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Gary Usher Story

Gary Lee Usher
1938 - 1990
 
Gary Usher Story 
VANDA 23 から。執筆:小林康樹 &竹内義彦
Written by Koki Kobayashi & Yoshi Takeuchi
Supported by Gary Usher Jr. (Metal Blade Records Inc.)

http://www.myspace.com/sprayface
  ← Gary Usher,Jr. Interview
               A Son Tells Great Father's Memory
               ゲイリーアッシャージュニアが語る父の想い出
 
 世界最大のインターネット辞典 Wikipedia の編集部から当サイトで掲載している
 写真の使用許可をしてほしいと打診があり、それら幾つかのレア盤等写真の
 掲載許可を致しました。これらの写真は Wikipedia にも掲載していますので
 興味のある方はご覧下さい。また同様に当サイトに掲載しています写真に
 Wikipedia のリンクを貼っておりますので人名検索等にお役立て下さい。
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 Subculture music specialist. We supply rare records to you on eBay
 and others, so somewhere we may meet you like Jim Murphy..

 

 INTRODUCTION
 私がビーチボーイズの初期のサウンドに夢中になり始めたのは、いつのことだった
 だろう。それは随分と昔のことなのだが、まだそんなに経っていないような気も
 する。当時、私はまだアメリカに行ったことがなかったが、私がアメリカに対して
 抱いていたイメージは「豊か」とか「明るい」といったものだった。
 ビーチボーイズの音楽にはそういったものが全て詰まっていたような気がする。
 だから夢中になったのかも知れない。ビーチボーイズの次にはジャン&ディーンも
 聴くようになり、その次はサーフィン/ホットロッド サウンドにも夢中になった。
 私とゲイリーアッシャーの出会いは "Shut Down" というオムニバスアルバム
 で、この中にスーパーストックスの "Cheater Slicks" "Wide Track"
 "Four On The Floor" "Street Machine" の4曲が収録されていて
 この4曲が凄く良かった。
 この4曲の作者のところには全て Gary Usher-Roger Christian と
 クレジットされていた。後に判ったことだが、このゲイリーアッシャーとは
 ビーチボーイズのデビューアルバムでブライアンウィルソンと曲を書いて
 いるのと同じ人物で、ロジャークリスチャンもブライアンウィルソンの
 共作者として、その名前を見つけることができた。
 「ビーチボーイズ以外にこんな良い曲を作るのは何者なんだろう?」
 こうして私の好奇心は一挙にゲイリーアッシャーへと注がれた。
 もっと決定的だったのは次に手に入れたアルバム "Hot Rod Rally"
 だった。これもオムニバスアルバムだったが今度はスーパーストックスが
 6曲も入っていた。しかも全曲 Usher-Christian の曲。ドキドキしながら
 レコードを聴いてみた。良かった、いや "Shut Down" よりずっと良かった。
 
 こうして私はゲイリーアッシャーサウンドへとのめり込んでいった。
 私の心の中では Usher-Christian のクレジットは Baian Wilson と同じく
 永遠のものなのだ。
 
 ANOTHER CALIFORNIA GOLD / GARY USHER STORY
 カリフォルニアが生んだ偉大なる音楽サーフィン&ホットロッドミュージック。
 色々なグループやプロデューサー達が活躍したが、ビーチボーイズ スタイルの
 スタジオワークスを残したプロデューサーの中でブライアンウィルソン、
 ジャンベリー、テリーメルチャー、ブルースジョンストンらと共に決して忘れては
 ならないのがゲイリーアッシャーである。ブライアンウィルソンとジャンベリーは
 グループの一員兼プロデューサーとして活躍したが、ゲイリーは違っていた。
 ゲイリーは色々なレコード会社から色々なグループ名義で次々とレコードを
 発表していったのである。
 その為にゲイリーが携わった仕事の数は膨大な量にのぼっている。
 これは各レコード会社の営利面の思惑が多分に絡んだ結果そうなったものだが
 この悪く言えば量産的という作品の殆どをゲイリーは、ある一定以上の
 クオリティーに仕上げているという点は特筆に値する。
 ゲイリーはこう語っている「あの当時一枚のアルバムは $2000 から $3000 で
 作ることが出来た。レコード会社は5000枚から10000枚のレコードを
 売ればプロフィット(採算を得る)できたんだ」 なるほど、5000枚から
 10000枚と言えばたいした数ではない。こうして各レコード会社は
 サーフィン&ホットロッドミュージックを「儲かる音楽」として認識し次々と
 あらゆるレコードをリリースしていったのだった。
 
 ゲイリーは1967年から数年間、コロムビアレコードとプロデューサーとしての
 契約を交わしていた。
 この間に残した The Byrds "Younger Than Yesterday" (1967)
 "The Notorious Byrd Brothers" (1968)
 Sagittarius "Present Tense (1967)
 といった作品がロック界でも比較的有名で、それぞれ評価を受けている。
 しかし、これらは全てサーフィン&ホットロッド時代以降の作品であり、
 ゲイリーをもっと正しく評価するならば、彼がスタジオワークスを身に付けた
 サーフィン&ホットロッド時代の作品に着眼しなければならない。
 思えばサーフィン&ホットロッド時代は後に有名になる人達が、その才能を
 磨いた時代だった。テリーメルチャー、スティーヴバリ、フィルスローン、、、
 数えあげたらキリがないが、そういった意味でもサーフィン&ホットロッドは
 おもしろい。ゲイリーはこの時代、スタジオミュージシャン達を使って、
 ある時は The Super Stocks、そしてまたある時は The Hondells といった具合に
 グループをでっちあげ、次々とレコードを発表していったのは有名だが、
 他にも The Surfaris や Keith Green、Don Brandon といった実在の
 グループやシンガーのレコード製作にも携わっていた。
 こうした事情もあって彼がライナーノート等で紹介される時は
 必ずといってよい程「謎の人物」という代名詞が付いていた。
 
 THE EARLY YEARS
 Gary Usher は本名を Gary Lee Usher といい、1938年12月14日
 カリフォルニア州で生まれた。その後マサチューセッツ州 Westboroに移り住み
 少年時代をそこで過ごしたが、この時期から家族で歌い始めた。当時の多くの
 ティーンエイジャーがそうであったように、ゲイリーのアイドルもまた
 Elvis Presley, Buddy Holly, Gene Vincent を代表とするロッカーだった。
 そしてテレビやラジオのロックンロールスターや、それらのトップ10カウント
 ダウンを確認しながら興奮している一人の若者だった。
 地域のラジオステーションに
 リクエストされる数によってラジオ局
 認定のトップ10も異なり、カテゴライズ
 される音楽のタイプによってチャートの
 種類が存在する事をゲイリーは
 学んでいく。ゲイリーの興味は次第に
 大きくなっていったが、その頃には
 エルビスを中心にヒットソングレコード
 を購入し続けていた。
 そしてそれらからレコード会社によって
 異なる特色がある事を知る。
 ゲイリーは一般的なレコードコレクター
 と興味を持つ部分が違う事を自覚し
 始めていたのかもしれない。
 
