL BLAINE (DRUMS) となっている。
 これはホットロッドといってもテーマは当時流行していたスロットカー
 (レール状の道の上を走らせる車のプラモデル)をテーマにしたもので、
 グループの名前も玩具の発売元である REVELL から名づけられた。
 このアルバムは収録された全10曲がヴォーカル入り、そのうちの4曲が
 過去発表した曲のリメイクとなっている。
 HOT ROD HIGH が THE RESTLESS ROOKIE に、
 THE WILD ONE が WAIT TILL NEXT TIME に、
 MY LITTLE BIKE が MY FERRARI G.T.O.に、そして
 TWO WHEEL SHOW STOPPER が LITTLE STOCKER へとリメイクされた。
 これらは歌詞もそれぞれ変えて、アレンジも良い。

アメリカ盤アルバム

    日本盤アルバム
 
 この他にも COBRA や SLOT CITY
 そして FASTEST LITTLE RACER 等の
 佳曲が収録され楽しめる内容になっている。
 このセッションは HONDELLS と
 同じセッションメンバーを流用しており、
 リードヴォーカルを務めたチャックギラード
 は FIRST LITTLE RACER で後の
 CHUCK AND JOE のスタイルとなる
 ライチャスブラザースの BOBBY HATFIELD
 を模倣したヴォーカルを披露している。
 因みにこのアルバムはステレオとモノラル
 では若干ミックスが異なる曲がいくつか
 ある。一番その違いがはっきりしているのが
 MY FERRARI G.T.O. で間奏のオルガン

    日本盤シングル
 パートが全く違っている。また WAIT TILL NEXT TIME もオルガンソロが微妙に
 違う他冒頭のベースラインも違う。アメリカではこのアルバムからのシングルカット
 はなかったが、日本のみでシングルカットもされアルバムもリリースされた。
 
 同5月、ゲイリーは子役でも有名だった KEITH GREEN のシングル
 A GO-GO GETTER / THE WAY I USED TO BE (DECCA 31799) をプロデュース
 &アレンジしている。A面はキースの自作曲でアップビートのゴーゴーソング。
 これは躍動的なビートチューンでキースの才能が顕著に現れた傑作。
 B面はキースとゲイリーの共作でミディアム
 ティーンポップの傑作。ここでは以前録音した
 WAYNE NEWTON - COMING ON TOO
 STRONG スタイルのハーモニーや
 ドラムフィルを効果的に挿入させている。
 このB面はキースが始めて ASCAP に
 登録した曲と言われている。
 当時キースは13歳だったが曲作りでも
 その非凡な才能を開花させようとしていた。
  
 続く6月には CHUCK AND JOE の FEEL SO FINE / CAN'T FOOL ME TWICE
 (DECCA 31805)をプロデュース&アレンジしている。このデュオは CASTELLS の
 メンバー CHUCK GIRARD と JOE KELLY のことで二人ともゲイリーのセッション
 ではヴォーカリストとして活躍している。A面は JOHNNY PRESTON の60年
 ヒット曲のカヴァーだが、ここではライチャスブラザース風に掛け合いで歌い

CHUCK GIRARD &JOE KELLY
ゲイリーにしては珍しくホーン
によるアレンジでまとめている。
B面は CHUCK & JOE の
自作曲でやはりライチャス
ブラザース風に歌っている。
 ACETATE FROM 5/12 1965
 
 同じく6月には L.A. TEENS の 2nd シングル ALL I REALLY WANT TO DO
 / SATURDAY'S CHILD (DECCA 31813)をリリースしている。
 両面ともゲイリーがプロデュースとアレンジを担当している。
 これは1965年5月に BYRDS が放った大ヒット Mr.TAMBOURINE MAN に
 ゲイリーが素早く対応したものでボブディランのカヴァーフォークロックとなっている。
この曲は BYRDS のファースト
アルバムでも取り上げた名曲だが BYRDS のアルバムが8月に
リリースされる前に、ゲイリーが
先手をとった選曲だった。
BYRDS のヴァージョンと比べる
とサビの部分のアレンジが
異なるこの L.A. TEENS の
ヴァージョンはアメリカ
でも高い評価を得る。
 B面はメンバーの JAMES L.WEISER AND RONALD S.WEISER が有名な物語
 にメッセージ色の強い歌詞を加えたものでフォークロック調に仕上げている。
 この時期にはアメリカの音楽業界には大きな異変が起きていた。
 フォークロックの台頭である。フォークロックという呼び名はビルボード誌の
 エリオットティーガルが名付け親とされているが、この新しい音楽が登場した
 背景には当時のアメリカを取り巻く様々な社会状況があった。
 つまりベトナム戦争の激化により、
 これまでのように男女の恋愛について
 ごく当たり前に「I LOVE YOU」といった
 言葉で綴られた曲よりも、もっと
 現実的に社会を鋭い視点で見つめた
 歌詞がリスナーに受け入れられて
 いくようになる。若者の苦悩や
 主張がライフスタイルに変化を
 及ぼしたのだ。
 L.A.TEENS は BYRDS と同時期に
 活動した5人組グループだ。
 西海岸のユースカルチャーの変化を
 受けてデビューしたが、そのサウンド
 のクオリティーは高い。因みに
 メンバーの BILL SCHNEE はその後
 エンジニアーとなり AMERICA や
 GEROGE BENSON, MILES DAVIS,
 CHER, CHICAGO 等多数のアルバム
 を手掛ける。
 

         L.A.TEENS
 
 またこの6月には DONNA LOREN が
 アルバム「BEACH BLANKET BINGO」
 (CAPITOL T/ST-2323)をリリースしたが、
 この中でゲイリーとロジャークリスチャンの
 書いた「CYCLE SET」がアルバムの1曲目
 として取り上げられた。
 アルバムのプロデュースは
 DAVID AXELROD が担当しており
 MIKE CURB の書いた「FREEWAY」と
 ゲイリーの「CYCLE SET」以外はすべて
 A.I.P. のビーチムーヴィーの専属ソング
 ライター GUY HEMRIC & JERRY STYNER
 の書いた曲で構成されている。
ゲイリーとロジャークリスチャンの
書いた「CYCLE SET」だが
この曲はもともと65年4月に
公開されたアネット主演映画
「BEACH BLANKET BINGO」の
ために書いた曲で劇中では
HONDELLS が演奏している。
劇中で使われた HONDELLS
のヴァージョンはゲイリーの
プロデュースしたものだったが
レコード化されなかった為に
DONNA LOREN がアルバムに
収録したのだが、彼女のヴァージョン
にはゲイリーは関係していない。
 
この年「77 SUNSET STRIP」でも
御馴染みの KOOKIE こと
EDWARD BYRNES を主役にした
ビーチコメディー映画
「BEACH BALL」が公開された。
ここでは SUPREMES や
RIGHTEOUS BROTHERS,
FOUR SEASONS らと共に
HONDELLS も出演している。
 またゲイリーはこの頃に映画「SKI PARTY」
 の音楽も担当し映画のために SKI PARTY
 と THE GASSER の2曲を提供している。
 SKI PARTY は映画主題歌でオープニングに
 FRANKIE AVALON が歌ったものだが、
 エンディングには HONDELLS ヴァージョン
 も使用された。
 THE GASSER の方は劇中 HONDELLS が
 演奏している。

  

SKI PARTY PROMO 

 
 
 HUSTON のビーチボーイズこと THE COASTLINERS がデビューシングル
 THE LONELY SEA / BIG MIKE,THE SIDEWALK SURFER (ASTRO 109)
 をリリース。A-SIDE は GARY USHER-BRIAN WILSON 初期名曲のカヴァー。
 彼らはその後もテキサス地元のローカルレーベルを渡り歩きながらビーチボーイズ
 を意識したハーモニーポップをリリースしていく。因みにバンドはその後
 U.S,MALES とバンド名を改め、そのシングルは日本でもリリースされている。

COASTLINERS
 
 ★1965年8月11日ロサンジェルスのワッツ地区にて酔っ払い運転で
 黒人男性が逮捕されたのをきっかけに大規模な黒人暴動に発展する
 

 8月に入るとゲイリーは DEVONS の 2nd シングル IT'S ALL OVER NOW,
 BABY BLUE /ARE YOU REALLY REAL ? (DECCA 31822) をリリースし
 両面ともゲイリーがプロデュースとアレンジを担当している。
 A面は前作同様ボブディランのカヴァーのフォークロック。リードをチャック
 ギラードが務め、ボブディランを模倣したヴォーカルを聴かせる。
 間奏部のギターを長尺にする等、アレンジの工夫も伺える。
 因みにこの曲は1966年に WEST COAST POP ART EXPERIMENTAL BAND
の 1st アルバムでもカヴァー
されているが、西海岸の若者達
の間では人気の曲だった。
B面はゲイリー作によるフォーク
ロックナンバーで、こちらも
出来が良い。12弦ギターも
フューチャーされフォークロック
としても出来の良い作品に
仕上がっている。
 
 そんなフォークロックムーヴメント真っ只中のこの時期、WARNER BROTHERS
 に移籍して3枚のシングルを出していた CHUCK GIRARD 率いる CASTELLS が
 ゲイリーのプッシュもあって DECCA に移籍してきた。CASTELLS の DECCA 移籍
 第1弾シングルとしてゲイリーのプロデュース&アレンジで9月にリリースされたのが
 AN ANGEL CRIED / JUST WALK AWAY (DECCA 31834)だった。
 これはグループの力量を充分に引き出した傑作シングルだ。
 A面は FOUR SEASONS の
 カヴァーでボブゴーディオの作品。
 憂いのあるメロディーにドラマティック
 な展開を持つ、秋ならではの傑作。
 B面はゲイリーとラウルアベイタの作品
 だが、こちらも劣らず FOUR SEASONS
 スタイルの名曲。ゲイリーは DECCA に
 おいてホットロッド、ライチャススタイル、
 フォークロック、ヴォーカルチューンと
 幅広い活躍を見せている。
 
 CASTELLS と同じ9月には久々のホットロッドナンバー SURFARIS の
 CATCH A LITTLE RIDE WITH ME / DON'T HURT MY LITTLE SISTER 
 (DECCA 31835)がリリースされた。A面はゲイリーと LOU JOSIE との共作で、
 アップテンポのホットロッドナンバーの名曲。バックでチャックギラードも参加。
 因みに LOU JOSIE は1958年から1962年まで単発的にソロまたは自身の
 グループ名義でシングルをリリースしていた人物で、SURFIN' MOVEMENT 期
 には幾つかのスタジオグループ用いたり、JIMMY KING の変名でプロデュース
 をしている。また後に GRASS ROOTS の MIDNIGHT CONFESSIONS を
 書いた事でも有名な人物である。

日本盤シングル
B面はビーチボーイズの
カヴァーだが中々の出来栄え。
両面ともゲイリーがプロデュース
とアレンジを担当しており、
初秋を漂わす感傷的な季節感
も内包されており楽曲の良さを
引き出している。
 
 これに続いて同9月に TOADS 名義のシングル LEAVING IT ALL BEHIND /
 BABE, WHILE THE WIND BLOWS GOODBYE (DECCA 31847)がリリースされた。
 ゲイリーのプロデュース&アレンジによるシングルだが、これは素晴らしい12弦
 ギターを配したフォークロックで A面がゲイリーのオリジナルソング。リードを務めた
 チャックギラードはボブディランを模倣したスタイルで歌っている。
 B面は RAUL ABEYTA-DIANE ENGLISH の書いた THE BYRDS スタイルの
 傑作フォークロック。因みにこの二人は他にもゲイリーにいくつかの作品を
 提供している。RAUL ABEYTA は1961年にティーンポップシンガーとして1枚
 シングル (SKYLA 1116)をリリースしていた。そのB面で「DIANE」という曲を
 歌っており DIANE ENGLISH は当時からの彼の恋人と推測される。
 
 10月には KEITH GREEN の 2nd シングル GIRL DON'T TELL ME /
 HOW TO BE YOUR GUY (DECCA 31859) がリリースされた。両面ともゲイリー
 がプロデュースとアレンジを担当している。 A面はビーチボーイズのカヴァーで
 アレンジもオリジナルに忠実だがオリジナルにはないイントロを加えることによって
 良い出来栄えとなった。当時13歳だった KEITH GREEN だが、どうどうとした
 歌いっぷりも素晴らしい。B面はキースのオリジナルのビートチューンでここでも
 彼の非凡な才能が垣間見れる。
 
 ゲイリーはこれに続いて11月 CHUCK & JOE のセカンドシングルをリリースし
 両面ともゲイリーがプロデュースとアレンジを担当している。
 HARLEM SHUFFLE / I WISH DIDN'T TREAT ME SO WELL (DECCA 31871)
 A面は BOB & EARLの名曲カヴァーだがここでもライチャスブラザース風に
 掛け合いのヴォーカルで歌う。B面は CHUCK GIRARD のオリジナルで
 ハープシコードによるアレンジで、サビの部分が印象的なバラッドナンバー。
 
 続く11月にリリースされたのは SURFARIS の最後のアルバムとなった
 「IT AIN'T ME BABE」(DECCA DL/DL7-4683)だった。これはボブディラン
 のカヴァー曲をタイトルソングにしたアルバムだが、前回のアルバムにも増して
 ブリティッシュ勢のカヴァーが多い。かろうじて1曲だけビーチボーイズの
 カヴァー CALIFORNIA GIRLS が収録されている。

アメリカ盤アルバム

  当時の日本盤シングル
 
 この年の最後12月にゲイリーが手がけたのは RANDY HOLDEN 率いる
 SONS OF ADAM のシングル TOMORROW'S GONNA BE ANOTHER DAY /
 TAKE MY HAND (DECCA 31887)だった。両面ともゲイリーがプロデュースとアレンジ
 を担当している。リードギターの RANDY HOLDEN は後に BLUE CHEER にも
 参加するガレージサイケロック系の人気ミュージシャンで、彼らがアイドル人気
 を得ていた時期のバンドがこの SONS OF ADAM だ。ゲイリーのワークス
 としては珍しい接点だが、彼らは西海岸では期待のグループとしてツアー活動も
 熱心に行っており、ユースカルチャーに敏感なゲイリーなら関わっていても
 おかしくない関係だ。A面は BOYCE & HART の TOMMY BOYCE と
 STEVE VENET が書いた MONKEES のカヴァーで ASTRNOUTS もこの曲を
 シングルでリリースしており当時競作となった。彼らのルックスからも解るように
 当初彼らはアイドル的な要素も持っていたバンドだ。ここでは RANDY HOLDEN
 のかっこいいギターブレイクが堪能出来るストンパーチューンを聴かせる。
 

当時、日本でもリリースされた
レアなシングル

      SONS OF ADAM
 
 こうしてゲイリーにとっての1965年は終わっていった訳だが、急速に時代が
 変わっていき、若者の意識や価値観は大きな変化をみせていた。
 すなわち既にサーフィン&ホットロッドを謳歌するライフスタイルは終焉の時を
 迎えていた。またあれほど隆盛を誇っていたアメリカンポップスのスター達も
 ビートルズを始めとするイギリス勢力の前には、成す術もなく次々と消えていき
 もはやアメリカのグループで彼らに対抗できるのは BEACH BOYS と BYRDS
 しか残っていない状態となってしまった。ホットロッドで名を売ったゲイリーも
 急速に衰えていったように見えたが、努力をして多くを身に付けたゲイリーが
 このまま終わってしまう筈はなかった。1965年にゲイリーが手がけた
 フォークロックのアプローチは、サウンドの実験に過ぎず、この後ゲイリーは
 その進化形ともいえる良質なウェストコーストソフトロックで、もうひと花咲かせる
 ことになる。
 
 THE TIME HAS CHANGED / 1966
 1966年に入ってまず1月にリリースされたのは DEVONS の 3rd シングル
 COME ON / A LITTLE EXTRA EFFORT (DECCA 31899)だった。
 両面ともゲイリーがプロデュースとアレンジを担当している。
 これは両面共にファルセットのリードヴォーカルが中心になって曲を
 盛り上げていくフォーシーズンス風のアップビートソング。共に CHUCK GIRARD の
 ペンによる曲で、リードももちろん彼がとっている。
 DEVONS はファーストシングルでホットロッド、セカンドシングルで
 フォークロック、そしてこのサードシングルでフォーシーズンス系の
 スタイルと変化させている。まさにこの DAVONS のプロジェクト
 が65年から66年にかけての需要の変化を如実に物語っている。
 
 続いて2月には MUSIQUE & THE LYRICS というガールグループのシングル
 MY LOVE AND LIFE / TALKIN' ABOUT LOVE (VALIANT 740)がリリース
 される。A面は R.ABEYTA-R.CHRISTIAN-G.USHER の作品で、プロデュースをした
 ラウルアベイタがロジャーとゲイリーの書いた曲を持ち込んだものと思われる。
 ゲイリーには珍しくガールグループに提供された作品だ。このグループは
 HONEYS の変名または参加と噂されており、ハイトーンのヴォーカルに
 よって歌われるメロディアスなガールポップ。B面は TOADS でもコンビで書いた
 RAUL ABEYTA-DIANE ENGLISH によるビートガールダンサーの傑作。
 
 同2月 SEAN AND THE BRADYWINES - SHE AIN'T NO GOOD / COD'INE
 (DECCA 31910)がリリースされた。ここではプロデュースとアレンジをゲイリーが
 担当した。A面はイギリスのモッド CLIQUE のカヴァーで、素晴らしいビートチューン
 を聴かせる。B面は BUFFY SAINTE MARIE の人気曲カヴァーによる
 フォークロックガレージナンバー。このカップリングでも解るように、当時西海岸では
 ブリティッシュビートとウェストコーストフォークロックの交配がされていた。
 そんな状況下にてキラ星の如く1枚のシングルのみで消えていったグループが
 多く存在する。その意味において DECCA のようなメジャーレーベルでゲイリー
 のような職人肌のプロデューサーがこれらのムーヴメントの根底を支えていたのが
 良く解るシングルだ。
 
 3月に BEVERLY WILLIAMS という女性シンガーのシングル HEART /
 HE'S HURTIN' ME (DECCA 31912)がリリースされた。ここでは COLPIX
 RECORDS のプロデューサーでも有名な STU PHILLIPSがアレンジを
 担当し、ゲイリーがプロデュースを担当した。A面は PETULA CLARK の曲で
 ガレージバンド THE REMAINS もカヴァーしているように、ここでも
 ビートチューンで聴かせる。B面は CHUCK GIRARD と GREGORY VAN KRUGEL
 の共作。因みに CHUCK GIRARD は自分自身でもこの曲を吹き込んでおり、
 他にも彼女に書いた曲でリリースに至らなかった数曲を録音している。
 彼女はその後フィラデルフィアのニュースレポーターとして活躍する人物と
 同姓同名だが、同一人物かどうかは定かではない。
  
 続いて4月 BUDDIES 名義で DUCKMAN PART 1 / PART 2 (DECCA 31920)
 をリリース。ここでゲイリーがプロデュースとアレンジを担当しているが、この作品が
 後に大きな意味を持つ。BUDDIES は後に FIRESIGN THEATRE という
 コメディーグループを結成するロスの KPFK の人気ラジオDJの PHIL AUSTIN
 と彼の友人で SAN BERNADINO のラジオDJの RON BUDNICK が仕立てた
 BATMAN のパロディーコメディーから発展した。当時彼らのラジオを聴いていた
 ゲイリーは DUCKMAN のパロディーアルバムを作りたいと思った。
 それは WEIRD-OHS のアイディアの延長線上にあったのかもしれない。
しかしチャックギラードら
ミュージシャンは、既に時代は
シリアスなものを求めている事
に気付いていた。これはユニーク
なロックンロールビジネス上の
見解の相違と考えるべきだろう。
この作品は歌というより語りを
中心にした寸劇コメディーで
DUCKMAN の声は前出の
ラジオDJの RON BUDNICK と
その後 ABC の人気コメディー
番組 BARNEY MILLER を指揮
する LEE BERNHARDI が
扮している。

 
 
 同じく4月に入ってリリースされた HONDELLS のシングル YOUNGER GIRL /
 ALL AMERICAN GIRL (MERCURY 72563)でゲイリーは久々にアレンジャー
 としてクレジットされている。
 HONDELLS のセカンドアルバム
 以降にはグループの曲のアレンジ&
 プロデュースをマイクカーブにまかせて
 他の作業に没頭していたゲイリー
 だったが、1年半ぶりに現場復帰した。
 A面は LOVIN' SPOONFUL のカヴァー
 ながら全米52位のヒットとなった。
 この曲はCRITTERS も4月1日に
 シングルカットしてリリースしており
 競作品となっている。

日本盤の写真では1964年
 のメンバーが写されている。
  
 HONDELLS のヴァージョンは
 全米52位のスマッシュヒットとなり、
 ゲイリーにとって久しぶりのヒット曲と
 なった。B面はゲイリーとリッチーバーンズ
 の共作によるカジュアリティー溢れる
 ポップソングの名曲。
 HONDELLS がサーフィン&ホットロッド
 のイメージから脱却するには
 タイムリーなヒットだったと言える。
 右写真は1966年当時の HONDELLS
 左から DICK BURNS, AL FERGUSON,
 DENNIS McCARTY,そして中央下が
 WAYNE EDWARDS
 

      HONDELLS
  当時のペプシコーラのプロモーション
に HONDELLS が起用され
ラジオCM用のトラックを録音した。
ラベルにクレジットされているように
YOUTH MARKET の為のプロモ
であり、ゲイリーのヴィジョンが
マーケットの需要であった事を
物語っている。
 
 6月に入り HONDELLS の次のセッション録音が始まった。29日に録音されたのは
 KISSIN MY LIFE AWAY、SHOW ME GIRL、CALIFORNIA SUNSHINE GIRL だ。
 しかし CALIFORNIA SUNSHINE GIRL はゲイリーのプロデュースの元に録音
 されたがリリースはされなかった。
 この曲を書いたのは JACK NITZSCHE - LONELY SURFER (REPRISE 20,202) や
 INCONCEIVABLES - HAMBURGER PATTI /PATTI'S THEME
 (COLUMBIA 4-43894) でも有名な MARTY COOPER だ。
 以前 MARTY COOPER は若き PAUL SIMON (後の SIMON & GARFUNKEL)の
 結成していた TICO AND THE TRIUMPHS のメンバーだった。
 TICO とは MARTY COOPER の事だ。先ず1966年に子役女優で映画
 THE FAMILY JEWELS で人気を博していた DONNA PEYTON こと
 DONNA BUTTERWORTH (当時11歳)が
 CALIFORNIA SUNSHINE BOY /
 I'M NOT USUALLY SHY (REPRISE 0526)
 をリリース。これは CALIFORNIA SUNSHINE
 GIRL のプロトタイプとなった歌で
 作 MARTY COOPER、プロデュースは
 LEE HAZLEWOOD が担当した。
 これは HONDELLS の録音したヴァージョン
 よりも当然ながらガールポップ然とした
 サウンドである。これと HONDELLS の
 ヴァージョンを聴き比べると、かなり
 アレンジが工夫されていた事が解る。
 MARTY COOPER はソングライターとして
 多くのヒット曲を手掛けた他にも
 JACK NITZSCHE のコラボレイター
 として長年ハリウッドのセッションを
 仕切っていた名プロデューサーでもある。
 結局 HONDELLS でリリースされなかった
 この曲のオケを流用し MARTY COOPER
 は翌1967年に SHACKELFORDS名義で
 リリースしている。因みにこのグループ名は
 LEE HAZLEWOOD の妻である NAOMI
 SHACKELFORD から名付けられた。
 
 同じ6月ゲイリーは SURFARIS のシングル SO GET OUT / HEY JOE
 WHERE ARE YOU GOING (DECCA 31954)をリリース。両面ともゲイリーが
 プロデュースとアレンジを担当している。B面はゲイリーの書いた曲だが
 両面とも SURFARIS 本来のスタイルではなく、ゲイリーははこの作品を最後に
 SURFARIS から手を引いている。
 元々この曲はブルースシンガーの
 BILL ROBERTS が1962年に書いて
 版権を得ていたのだがそれは
 ストリートソングとして普及していった。
 そこに手を加えたガレージバンドの
 THE LEAVES がプロモーションシングル
 にて激しいアレンジに変えて録音した。
 それを聴いた西海岸の多くのバンドは
 出来の良さに驚愕したという逸話が
 残っている。その後多くのカヴァー
 ヴァージョンが生まれたが、各人によって
 ライタークレジットが異なっている。

    日本盤シングル
 
 同7月には CASTELLS の LIFE GOES ON / I THOUGHT YOU'D LIKE THAT
 (DECCA 31967)がリリースされ、両面ともゲイリーがプロデュースとアレンジを担当。
 A面はチャックギラードの抑制の効いた静かなヴォーカルで始まり、徐々に
 華やかなバッキングを受けてコーラスが盛り上げていく傑作。
 この LEE ANDREWS のカヴァー曲は数多く存在するが、その中でも
 CASTELLS のヴァージョンは突出している。しかし何故だかヒットは記録していない。
 B面はチャックのオリジナル曲。こちらも素晴らしい出来で、しっとりとしたグループ
 ヴォーカルを聴かせる。
 
 同7月 KEITH GREEN の HOME TOWN GIRLS / YOU'RE WHAT'S HAPPENING
 BABY (DECCA 31973)をリリースしゲイリーがプロデュースとアレンジを担当。
 A面はキースのオリジナル、B面は DION などに沢山のヒット曲を提供した
 ERNIE MARESCA の作品。両面ともグレードの高いティーンポップに仕上がって
 いるが、当時はこうしたスタイルの曲をリスナーが必要としておらず、チャートの
 リアクションはなかった。KEITH GREEN が DECCA に残した3枚のシングルは
 いずれも内容の良いものばかりで、どの曲もチャックギラードがバックコーラス
 でサポートしている。リリースされなかった2枚のシングルを合わせて合計で
 5枚のシングルが制作されたが、キースのシングルは当時のリスナーには
 全く無視された。未発表の中で「MELODY」という曲がゲイリーとキースの共作
 である。あと2〜3年早くこれらをリリース出来ていたらヒット曲となりえただろう。
 KEITH GREEN は8歳で子役として
 デビューし、当時「Arthur Laurents」や
 「The Time of the Cuckoo」で人気を
 博していた。子供の頃から作曲の
 センスがあり DECCA RECORDS は
 彼をティーンアイドルで売り出そうと
 計画した。当時は「TEEN SCENE」等
 のアイドル誌の常連で DONNY OSMOND
 が出現するまではトップアイドルとして
 の地位を築いていた。
 大きなヒットには恵まれなかった
 ものの、彼はゲイリーと共作した
 「MELODY」をコンセプトにして
 アイドルを卒業後にクリスチャンシンガー
 ソングライターとして多くのアルバムを
 ゴスペル系レーベルからリリースした。
 それらの素晴らしい MELODY MAKER
 として愛され続けていたが1982年
 7月28日に29歳の若さで亡くなっている。

    KEITH GREEN
 
 続いて8月 FORTE FOUR 名義の CAN'T YOU SEE I'M TRING / DON'T
 LET THE SUNSHINE ON ME (DECCA 31979)をリリース。因みに彼らは
 フォルテ フォーと読む。ここではゲイリーがプロデュースとアレンジを担当した。
 これはフォークロックとビートポップが上手く交配された傑作シングルだ。
 アクセントで雄大なフレンチホルンが挿入され、瑞々しいハーモニーと
 HONDELLS SESSION の進化系とも言えるバックのエコー処理、全てが
 サウンドの厚みを増して歌われる素晴らしいビートチューン。作曲は
 GLEN CAMPBEL-JERRY FULLER。余談ながらこの JERRY FULLER は
 アーティストとしても CHALLENGE RECORDS から10枚以上のシングル
 をリリースしているが、プロデューサーとしても数々の作品を手がけた他に
 RICKY NELSON に多くのヒット曲を書いたソングライターとしても有名だ。
 B面は ANNETTE TUCKER-KEITH COLLEY の曲。こちらもフォークロックと
 ビートポップが上手く交配された傑作。作者の KEITH COLLEYは1963年に
 ENAMORADO (UNICAL 3006)の全米66位のヒットが有名だがこの曲を1967年に
 COLUMBIA で再リリースした際に自作曲のフォークロック SHAME, SHAME を
 カップリングにした (COLUMBIA 44410) この曲はゲイリーのプロデュースで
 バッキングを CURT BOETTCHER 率いる MILLENNIUM が担当している。

 因みに1967年にJERRY FULLERがプロデュース したFINDERS KEEPERS の
 DON'T GIVE INTO HIM / I'VE DONE ALL I CAN (CHALLENGE 59364)は
A面はゲイリーの単独作だったが、
1969年に GARY PUCKETT &
THE UNION GAPS がこれを
カヴァーして全米15位の大ヒット
となっている。
この FINDERS KEEPERS の
ヴァージョンはこの時期の
CHALLENGE RECORDS が完成
させていたオーヴァーダビングに
よるエコーが気持ちよい。
B面は JERRY FULLER の単独作
によるフラワーフォークロックで
こちらも出来が良い。
 
 この FINDERS KEEPERS は
 JERRY FULLER と FORTE FOUR が
 関与している。上記の流れで推測
 するならば FORTE FOUR の
 素晴らしいハーモニーやサウンドの
 処理を聴く限り、ゲイリーはこれらの
 セッションの中から後に完成させる
 ソフトロック的なアプローチを実験して
 いたのではないだろうか。

   KEITH COLLEY
 
 この部分においてはビーチボーイズの内包する世界とは異なる。身近でユース
 カルチャーやその需要を睨んでいたゲイリーアッシャーが CURT BOETTCHER や
 MILLENNIUM と接点を持ったのは COLUMBIA での SAGITTARIUS や
 KEITH COLLEY のみでは無いように思えてくる。それ程までにこのシングルの
 完成度は高く、またゲイリーのターニングポイントとなる傑作だ。
 
 9月に SONS OF ADAM の YOU'RE A
 BETTER MAN THAN I / SATURDAY'S
 SON (DECCA 31995)がリリースされた。
 ここでは前作同様にゲイリーが
 プロデュースとアレンジを担当。
 RANDY HOLDEN のギターが冴える
 ガレージチューンの名曲だ。
 メロディアスヴォーカルにサイケデリック
 なファズギターが間奏部で導入され
 強烈な余韻を生み出す。これぞ
 RANDY HOLDEN の真骨頂だろう。
 アメリカンロックが幕を開ける瞬間だ。
 