 ゲイリーは高校卒業後に、大学進学のために叔父の Benny Jones を頼って
 再びカリフォルニアに戻っている。ガソリンスタンドでアルバイトをしながら
 購入した Ford Skyliner に高校時代の友人 Harry Wilson を同乗させ
 1957年の夏、ゲイリーは約束の地カリフォルニアに再び戻ってきた。
 叔父ベニーの家はカリフォルニア州のイングルウッドとホウソーンの境界線にあり
 これが Brian Wilson 達の住むホウソーンとは直ぐ近くで、またゲイリーの
 祖母もホウソーンに住んでいた。特に当時からヤンチャなガキだった
 Dennis Wilson の名はゲイリーの叔父達の耳にも届いていたが
 この時点ではゲイリーはまだウィルソンファミリーとは出会っていない。
 ゲイリーとハリーは先ずカリフォルニアのライフスタイルに驚かされた、
 また同地には沢山のラジオステーションが存在し、様々な音楽がプレイ
 されていた。1957年の秋にはゲイリーは El Camino Junior College に
 籍を置き、学費や生活の為にバンクオブアメリカという銀行に勤め始めた。
 この銀行でゲイリーは Richard Brian Burns (通称 Dick Burns) に出会う。
 ゲイリーより後に銀行で勤め始めた
 この男はゲイリーより1つ年上で、
 Crew Cut の短髪アイヴィー風の
 出で立ちをしていた。
 お互いスタイルの異なるこの二人だが
 Richard Burns も東海岸出身で
 あった為か、急速に仲良くなった。
 二人は仕事の休憩中に休憩室で
 ピンポンをしたり、時にはエルビスや
 音楽の事で討論を始めたりした。
 学生時代からギターをプレイしていた
 リチャードは休憩中にゲイリーに
 そのギタープレイを披露していた。
 学業と夜間の銀行業務の狭間で
 ゲイリーは疲れていた。学業に対して
 充分な時間を持てない中でゲイリーは
 両方の生活を維持させる事を重荷に
 感じだしていた。

     銀行員時代
 
 この過酷な状況から脱するためにゲイリーはアーミーに入隊するという、
 もう一つの選択肢を考えた。愛車を売ったゲイリーは2年間の契約でアーミーに
 入隊し Monterey の軍事学校で教育を受ける。
 ゲイリーは小さなトランジスターラジオを頼りにローカルステーションの
 K.D.O.N. にチューンを合わせては音楽を聴いていた。その後、アトランタ州の
 キャンプゴードンにミリタリーポリスとして配属されたゲイリーは音楽環境の
 悪い同地から、ラジオ局にリクエストを送り続けた。この時期にゲイリーは
 カントリーミュージックやブルーグラスに興味を持ち始めたという。
 まだギターコード3つしか知らなかったゲイリーだが、週末にクラブに出かけて
 初めて人前でプレイする機会を得た。1958年の夏にはヴァージニアの
 Fort Meyers キャンプに配属され、マサチューセッツ州に残してきた
 ガールフレンドの Cleudette Coleman に再会する。

ミリタリーポリス時代
 
1958年9月に Phil Spector 率いる
ロスアンジェルスの3人組
Teddy Bears が "To Know Him,,
Is To Love Him" (Dore 503)を
リリースし、この曲は瞬く間に
全米1位を獲得した。
多くの若者同様にゲイリーもこの
名曲に大きな影響を受けた。
その後休暇を得たゲイリーは
Burbank に住んでいるリチャード
の家に滞在し、大きなショックを
受けた。リチャードは仲間たちを
引き連れレコーディングセッション
を行っていたのだ。
既に次の配属先である朝鮮が
決まっていたゲイリーにとって
このニュースには驚かされた。
 間もなくしてゲイリーはハワイ経由の飛行機に乗り、南朝鮮や日本の基地に
 配属される。極東のキャンプに配属されたゲイリーは音楽の事で頭がいっぱい
 だった。立川の空軍基地に降りたゲイリーは、そこを経由して南朝鮮に入る。
 ゲイリーは軍隊の仲間達とバンドを結成してシンプルなハーモニーを入れたり
 したと言う。南朝鮮のキャンプで辛く退屈な時間を過ごしていたゲイリーだが
 軍用ラジオ放送を聴きながら Richard Burns のバンドの事を思っていた。
 その後ギターマガジンの広告を見つけたゲイリーは本を注文し、日本製の

1959年東京近郊の Camp Drake にて

ギターを購入する。基本的な
コードだったが努力の甲斐あって
ゲイリーのギタープレイは上達
していった。こうして G.I. グループ
のギタリストとなったゲイリーは
毎週末にクラブプレイをしていた。
またメンバーの Chris Wren
とデュオ Gary & Chris を結成し
Everly Brothers や他人気
ミュージシャンの真似事をしていた
ゲイリーは歌える事の喜びを
感じていた。
この頃からゲイリーは数曲の
オリジナルソングを書き始める。
この極東での軍役を終えて
アメリカに戻るまでには30〜40
曲を書き溜めていたという。

1959年、南朝鮮でのキャンプにて
 
 1959年カリフォルニアに戻ってきたゲイリーは真っ先に Richard Burns に
 会いに行った。リチャードは開口一番「俺の出した新しいレコードを聴いて
 くれよ」とゲイリーに言ってきた。驚かされたゲイリーはリチャードからその
 レコードを渡され、落ち込んで家に帰った。呆然としながらそのレコードを
 聴いていたゲイリーはリチャードのそのギタープレイが上手いので、
 またも驚かされた。3コードのギターだったが、それは紛れも無い
 ロックンロールで、リチャードはバンドのリズムギターを担当していた。
 リチャードは Bobby Fry and Troupe のメンバーとして活躍していた。
 Bobby Fry こと Bobby Fryberg とリチャードは彼の奥さんの妹に紹介
 されて知り合った。ニューヨークの Playback Records から彼らのシングル
 はリリースされていた High Way Robbery / Richie (Playback PB-1111)
 
 A面は Bobby Fry が歌うロカビリーソングで High Way Robbery
 「ハイウェイの強盗」のとおり恐ろしさを強調した歌い方になってる。
 B面はミディアムテンポのロックンロールインスト。
 両面とも Bobby Fry の書いたオリジナルで、彼はギターの早弾きが

Richard Burns & Bobby Fry
上手かった。このユダヤ系
移民の Bobby Fry のバンドは
Burbank を本拠地にし活動を
始めていた。その後彼らは
Bobby Fry - Let's Split / X-2
(Dore 527) をリリースした。
これは両面とも Surf Style
のインストで出来もよい。
同時にリチャードは
Speciality Records で
アセテート盤を残しているが
当時 A&R だった Sonny Bono
によってリリースは却下された。
 
 
1959年2月とクレジットされた
ゲイリーのアセテート盤
"Squeeze Me Baby"
この時点で Capitol Records
にコンタクトを持ったのだから
ゲイリーの自信が伺える。
ティーンロッカーのミディアム
チューンで派手なギターブレイク
を導入させる等、単調なフレーズ
ながら効果的なアクセントを
使い、この作品の最終的な
アレンジはほぼ完成させている。
 
 1959年に The Scarlets の歴史的名演がリリースされる。
 The Scarlets - Stampede / Park Avenue (Prince 1207)
 その後間もなくしてこの音源を Dot Records が買い取り
 (Dot 45-16004) セカンドプレスをリリースした。
 この A面 "Stampede" こそがサーフィンインストのプロトタイプとされるもので
 リードギターのトレモロとリヴァーヴ、そしてエコーを効かせたサックスを
 フューチャーしている。このシングルは当時の西海岸のユースカルチャー
 に一石を投じた。1961年に Dick Dale & His Del-Tones によって
 "Let's Go Trippin'" がリリースされるまでギターのリヴァーヴサウンドは
 ヴァイヴレーションと共に徐々に成長していく。
 