 12月には HONDELLS のシングル KISSIN' MY LIFE AWAY / A COUNTRY
 LOVE (MERCURY 72605)がリリースされている。A面は NEIL SEDAKA の書いた
 曲で、B面はゲイリーのオリジナル。どちらとも深いエコーに包まれて心地よい
 コーラスワークを聴かせてくれる名曲だ。HONDELLS といっても、もはや
 ホットロッドからは完全に脱皮しているのが良く解る作品だ。
 
 同12月、続いてリリースされたのは FORTE FOUR のセカンドシングル
 I DON'T WANNA SAY GOODNIGHT / THE CLIMB (DECCA 32029)だった。
 A面は PHIL SLOAN & STEVE BARRI の書いた傑作ティーンポップ。この曲は
 GARY LEWIS & THE PLAYBOYS と競作となったが出来の良さでも
 FORTE FOUR ヴァージョンに軍配があがる。
深みのあるバッキングの
エコー処理、親しみやすい
メロディーに合わせて
美しいアレンジが施されている。
両面ともゲイリーがプロデュース
とアレンジを担当している。
このアレンジは、この後の
ゲイリーの方向性を示している
と言えるだろう。
 
 この年の最後にリリースされたのは RAFFTY CRAIG のフォークロックシングル
 ERASE ME / FORBIDDEN TO LOVE (DECCA 32046) だった。このシングルは
 DON GLENN Jr. の書いた曲で、両面ともゲイリーがプロデュースとアレンジを
 担当している。SURF STYLE のハーモニーを導入したメロディアスな作品だ。 
 
 ゲイリーは1966年にアルバムを1枚も手がける事なく、このシングル
 を最後に DECCA を去る。しかしここで得たノウハウを武器にゲイリーは
 COLUMBIA RECORDSのプロデューサーとして活躍を続けることになる。
 1966年の年の瀬12月に COLUMBIA RECORDS に移籍してきたゲイリーが
 最初に手がけたのが JOANIE SOMMERS のプロデュースだった。
 - IT DOESN'T MATTER ANYMORE / TAKE A BROKEN HEART
 (COLUMBIA 4-43950) これは両面とも BURT BACHARACH-HAL DAVID に
 よって書かれた曲で、A面は同レーベルの CYRKLE もアルバム「NEON」で
 カヴァーしている。やはり1966年に COLUMBIA RECORDS に移籍してきた
 JOANIE SOMMERS だが、この時期には DECCA の RICK NELSON とデュエット
 曲を発表している。これはその時期の単独ソロ。因みに RICK NELSON
 もこの2曲をソロで DECCA のアルバムに収録しているため競作となった。
 これは1967年ABCテレビのスペシャル番組「ON THE FLIP SIDE」の放送用の
 ためにシングルカットされたもので
 プロデューサーの ROBERT MERSEYが
 PRODUCE, ARRANGE, CONDUCTで
 両面クレジットされている。噂によると
 ROBERT MERSEYが作業を両面とも半分
 残したままにしていた為にゲイリーが残りの
 プロデュースを完成させてフィニッシュ
 したらしく、このシングルには
 ゲイリーのクレジットはされていない。
 所謂共同プロデュースということと判断できる。
 
  LATER YEARS / ON AND AFTER 1967 - 1990
 先ず1967年の1月には前年には完成させていた HONDELLS のシングル
 SHOW ME, GIRL / CHERYL'S GOING HOME (MERCURY 72626) が
 リリースされた。因みにB面の曲のタイトルは CHERYL'S とクレジットされた
 シングルと、SHERYL'S とクレジットされた2種類が存在する。
 ここでも前作に引き続き GOFFIN-KING というティンパン系
 ソングライターの曲は起用。分厚いコーラスとサウンドで包まれたこの曲は
 見事なソフトロックにアレンジされている。またB面はカスケーズが1966年
 に ARWIN RECORDS でリリースした曲と同一だが、こちらも洗練された
 アレンジのソフトロックに仕上げている。

CHERYL'S GOING HOME

  SHERYL'S GOING HOME
 
 ゲイリーは1966年に COLUMBIA RECORDS のプロデューサーに就任して
 先ずは L.A. のフォークロックトリオの HEARTS AND FLOWERS に興味を持った。
 このグループは DAVE DAWSON、LARRY MURRAY、RICK CUNHA の3人で
 構成するフラワーハーモニーを得意としたフォークロックトリオだった。
 その後 BERNIE LEADON も参加するこのグループは CAPITOL RECORDS の
 NICK VENET も目を付けており、まんまと NICK VENET に契約を持っていかれた。

HEARTS AND FLOWERS
 しかし彼らのシングルカットされた ROCK AND ROLL GYPSIES / ROAD TO
 NOWHERE (CAPITOL 5829)はクレジットにはないが A面にはゲイリーが録音に参加
 したと言われている。この曲は ROGER TILLISONの書いた曲で、プロデュース&
 アレンジは NICK VENET が行っている。
 
 
 ビーチボーイズの1966年の名作アルバム「PET SOUNDS」やビートルズが
 翌年リリースした「Sgt. PEPPER'S LONELY HEARTS CLUB BAND」の影響で
 世はまさにコンセプトアルバムの需要が高まっていた。世論に絶賛される
 アルバムこそがロックミュージックの金字塔とされるような風潮であった。
 ゲイリーはそんな中で一人のクリエイティヴな若者に出会う。
 この若者こそ、CURTIS ROY BOETTCHER ことフラワーハーモニーの魔術師
 CURT BOETTCHER だ。彼は KURT BOETTCHER と名乗っていた時期も
 あり、その後も BOETCHER、BETCHER とファミリーネームの綴りが変化する。
 カートは1944年にウィスコンシン州の田舎町 EAU CLAIRE で生まれ
 軍役につく父の関係で高校生時代は2年間ほど日本の岩国基地で過ごした。
 その後ミネソタの大学に入学したものの、ミュージシャンになるために
 ニューヨークへ行き DOTTIE HOLMBERG らと男女4人のフォークグループ
 GOLDEBRAIRS を結成し EPIC RECORDS からデビューした経緯を持つ。
 その後もカートはさまざまなユニット名義やフォークロック&ポップバンドの
 コーラスアレンジを手がけアヴァンギャルドかつプログレッシヴなハーモニーを
 構築させていた。カートの手掛けるハーモニーは現在では WALL OF HARMONY
 としてマニアから絶賛されるもので、このサウンドは一環として彼特有の
 サマーヴィジョンが内包されている。元々カートはフォークミュージシャンとして
 活動を始めたシンガーで、その後 GOLDBRIARS でのデビューを皮切りに
 オーヴァーダビングに魅せられ
 彼は独特なサウンドを確立させる為に
 多くの実験を繰り返していた。
 その中にはコーラスアレンジを手掛け
 1966年に ASSOCIATION によって
 大ヒットとなった「ALONG COMES
 MARY」全米7位や、「CHERISH」
 全米1位もあった。またその狭間に
 おいてその後の MILLENNIUM や
 SAGITTARIUS の母体となる
 BALLROOM のセッションを行っていた。
 ASSOCIATION の一連のカートの
 ハーモニーアレンジに驚いたゲイリーは
 早速カートにコンタクトをとった。
 ヒット曲を手にした ASSOCIATION が
 傲慢にもカートはおろかマネージャー他
 多くの関係者を解雇した頃だった。
  
     CURT BOETTCHER
 しかしカートは断続的に MILLENNIUM へとつながるセッションを続けており
 それらのセッションを見て驚いたゲイリーはカートを COLUMBIA RECORDS に
 誘い出した。ゲイリーとカートは同レーベルに所属するヒップなグループの
 レコーディングに次々と参加していった。そんな中には BYRDS の GENE CLARK
 と行ったセッションも含まれる。
 
 次に目を付けたのが同じ L.A. の PEANUT BUTTER CONSPIRACY だった。

PEANUT BUTTER CONSPIRACY
元 ASHES と名乗って VAULT で
アルバムをリリースしていたこの
バンドはジェファーソンエアプレイン
に参加する以前のスペンサー
ドライデンも在籍していた。
その後、紅一点のバーバラ
ロビンソンをフロントに立て
フラワー色の強いサウンドを
打出していた。
ゲイリーはこのフラワーポップバンド
のレコーディングセッションに
GLEN CAMPBELL や JAMES
BURTON を引き連れて参加した。
 
 彼らの2枚のアルバムでゲイリーはプロデュースを務めている。
 「THE PEANUT BUTTER CONSPIRACY IS SPREADING」
 (COLUMBIA CL-2654/CS-9454)1967年
 
 「THE GREAT CONSPIRACY」(COLUMBIA CL-2790/CS-9590)1968年
 

PEANUT BUTTER CONSPIRACY
IS SPREADING

PEANUT BUTTER CONSPIRACY
THE GREAT CONSPIRACY
 
 
 The Peanut Butter Conspiracy -
 Twice Is Life / In The Middle /
 Love's Last Ground
 (US Sundazed SEP 175) 2005
 Their Previously Unissued Demo Versions
 Recorded Nov 1966. Prod by Gary Usher.
 2005年にサンデイズドからリリースされた
 彼らのデモヴァージョン音源3曲。
 ゲイリーのプロデュースによるもので
 素晴らしいサイケデリックギターが
 フューチャーされている。デモとはいえ
 ヴォーカル録音のバランスを聴くと
 カートとグループの対立が伺える。
 録音はファーストアルバムリリース前
 
 ゲイリーは CURT BOETTCHER を PEANUT BUTTER CONSPIRACY
 のヴォーカルコーチにつけた。ゲイリーは彼らの4トラックレコーディングに
 不満を持っていた。しかしバンドメンバーはゲイリーがいないリハーサル中に
 カートと意見が対立した。メンバーが行おうとしていた方法がカートには
 理解出来なかった。その後カートはこの役をおりている。
 またメンバーは当時の COLUMBIA RECORDS の体質に不満を持っていた
 とも言われている。しかし彼らは彼らのセカンドアルバムでエンジニアーを務めた
 ROY HALEE をとても気に入っており、プロデューサーよりエンジニアー主導の
 アルバムを作ろうとした。それは COLUMBIA RECORDS から押し付けられる
 約束事に彼らが拘束感を感じていたからだ。バンドのリーダーでソングライターの
 ALAN BRANCKETT はゲイリーから勧められ1968年に FOUR STAR MUSIC の
 専属ソングライターとなっており、その後も他アーティストの為に曲を書いていた。

 ゲイリーは1969年初めまでに COLUMBIA RECORDS でプロデューサー
 として活躍している。この時期に手掛けたアルバム作品は上記の
 PEANUT BUTTER CONSPIRACY 以外でも
 CHAD AND JEREMY「OF CABBAGES AND KINGS」(COLUMBIA CL2671/CS9471)
 CHAD AND JEREMY「THE ARK」(〃CL2899/CS9699)
 BYRDS 「YOUNGER THAN YESTERDAY」( 〃CL2642/CS9575)
 BYRDS 「THE NOTORIOUS BYRD BROTHERS」( 〃CL2775/CS9578)
 SAGITTARIUS「PRESENT TENSE」(〃 CS9644)
 MILLENNIUM「BEGIN」(〃 CS9663)
 BYRDS「SWEETHEART OF THE RODEO」(〃 CS9670)
 SPIRAL STARECASE「MORE TODAY THAN YESTERDAY」(〃CS9852)
 等が比較的有名だ。
CHAD AND JEREMY
「OF CABBAGES AND KINGS」
CHAD AND JEREMY
「THE ARK」
 
BYRDS
「YOUNGER THAN YESTERDAY」
BYRDS
「THE NOTORIOUS BYRD
BROTHERS」
  
BYRDS
「SWEETHEART OF THE RODEO」
SPIRAL STARECASE
「MORE TODAY THAN YESTERDAY」
 
 「WHERE THE ACTION IS !」の人気俳優でもあった KEITH ALLISON の
 COLUMBIA RECORDS 移籍に伴い同番組のレギュラーアクトでもあった
 PAUL REVERE AND THE RAIDERS がバックアップを務めることになった。
 彼は CRICKETS メンバーでドラマーの JERRY ALLISON の従兄弟であり、
 また古くからの友人 MONKEES の MICHAEL NESMITH と「AUNTIE'S
 MUNICIPAL COURT」を共作する等非凡なソングライティングセンスを持つ。
 彼のアルバム「IN ACTION」 (COLUMBIA CL2641/ CS 9441)ではプロデュース
 をゲイリーが担当した。アルバムからシングルカットされた曲は
 KEITH ALLISON - LOUISE / FREEBORN MAN (COLUMBIA 4-44028)1967年
 これは THE RAIDERS がバックを務め、MARK LINDSAY がサポートした。
 因みにB面のFREEBORN MAN は KEITH ALLISON と MARK LINDSEY の
 共作で GLEN CAMPBELL もアルバムで取り上げている佳曲。
 この KEITH の活動は後の MARK LINDSAY のソロデビューの布石となる。
 その後 KEITH ALLISON は1968年から1975年まで PAUL REVERE &
 THE RAIDERS のメンバーとして活動する。

KEITH ALLISON
ALBUM「IN ACTION」

  KEITH ALLISON SINGLE
 
 丁度 CHAD AND JEREMY の「OF CABBAGES AND KINGS」を手掛けた頃、
 ゲイリーは CHAD STUART の持つストリングスアレンジの素晴らしさに気付いて
 いた。そんな頃にゲイリーは不思議なアルバムのアレンジ&プロデュース
 を手掛ける。これは以前 DECCA 時代に BUDDIES の DUCKMAN を共作した
 PHIL AUSTIN のアルバムだった。PHIL AUSTIN は瞑想的な語りを得意としており
 先の CHAD AND JEREMY のアルバムでもバッキングの声で収録されている。
 PHIL AUSTIN のこのコメディーアルバムは星座をモチーフにしており、
 ゲイリーは RICHARD PODOLOR (リッチーアレンの本名)や RAUL ABEYTA と
 いった旧友達と曲を書き、アレンジ、コンダクト、プロデュースとして参加している。
 PHIL AUSTIN「THE ASTROLOGY ALBUM」(COLUMBIA CL-2689/CS-9489)
 このアルバムはポスターを付けて発売された。ゲイリーは真面目な顔をして
 PHIL AUSTIN に尋ねた「君はロックンロールスターになりたいかい?」
 PHIL は「俺ならなれるさ」と答えたという。この会話からも解るようにゲイリーは
 旧態依然としていた体制の多い COLUMBIA RECORDS を変えようとしていた。
 同レーベル内でマーケットコントロールを試みていたゲイリーだが、この後
 COLUMBIA RECORDS の新体制でどのような変化が起こるかこの時点では
 誰も知る由もなかった。SUMMER OF LOVE やフラワームーヴメントはビジネス
 へと成長し、メジャーレーベルはそれらのユースカルチャー上に発生した
 ムーヴメントから利益を生み出そうとしていた。
 
 また当時 COLUMBIA RECORDS は新人バンドの獲得に躍起になっていて、
 特に RCA VICTOR との熾烈な獲得競争は有名だ。メジャーレーベル各社は
 このムーヴメントに対して膨大な出費をしており、採算を度外視したような
 レコーディングセッション費用が徐々に彼らの経営を悪化させていく。
 サンフランシスコのライヴパフォーマーの中でも一番人気の高かった
 MOBY GRAPE を遂に獲得した COLUMBIA RECORDS は彼らのシングルを
 5枚連番ですべてにピクチャースリーヴを付けて一度に5枚をリリースさせるも
 4枚目の「OMAHA」のみが、かろうじて88位にチャートに入っただけで
 当時の COLUMBIA RECORDS は大きなストレスを抱えていた。
 
 その後 PHIL AUSTIN の所属していた FIRESIGN THEATRE のアルバム
 がリリースされ、ゲイリーがプロデュースを担当した。
 「FIRESIGN THEATRE PRESENTS WAITING FOR THE ELECTRICIAN OR
 SOMEONE LIKE HIM」(COLUMBIA CL-2718/CS-9518)
 この FIRESIGN THEATRE は PHIL AUSTIN を含む4人のコメディアングループで
 ロスの KPFK ラジオでパロディーを得意として活躍していた。
 因みに初期のクレジットでは THEATER とクレジットされているがその後
 同じ意味の旧英語表記 THEATRE に改められている。

PHIL AUSTIN

   FIRESIGN THEATER

FIRESIGN THEATER
 
 PHIL AUSTIN のアルバムはロックスター達の書くサインについて占星学を用いて
 語っていくコメディーアルバムだ。アルバムには PEANUT BUTTER CONSPIRACY
 の JOHN MERRILL やCHAD & JEREMY、DAVID CROSBY が参加している。
 このアルバムでゲイリーはプロデュースやアレンジで全体を指揮し、バックで
 シンフォニックなアレンジを配している他にも THEREMIN (テレミン)を導入させ、
 いくつかの不思議なサウンドが収録されている。
 このアルバムと CHAD AND JEREMY「OF CABBAGES AND KINGS」、
 FIRESIGN THEATRE のアルバム、そして BYRDS 「THE NOTORIOUS BYRD
 BROTHERS」の4枚のアルバムは一連の作業としてレコーディングされた。
 そして各アルバムはそれぞれのストーリー性を持って制作されたのだ。
 ゲイリーはカントリーミュージックが好きだった。ゲイリーは遡る事ミリタリー時代に
 ローカルラジオでオンエアーされていたカントリーミュージックに心を奪われた
 経験を持ち、BYRDS の ROGER McGUINN はバンドのリーダーとしてというより
 個人的な発想でロックミュージックの探訪に興味を持っていた。当然二人とも
 その可能性がカントリーミュージックやルーツミュージックにあると気づき始めてた。
 YOUNGER THAN YEASTERDAY のレコーディングセッションに参加していた
 スタジオミュージシャン CLARENCE WHITE のプレイを見て驚いた
 ROGER McGUINN はすぐさま CLARENCE WHITE を呼び止めた。
 当時 CLARENCE は GENE PARSONS とグループを結成してナッシュビル中心に
 活動していたが ROGER McGUINN の申し出を受け入れて BYRDS に参加する。
 当時 GEORGE HARRISON がそうであったように ROGER McGUINN やゲイリーも
 また MOOG シンセサイザーの持つ柔らかな効用をカントリーミュージックの
 ロック化に応用させようと考えていた。

 ここで星座というテーマの持つスピリチュアルなフィーリングに着眼した
 ゲイリーは SAGITTARIUS(射手座)のコンセプトを発案する。
 当時ゲイリーはビーチボーイズの PET SOUNDS の持つスピリチュアルな
 フィーリングに感化されており、自らが
 これまでに得ていたレコーディング
 ノウハウを生かせる素材を探していた。
 その素材を WONDER BOY カートベッチャー
 のレコーディングセッションから
 見つけだしたのだ。その素材は以前カートが
 GARY PAXTON STUDIO で録音していた
 BALLROOM のセッションにあった。
 カートは BALLROOM 名義でシングル
 SPINNING, SPINNING, SPINNING /
 BABY PLEASE DON'T GO
 (WARNER BROTHERS 7027)を1967年に
 リリースしている。この録音はFRIAR TUCK
 (MERCURY) に引き続き GARY PAXTON
 STUDIO で行われたアヴァンギャルドな

       BALLROOM
 セッション中に録音された。ゲイリーの旧友でもある GARY PAXTON はカートが
 バックを務めた TOMMY ROE のアルバム「IT'S NOW WINTERS DAY」でも
 エンジニアーを担当しておりカートが所属していた OUR PRODUCTIONS の
 レコーディングに大きく貢献している。また TOXEY FRENCH, JERRY SCHEFF,
 BEN BENAY らロスアンジェルスのサイケデリックコンボ GOLDENROD のメンバー

BALLROOM
が参加。ヴォーカルセクション
はカートや SANDY SALISBURY
らが担当した。
GOLDENROD はカートの1966年
のワークスである YOUR GANG
(MERCURY 21094/61094)に
引き続きバックを担当しており、
これらは GARY PAXTON STUDIO
で収録された一連のセッションだ。
そして BALLROOM でリリース
されなかった音源が MILLENNIUM
や SAGITTARIUS へと昇華して
いったのだ。
 このコンセプトはカートベッチャーも興味を持ち、その核となるサウンドは
 MILLENNIUM 同様にこのセッションが応用されていった。ゲイリーは SAGITTARIUS
 で今まで以上にシリアスな作業を行う事になる。ゲイリーはチャックギラードに
 ヴォーカルを依頼したが、チャックはこの時期に古巣 WARNER BROTHERS と
 契約し自身の新たなバンドである SIX THE HARD WAY のプロモーション活動が
 忙しくなっており、チャックはゲイリー自身で歌う事を強く薦めた。
 このSIX THE HARD WAY は CASTELLS の中心メンバーだった CHUCK GIRARD
 と JOE KELLY で結成しており、この二人は以前ゲイリーのプロデュースで
 CHUCK & JOE として DECCA RECORDS に2枚のシングルを残している。

SIX THE HARD WAY
結局チャックはゲイリーの依頼
を受けて SAGITTARIUS の
セッションの為に2曲ほどリード
をとったが、ゲイリーがその上に
ヴォーカルを被せている。
こうしてセッションは始動していった。
 
 元々1966年に KAMA SUTRA 傘下に所属していた SCOUNDRELS に参加して
 いた JOEY STEC は LA BOLA / COME HOME WITH ME (VERVE 10389)
 をリリースしていた。その翌年の1967年に JOEY STECはハリウッドに移っていた
 友人 RANDY MEISNER の家で CURT BOETTCHERと出逢った。
 当時 CURT は RANDY MEISNER 率いる THE POOR に参加するかどうかを
 思案していた。コロラド出身の THE POOR はこの時期、 CURT や JIM BELL
 らとデモセッションを行っていたのだ。RANDY MEISNER の友人だった
 JOEY STEC は CURT 達の前でアコースティックギターを聴かせた。それを
 気に入った CURT は 即座にJOEY STEC を自分のプロジェクトの為に雇った。
 CURT が COLUMBIA RECORDS で行っていたプロジェクトは GARY USHER と
 共に作業を進められていた。それは CHAD AND JEREMY、SAGITTARIUS そして
 SPIRAL STARECASE も含まれる。ゲイリーも JOEY のアコースティックをとても
 気に入り多くの録音で JOEY を起用した。CURT が模索していた BALLROOM
 のセッションは MILLENNIUM と SAGITTARIUS の二つのプロジェクトへと発展
 していたのだが、この二つはオケの流用からかオーヴァーダビングされた際の
 セッションメンバーによって、または
 アルバムのコンセプトによって若干の
 ニュアンスが異なるが、核となるサウンド
 クリエイティヴィティ(創造性)は CURT の
 創ったものであり、それをゲイリーが
 COLUMBIA RECORDS での立場を使って
 運用したのが SAGITTARIUS だ。
 カートにデモ音源を作らせ、それをゲイリー
 が持ち帰りヴォーカルやストリングスを
 被せて録音していったのだ。アルバムの
 最後を締めくくるゲイリーのオリジナル
 「THE TRUTH IS NOT REAL」に見られる
 プログレッシヴなコード進行は他の
 メッセージソングとは一線を画す。
 PRESENT TENSE「現在時制」と哲学的な
 タイトルが付けられたこのアルバムは、
 占星学を用いてスピリチュアルな
 フィーリングをサウンド化している。

SAGITTARIUS
- PRESENT TENSE
写真は左がゲイリーで右がカート
 
 ★1967年6月6日 アメリカ軍がベトナムで枯葉作戦開始
 
 フォークミュージシャン志望だった LEE MALLORY はフィンガーピッキングを得意と
 していたが、シカゴからやってきた JOEY STEC はフィンガーピッキングを得意
 にしていなかった。
 ある日ゲイリーは「ジョーイ、降りてこいよ。君のギターワークが必要なんだ、
 ところで君はフィンガーピックが出来るかい?」とスタジオで尋ねた。
 JOEY は「YES 出来るよ。今、精神を集中させているから」と答えた。
 60年代のあの時代ならではの光景で、スタジオの中はロウソクと御香が
 立てられていた。JOEY は「ゲイリー、スタジオが明るすぎるからライトを消して」
 と頼んだ。暗くなったスタジオの中で JOEY がフィンガーピッキングのプレイを
 しているのかどうかも解らなかった。事実 JOEY は FLAT PICK で演奏していた
 のだが、ゲイリーはそのプレイを気に入った。SAGITTARIUS も MILLENNIUM も
 このような録音を重ねてアルバムを完成させている。関わるクリエイター、
 ミュージシャンが創造性を持ち寄って個々の作品を完成させていた。
 そして先ず SAGITTARIUS が先行してシングルをリリースしていった。
 SAGITTARIUS の 1st シングルは1967年の5月にプロモーション配布され
 6月24日にピークで全米70位とチャートにかろうじて入った短命シングルだ。
 
 
 また1967年から1968年の SAGITTARIUS のセッションと平行して COLUMBIA
 に移籍させた HONDELLS の2枚のシングルが制作されている。
 この2枚はゲイリーのプロデュースによるものでセッションは SAGITTARIUS の
 セッションを流用させている。YES TO YOU / JUST ONE MORE CHANCE
 (COLUMBIA 4-44361)1967年。そして翌年の1968年に ANOTHER WOMAN /
 ATLANTA GEORGIA STRAY (COLUMBIA 4-44557)が発表された。
 特に CURT BOETTCHER のヴォーカルバックアップを受けた YES TO YOU /
 JUST ONE MORE CHANCE の出来は素晴らしく、抑制の聴いたチャックギラード
 のヴォーカル、またゲイリーのプロデュース&アレンジも冴え渡る傑作シングルだ。
 A-SIDE はD.HILDERBRAND-T.S.FARTHINGSWORTH XIV と作者がクレジット
 されており、この作者 D.HILDERBRAND とは当時メロディアスな佳曲を書いて
 いた元 PAUL & PAULA の RAY HILDERBRAND の事だろうか。FLIP SIDE の
 JUST ONE MORE CHANCE はイギリスの OUTER LIMITS のカヴァー。
  
 またその翌年にリリースされた ANOTHER WOMAN / ATLANTA GEORGIA STRAY
 も出来が良く、これらを収録出来る HONDELLS のアルバムコンセプトさえあれば
 この2枚のシングルの評価も変わっていただろう。A-SIDE はリッチーバーンズ
 の書いた会心作でブライトなサンシャインポップ。
 
 SAGITTARIUS のベースとなるトラックはカートや MILLENNIUM のメンバーに
 よって録音され、その後ゲイリーがお抱えミュージシャンと録音したトラックを
 被せていった。
 例えばストリングスの多い SAGITTARIUS ではストリングスアレンジの上手い
 CHAD & JEREMY の CHAD STUART が参加するように最終録音が異なる。
 その反面 MILLENNIUM は CURT BOETTCHER と KEITH OLSEN ら
 OUR PRODUCTION に所属するミュージシャンが主導となって録音し、当時と
 しては画期的な16トラック録音がされアルバムを完成させていった。
 LEE MALLORY、SANDY SALISBURY、JOEY STEC 等のミュージシャンは
 グループとしてのプロモーション活動がある MILLENNIUM のメンバーとして
 行動していたが、サウンドの流用から発展した SAGITTARIUS はパート録音に
 参加しているもののゲイリーとカートのプロジェクトとして進行された。
 SAGITTARIUS 同様に MILLENNIUM の録音エンジニアーも ROY HALEE が
 務めた。ROY HALEE は SIMON AND GARFUNKEL で聴かせた透明感溢れる
 独特のサウンドで名を上げた録音エンジニアーだ。
 SAGITTARIUS が基本的にギターとドラムを左右に振り分けた定位であるのに
 対して MILLENNIUM では中央にベースの低音を置き、鳴り物のパーカッションや
 サウンドエフェクト、コーラスを細かい定位に差を与え、展開によっては左右に
 動かしていく事によってサウンドの立体感を ROY HALEE は構築している。
 その立体的な音像のためか、その後
 MILLENNIUM のアルバムは麻薬常習者達
 からトリップミュージックとして高い評価を
 得てしまう。逆説的には録音を完成させて
 いくプロセスと共にストリングスの多い
 SAGITTARIUS では、このような音の
 振り分けができなかったのだ。
 MILLENNIUM のクレジットはファースト
 シングルの後に MILLENIUM に統一
 される。因みにファーストシングルの
 ピクチャースリーヴは2種類存在し
 ファーストプレスでは JOEY STEC が
 中指を立てている。
 それが発覚し、その後回収されて中指を
 編集してリリースしなおした。

       ROY HALEE

MILLENNIUM - BEGIN

  MILLENNIUM MEMBER
 

MILLENNIUM
WITH DRAWN PIC SLEEVE

 JOEY STEC が中指を立てた
 事実が発覚し、その後回収された
 
 HONDELLS - JUST ONE MORE CHANCE の後を追うように MILLENNIUM が
 ファーストシングルをリリースした。同じ種を持つ二つのユニット SAGITTARIUS と
 MILLENNIUM は膨大なセッション費用を費やしたアルバムをリースさせた。
 この2枚のコンセプトアルバムはリスナーとのギャップがあったにせよ
 セールス的に惨敗に終わった。また当時の COLUMBIA RECORDS の首脳達
 に「アヴァンギャルド過ぎる」とも酷評されてしまった MILLENNIUM だが
 その後のミュージックシーンへの影響を考えれば、この2枚のアルバムは
 完成させられた事に意義があると言えるだろう。
 因みに SAGITTARIUS は日本でもシングルがリリースされたが
 B面にジーンホールによるフルート「PICO PEAK A BOO PART 1」を収録した
 カップリングシングルとして発売されている。
 

SAGITTARIUS 日本盤シングル

MILLENNIUM 日本盤シングル
  
  1967年 SAGITTARIUS シングル
 MY WORLD FELL DOWN/LIBRA (COLUMBIA 4-44163)
 
 HOTEL INDISCREET/VIRGO (COLUMBIA 4-44289)
 
 ANOTHER TIME/PISCES (COLUMBIA 4-44398)
       
 
SAGITTARIUS の 1st シングル
MY WORLD FELL DOWN は
イギリスの IVY LEAGUE の
カヴァーで1967年の6月24日
にピークで全米70位とチャートに
かろうじて入った。
このA面には BRUCE JOHNSTON
や GLENN CAMPBELL も
録音に参加している。
 
WAYLON JENNINGS のフロントマン
としても知られるテキサスの
カントリーシンガー DAL PERKINS
HERE'S TO THE GIRLS / ONE DAY
A WEEK の両面プロデュースと
アレンジをゲイリーが担当。
バックアップハーモニー等を
聴いているとカントリーロックの
夜明けが間近であると再認識
させられるブライトチューン。
DAL PERKINS は以前 CHALLENGE
RECORDS 所属だったので
以前からゲイリーとの接点が
あったものと推測される。
 