 ゲイリーはその間、何する事もなく Richard Burns のバンドについて
 まわっていたが、結婚して所帯を持ったリチャードは以前までのようにバンドの
 練習に参加出来なくなっていた。ゲイリーはリチャードの穴埋めとはいかない
 もののバンドのメンバーとして参加し、日本製の安物ギター片手に練習を
 続けていった。ベースギタープレイヤーにまわったリチャードとリズムギター
 を担当するゲイリー、そしてジャズに詳しいドラマーの Bill Van Buren
 を加えてバンドは新たなフォーメーションを組んだ。念願であったバンドメンバー
 になったゲイリーだったが兵役が少し残っていた為に、間もなくして
 マサーチュセッツの Fort Devens に引き戻される。Fort Devens に
 行ってからもゲイリーはギターの練習を続けた。得意のレパートリーは増え
 The Ventures の"Walk Don't Run" から Link Wray の"Rumble" まで
 プレイ出来た。ゲイリーは小さなコンボを組んで週末にはそれらの曲をクラブで
 披露していた。ゲイリーの妹の Sandy と彼女の夫はまだ Westboro に
 住んでいて、週末のゲイリー達のライブにはゲイリーの身内や知人だけで
 客が集まっていた。そこで紹介された Linda Brusa とゲイリーは恋に
 落ちた。Linda の両親からも支援されていたゲイリーは彼女のために幾つかの
 曲を書いていた。一晩$40でステージに立っていたこのバンドは
 クラブのオーナーと趣向が合わず、間もなくして解雇される。
 しかしゲイリーはアマチュアながらステージでプレイをし初めて報酬を得た、
 と同時にこのシステムに着目していた。
 
 Los Angeles で活躍している Richard Burns に対して対抗意識を
 持ち始めたゲイリーは、軍隊から貰う支給金と妹 Sandy から支援して貰った
 お金約$100を持ってゲイリーは夢を適えるべく Worcester に向かい
 5曲のレパートリーの中から2曲を録音しに行った。スタジオのマネージャー
 から「幾ら持ってるんだい?」と尋ねられたがゲイリーはたったの$114 しか
 持っていなかった。ゲイリーのセッションは簡素なもので、ただゲイリーは
 持ち歌のレコーディングを体験したかった若者に過ぎなかった。
 金銭面でマネージャーと交渉したが、あまり思わしくない様子だった。
 「午後2時からレコーディングセッションを始めるから」とマネージャーに告げ
 られ指定の時間に戻ってきたゲイリーは "Betty My Darling" という
 曲を渡される。ゲイリーはこの最悪の展開が信じられなかった。
 ゲイリーのオリジナルソングではリハーサルに時間が必要となるために
 $114 では歌入れしか出来ないのだ。
 初めてのレコーディングでそんな悔しい思いをしたゲイリーは楽曲管理、
 スタジオシステム、レコードのカッティング他多くの事を学んでいった。
 しかしゲイリーは自分ならもっと良い曲が書けると信じていた。
 改めて次回のセッションに挑んだゲイリーは2曲のオリジナル
 "Honest, Faithful And True" と "You Gotta Give It To Me"
 を録音する。この2曲はガールフレンド Linda Brusa の為に
 書いていた曲で"You Gotta Give It To Me" には性描写が含まれている。
 このマサーチュセッツでのレコーディング体験でゲイリーはビジネスの核心に
 触れていった。また曲作りにピアノが必要である事に気付いたゲイリーは
 軍内の友人 Otis Kenniston に頼んで彼の姉からベーシックなピアノレッスン
 を受けた。これはヒット曲を分析するためにも役立った。こうして軍役が終わり
 1956年式のポンティアック ボンネヴィル コンヴァーティブルを手にした
 ゲイリーは、いよいよカリフォルニアに戻ってきた。
 早速 Richard Burns に会ったゲイリーはレコーディングした音源を聴かせた。

Richard (Dick) Burns 自慢の
ダブルネックギター
当時 Richard Burns は
Bobby Fry のバンドを
仕切っていて、ローカルエリア
で演奏していたものの、ゲイリー
が留守にしていた間、レコードの
ニューリリースはなかった。
リチャードは銀行員を続けて
おり、ゲイリーも取り合えず
学業と銀行員に復帰した。
休憩中にリチャードが新曲
をプレイしてゲイリーに聴かせ、
ゲイリーも曲を気に入り二人は
曲を完成させた。リチャードは
ゲイリーを誘ってバンドの仕事
であるノースハリウッド高校での
パーティー集会に参加させた。
 
 そこに集まった約500人の高校生達の前でゲイリーはリズムギターを披露した。
 こうしたライブパフォーマンスを始めながらゲイリーは
 Bobby Fry & The Troupe のメンバーに復帰した。
 その間、ゲイリーは軍役中のレコーディングで覚えた技術を駆使して
 叔父ベニーの家やリチャードの家でテープレコーダーレコーディングを
 始めた。そこでリチャードの書いた新曲にゲイリーがヴォーカルを
 吹込んで "Dark Was The Night" 他数曲をテープに録音した。
 同時にゲイリーは Fort Devens 時代に書いていたオリジナルの
 インストチューン "Moovin' Out" をポータブルテープレコーダーに吹込み
 それをその後ハリウッドの Fidelity Recording Studios でアセテート盤
 としてプレスした。そこでアセテートに吹込まれた曲は
 "Moovin' Out"と "Till Eternity" をノンクレジットで、
 "Blue Blue Dream" と "Just Give Me One More Chance"
 を Gary Usher & Twisters 名義で、その後改めて "You're The Girl" と
 "Just Give Me One More Chance" を Gary Usher 名義で残している。
 因みに"You're The Girl" はその後 Titan Records でのデビューシングル
 のB面で使われる。
 
 ロスアンゼルスには無数のレコードレーベルが存在し、またそれらはいつも
 曲を探し回っていた。彼らはローカルヒットを生み出し、その後その曲を
 メジャーレーベルに買い上げてもらう事をを願っているようなレーベルだった。
 ゲイリーが吹込んだアセテート盤音源に興味を持ったのは Dore Records
 のオーナー Lew Bedell だった。ハリウッドの Fidelity Studios に近い
 位置に事務所を構える Dore Records は既に Teddy Bears や Jan & Dean
 という人気グループを抱えていた。
 リチャードの書いた "Dark Was The Night" に興味を持った Lew Bedell
 は幾つかの質問をしてきた。「これはグループなのか」「グループの名前は」
 「誰が曲を書いた」「誰が歌ってる」等だ。ゲイリーは狂ったように喜んだ。
 早速リチャードにこの事を伝えて翌日二人は大騒ぎをした。
 Lew Bedell から「ミーティング後にもう一度歌を聴いてみたい」と連絡を
 受けてゲイリー達は Dore Records からの電話を待った。
 その後ゲイリー達は日時を指定されてオーディション用のセッションを行う。
 「自由にセッションミュージシャンを使って良い」と返事を貰ったゲイリーは
 喜んだ。当時 Bobby Fry & The Troupe は
 Rihard (Dick) Burns をフロントに立てて Dick & The Indigos
 と名乗っていたのだが、もちろんゲイリーは録音に彼らバンド仲間を使い
 そこに Richard Burns の友人で The Shields のメンバーだった
 Charlie Wright がピアノで参加した。
 リチャードはその時に風邪をひいていた為に何度かヴォーカルに挑戦してみた
 ものの上手く出来なかった。そこで録音されたのはゲイリーが歌う
 ニューヴァージョンの "Dark Was The Night" とタイトルのないインスト
 曲だった。その後のセッションで2曲のインストを録音する。これは2曲とも
 ゲイリーのオリジナルだった。初めてプロフェッショナルなレコーディングを
 体験したゲイリーは興奮していた。
 録音スタジオは American Recording という小さなスタジオで、それは
 ハリウッドパラディアムの左横に在った。
 スタジオのオーナーは Podolor Family で、Don Podolor が運営していた。
 Don Podolor はブッキングエージェントでもあり、
 Admiral Records というレーベル運営もしていた。