2枚目にリリースされたシングルは
プロデュース&アレンジはゲイリー。
ヴォーカルアレンジはカートが
務めた傑作シングルだが
チャートには入らずにコロンビア
幹部を悩ませた。
SNUFF GARRETT PRODUCTIONS
に所属していた元 ROUTERS の
メンバーだった MICHAEL GORDON
と JAMES GRIFFIN (後の BREAD)
が書き下ろした曲を取り上げてる。
当時この2人はソングライター
コンビを結成しており ROOSTERS
(PHILIPS RECORDS)というビート
ポップバンドで活動していた。
 
SAGITTARIUS の1967年
にリリースされた3枚のシングル
のB面に収録された神秘な
インストは元々 PHIL AUSTIN
のアルバムの為に書かれていた。
これらはアルバム未収録で全て
作曲、プロデュース、アレンジを
ゲイリーが行っており
このユニットの持つ「星座」という
コンセプトは全てこれらのインスト
から多様化されていった。
これが MILLENNIUM の持つ
コンセプトと決定的に異なる。
 
前作に引き続き DAL PERKINS の
HELPLESS / WOMAN IN THE
DARKNESS でプロデュースを
担当した。こちらはストリングス
アレンジを JIMMIE HASKELL が
行っている。
 
PEANUT BUTTER CONSPIRACY
のシングルも同様にリリース
されていった。彼らのコロムビア
作品はゲイリーがプロデュースを
行い、その開放的なフラワー
フィーリングを如何なく発揮した。
 
SAGITTARIUS 同様に
ストリングスアレンジの上手い
CHAD STUART の手腕が発揮
された CHAD & JEREMY の
シングルカット。
ゲイリーのプロデュース作品。
 
SAGITTARIUS の ANOTHER TIME
は両面とも ANOTHER TIME の
プロモ盤も存在する事から
プロモーションには力をいれて
いた事が伺えるがヒットには
至らなかった。
 
 SAGITTARIUS の ANOTHER TIME をリリースした後にリリースされたのが
 KEITH COLLEY - ENAMORANDO / SHAME, SHAME (COLUMBIA 4-44410)
 A面はKEITH COLLEY の自作で1963年全米66位のヒットとなった曲
 ENAMORADO (UNICAL 3006)をリメイクしたラテンフレイヴァーのトロピカルソング。
 A面のアレンジは KEITH COLLEY 本人によるもの。
 B面作者は K.COLLEY-K.HENDERSON-L.COLLEY の FOUR STAR MUSIC
 の布陣で書かれたブライトなポップチューン。このB面は翌年にイギリスのグループ
 MAGIC LANTERNS がカヴァーしヒットとなった曲のオリジナル。
 両面ともゲイリーのプロデュースでバッキングを CURT BOETTCHER 率いる
 MILLENNIUM が担当。他にも録音には DAVID GATES, PLAS JOHNSON,
 RAY POHLMAN が参加している。
 STOCK COPY には全てパブリッシャークレジットが無い。
 また不思議な事に写真下左の STOCK COPY には COLUMBIA 表記下の
 ロゴがプリントされていないものも存在する。このリメイクヴァージョンの
 KEITH COLLEY - ENAMORANDO は1969年に WHITE WHALEからも
 再発される (WHITE WHALE WW-311)
  
  1968年 SAGITTARIUS シングル 
 YOU KNOW I'VE FOUND A WAY/THE TRUTH IS NOT REAL (COLUMBIA 4-44503)
 
 I'M NOT LIVING HERE/KEEPER OF THE GAMES (COLUMBIA 4-44613)
                
 
YOU KNOW I'VE FOUND A WAY
は CURT BOETTCHER と
LEE MALLORY の共作による
美しいナンバー。アレンジは
ゲイリーとカートによるもので
プロデュースはゲイリーの単独。
 
SAGITTARIUS の合間を縫って
SPIRAL STARECASE の
I'LL RUN / INSIDE, OUTSIDE,
UPSIDE DOWN (COLUMBIA
4-44566)がリリースされた。
CURT BOETTCHER が
コーラス参加。プロデュース、
アレンジはゲイリーが担当。
 
I'M NOT LIVING HERE は
CURT BOETTCHER の書いた
曲でプロデュースとアレンジは
GARY USHER,CURT BOETTCHER,
KEITH OLSEN の3人で行われ
ており、その後この3人によって
TOGETHER RECORDS が設立
される。
 
CHAD AND JEREMY の
STRINGS アレンジに対して
巨額の費用を費やしていた
ゲイリーだが、このプロモ盤に
あるように SPECIAL RUSH
RESERVICE(特別急いで確保)
したプロモーションを行う。これは
AMERICAN INTERNATIONAL の
映画「3 IN THE ATTIC」に
合わせてプレスされている。
プロデュースはゲイリー。
 
 ★1968年4月4日 キング牧師暗殺
 ★1968年6月5日 ロバートケネディ上院議員暗殺
 
 1968年7月29日に BYRDS はカントリー
 ロックの金字塔となる「SWEETHEART OF
 THE RODEO」(COLUMBIA CS9670)
 をリリース。プロデュースをゲイリーが
 務めたこの傑作アルバムはメンバーの
 才能とゲイリーの考察力が見事に融合
 したアルバムだ。このアルバムはロック
 マーケットに新たな可能性を与えた作品
 だった。兵役時代からカントリーミュージック
 のファンだったゲイリーはこの作品によって
 グラムパーソンズらメンバーの才能と
 作品の方向性に位置づけをする事に
 成功した。しかしアルバムはアルバム
 チャートの77位と、シングルカットされた
 「YOU AIN'T GOING NOWHERE」は74位と低迷していた。カントリーミュージック、
 ブルーグラス、フォークミュージック等の影響をうまくブレンドさせたアルバムだが
 グラムパーソンズと他メンバーの方向性による対立が生まれたのも事実だ。
 そのためこのアルバムでのラインアップは短命に終わっている。
 BYRDS が「SWEETHEARTS OF THE RODEO」を録音した時に、ビルボード誌は
 「ROGER McGUINN が他にも10トラックを録音した」と報じた。
 実は「SWEETHEARTS OF THE RODEO」は2枚組でリリースされる計画だった。
 しかし実際には編集作業によってそれらはアルバムに収録されなかった。
 一般的にこのアルバムは世間に受け入れられたと報道されていたが、
 実際には AM ラジオ局はカントリーミュージックに否定的で、またカントリー系
 リスナーも「SWEETHEARTS OF THE RODEO」に対する戸惑いがあった。
 結果として財政的な面でも BYRDS と COLUMBIA RECORDS はこのアルバムで
 ダメージを受けている。
 
 ★1968年8月9日 シャロンテート殺害事件
 当時 BRUCE JOHNSTON & TERRY MELCHER は自らのプロダクション
 EQUINOX PRODUCTION を設立し、大手レコード会社と契約を結ぼうと
 目論んでいた。そのために曲を書ける人材を探しており BEACH BOYS メンバー
 として BRUCE JOHNSTON 訪英時期にスカウトしたのが GRAPEFRUIT で、
 アメリカに残っていた TERRY MELCHER がスカウトしたのが NEW BREED と
 MOSS & THE ROCK であった。TERRY MELCHER は彼らにアルバム録音が
 出来るだけのたくさんの曲を彼らに書かせた。イメージチェンジをするべく
 PUBLIC NUISANCE と名を改めた MOSS & THE ROCK、そして GLAD と名を
 改めた NEW BREED だが、彼らのデビューは大事件に巻き込まれる。
 EQUINOX PRODUCTION は1968年に ABC RECORDS 傘下となった
 新興レーベル DUNHILL RECORDS にも話を持ちかける。
 運良く GRAPEFRUIT は ABC DUNHILL からアルバムリリースを果たしたが
 その頃から EQUINOX PRODUCTION に暗雲が立ちこみ始める。
 既にゲイリーヒンマンとショーティーシェア殺害疑惑で有罪となっていた
 ヒッピーコミューンの教祖 CHARLES MANSON だが、
 CHARLES MANSON と交友が深かった BEACH BOYS の DENNIS WILSON は
 1968年に当時シエロドライヴ10050番地に住んでいたTERRY MELCHER を
 紹介した。間もなくして CHARLES MANSON は女優 SHARON TATE 宅に押し入り
 彼女を殺害してしまった。すぐさま TERRY MELCHER は重要参考人として検挙され
 24時間体制で FBI から監視される状況に陥った。
 そのために EQUINOX PRODUCTION の運営計画は中止されてしまい
 資金難となり一時閉鎖されてしまった。
 
 TERRY MELCHER の父で GENTLE SOUL のマネージャーも手掛けていた
 MARTY MELCHER が当時財政を悪化させていた。その原因となったのは
 彼が先行投資した MONTEREY POP FESTIVAL だった。これは彼らの家族の
 財政にも及ぼすようになり、その梃入れとして TERRY MELCHER の母親
 DRIS DAY の "The Doris Day Show"(CBS TV) を放映する運びとなった。  
 既に映画女優として一線を退きはじめて
 いた母 DORIS DAY だったが
 TERRY はこの番組の代表取締役
 テレビプロデューサーをする事になり
 放映料のアドヴァンスで財政を立て直そう
 としていた。それが理由で TERRY MELCHER
 は BYRDS のプロデューサーを降りており
 後任としてゲイリーが BYRDS のプロデュース
 担当となった経緯を持つ。
 翌1968年に多額の債務を抱えたまま
 MARTY MELCHER は死去する。
 巨大化を続けるロック産業ではあったが
 これらの事情からコストコントロールは
 無視出来ない状況になる。
 実験のために投資する時期は徐々に
 終りに近づいていた。

DORIS DAY & MARTY MELCHER
 
 BYRDS の「SWEETHEARTS OF THE RODEO」に続きゲイリーは録音のために
 缶詰状態になっていた CHAD AND JEREMY「THE ARK」に $75,000 もの費用
 をかけて完成させ COLUMBIA RECORDS との関係が悪化してしまった。
 それが引き金となり新体制を作ろうとした COLUMBIA RECORDS はゲイリーを
 解雇する。
 
 ゲイリーはその間も CURT に TOGETHER RECORDS 設立のプロジェクトを
 持ちかけていた。1969年3月にゲイリーとカートベッチャー、キースオルセンの3人
 で設立された TOGETHER RECORDS だが、先ず最初にリリースされた同レーベル
 の記念すべきファーストアルバムは
 BYRDS の初期音源で構成された
 「PREFLYTE」(TOGETHER ST-T-1001)
 だった。これは BYRDS がデビュー前
 の1964年にワールドパシフィック
 スタジオでレコーディングしていた
 未発表音源を収録したアルバムだった。
 TOGETHER RECORDS は昔ゲイリーの
 手がけた一連の SURFIN' MOVIE を配給
 した AMERICAN INTERNATIONAL
 PICTURES の AL SIMMS をスポンサーに
 していた為に映画サントラのアルバムも
 手がけていた。
 
 かねてからゲイリーに自作のデモ
 テープを送り続けていたフォーク
 シンガーの DICK CAMPBELL は
 MERCURY でアルバムをリリースした
 後にゲイリーの要請を得て
 カリフォルニアに出向いた。
 ゲイリーはレーベル設立にあたって
 DICK CAMPBELL を雇っている。
 その後 DICK CAMPBELL は NILSSON の楽曲の管理を始め I GUESS THE LORD
 MUST BE IN NEW YORK CITY のカヴァーをゲイリーに薦めた。
 この曲はゲイリーがヴォーカルを担当し SAGITTARIUS のシングルとして
 リリースされたがヒットしなかった。その間、SAGITTARIUS のセカンド
 アルバム「THE BLUE MARBLE」(TOGETHER ST-T-1002)が完成した。
 プロデュースは曲によって異なり GARY USHER 単独、GARY USHER &
 CURT BOETTCHER、そして GARY USHER-CURT BOETTCHER-KEITH OLSEN
 の3種類クレジットがされている。 エンジニアーを務めたのは
 DALE BATCHELOR & GARY USHER で
 ゲイリーがリードヴォーカルとった
 I SEE IN YOU と GLADYS の2曲では
 CHUCK GIRARD の名が SPIRITUAL
 THANKS としてクレジットされている。
 ジャケットデザインは JAN & DEAN の
 DEAN TORRENCE が設立した
 KITTYHAWK GRAPHICS が担当。
 アルバムにはボーナスとして地球の
 天体写真が付属されていた。
  
   1969年 SAGITTARIUS シングル 
 IN MY ROOM / NAVAJO GIRL (TOGETHER 105)
 
 I GUESS THE LORD MUST BE IN NEW YORK CITY / I CAN STILL SEE
 YOUR FACE (TOGETHER 122)
 
TOGETHER RECORDS 初の
ヒットとなったのは SAGITTARIUS
のシングル IN MY ROOM
(TOGETHER 105) だった。
カートベッチャーがリードヴォーカル
を担当したこのビーチボーイズの
カヴァーはアルバムの持つ
スピリチュアルなフィーリングを
内包しており1969年8月2日を
ピークに全米86位ながらチャート
に入った。
 
TOGETHER の IN MY ROOM
で幸先の良いヒットに恵まれ
続いてリリースされたのが
NILSSON の書いた
I GUESS THE LORD MUST BE
IN NEW YORK CITY だ。
これはゲイリーのリードヴォーカル
によって録音された。
またカナダ盤は MIKE CURB の FORWARD RECORDS から発売
されており Featuring Gary Usher
とクレジットされている。因みに
この歌はHUDSON BROTHERS
の前身である NEW YORKERS
と競作になり他にも幾つかの
競作シングルが存在する。
 
 SAGITTARIUS のシングルの合間を縫って CURT BOETTCHER のシングル
 SHARE WITH ME / SOMETIMES (TOGETHER 117)がリリースされた。
作者は USHER-SALISBURY-
MALLORY-STEC の連名と
なっており元々は COLUMBIA
時代に書かれていた
「LETTER FROM」と言う曲だ。
ここでのプロデュースはカートと
キースオルセンとゲイリーの連名。
ゲイリーはこの曲を後に DICK
CAMPBELL と後に改めて
書き直している。
 
 またこの時期 DANNY COX のファースト
 アルバム(2LP)が TOGETHER で
 リリースされゲイリーがプロデュースと
 エンジニアー担当した。
 DANNY COX - BIRTH ANNOUNCEMENT
 (TOGETHER ST-1011)このアルバムは
 BOB DYLANの「BABY BLUE」や
 「JUST LIKE WOMAN」、BEATLESの
 「MY GUITAR WEEPS」、「DAY IN THE
 LIFE」、「HEY JUDE」、LEONALD COHENの
 「SUZANNE」他をカバーするフォークアルバム
 でレコーディングには JOHN KAHN が参加。
 
 その後ゲイリーはこのレーベルで
 東洋的思想の強い禅の指導者である
 ALAN WATTS のカルトな2枚組アルバム
 「WHY NOT NOW-DHYANA, THE ART OF
  MEDITATION」(TOGETHER ST-T2R-1025)
 でプロデュースを手掛けた。瞑想の指導者
 として高い評価を受ける ALAN WATTS の
 このアルバムは DEAN TORRENCE の
 デザインによるもので4ページのブックレット
 が付いている。
 