 因みに Don の弟は名ギタリスト Richard Allen Podolor だ。
 ゲイリーはレコーディング後にも Don Podolor からダンスパーティー
 等のブッキングをしてもらえるかもしれないと思った。
 Don はゲイリーに対してとても良くしてくれたが、ゲイリー達の
 録音には何のオファーも入らなかった。
 この時に録音されたインスト曲の1つは後に "Cactus Juice" とタイトルを
 つけて Four Star Music で楽曲管理され 1963年に The Champs
 によって録音されリリースされている。

Don Podolor

  Richard Allen Podolor
  (AKA Richie Podolor)
 
 その後もゲイリーは Indigo Records や Del-Fi Records に掛け合ったが
 誰も興味は示さなかった。Dore Records でのセッションにも参加した
 Charlie Wright はその時 Del-Fi Records のプロデューサーになっていた。
 ゲイリーはチャーリーに頼み込んでもう一度セッションレコーディングの
 許可を得た。そこで録音されたのはニューヴァージョンの
 "Just Give Me One More Chance" と "You're The Girl" の2曲だった。
 ブッカーの Don Podolor の口ぞえで U.C.L.A. をはじめ幾つかの
 クラブサーキットを行っていたが Record Deal の虜になっていた
 ゲイリーはコンタクトを探し続けた。
 それはレコーディングアーティストとしてのステイタスに憧れていたからだ。

 新興レーベルの Titan Records は George Brown が設立した
 レコード会社で、ファーストリリースした The Strangers の
 The Caterpiller Crawl はローカルヒットを記録した。
 George Brown にコンタクトをとったゲイリーはレコーディングセッション
 の音源を George Brown に聴かせた。
 「ピアノでプレイできるか?」と尋ねられたゲイリーは緊張しながらも
 それを聴かせて見せた。ゲイリーの印象も良かったためか、叔父の家で
 ホームレコーディングしてきたその音源は George Brown の心を動かした。
 新曲の "Driven Insane" が良い反応を得たのでゲイリーは喜んだ。
 早速ゲイリーは Richard Burns に伝えてレコーディングに参加させた。
 このセッションでは "You're The Girl" のサビのアレンジを変更した。
 参加したのは Richard Burns のリズムギター、Bill Van Buren のドラム、

Phil Yeend
Charlie Wright のピアノ
そしてゲイリーがヴォーカルと
ベースを担当。
レコーディングにはハイパートを
ハーモニーにして歌わせる為に
幾つかの女性も参加させた。
その中には Titan Records で
デビューした後の The Honeys
のメンバーである Ginger Blake
も含まれている。
エンジニアーは Phil Yeend
だった。

 その後 George Brown は Beverly Hills の自宅にゲイリーを呼んで
 契約を取り交わした。その際、George Brown は彼の奥さんの
 ステージネームである Dolores Nence を "Driven Insane" の
 共作者としてクレジットさせた。すでに Jody Reynolds のヒット曲
 "Endless Sleep" のソングライターとして有名だった彼女の名を
 クレジットする事で世間の興味を持たせようとしたのだ。
 自分の名前に自信が無かったゲイリーは不安を感じながらも、
 George Brown に上手く説得され、それを認めた。
 1961年3月、遂にゲイリーのソロシングルがリリースされる
 Driven Insane / You're The Girl (Titan 1716)
実はこのアイディアは「プロの」
作曲チームによって書かれた
ように見せるためにクレジットした
架空のソングライタークレジットで
George Brown が "Endless Sleep"
で使った方法だった。
 "Driven Insane" はエモーショナルなロッカバラードで、Buddy Holly を
 模倣した Hiccup (しゃっくりスタイル唱方)を取り入れている。
 "You're The Girl " は当時の典型的なティーンポップでガールバッキング
 コーラスとトレモロ風のギターブレイクが効果的に使われている。
 

Bob Eubanks
以前クラブサーキットで
知り合いになった K.R.L.A.の
ラジオディスクジョッキー
Bob Eubanks は自身の
番組でリスクを承知で、ゲイリー
の新曲をプレイしてくれた。
当然売れはしなかったが、
ゲイリーは「いずれは音楽業界
で成功したい」という野心を
抱いていた。

 
 Titan Records のオーナーの
 George Brown は同レーベル所属
 ガールシンガーの Saundra Glantz こと
 Ginger Blake とゲイリーを
 幾つかのタレントショーに参加させた 
 そのタレントショーには Teddy Bears
 の紅一点 Annette Kleinbard こと
 Carol Connors もソロデビューを果して
 出演しており、そこでゲイリーは
 Bob Eubanks からDJ仲間の
 Roger Christian を紹介される。

  Annette Kleinbard
    (Carol Connors)
 
 1st シングル "Driven Insane" は Teddy Bears のヒット
 "To Know Him Is To Love Him" によく似たバラードで、
 片面の"You're The Girl " はロカルンバ調のポップス。
 いずれもこの時代に流行していたスタイルだ。当時22才だった
 ゲイリーのヴォーカルスタイルは節々を強調したピチカート唱法と呼ばれている
 もので、これも当時流行していたものだ。ゲイリーはインタヴューで
 「あの頃は Teddy Bears の "To Know Him Is To Love Him" のような
 サウンドに凝っていた」と語っている。

Marilyn and Diane Rovell
このレコードのバックコーラス
には後の The Honeys の
メンバーとなる Ginger Blake
(当時16歳)が参加しているが
彼女もこの頃 Ginger という芸名で
Titan Records からシングル1枚
発表してる。ジンジャーはゲイリー
が当時乗っていた黒の
ポンティアックを借りては
彼女の従姉妹の Marilyn and Diane
の Rovell Sisters を乗せて
ドライヴしていた。

 メキシコ系女優兼歌手のアルバイトをしていた Lupe Mayorga を
 里親母に持つチェロキーインディアンとのハーフの Bill Aken
 (本名 William Earl Aken, Jr.) だが、彼は芸名 Zane Ashton
 と名乗って活動していた。彼は Little Richard のレコーディング
 に参加していた Ike Turner と親しくしており、Zane Ashton の里親父
 は CBS Columbia にコネを持った人物だった。Zane Ashton は
 Zane Ashton & Los Nomadas (The Nomads) という彼のバンドで
 主には Columbia Records の Latin American Division (スパニッシュ
 アメリカンのための販売管轄)で活動していた。Zane Ashton は父の勧め
 で録音した "He Was A Mean Dragon" というノヴェルティーソングを
 売り込むために Dore Records の Lou Burdell に打診したところ興味を
 持たれたが「君はすでに Latin American 市場では知られてるのだから、
 もっとふざけた歌い方をしたほうがよい」とアドヴァイスされた。
 この録音には面白がって Ray Pohlman, Earl Palmer, Al Casey ら名うて
 のミュージシャン達も参加した。Zane Ashton はマスターテープを持って
 自身が所属する Columbia Records にかけあったが彼らは Latin American
 の全国発売に難色を示した。1958年の Ritchie Valens "La Bamba" の
 大ヒットによりチカノ系ロックンロールは市民権を得たかのようだったが
 メジャーはラテンマーケットへの介入には慎重だった。Zane Ashton は
 Buckeye Record Distributors に務める父の友人の Russ Regan に会って
 Russ Regan から新しいレーベル設立の方法を教えてもらった。
 彼は自身で新しいレーベル Lan-Cet Records を設立してリリースする
 ことを選んだ。すると Columbia Records はそのレコードの暫定的な
 全国配給のオファーをするも Zane Ashton はそのオファーを断った。
 Zane Ashton のリビングルームで産声を上げたレーベル Lan-Cet Records
 だが、運営は Zane Ashton と彼の妻 Minnie によるもので、レーベル設立
 のアイディアは Minnie が出したものだという。
 Zane Ashton And The Irresistibles (The Nomads)
 Don't Ever Leave Me / He Was A Mean Dragon (Lan-Cet WA-143) 1962