 その間 GARY PUCKETT & THE UNION GAPS がリリースしたシングルがある。

当時の 4 STAR MUSIC のプロモカード。
ソングタイトルの下に
Words and Music by GARY USHER
と書かれている。

DON'T GIVE IN TO HIM /
COULD I (COLUMBIA 4-44788)
のA面がビルボードチャートに
ランクインされた。この曲は
1969年3月15日をピーク
に全米15位となった。
このA面は JERRY FULLER の
プロデュースだがゲイリーが
単独で書いた曲。
この曲は元々 FINDERS KEEPERS
の為にゲイリーが書いた曲だ。
COLUMBIA RECORDS を離れた
ゲイリーにとっては皮肉だが
ゲイリーの単独作品としては
初のミリオンセラーとなった。
因みにこの曲は VENTURES も
録音している。
 
 ★1969年8月15日 ウッドストック ロックフェスティヴァル開催
 
 1969年にカントリーロックバンド 
 SOUTHWIND が「RUBY EILEEN」を録音し
 ゲイリーはプロデュースを手掛けている。
 これは KENDUN RECORDERS に残された
 10インチのアセテート盤としてプレスされ
 TOGETHER RECORDS 存続のために
 提出されたが、力及ばず SOUTHWIND
 は BLUE THUMB RECORDS と契約し
 アルバム「READY TO RIDE」
 (BLUE THUMB BTS-13) に収録された。
 
 HONDELLS のセッションで昔一緒に作業をした MIKE CURB は事業家としても
 成功しており、トランスコンチネンタルエンターテイメントコーポレイションの
 取締役を歴任し、1970年1月には弱冠25歳で MGM RECORDS の社長に就任し
 活躍していた。当時 MIKE CURB は TOGETHER RECORDS のスポンサーであった
 AMERICAN INTERNATIONAL PICTURES の版権を得た。そして彼はゲイリーの
 TOGETHER RECORDS 運営にあたって資金援助をし、スタッフをゲイリーに
 貸し出した。70年に入り TOGETHER RECORDS はMGM 傘下になったが、
 当初はフォークミュージック、フォークロックの発展を務めていたものの
 MIKE CURB の意向からか、MGM 系のAMERICAN INTERNATIONAL PICTURES
 のB級映画のサウンドトラックアルバムを MGM が設立した子会社 AMERICAN
 INTERNATIONAL RECORDS (A.I.R.) でリリースし続けることになる。その間 MGM
 は子会社として FORWARD RECORDS を
 設立させ TOGETHER RECORDS の
 配給をさせたが、間もなくして
 TOGETHER RECORDS は資金難の
 ために1年で閉鎖に追い込まれる。
 借金を抱えたゲイリーは A & R スタッフを
 引き連れて RCA にかけあった。
 実は MIKE CURB によって育てられた
 ファミリーグループ COWSILLS は
 1969年でその人気が急速に下降し、
 MGM との契約が終わっていた。
 MIKE CURB は子飼いの MICHAEL LLOYD
 を引きつれ MIKE CURB CONGREGATION
 を率いて LOVE & PEACE を掲げた
 コーラスグループの活動を始める。

    MIKE CURB

 
 RCA RECORDS から依頼を受けた
 ゲイリーは DICK CAMPBELL と
 一緒に GOOD OLE ROCK & ROLL
 SONG という曲を書き、COWSILLS
 の家に出向いて録音させた。この曲は
 COWSILLS のLP「ON MY SIDE」
 (LONDON PS587)に収録され
 1971年にリリースされたが、既に
 人気がなかった彼らのこのアルバム
 は話題にもならなかった。
 
 RCA RECORDS を解雇されたゲイリーとスタッフだがゲイリーとディックキャンベル
 は曲を書き続けていた。
 その時期、PAUL WILLIAMS のマネージャーだった LARRY GORDON と取引が
 行われ LARRY GORDON の義父でコメディアンの DANNY THOMAS を加えて
 RIP/KECA MUSIC という音楽出版社を設立した。
 それに連動するようにゲイリーは
 1971年 ELEKTRA RECORDSと契約
 を結び、手始めに WACKERS の 1st
 アルバムをプロデュースする。
 「WACKERING HEIGHTS」(ELEKTRA
 EKS-74098) 彼らは5人組のポップ
 バンドで元 FAMILY TREE の
 BOB SEGARINI や RANDY BISHOP で
 結成されていた。このアルバムは
 ビートルズの影響が伺えるフォークロック
 の逸品であり、以前彼らは同レーベルの
 ドアーズのライヴの前座も務めていた。
 
 元々ELEKTRA RECORDS はフォーク色
 の強いレーベルだったが、ゲイリーは
 フォーク&フォークロックのコンセプト
 であるアルバムを DAVID GATES と
 共にプロデュースした。
 SHIP「A CONTEMPORARY FOLK
 MUSIC JOURNEY」
 (ELEKTRA EKS-75036)
 
 ★1971年2月9日 ロスアンゼルス大地震フリーウェイやダムが崩壊
次に合間を縫って良質なソフトロック
シングルが単発的にリリースされた。
GUILD - WHAT AM I GONNA DO /
GOOD CHRISTIAN COWBOY
(ELEKTRA EK-45823) A面は
CAROLE KING & TONI STERN
によって書かれたメロディアスな
ソフトロックのカヴァーで、ゲイリーは
プロデュースを担当した。
 
 1972年には WACKERS のセカンド
 アルバム「HOT WACKES」(ELEKTRA
 EKS-75025)をプロデュースした。
 
 ★1972年6月17日
 ウォーターゲート事件発覚
 
 ★1973年1月29日 ニクソン大統領ベトナム戦争終結を宣言
 
 1973年に CURT BOETCHER の初のソロアルバム「THERE'S AN INNOCENT
 FACE」(ELEKTRA EKS-75037)がリリースされた。このアルバムはカートの
 昔の仲間達 MICHELE O'MALLEY や DOTTIE HOLMBERG らもコーラスで
 参加しているが、ゲイリーは EXECUTIVE PRODUCER として、また MIX DOWN
 アシストとしてクレジットされている。
 
 またこの時期ゲイリーは古巣のワーナー
 で ANDY GOLDMARK のアルバムを
 プロデュースした。
 ANDY GOLDMARK「S/T」
 (WARNER BROTHERS BS-2703)
 録音に参加したのは元 CRITTERS の
 JIM RYAN を筆頭に WES BURRELL,
 DAVE VAUGHT,LARRY KNECHTEL,
 BOB GLAUB, ANDY NEWMAN,
 JIM KELTNER ら。コーラスでは
 CURT BOETCHER と NANCY HANSEN
 が参加した。ANDY GOLDMARK は
 ソングライターとしてナタリーコール、
 カーリーサイモン、エリックカルメン等に
 楽曲を提供してきた人物で、この彼の
 ソロアルバムもSSWアルバムとして
 高い評価を得る名盤だ。
 
 これに続いて WACKERS の3rd
 アルバム「SHREDDER」(ELEKTRA
 EKS-75046)で MARK ABRAMSON
 と共同でプロデュースを担当した。
 
 その後ゲイリー達は JIM NABORS MUSIC COMPANY 所属のソングライターで
 AMOS RECORDS で録音していたJIM WEATHERLY (JAMES DEXTER WEATHERLY
 - 元 GORDIAN KNOT)と契約しCISSY HOUSTON (WHITNEY HOUSTON の母)を
 手に入れた。JIM WEATHERLY が当初カントリーソングのつもりで書いていた
 「MIDNIGHT PLANE TO HOUSTON」は CISSY HOUSTON によって歌われ、
 その後 GLADYS KNIGHT & THE PIPS
 によって「MIDNIGHT TRAIN TO GEORGIA」
 として歌われ1973年9月に全米1位の
 大ヒットとなった。ゲイリーにとって不運にも
 この曲の印税は作者の JIM WEATHERLY
 に入ったにすぎない。
 その間もゲイリーとディックキャンベルは
 50曲以上も曲を書き溜めていた。
 それらの曲はコンセプトアルバム
 「BEYOND A SHADOW OF DOUBT」の
 為に書かれていたが、結局このコンセプト
 アルバムはリリースに至らなかった。

 JIM WEATHERLY
 この音源は2000年になってCD化されている。
 ★ 1973年10月6日オイルショック
 
 1975年にタロット占いで有名な ANN DAVIS のアルバムをゲイリーは
 プロデュースしている。恐らく彼女とは SAGITTARIUS のコンセプトまたは
 そのコンセプトの基となった PHIL AUSTIN のアルバム製作時に接点が
 あったのだと推測される。彼女はオカルトに関する書籍も出版しており
 ゲイリーは彼女の神秘的な宇宙観に魅せられていた。このアルバムは所謂
 自主盤みたいなものでタイトルは "An Esoteric Qabalistic Service" と記載
 されており Builders Of The Adytum 6102 がレコードナンバーとなっている。
 折込ページが内装された Gatefold Cover で、ANN DAVIS が神秘的な演奏を
 バックに宇宙について語る。バックで参加しているのは THE BUILDERS OF
 ADYTUM CHOIR WITH CONTRIBUTIONS BY B.O.T.A. TEMPLE CHOIR ,
 CALIFORNIA BOYS CHOIR , MARION HILLS , DOUG LAWRENCE ,
 JOSEPH NOLEN , MARIE ANDELL , PATRICIA BEHMAN AND DAVID SHOSTAC
 残念な事に ANN DAVIS はこのアルバムをリリースした1975年に死去している。

ANN DAVIS

      
 
 1976年に入ってブルースジョンストンが発案していた CALIFORNIA MUSIC
 のプロジェクトが具体化された。ブルース自身がテリーメルチャーと共に
 設立した EQUINOX PRODUCTION が指揮をとり、カートベッチャーをリード
 ヴォーカルに据えてトロピカルなポップシングルが3枚リリースされた。
 共にプロデュースは CURT BETCHER-GARY USHER-TERRY MELCHER に
 よるもので、西海岸ならではの爽快でライトなファンクネスが内包された
 傑作シングルとなった。ブルースジョンストンは1969年に EQUINOX を
 設立して以来、ビーチボーイズと行動を共にしながらこのプロダクションを
 様々なレコード会社に売り込んでは幾つものソフトサウンドを実験してきている。
 その多くは既存の楽曲に手を加えていく手法で、まるでその後のFMラジオの
 普及を考慮に入れていたかのような、音質の良さを誇っていた。
 ブルースは1972年3月にビーチボーイズのマネージャーのジャックライリーとの
 対立から、ビーチボーイズを脱退しており、RCA RECORDS に EQUINOX の
 プロダクション契約をさせた。その間、いくつかのアルバム制作に携わり
 合間合間でワンショット的にいくつかの試みを発表していた。
 当時シアトルで生活しながらディスコのDJをやっていたカートベッチャーは
 以前 TOGETHER RECORDS でプロデュースを手がけた事もあるシアトルの
 バンド MOSES LAKE (BARDS の変名)のメンバーだった MARTY SHELDON
 や彼の仲間の BRENT NELSON に声をかけられ EQUINOX が録音していた
 「HAPPY IN HOLLYWOOD」の歌入れを打診される。それを了承したカートは
 カリフォルニアに戻りヴォーカルトラックを
 作った。そのテープを聴いたブルース
 ジョンストンは凄く気に入りすぐさまカート
 と契約した。その後カートはこのプロジェクト
 のリードヴォーカルを担当する事になる。
 レコーディングにはブライアンウィルソン、
 チャドスチュアートらも参加し古いトロピカル
 ソングのカヴァーに斬新なアレンジが
 施された。彼らはウェストコースト
 ミュージックが当時のディスコシーンに
 融合出来る事を実現させてみせたのだ。

   CURT BETCHER
 
 このセッション中に EQUINOX はイギリスのロックシンガー DAVE EDMUNDS
 (元 LOVE SCULPTURE) の新曲製作に携わった。ここで録音された
 LONDON'S A LONELY TOWN の
 レコーディングにはブライアンウィルソン、
 ブルースジョンストン、テリーメルチャー、
 カートベッチャー、ゲイリーアッシャーらが
 参加している。
 これは TRADE WINDS の名曲
 NEW YORK'S A LONELY TOWN を
 カヴァーした傑作だが、見事な出来で
 レコーディングを終えたものの権利上の
 問題でリリースはされなかった。

     DAVE EDMUNDS
  
 CALIFORNIA MUSIC のプロジェクトはアルバムリリースに向けてシングルカット
 された曲の他にも多くのレコーディングを完成させた。
 このアルバム「PASSION FRUIT」は CURT BETCHER、GARY USHER、
 TERRY MELCHER がプロデュースを担当している。
 これは1977年夏に MIKE CURB によって WARNER / CURB から発売される予定
 だったものの、当時カリフォルニア州の副知事選挙に出馬する MIKE CURB の
 意向によってリリースは見送られてしまう。
 
 1976年 CALIFORNIA MUSIC シングル
 CALIFORNIA MUSIC
 - JAMAICA FAREWELL / CALIFORNIA MUSIC (RCA 10572)
 
 CALIFORNIA
 - MUSIC MUSIC MUSIC / HAPPY IN HOLLYWOOD (WARNER BROTHERS 8253)
 
 CURT BECHER AND CALIFORNIA
 - HAPPY IN HOLLYWOOD / I LOVE YOU SO (WARNER BROTHERS 8307)
 
         
 

CALIFORNIA
 - MUSIC MUSIC MUSIC (PROMO 12 inch)
 
 1977年には BRUCE JOHNSTON のアルバム「GOING PUBLIC」
 (COLUMBIA PC-34459)がリリースされた。ここでゲイリーはプロデュースを
 担当した。このアルバムはビーチボーイズのメンバーだったブルースジョンストン
 の OUT SHOT 作品で、名作「I WRITE THE SONG」「DEIRDRE」「DISNEY GIRLS」
 等が収録され、彼のメロディアスな
 作風が生かされた名盤。
 参加は ED CARTER, CHAD STUART,
 CURT BECHER (CURT BETCHER),
 GARY PUCKETT ら豪華なメンバー
 となっている。因みにアルバム
 デザインは DEAN TORRENCE
 によるものだった。
 
  
 1978年には CALIFORNIA のシングル I CAN HEAR MUSIC / LOVE'S
 SUPPOSED TO BE THAT WAY (RSO 901)がリリースされた。
 これは CALIFORNIA の前作を
 引き継ぐ良質なトロピカルサウンドで、
 プロデュースを CURT BETCHER が
 行い共同プロデュースを
 GARY USHER、BRUCE JOHNSTON、
 TERRY MELCHER が担当した。
 
その後、ゲイリーはレコード業界を
漂流していた。なかば業界から
身を引いたかのような状況は続き
その間、西海岸のサマーヴィジョンも
時とともに変化をみせていく。

まもなくしてゲイリーはシアトル近く
のSAN JUAN 島でレストラン経営を
始めたが失敗に終わった。
 
 1983年に突然コンセプトアルバム CELESTIUM「SANCTUARY」
 (EPIC BFE- 38912)をリリースした。これは AOR 然としたサウンドで
 リードヴォーカルを TOM KELLY (元 FOOLS GOLD / I-TEN) が担当した
 コンセプトアルバムだ。TOM KELLY は後にマドンナに LIKE A VIRGIN を提供し
 ソングライターとしても成功した。ゲイリーは全作曲、プロデュース、アレンジと意欲的
 な姿勢を見せ、ゲイリーはシンセサイザーに取り組みながらもミドルエイジに
 メッセージを送るべく、このアルバムを完成させた。
 因みにアルバムのジャッケト写真はゲイリーの横顔だ。
 