Zane Ashton And The Irresistibles (The Nomads)

 Gary Usher "Driven Insane" を自身の番組で繰り返しオンエアーしてくれた
 K.R.L.A.のラジオディスクジョッキー Bob Eubanks も好んで
 "He Was A Mean Dragon" オンエアーしたという。現在もネット上で販売され
 続けられているこの歌は「最も長く販売され続けているノヴェルティー
 ロックンロールソング」と言われている。このシングルがもたらした経済的な
 成功によって Lan-Cet Records はレーベル維持とさらなる展開を考える。
 間もなくして Zane Ashton は同世代で
 大学生だった Phil Towle (後にヘヴィーメタル
 バンド Metallica のパフォーマンスコーチ
 として活躍する) と出会い、Phil Towle は
 レーベル運営にも参加する事になった。
 ある日 Gary Usher は Don Podolor から
 1本の電話を受ける。Don によると新しい
 レコーディングのオファーが入ったらしく
 新興レーベル Lan-Cet Records での
 話だった。その話に興味を持った
 Gary Usher は次の日に Phil Towle に
 電話をした。Gary Usher は Phil Towle
 からオーナーの Zane Ashton という男の
 名を聴かされた。Zane Ashton と Phil Towle
 はこの新興レーベルで若いタレントを
 リリースしようとしていた。

   Phil Towle
 
 そんな話が Don Podolor 経由でGary Usher の耳に入ったのだが、
 さっそく East Los Angeles 4740 E 56th St, Maywood にある
 Lan-Cet Records オフィスに出向くと、なんとそこには Terry Day こと
 Terrance Paul Melcher (Doris Day の最初の夫 Al Jordan との間
 に生まれたが1951年に Doris Day と Marty Melcher が再婚して
 間もなくは母方の Terry Day を名乗っていたが後に Terry Melcher となる)
 も呼ばれていたのだ。その後 Terry Day
 は Lan-Cet 側から「もし君の家族が資金
 援助してくれたら」と言われて契約をして
 いない。一方 Gary Usher は契約を結び
 5月にセカンドシングルがリリースされた。
 Gary Usher and The Highbrows -
 Tomorrow / Lies (Lan-Cet WA-144)
 これはアップテンポのポップスで中々
 の出来で Ashton-Partridge の曲。
 これは Zane Ashton と彼の妻に
 よって書かれた曲だった。

 ここでも Buddy Holly を模倣した
 歌唱法や Hiccup を取り入れて
 Rocker Style で歌われている。
 ギターブレイクも効果的に使われ
 中々の出来だ。B面はスローバラード
 でこの曲では Richard Burns が
 Gary Usher の共作者として
 クレジットされている。


     Terry Melcher
 
 このシングルは Gary Usher and The Highbrows 名義でリリースされた
 のだが The Highbrows とは Richard Burns の銀行仲間による
 寄せ集めのバックヴォーカルグループで、演奏はオーナー率いる
 Zane Ashton & Los Nomadas (The Nomads ) が担当している。
 エンジニアーは前回に引き続き Phil Yeend

 Recorded at Radio Recorders Annex
 Recording Engineer: Phil Yeend
 Produced by: Zane Ashton - Gary Usher
 Vocal Backup: Johnny Royal & The Highbrows
 The Band: Zane Ashton & Los Nomadas
 
 
 Lan-Cet Records は Gary Usher をピュアなティーンポップシンガーとして
 売り出したかったがこの弱小レーベルではプロモーション活動も充分
 ではなかった。Phil Towle によって手書きで書かれたプロモーション用
 のインサートを付けてレコードは放送局に配布された。仕方なくゲイリーは
 自らが自分のレコードを持ってプロモーション活動を始めた。
 San Bernadino にプロモーションツアーに出かけたゲイリーは300枚
 のレコードを持って行ったが、売れたのは20枚だったと言う。
 
 当時ゲイリーは Ginger Blake と
 付き合っていたのだが、Ginger は
 電話交換師の仕事をしていた。
 ある日、マサチューセッツの Linda Brusa
 から長距離電話が入ってきて、偶然それを
 オペレートした電話交換師の Ginger は
 取り次ぎ先の男性の名前を Linda から
 聴いて驚いた。Linda の指名したのは
 ゲイリーだった。Ginger は早速ゲイリーに
 「マサチューセッツの女性から貴方宛に
 長距離電話が入ってるわよ」とゲイリーに
 告げた。それを聴いたゲイリーは、
 この偶然を知り唖然としたという。
 実はゲイリーは Linda Brusa と
 遠距離恋愛を続けていたのだ。

    Ginger Blake
 その後ゲイリーは Linda Brusa のいる第2の故郷マサチューセッツ州に
 プローモーションツアーに出かける。
 高校時代の友人達や地元のローカルステーション W.O.R.C. に手厚く歓迎され
 ゲイリーのこのセカンドシングルは地元のラジオ局のトップ10ヒットとなった。
 事実 Boston 方面にはディストリビューターを持っていなかった Lan-Cet に
 とってこのサクセスは快挙だった。しかし Lan-Cet Records はカリフォルニア
 州知事 Goodwin Jess "Goodie" Knight の節税レコードをリリースしたのを
 最後に翌年には閉鎖した。
 
 その後 Los Angeles に戻ってきたゲイリーは銀行員に復帰しながらも
 Dick & The Indigos のメンバーに戻った。Richard Burns は
 リードギターとベースをかけもっていたが、新たにサックスの Les Weiser や
 ドラムの Wayne Edwards が加入していた。他のバンド The Emeralds
 のベースをかけもちにしていた Frank Fayad が参加する事もあったが
 この The Emeralds は後の The Standells のリーダーの Larry Tamblyn
 が結成していたバンドで、ドラムの Wayne Edwards も元々 The Emeralds の
 メンバーだった。Les Weiser の奥さん Kathy はリチャードと同じ銀行に
 勤めていた関係で、リチャードとは旧知の間柄だった。
 

Wayne Edwards

   Les Weiser
 
 Richard Burns, Wayne Edwards,
 Frank Fayad, Les Weiser の
 4人は Dick & The Indigos として
 Don Podolor にブッキングしてもらい
 ダンスパーティー等でも活動していた。

 因みに Frank Fayad は後に
 Arthur Lee 率いる Love の
 メンバーとして活躍する。

   Frank Fayad
 
 さて一方1961年の11月に発表された The Beach Boys の"Surfin" は
 徐々にチャートを昇っていた。ちょうどその頃にゲイリーは仕事に
 身が付かぬ程に音楽の事ばかりを考えていたのだ。ゲイリーはラジオの
 音楽を聴いては曲を書く毎日を送っており、そんなゲイリーを見て叔父の
 ベニーは苛立っていた。「何をしているんだゲイリー。そんな無駄な時間
 を過ごすんなら今直ぐにでもレコードビジネスに入ればいいじゃないか」と
 叱咤激励をした。年が明けてローカルヒットとなった The Beach Boys の
 "Surfin"はゲイリーの聴くラジオでも頻繁に流れ出した。
 ゲイリーはこの曲をアマチュアのガレージサウンドだけど不思議と
 フレッシュな感じのする曲だと思った。
 当時 Surfin' Music と言えば Dick Dale の奏でるギターが代名詞であり
 ゲイリーも Dick Dale のファンだった。ゲイリーは Surfin' というスポーツに
 コンタクトは持っていなかったが、 The Beach Boys のサウンドからは何か特別な
 印象を持っていた。

 
 ここで簡単に The Beach Boys のデビューまでを説明しよう。
 ロサンゼルスの弱小レーベル Candix でデビューしたこの The Beach Boys
 だが当初は Brian Wilson のアイドルだった Four Freshmen のような
 ヴォーカルスタイルでのデビューを夢見ていたが、やはりブライアンの得意
 だった "Hully Gully" を歌う程度のものだった。またブライアンらの父
 Murry Wilson は録音技師の Hite Morgan と彼の妻 Dorinda Morgan とは
 旧知の間柄だった。と言うのも1951年にマリーは "Two Step Side Step" と
 言うダンスソングを書いて Hite Morgan が設立していた Guild Music で
 管理させていた。この曲は Lawrence Welk のラジオ番組で使われ、
 1952年には The Bachelors がこの曲を録音している。
 Hite Morgan は Deck Records のオーナーでもあり
 録音技師、スタジオオーナー、レーベルオーナーの顔も持ち
 息子の Bruce Morgan が書いた曲は Deck Records の
 レコーディングに使っていた。1991年に Hite Morgan 宅で発見された
 廃棄テープに録音されていた The Beach Boys "Lavender" だが、
 それも Bruce Morgan が書いた曲でデビュー前の
 The Beach Boys に歌わせて録音していた曲だった。
 またブライアンは15歳の時に Dorinda Morgan の紹介で
 Original Sound Records のオーディションを受けた事もある。

 

Wilson Family
 

Hite Morgan

  Dorinda Morgan
 ブライアンが高校時代に所属していたフットボール部の友人
 Alan Jardine は以前 Bob Barrow らと The Tikis (その後 The Islanders に
 改名)というフォークグループを結成しており The Islanders のメンバーを
 母体にブライアンと Carl Wison が参加し Carl and The Passions
 と名乗った。1960年の秋にブライアンの母オウドリーはブライアンと
 Alan Jardine に Hite Morgan に連絡するように打診し、ブライアンと
 アルはデビュー前から Morgan Studio とのコンタクトを持つことになる。
 そしてこの高校の友人達を中心に結成していた Carl and The Passions
 は Morgan Studio のオーナー Hite Morgan の息子
 Bruce Morgan が書いた "Rio Grande" という曲を Hite Morgan
 のスタジオで歌ってみせた事もある。これがブライアンの体験した初めての
 セッション録音だと言われている。しかしこのプロジェクトは大きな進歩を
 見せる事なく中止されている。
 
 その後ブライアンは1961年1月に結婚したばかりの従兄弟の Mike Love に
 出会い、マイクは改めてグループの結成をブライアンに持ちかけた。
 同様にブライアンは6月にエルカミーノ大学に進学する前の
 Alan Jardine からもグループの結成を持ちかけられ、彼からは
 Carl Wilson と Mike Love の参加を提案された。8月中旬に彼らは
 Brian Wilson, Dennis Wilson, Carl Wilson, Mike Love, Alan Jardine
 の5人でオーディションを受けた。彼らのオーディションにあたって
 スタジオオーナー兼録音技師の Hite Morgan は彼らに
 「他のグループにはないオリジナルスタイルが必要だ」と説明した。
 Hite Morgan は前年にスタジオを完成させており録音に興味を
 見せていた。ブライアンは既に得意とするメロディーラインは持って
 いたがオリジナルとなるテーマに悩んでいた。後日メンバーの
 Dennis Wilson は「じゃあ Surfin' について歌ったら?」と当時西海岸
 の若者達の間で流行し始めていた Surfin' をブライアンに提案する。
 事実このファミリーグループの中で一番ヒップな遊びに精通していたデニス
 なしではこのアイディアは生まれなかったであろう。さっそく曲作りに入った
 ブライアンはピアノの前に座り "Surfin, Surfin, Surfin" と短調な
 フレーズを口ずさんでいた。
 そこに Mike Love が "Ba-Ba-Dippity-Dippity-Ba-Ba" と
 バスヴォーカルを入れていきブライアンはマイクに「それを続けて」と
 言いながらコードを探していった。
 それから20秒後にはこの曲の骨格は出来上がっていた。
 
 1961年9月にイギリスからゲストが訪れた際に両親のマリーとオウドリー、
 そしてアルの母がメキシコシティーに3〜4日のヴァカンスに出かける事に
 なった。父マリーは当時過食症気味だったカールに注意を促し、息子達に
 食料を購入できるだけの金を渡して旅行に出発している。
 早速彼らは楽器ストアーに出向き、その金で楽器を揃えた。
 ブライアンは既にキーボードを得意としていたが、カールに向って
 「カール、君はギターをプレイしてくれ。僕はベースを選ぶ。そうすれば僕ら
 のサウンドはロックンロールになるから」と告げた。
 アルは Stand-Up ベースを、デニスはドラムを選び、そしてマイクは
 楽器を演奏できなかったがサックスを選んでいた。彼はこの時点でサックス
 の練習などした事がなかった。カールは近所の友人 John Maus から
 当時エレキギターを教わっている。


Noel Scott Engel / Scott Walker

   John Maus / John Walker

 その後 John Maus は Noel Scott Engel と Walker Brothers を結成する。
 また John Maus は Alan Jardine の代役で初期 The Beach Boys の
 メンバーとなる David Marks にもギターを教えていた。
 因みに後年カールはホーソーン高校からハリウッドのプロフェッショナル
 養成高校へと転校し、そこでカールは後の The Sunrays のメンバー達と出会う。

 

Audree Wilson and Murry Wilson
 
 その間彼らは練習してマリーとオウドリーの帰宅を待ち構えていた。
 帰宅した両親を出迎えるように彼らは「これから貴方達に曲を披露しましょう」
 と伝え、バンドアンサンブルで "Surfin" をプレイしてみせた。
 それを見たマリーは興奮し大喜びしていた。ここでヴォーカルグループ
 のハーモニーとテーマミュージックとしてのサーフィンソングは融合の瞬間を
 迎える。Surfin' Sound (Instrumental) は Dick Dale によって開花していたが
 Surfin' Song (後にハーモニーに代表される歌のスタイル)は完成されて
 いなかった。Brian Wilson は早速ユースカルチャーシーンから歌詞を
 リサーチし、親しみやすいフックとメロディーを書いていった。
 