 1987年に ANNETTE と FRANKIE AVALON が共演した映画
 「BACK TO THE BEACH」のサントラで3曲をプロデュースしている。
 その中にはディックデイルと今は亡き
 スティーヴレイヴォーンが共演した
 ワイルドな「PIPELINE」も含まれ、
 GARY USHER-DAVID KAHNE の共同
 プロデュースで製作されている。
 ちょうど企画がプロダクション化した頃、
 ゲイリーの息子 GARY USHER,Jr. は
 ローカルレコードショップでバイトしながら、
 毎晩父ゲイリーとセッションをしていた
 と言う。その頃、パラマウント映画は
 明白にゲイリーの関与を望んでおり
 ゲイリーは新しいビーチムービーの歌の
 プリプロを自宅の HOUSE OF USHER
 スタジオで作り始めていた。
 
 ゲイリー、ディックデイル、スティーヴレイヴォーンの3人は全てのバックトラックを
 ゲイリーの自宅のスタジオで完成させてメインギターを録音させた。
 さらにスティーヴレイヴォーンはGARY USHER,Jr. の所有する幾つかの機材を使って
 映画「BACK TO THE BEACH」の為の歌入れや録音を完成させている。
 しかし多くの部分は映画では使用されていない

DICK DALE & STEVIE RAY VAUGHAN
 その作品から PEE-WEE HERMAN / SURF PUNKS - SURFIN BIRD / MY BEACH
 (COLUMBIA 38-07301)がリリースされた。異色俳優の PEE-WEE HERMAN が
 TRASHMEN の名曲をカヴァー。プロデュースはゲイリーだった。
奇人 PEE-WEE はその後人前で
裸になり公衆わいせつ罪で逮捕
されてしまった。
因みにB面の SURF PUNKS とは
DENNIS DRAGON の覆面バンドだ

 
 続いて FAT BOYS WITH BEACH BOYS
 の WIPE OUT にノンクレジットながら
 CO-PRODUCER として参加している。
 これら一連のリヴァイヴァルブームには
 ゲイリーら昔のムーヴメントの立役者が
 参加しており、新旧の橋渡しがされていた。
 
 当時ブライアンウィルソンの状況を進展させて音楽業界に復帰させる計画
 通称 WILSON PROJECT が始動しはじめたのを期にゲイリーとブライアンウィルソン
 は新たなチャレンジとしてコンビを復活させる。
 レコード業界は大物ブライアンウィルソンの復帰に対して必要以上に
 神経質になっていた。またブライアンウィルソンも周囲からのプレッシャー
 を受け神経過敏になっていたためにゲイリーはブライアンが平静な状態を
 保てるようにゲイリーの自宅のスタジオに招きいれた。
 ブライアンは、基本的な親しみやすいフックを備えたメジャーコードの小説を作りあげ
 ゲイリーはそれをポップソングへ導くよう装飾を施しアレンジしていった。
 セッションの後に、ゲイリーはパートを一度分解し、曲を構築するために改めて
 集めなおした。これは音楽を良く知る二人だから可能な方法で、ゲイリーと
 ブライアンは双方からアクセスしていき曲を完成させる。
 ここで完成させられたのが「LETS GO TO HEAVEN IN MY CAR」だった。
 これらのセッションに多くの人々がまわりに集まり、特に映画制作クルーと
 レコード会社の幹部が狂気のような空気を生み出してたと言う。
 ゲイリーの息子 GARY USHER,Jr. は既にギタリストとして腕をあげており
 この曲にギターで参加している。ジュニアがギターパートを録音する時にブライアン
 とゲイリーは割と自由なプレイを認めており、ジュニアは「じゃあ」とばかりに
 へヴィーメタルなギターを入れたという逸話も残っている。
 1987年にブライアンウィルソン
 のソロ作品で映画「ポリスアカデミー4」
 のサントラに使われた LET'S GO TO
 HEAVEN IN MY CAR (SIRE 28350)
 ではプロデューサーの一人として
 ゲイリーはクレジットされた。
 ゲイリーはこの時期にブライアンと
 共作活動を復活させて幾つかの曲を
 完成させたが、多くが未発表になった。
 その中には正式なリリースがされなかった
 名曲「SPIRIT OF ROCK AND ROLL」
 も含まれる。この曲は BRIAN WILSON-GARY USHER-THOMAS KELLY の
 3人で書かれた曲で、THOMAS KELLY こと TOM KELLY はゲイリーの
 CELESTIUM の共作者である。この時期ゲイリーは SIXTEEN STAR MUSIC
 で楽曲を管理させていたが、ブライアンとの共作でリリースされなかったのは
 HEAVENLY BODIES (LET'S GO TO HEAVEN IN MY CAR の原曲で
 映画の為に BEACH BUM MUSIC で管理させている)
 JUST SAY NO
 MAGNETIC ATTRACTION
 NUMBER ONE
 等が確認されている。この NUMBER ONE はゲイリーとブライアンが1962年に
 「俺たちには才能があるんだ、俺たちはカリフォルニアの GOFFIN & KING に
 なるんだ」と言って励ましあって製作された RACHEL AND THE REVOLVERS
 のシングルのカップリングの「NUMBER NINE」が原曲と推測される。これは元々
 ゲイリーとブライアンが初期にデモで書いた「VISIONS」が原型で、当初はゲイリー
 とビーチボーズで演奏を録音していたものだ。また二人が始めて設立した
 音楽出版社 NUMBER ONE PUBLISHING の由来でもある。この曲は
 二人の友情の原点と言えるタイトルだ。
 1988年にはブライアンウィルソン
 初のソロアルバム「BRIAN WILSON」
 にノンクレジットながらプロデュースを
 協力したり、幻となったブライアンの
 セカンドアルバム「SWEET INSANITY」
 にも協力している。この一連の作業で
 旧友ブライアンとコラボレート作業を
 始めている。こうして再び活発な動き
 を見せ始めたゲイリーだったが、
 既に体は病魔に襲われていた。
 
 1989年にカリフォルニアに戻ってきたゲイリーは肺癌を患っており、医師に
 余命が長くない事を宣告された。その後ディックキャンベルの献身的な勇気付け
 を受けていたゲイリーだが、1990年
 5月25日、肺癌のため2度と帰らぬ人
 となってしまった。そしてゲイリーと
 共に数々のホットロッドソングを世に
 送り出してきたロジャークリスチャンも、
 ゲイリーの後を追うようにして1991年
 7月11日に亡くなった。
 共に51歳と57歳という若さであった。

 ブライアンウィルソンはゲイリーの死の1ヶ月前にゲイリーの病室にロネッツの
 CDを持って訪れたという。そして BE MY BABY を5回ほど繰り返してかけながら
 ゲイリーの手を取って泣いたという。ブライアンとゲイリーの脳裏には
 「今に2人でこの曲に負けない曲を作ろうぜ」と言って励ましあった若い頃の
 二人の姿が映ったのかもしれない。
 
 後年 CHRIS HILLMAN は回想している
 「我々 BYRDS は既に "YOUNGER THAN YESTERDAY" でカントリーロックを
 成し得た。私が思うに CLARENCE WHITE の『GIRL WITH NO NAME』
 『TIME BETWEEN』が我々にとって初めてのカントリーロック体験だった。
 "NOTORIOUS BYRD BROTHERS"も含めて再評価されているが当時としては
 ビッグヒットしたアルバムではなかった。ROGER McGUINN と私は違法行為で
 検挙されていて DAVID CROSBY と GARY USHER はアルバムを仕上げる際、
 我々の帰りを待ってくれていたんだ。ゲイリーアッシャーはとても仕事がしやすく
 上手なプロデューサーだった。彼は多くの種類の全てのアイディアをオープンに
 してくれた。私はこれらのアルバムがとても好きだ。1990年になって BYRDS の
 コンピレーションボックスを BOB IRWIN が編集作業をしていた時にバンドは
 地獄へと向い始めていたんだ。我々と MIKE CLARKE との間で討論が始まった。
 その時にゲイリーが死んだ事を聴かされた。その後 MIKE CLARKE も死んだ。
 我々は過去多くの友人を失っている。ゲイリーの死はとても悲しかった」
 
 ゲイリーアッシャーは60年代の初頭からほんの数年間を、自らが世に送り出した
 数々の作品と共に駆け抜けていった。それは、まさに一瞬のきらめきでしか
 なかったのかもしれない。しかしゲイリーが手掛けた数々の作品は、
 ビーチボーイズやジャン&ディーンの作品と同じように、その後の様々な
 音楽に影響を与えた。それは西海岸の若者のライフスタイルであり、また
 永遠の夏を題材にしたテーマミュージックの在り方でもある。
 ゲイリーの残した音楽は、聴く側に、創る側の「一生懸命さ」を伝えてくれる
 音楽だと私は思っている。ゲイリーはその昔、ブライアンウィルソンと曲を
 書き始めた頃の事をこう語っている。「僕らはいつもスピリットを持っていた。
 そして常にそれを曲に織り込んでいく努力をしていた」スピリット無くしては
 ロックンロールは生まれない。ゲイリーは最期までいつもこのスピリット(精神)を
 持ち続けていたのだろう。
 CALIFORNIA GOLD と呼ばれ今でも多くの人々に愛される音楽がある。
 ゲイリーアッシャーの生み出したサウンドには正真正銘の CALIFORNIA GOLD
 が存在している。
 
 ありがとうゲイリーアッシャー。貴方が残してくれた優れた作品群に
 心から敬意を表します。
 
  
 参考文献
 STEPHEN J. McPARLAND 著「IT'S A PARTY TIME」
 STEPHEN J. McPARLAND 著「THE CALIFORNIA SOUND」
 JOHN BLAIR, STEPHEN J. McPARLAND 著「HOT ROD MUSIC」
 JOEL WHITBURN 著「TOP POP SINGLES 1955-1986」
 HUGH MacLEAN, VERNON JOYNSON 著「AN AMERICAN ROCK HISTORY」
 VERNON JOYNSON 著「FUZZ ACID AND FLOWERS」
 BRIAN WILSON WITH TODD GOLD 著「WOULDN'T IT BE NICE」
 TERRY HOUNSOME 著「ROCK RECORD」
 VANDA 著「THE BEACH BOYS COMPLETE 2001」
 Special Thanks : GARY USHER Jr. (Metal Blade Records Inc.)
 
 書き終えて 竹内義彦
 これは VANDA 23号で特集された小林康樹著による「GARY USHER EARLY
 STORY」に私が手を加えたものだ。私の親友である小林康樹(コーちゃん)
 によると、VANDA で掲載された時点ではページの制限からか、後半部分であった
 LATER YEARS / ON AND AFTER において書ききれない部分が沢山あった。
 当初、私が加筆したこのプロジェクトは BRUCE JOHNSTON & CALIFORNIA MUSIC
 がそうであったように「過去のマテリアルに新たなアレンジを施す事で
 作品を蘇らせよう」とするものだった。それは親友の小林康樹に対するオマージュ
 であり、また彼が制約の中で完成させる事の出来なかったこの作品を蘇らせ
 次世代に伝える為だった。結果的には補筆が異常に多くなったが(苦笑)
 いやしかし、奇しくもゲイリーアッシャーが我々に教えてくれたように、
 作品に対する情熱と愛情がなければ、この物語は完成させられなかっただろう。
 このホームページのフォーマットの都合で幾つかの漢字表現を直したりしたものの
 基本的にはコーちゃんが書いた文章を次世代に残していく為に書いていた。
 途中幾つかの誤字に気付き、それを直したりはしたが、コーちゃんが伝えたかった
 本質的な部分には手を加えないように心がけた。また作成中にはデータの補足や
 レコードの写真掲載においてもコーちゃんと幾度となく話し合った。
 これが60年代サブカルチャーやウェストコーストミュージックを愛する人々に
 届けられるのであれば竹内義彦、小林康樹ともに幸いである。
 
 
 
 GARY USHER WORKS 曲目解説(竹内義彦)
 私にとって一番理想的な ROCKER で、私の永遠のアイドルが GARY USHER だ。
 彼が見せてくれたヴィジョンは60年代 WEST COAST の若者文化、ライフスタイル
 で、それは私にとって不変の輝きをみせる。ロックンロールの歴史の中で様々な
 テーマミュージックが発生してきたが、趣味趣向性の強いサーフィンやホットロッド
 を現在もライフスタイルとして頑なに守り続ける人達も、またそうでない人達もこれら
 GARY USHER を中心とした MOVEMENT からガレージ特有の「いきがり」「熱意」
 ティーンポップ特有の「あどけなさ」「純心」に惹かれている。
 洗練された音楽よりも、永遠のオールディーズとしての魅力が私を虜にする。
 簡単に説明すると GARY USHER の覆面グループではリードヴォーカルを基本的に
 3人が受け持つ。GARY USHER、CHUCK GIRARD、DICK BURNS の3人。
 (FOUR SPEEDSはメンバーのDENNIS McCARTHY がヴォーカルを務める
 曲もある)ついでに説明しとくと、よく HOT ROD SONG で使われる
 SHE (彼女)とは愛車を擬人化した表現で、DRAGGIN' DEUCE で
 「SHE JUAT A REAL MEAN DRAGGIN' DEUCE」と歌われる部分なんかは
 愛車への賛美表現だ。LITTLE とは「愛する=愛車」の意味。
 
 THUNDER ROAD - THE SUPER STOCKS
 私が考えるところの GARY USHER 最高傑作。GARY のヴォーカル、、、、
 もうダメじゃあ涙が溢れてきた。LET ME TELL THE STORY (俺の話を聴いてくれ)
 から始まる、親が造った密造酒を運ぶドライヴァーが山間部で出会わした
 THUNDER ROAD での出来事。
 JERRY COLE の超絶ギターで幕をあける、魂を悪魔に売ったドライヴァーの物語。
 私は若い頃に恐怖の体験をしている。広島県と島根県の県境で真夜中に
 一人でドライヴしてた時だった。突然目の前に現れたコーナーをパワードリフト
 で脱出したと同時に次々と襲い掛かるコーナー。
 パワーをコントロールできずに車がスライドしていき窓から流れる山間の風景の
 が緊張感を醸し出す。
 ステアリングを切り返した時に肩口に捲り上げていたタバコの箱がぶっ飛んだ、
 HEEL & TOE を繰り返しながらセコとサードの繰り返し。なんとか脱出できた
 翌朝に改めてその道を確認して驚いた。そこは峡谷だったのだ。
 谷底を見て生唾を飲んだ私は、無数のブレーキ跡が生々しく残るその道を通って
 広島に戻った。若さ故に果敢に挑戦していったあの頃、今もこの曲を聴いて
 思い出すほろ苦い思い出。
 
 COMPETITION COUPE - THE TIMERS
 私はこの曲に出会ってから GARY USHER に絶対服従を誓った。
 一般的に HOT ROD MOVEMENT が表面化するのが1964〜1965年だが
 既に本作品は1963年に製作されている。これで HOT ROD VOCAL TUNE の
 完成形を発表しているから驚いた。
 GARAGE だ PUNK だと言われるサウンドが HOT ROD というテーマミュージック
 の中でひとつの完成された形として残されたのがこの傑作だ。
 実はこの曲のメロディーやアレンジは FRANKIE AVALON の BEACH PARTY
 (1963年)でも引用されてる他ASTRONAUTS のカヴァーヴァージョンも
 1964年にリリースされた。
 しかしこのオリジナルを超える感動はそれら比較材料をもってしてもなかった。
 すなわちこの曲こそがGARY USHER がGARY USHER たる所以だと実感したのだ。
 GARY のヴォーカルによるこの2曲さえあれば、私はどんな時でも昇天してしまう。
 これが ROCK & ROLL の正しい在りかただと教えてくれる STEVE DOUGLAS の
 サックスにも拍手喝采だ。ただただ凄いの一言。。。。これが GARY USHER が
 教えてくれた西海岸の YOUTH CULTURE 、、いかんまた涙がこみあげてきた
 