 後日 Melrose Avenue にある Hite Morgan のオフィスに出向いた
 彼らは Hite Morgan の前で幾つかのカヴァー曲を歌ってみせた。
 ここで歌われたのは Bruce Morgan のオリジナルの "Rio Grande" と
 トラッドソングの "Sloop John B" だった。Hite Morgan は彼らに
 「音楽ビジネスは、製品を売ることにすべて関係している。やはりオリジナル
 ソングが必要だな」と告げた。そして長い沈黙の後にデニスが
 「僕らはオリジナルソングを作ったんだ」と告げた。
 続けてブライアンは「それは "Surfin" と言う曲なんです」と言った。
 それを知った Hite Morgan は「じゃあ歌って聴かせてくれ」と言ったが
 ブライアンは自信なさそうに「それはオリジナルソングです。しかし、
 それはまだ完成していません」と伝えた。デニスは Hite Morgan に
 この Surfin' と言うスポーツを説明してみせた。「じゃあ」と言う事で
 彼らの2回目のスタジオ入りが決まりオリジナルソング "Surfin"
 を Hite Morgan に聴かせた。結局この歌は連日のセッションで
 12 Takes の録音がされている。9月15日に Brian Wilson と
 Mike Love は Hite Morgan の持つ Guild Music とソングライター
 契約を結ぶ。この時のラインナップは
 Brian Wilson - Vocals / Percussion
 Dennis Wilson - Vocals
 Carl Wilson - Vocals / Guitar
 Mike Love - Vocals
 Alan Jardine - Acoustic Bass
 ブライアンは曲を完成させたい衝動にかられ、来る日も来る日もアレンジに
 手を入れていった。当初のミックスはバランスが悪く、それを見ていたマリー
 までもが口出しはじめた。デモの音源を完成させるにあたってブライアン、
 マイク、カール、アルが改めて Morgan Studio に入り
 ようやく最終ヴァージョンを完成させている。B面には Bruce Morgan の
 書いた "Luau" を録音させた。Hite Morgan はどちらか言えば録音には
 興味を持つものの、レコードのリリースに対して冷めた感じだった。
 彼らのセッションテープには The Pendeltons とクレジットされていた。
彼らは改めて当時サーファー達
が愛好していたシャツのメーカー
Pendelton をトレードマーク
にして、The Pendeltons として
デビューしたかったのだ。
しかし Hite Morgan は権限を
行使するかのように彼らに
The Surfers とひねりもない
グループ名を命名した。
そしてデモ曲を Candix Records
の Joe Saraceno に売り込んで
リリース契約にこぎつけている
 
 Candix Enterprises Inc.は1960年8月26日、カリフォルニア州フレズノに、
 Richard と Robert Dix の双子の兄弟によって設立された
 独立レコード会社であり、彼らの弟の Albert ら他の兄弟も設立に
 協力している。Richard and Robert Dix の兄弟はプロのミュージシャン
 であり、過去20年間、Dix Brothers Orchestraとしてアメリカ国内を
 ツアーしていた。彼らは、L.A.音楽業界に知名力があった
 William Silva Canaday を雇い、レコード会社の名前は彼らの姓
 (Canaday からの Can Dix)の融合だった。
 1961年秋、Hite Morgan はロスアンゼルスで1番人気のある
 ラジオ局 KFWB のレコード司書である Bill Angel からの推薦を
 受けて、The Beach Boys の最初のレコード "Surfin"を
 Candix Records にもたらした。

Richard and Robert Dix

   Bill Angel
 
 Candix Records はこれより先の1961年春にリリースさせた
 The Frogmen の "Underwater" がビルボード44位の
 スマッシュヒットとなり、それまで数多の Surfin Garage Band
 を有する南カリフォルニアで、これらのユースカルチャーソングが
 脚光を浴びだしていたことを感じ取っていた。
 当時 Candix Records の社員だった Joe Saraceno は以前
 Tony Savonne とデュオを組み Era Records から Tony & Joe として
 1958年にリリースした "The Freeze" が全米33位のヒットとなった
 経歴を持つ。その後スタジオミュージシャンを使って The Routers や
 The Mar-Kets でヒット曲を生み出し The Ventures のプロデューサー
 として活躍をするのだが、当時はまだ Candix Records の社員
 として外交を務めていた。

Tony Savonne (Henry Imel) and Joe Saraceno

  Russ Regan
 
 1961年11月中旬 Joe Saraceno はレコード配給会社の
 Buckeye Record Distributors に務める Russ Regan
 に曲を聴かせ「近々当社からThe Surfers という名で彼らを
 デビューさせる」と告知プロモーションをしたところ
 「既にその名前のグループは存在していてハワイアン音楽を
 リリースしている」と言われた。Russ Regan は曲を
 聴いて「サウンドは Jan & Dean に似てるな」と言った。
 そして「何か良い名前はないか」と Joe Saraceno と
 Russ Regan が話し合い Russ Regan は思い付くままに
 次々とバンド名を挙げていった。
 その中で The Lifeguards, The Beach Bums,
 The Hang Tens, The Woodies と候補名が挙がっていった。
 Joe Saraceno は「なんか好きになれないなあ」と答え
 Russ Regan が「じゃあ The Beach Boys ってのはどうだ?」と言い
 「おお、それだっ!なんでその名に気づかなかったんだろう」
 と最終的に The Beach Boys と言う名前になり合意に至った。
 彼らは知らなかったようだが既に The Beach Boys と言うグループも
 存在しており1959年に Kapp Records からハワイアンソングを
 リリースしている。1963年日本でも東芝からシングルが
 リリースされた。解説は木崎義二さん。

 


 結局この2曲のマスターテイクは完成され、まずCandix 331で
 リリースされた。間もなくして Candix Records の子会社として
 X Records を設立している。X 301 とラベルにクレジットされた
 極少数枚を7インチにプレスしてプロモーション用に1961年12月に
 配布されている。その後ステレオミックスされたヴァージョンは
 Hite Morgan によって保管されていた。
 録音技師の Hite Morgan は
 デモヴァージョンをレコード化するつもり
 だったらしい。そしてそれがローカルラジオ
 にてどのようにプレイされていくのかだけ
 に興味を持っていたようだ。

   X Records 301
 
 1961年12月23日に Dick Dale が Rendezvous Ballroom で行った
 ライブに参加した The Beach Boys は初のライブパフォーマンスを披露した。
 
 西海岸ティーンエイジャーのライフスタイルをキャッチーなメロディーに
 乗せて歌われたこの曲はローカルラジオステーションから火がつき
 1962年2月17日をピークに全米75位という快挙をなし、5万枚以上という
 セールスも記録した。もちろんこの結果に Hite Morgan が驚いたのは
 言うまでもない。初期のプレスは楽曲管理として Hite Morgan の持つ
 Guild Music がクレジットされており、その後 Titan Records の
 George Brown が設立した Era Record Sales Inc がクレジット
 されている。そして全国ヒットとなり1962年に改めて増量プレスされている。
 リリースの順番は Candix 331の "Surfin" が最初のリリースだ。
 次にX Records 301、Candix 301、Era Records 配布の Candix 301の順で
 リリースされた。また、"Audition Only" のコピーが Era Records 配布の
 Candix 301でリリースされた。
 Beach Boys - Surfin / Luau (Candix 331) 1961年
 Beach Boys - Surfin / Luau (Candix 301) 1962年
 
 このヒットにより彼らは$990のロイヤリティーを受け取っているが
 子供達は喜んでいたが、父 Murry Wilson はそんな筈はないと思った。
 Murry Wilson が疑ってたように本来なら$2,500を受け取るべきだった。
 "Surfin" はロサンゼルスで3位に達したが、ビルボードでは75位で
 失速した。1963年9月 Robert Dix は会社の法人ステータスを更新しない
 ことを選択した。結局彼らはCandix レーベルで41枚のシングルを
 リリースし、子会社 X Records で1枚 ("Surfin"),
 Candix 配給の Storm Records で2枚をリリースした。
 
 Candic Records の財政難を Hite Morgan から聴かされた
 Murry Wilson はすみやかにハリウッドのダウンタウンに向かい、
 そこで Surfin' Music に興味を持ってないレーベルだった
 Capitol Records へ出向いて契約交渉を始めた。
 Capitol Records はサーフィンを一過性の流行と見なしていて
 The Beach Boys との契約には慎重だったのだ。その為にも
 イージーリスニングに強い Capitol Records に好印象を
 与えるためにも The Beach Boys のヴォーカルグループとしての
 技量を証明したかった。それが永遠の夏を歌い南カリフォルニアの
 若者達のライフスタイルを健康でハッピーなイメージを与えるもの
 とした大きなヴィジョンを生み出すことになる。
 