 HOT ROD HIGH - THE KNIGHTS
 もうだめじゃあ涙が止まらん。。CHUCK GIRARD のティーンヴォーカル最高!!
 10年ぐらい前に小林康樹(以下コーちゃん)と一緒にアメリカに行った。
 1ヶ月ほど彼とアメリカに滞在したのだが、車中でお互いのバックボーンを
 話し合っていて驚いた一件がある。私とコーちゃんは同い年だが、なんと二人とも
 GARY USHER の曲に出会ったレコードとその動機が一緒だったので二人とも
 ビックラギョッとなった。二人が声を合わせて「マジか!」となったレコードは
 イギリス映画のサントラアルバムで、当初は BEACH BOYS の比較研究のために
 偶然にも二人は他の SURFIN' & HOT ROD GROUP を探していた。
 このサントラに収録された多くの覆面バンドは ROGER CHRISTIAN-GARY USHER
 とクレジットされていた。偶然にも二人ともが全く見た事のないこれらバンドの姿を
 勝手に想像しては CALIFORNIA のミュージックシーンを夢描いていた訳だ。
 そんな中でも飛びっきり最高の DRIVING POP TUNE を聴かせていたのが
 CHUCK GIRARD をリードヴォーカルにしたTHE KNIGHTS の HOT ROD HIGH
 だった。私もコーちゃんも「BEACH BOYS より凄い爽快感とドライヴ感」をこの曲で
 感じた。他愛もないガキのカーテーマソングだが、そこにこそ閉じ込められた
 永遠の輝きは、振り返ると自分がそうであったようにユースカルチャーにどっぷりと
 漬かった車乗りであった事を教えてくれる。
 毎日が新しくて、毎日が楽しかったあの頃、みんな車に乗ってたよなあ。
 STEVE DOUGLAS のサックスも最高じゃあ、
 ああまた涙がポロポロと。。。
 
 SCHOOL IS A DRAG - THE SUPER STOCKS
 CHUCK GIRARD もう一丁。ティーンヴォーカル最高!ここで使われる DRAG とは
 スラングで「ズルズルと引きずる=辛く退屈」早い話が「学校は退屈」だと、みんなに
 同意を求めている。WE ALL AGREE THE SCHOOL IS A DRAG (学校は退屈だと
 我々は同意してる)このコール&レスポンスがロックンロールの中の
 テーマミュージックの在り方を示している。
 STEVE DOUGLAS のサックスプレイにも耳傾けろ!
 印象的なドラムスティックのカウントが冒頭からエンディングまでリズムをキープ
 させる。初めてこの曲に出会った時に私は唖然とした。これこそが BEACH BOYS
 以上に私が求めていた爽快なドライヴ感だったのだ。
 これぞ ALLTIME MASTERPIECE じゃあ。
 しかし CHUCK GIRARD のティーンヴォーカルには胸が締めつけられる。。。
 ああまたもや涙が洪水のように。。。。。
 
 SCHOOL IS A GAS - THE WHEEL MEN
 CHUCK GIRARD 連発!曲は SCHOOL IS A DRAG の元ネタ。
 SCHOOL IS A GAS とは「学校は最高だ」の意味。ここで聴ける CHUCK GIRARD
 のティーンヴォーカルも最高。少年然とした歌い方が素晴らしい。
 
 D-GAS CHEVY - THE SUPER STOCKS
 もうダメ、涙で前が見えない。GARY USHER のヴォーカルがかっこよすぎる。。。
 冒頭で GARY のブレスが聴こえる。もうダメ、もうダメ。。。。。
 
 DEATH VALLEY RUN - THE KICKSTANDS
 もうダメ、、、バスドラムの「ドン、ドドン」のリズムの後ろでハルブレインの
 ドラムロールが。。。。もうダメ涙が止まらん。。。
 
 R.P.M. - THE CUSTOMS
 もうダメ〜〜〜 許してくれ〜〜〜〜爆音が、、、 GARY USHER の声が生々しい。
 目の前で歌ってるようだ。。。もうダメ、、、涙で前が全然見えん。。。。
 
 DRAGGIN' DEUCE - THE SUPER STOCKS
 GARY USHER や BEACH BOYS 他の SURFIN' & HOT ROD TUNE の多くが曲の
 構成は同じである。これはロックンロールの正しい構成でもある。
 @1番、
 A2番(1番の繰り返し)、
 B間奏部分、
 C1番の繰り返しでエンディング FADE OUT。
 BEACH BOYS の 409、SHUT DOWN、FARMER'S DAUGHTER etc 全てが
 この構成を基本にする。
 冒頭のイントロフレーズが演奏であるか、ファルセットハーモニーであるか等の
 違いがあれど、重要視されるのは導入部のフレーズで@1番の構成そのものを
 フックとし、それを引用する。だからこそ最重要視されるのが@の構成で、
 そこに印象的な楽器やハーモニーのフレーズが全体の中で効果的にリフレイン
 される。それは TIGERS の名作 GeeTO TIGER も全く一緒。
 それで SURFIN' テーマより、HOT ROD / CAR テーマの方がエフェクト効果音を
 導入するケースが多い。
 我々が良く口にする SURFIN' & HOT ROD 系のギターブレイクは
 「チャンチャンチャンチャン  チャチャチャチャチャチャチャチャ」と4&8の節分を
 ギターで奏でる部分だ。このギターフレーズの多様が、曲間をスムーズに変更させ
 @の構成をCまで繋げていく。@のエンディングからAへと導入される
 ピアノに注目。しかしよくのこのピアノのフレーズを考えたなあ。
 DICK BURNS のヴォーカル大傑作
 〜 DRAGGIN' DEUCE 〜
 SHE'S JUST A REAL MEAN DRAGGIN' DEUCE
 THIS HERE SONG'S ABOUT A MEAN YELLOW DEUCE
 A CHEVY POWERED COUPE YOU KNOW SHE REALLY CUTS LOOSE
 I GUESS YOU MIGHT SAY SHE'S KINDA SHORT ON LOOKS
 BUT SHE'S MIGHTY BIG IN THE RECORD BOOKS
 SHE'S JUST A REAL MEAN DRAGGIN' DEUCE
 
 SHE'S GOT A FOUR O NINE CHEV WITH AN OLD CADDY TRANS
 AND COMIN' OFF THE LINE YOU KNOW SHE'LL DO A WHEEL STAND
 SHE HOLDS THE RECORD FOR THE QUARTER MILE
 THE LOWEST E.T.DOWN THAT ASPHALT AISLE
 SHE'S JUST A REAL MEAN DRAGGIN' DEUCE
 DRAGGIN' DEUCE DRAGGIN' DEUCE DRAGGIN' DEUCE DRAGGIN' DEUCE
 DRAGGIN' DEUCE DRAGGIN' DEUCE DRAGGIN' DEUCE DRAGGIN' DEUCE
 DRAGGIN' DEUCE DRAGGIN' DEUCE
 
  間奏
 
 THE FINAL COMPRESSION OF A THIRTEEN TO ONE
 SHE TAKES OFF THE LINE LIKE A SHORT FROM A GUN
 EVERYBODY'S TRIED BUT IT'S JUST NO USE
 THEY'LL NEVER SHORT DOWN MY LITTLE DRAGGIN' DEUCE
 SHE'S JUST A REAL MEAN DRAGGIN' DEUCE
 DRAGGIN' DEUCE DRAGGIN' DEUCE DRAGGIN' DEUCE DRAGGIN' DEUCE
 DRAGGIN' DEUCE DRAGGIN' DEUCE DRAGGIN' DEUCE DRAGGIN' DEUCE
 DRAGGIN' DEUCE DRAGGIN' DEUCE
 
 【対訳】
 俺の愛車は本当に凄い DRAGGIN' DEUCE なんだぜ
 俺の愛車の YELLOW DEUCE (1932 FORD COUPE) について歌うと
 CHEVORET を POWER UP させて本当に解き放たれた凄いスタイルなんだ
 恐らく君はこの車を見て凄い OLD CUSTOM MACHINE と言うだろう
 しかし俺の愛車は凄い記録を打ち立てたんだぜ
 俺の愛車は本当に凄い DRAGGIN' DEUCE なんだぜ

 俺の愛車は CHEVORET 409 のエンジンに CADDILLAC の TRANS MISSION
 を載せて上手く LINE を取り外して、解るかい?強烈な加速なんだ
 俺の愛車は 0ー4の記録を持ってるんだ
 路上での最速記録を軽く打ち立ててしまったんだ
 俺の愛車は本当に凄い DRAGGIN' DEUCE なんだぜ
  DRAGGIN' DEUCE DRAGGIN' DEUCE DRAGGIN' DEUCE DRAGGIN' DEUCE
  DRAGGIN' DEUCE DRAGGIN' DEUCE DRAGGIN' DEUCE DRAGGIN' DEUCE
  DRAGGIN' DEUCE DRAGGIN' DEUCE
 
  間奏
 
 13から0迄ぎりぎりにエンジンの圧縮を上げて
 俺の愛車は弾道の様に一直線に飛び出した
 みんな追っかけてきたけどついてこれる奴はいなかった
 奴らは絶対俺の愛車に勝てっこ無いぜ
 俺の愛車は本当に凄い DRAGGIN' DEUCE なんだぜ
  DRAGGIN' DEUCE DRAGGIN' DEUCE DRAGGIN' DEUCE DRAGGIN' DEUCE
  DRAGGIN' DEUCE DRAGGIN' DEUCE DRAGGIN' DEUCE DRAGGIN' DEUCE
  DRAGGIN' DEUCE DRAGGIN' DEUCE
 
 CUSTOM CARAVAN - THE PYRAMIDS
 このブンブンサウンドも凄い。ミネソタの TRASHMEN と似た感触だが、少し違う。
 多くの人が傑作と認めるだけあって迫力がある。ティーンヴォーカルもかっこいい。
 さすが演奏の迫力は凄まじい。店内の小物がサウンドの歪みで揺れている。
 素晴らしい!!上の階に住んでる奴は迷惑だろうな。
 ふふふザマーみろじゃ!これが HOT ROD 専門店の底力じゃ、思い知れっ!
 
 LITTLE NIFTY FIFTY - THE SUPER STOCKS
 何べん聴いてもかっこええ! この時代のオルガンはどれも DEL SHANNON の
 RUNAWAY みたいでピロピロでヨロシイ。
 エンディングで TURN ON ME 、TURN ON (今度は俺の番だ)
 ブオオオオオオッ!!!!!と爆音をたててスタートする。
 
 WHEEL MEN - THE SUPER STOCKS
 WILD ROCKER !!! アメリカ人の大好きな ROCKER STYLE の大傑作
 
 LEAKY BOAT LOUIE - THE WEIRD OHS
 これを聴けば大滝詠一のヴィジョンと同じ事が解るだろう。
 デブっちょの LOUIE がボートに乗ったが、浸水し沈んでいく歌だが
 バッキングは HONDELLS と同じセッションのように思える。
 ROCK & ROLL の裏では NOVELTY SONG がしっかりと根付いている。
 
 DRAG HUG - THE WEIRD OHS
 GARY USHER の NOVELTY 路線では CHUCK GIRARD をリードヴォーカルに
 仕立てる。この路線がとても重要なんだ。なぜなら RAT FINK を中心に
 栄えていった HOT ROD ART とも GARY USHER のヴィジョンは密接な
 関係にあるから。
 
 GEAR ! - DAVE MYERS & THE SURFTONES
 狂ってる=かっこいい。初めてこの曲を聴いた時の感動は凄かったさ、
 そりゃあもう。。。うふふふ、また涙が出てきやがった
 
 DRAGGIN' U.S.A. - ANNETTE
 基本的に女の SURFIN' & HOT ROD が嫌いな私ではあるが、最近は少し許せる
 ようになった。何故なら私の子供は二人とも娘だからな。これも神の思し召しと
 受け入れる事にした。うちの娘達はいずれデビューさせるからな。
 
 MUSCLE BUSTLE - DONNA LOREN
 これも女だから嫌いだが、許してやる事にした。
 
 SURFIN' AND A SWINGIN' - DICK DALE
 やりやがる!エレキの大将の本領発揮の FREAKY SURF 大傑作。
 ANNETTE VERSION もキャピキャピで良いが、やはり SURF は男ガレージでんなあ
 
 WIDE TRACK - THE SUPER STOCKS
 DICK BURNS のヴォーカルスタイルが好きです。
 かっこ良過ぎる ROCKER STYLE。
 私自身が吠えるヴォーカルを得意としてるからです。
 
 THE WILD ONE - THE GRADS
 海のトリトンをも想起させる雄大なフレンチホルンは、海神マーキュリーをも
 感じさせる(MERCURY RECORD だしな)。これを勇ましさを表すのフレーズとして
 使用したのが、この名曲。
 バックの演奏を聴いて解るように HONDELLS のセッションである。
 ギターのカッティングエコーは全く同じ。
 
 FOUR ON THE FLOOR - THE FOUR SPEEDS
 ここで聴ける DICK BURNS のヴォーカルは DENNIS WILSON にも似たティーン
 スタイルである。FOUR ON THE FLOOR とは4速ミッション搭載車の意味で、
 これは0〜4仕様に改造された車を指す。
 
 426 SUPER STOCK - THE COMPETTITORS
 COMPETTITORS 名義で一番好きな曲。ブレイクが多様されている。
 マニアファンなら解ると思うが、これは全く GARAGE SOUND です。
 
 HONDA BIKE - THE DEVONS
 この曲で泣く人、それが私とコーちゃん。ワーワーのファルセットは
 RONNY & THE DAYTONAS にも底通する。
 
 COMING ON TOO STRONG - WAYNE NEWTON
 ロネッツの「BE MY BABY」から BEACH BOYS「DON'T WORRY BABY」へ、
 そして GARY USHER のこの曲へと繋がっていく。頭の良い人は、ここから BYRDS
 へと入っていく。何故ならバックはレッキングクルーだからな。
 
 WAX BOARD AND MY WOODIE - THE SURFARIS
 これもティーンヴォーカルが泣ける。風呂場の鼻歌風のメロディーがたまらん。
 この曲に対する想いをここで書けば47万5千8百4十5文字を書いても足りないの
 は解ってるから書かん!
 
 MAG RIMS - THE ROADSTERS
 講釈はいいから、この素晴らしいガレージインストを聴けっ!
 
 SATURDAY'S HERO - THE GO-GO'S
 ふふふ BEACH BOYS の「BE TRUE TO YOUR SCHOOL」を下敷きにしてるのが
 良く解るフルートのフレーズ。しかし、しっかりと SURFIN' 系のギターブレイクが
 入ってる。また涙が出てきた。ふふふふ
 
 CHEATER SLICKS - THE FOUR SPEEDS
 TURN ON ME ! GARY はハンドクラッピンを良く導入しますが、
 これもそのパターン。
 
 R.P.M. - THE FOUR SPEEDS
 FOUR SPEEDS ヴァージョンも大好きなもので、
 おりょりょ、何故かまた涙が。。。おりょりょりょ
 
 CATCH A LITTLE RIDE WITH ME - THE SURFARIS
 ただただ泣いてくれ。結局、年をとってくるとティーンヴォーカルに
 胸が締めつけられるって事が良く解った。
 
 
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