The Beach Boys, Murry Wilson, Audree Wilson
Dorinda Morgan, Hite Morgan
 



Candix 331 / 1961

     Guild Music
 

Era Record Sales Inc

Era Record Sales Inc Audition Copy
 
 その後、ゲイリーの叔父のベニーは近所に住むウィルソンファミリーの子供達が
 The Beach Boys である事をゲイリーに教えた。そしてベニーはゲイリーに
 「おまえもウィルソン兄弟も、どこか似た者同士みたいだ」と告げた。
 昔気質で頑固者のベニーからすれば、23歳になっても音楽の事ばかり考えている
 ゲイリーも地元でヒット曲を生んだガキどものウィルソン兄弟も同じだったのだ。
 所謂、音楽の麻疹にかかったどうしようもない若者達だったのだ。
 そしてゲイリーは次の日曜日にウィルソン兄弟を訪ねていった。ブライアンと
 ゲイリーが運命的な出会いをしたのは1962年の1月頃と言われている。
 ゲイリーは先ずウィルソンファミリーのボス Murry Wilson とその妻 Audree
 に自己紹介をし、長男で The Beach Boys の Brian Wilson に会った。
 ブライアンは内省的な性格の19歳の若者だが、ユーモアのセンスもあり
 とても好感の持てる人物だった。
 先ず二人は互いの音楽の趣向を外交的に話し合ったが、ブライアンは興味深い
 事に自分が Four Freshmen のファンである事を告げた。ゲイリーは
 ブライアンが他の若者とは違う音楽的なセオリーで曲を考えている事を知った。
 ゲイリーは The Beach Boys より先にレコードデビューしておりこのビジネスの
 難しさを身を持って体験していた。この二人の初めてのミーティングで
 ゲイリーは自分のバックグラウンドやキャリアをブライアンに教えた。
 ブライアンはゲイリーの言葉にのめり込むように聴き入り、「もっと話して
 欲しい」と言ってきた。ゲイリーは Titan Records や Lan-Cet Records
 で体験した多くの事柄をブライアンに教えた。
 それはレコーディングセッションでのリーダーシップの在り方も含む。
 ゲイリーはブライアンと初めて会った時の事をこう回想している。
 「私はブライアンに自分がリリースしたシングルのことを大げさに話しました。
 ブライアンは興味を持ったらしく、自分達の音楽をどう思うかと尋ねてきました。
 私は素直に『いいね、すごくいいと思う』と答えました」要するにゲイリーは
 ブライアンに自分のレコードは大ヒットしたとホラを吹いたわけだが、
 まだ駆け出しで不安症のブライアンは、この年上で自信満々で業界人
 特有のヒップさを持ったゲイリーに魅かれていった。
 こうして意気投合した2人はすぐ一緒に曲を書くようになったが、初めて
 2人が書いた曲は会ったその日に書かれた "Lonely Sea"
 であると言われている。ゲイリーが自分のオリジナルソングを数曲聴かせて
 ブライアンはピアノをプレイし始めた。ゲイリーはその今まで聴いた事のない
 コード進行に驚いた。そしてハーモニーが入る事を前提にしたかのような
 メロディーにも驚いた。ブライアンは先ずメロディーを書いて、そのラインを
 応用して幾つものパターンを作る。ゲイリーはそこにシンプルな海に対する
 イメージを詩にして二人は"Lonely Sea"を完成していった。気が付けば二人は
 一晩中曲作りに没頭していた。次に書かれたのは "County Fair" で他にも
 デモだけで終わった "My Only Alibi" "I'm Falling For You"
 "Timber" が二人によって作られた。
 
 その後も2人は曲を作り続けていくが、その中では後に西海岸の若者達を
 熱狂の渦に巻き込んでいく "409" も含まれている。
 因みに2人が共作した曲で The Beach Boys が後に発表したのは次の通りである。
 County Fair
 Ten Little Indians
 Chug-A-Lug (Root Beer)
 409
 Heads You Win, Tails I Lose
 Cuckoo Clock (Coo Coo Clock)
 Lonely Sea
 In My Room
 Pom Pom Play Girl
 We'll Run Away
 
 The Beach Boys の Surfin / Luau (Candix 331) はローカルで TOP 5、
 全米75位のスマッシュヒットとなった (ピーク1962年2月17日)
 2月8日に The Beach Boys は World Pacific Studio で新曲
 "Surfin'Safari" "Little Surfin' Girl" (後の Surfer Girl)、
 "Judy" "Karate" (後の Beach Boys Stomp)をセッション録音した。
 また本録音アレンジャーの Hite Morgan の申し出によって
 Hite Morgan の息子 Bruce Morgan の書いた2曲
 "Barbie" "What Is A Young Girl Made Of" を3月8日にデモ録音する。
 どうやら Hite Morgan は自分の録音がマーケット上でどのようなリアクション
 を得るのかという部分に執着していたようにも見受けられる。しかし最終的に
 録音エンジニアーは Chuck Britz が担当している。
 これに父親マリーが同意し、4月19日に
 United Western Studio にて
 セッション録音が行われる。
 これは Kenny and The Cadets 名義で
 Hite Morgan 所有の Randy Records
 からリリースしたがヒットはしなかった。
 この録音に参加したのは
 Brian Wilson, Carl Wilson,
 Alan Jardine, バックアップヴォーカル
 で母 Audree Wilson とセッション
 ミュージシャンの Val Paliuto
 がバスヴォーカルを担当している。


  Kenny and The Cadets

Val Poliuto (The Jaguars)

   The Jaguars
 
 "Barbie" でバスヴォーカルを担当したVal Poliuto は
 The Jaguars のメンバーとして Hite Morgan の持つ他の
 レーベル Deck Records でもシングルをリリースしている。

 そしてこの時期、進学するために Al Jardine がバンドを一時脱退する。
 The Beach Boys は "Mr. Moto" のヒットを飛ばしていた The Belairs の
 リードギタリスト Paul Johnson に代役を打診したが Paul はそれを断り、
 結局カールのギター仲間だった David Marks が The Beach Boys に
 参加する事になった。間もなくして Brian Wilson はエルカミーノ大学を
 落第し、悪童 Dennis Wilson はホーソーン高校を退学させられる。
 
 ゲイリーとブライアンは4月16日に改めてセッション録音を開始している。
 これはゲイリーのオリジナル曲とブライアンとの共作によるもので
 "The Beginning Of The End" "One Way Road To Love" "Visions"
 "My Only Alibi" が共同プロデュースされた。
 ハリウッドの Western Reccorders で録音されたこのセッションは
 エンジニアーを Chuck Britz が務め、ここでゲイリーはブライアンやマリーに
 スタジオ録音が何であるかを懸命に教えた。ゲイリーはブライアンに何を
 教えようとしているのかを強調してマリーに説明した。マリーは渋々とそれを
 黙認していた。"The Beginning Of The End" は Gary Usher-Roger Christian
 が書いた小曲で当初は Brian Wilson が歌って録音された。
 (その後この曲は Glen Campbell が歌ったデモヴァージョンも残されている)
 このセッションではバッキングヴォーカルと演奏を The Beach Boys が
 務めている。法的にブライアンの書く曲はいまだに Hite Morgan が管理
 する契約が残っている為に The Beach Boys は新たに自分達の楽曲を
 管理する会社を設立する必要があった。(当初の曲を管理した
 Guild Music は Hite Morgan の所有する音楽出版社だ)
 ゲイリーはブライアンに自分達の書く曲を管理させる音楽出版社の
 必要を説明し、二人の書く楽曲の管理を Don Podolor にして貰おうと
 提案した。ブライアンはそれに同意したが、あまり乗り気ではなかった。
 なぜならブライアンはファミリーから離れて単独で契約が出来るほど
 強い人間ではなっかったのだ。ゲイリーはブライアンにレコードビジネス
 についてアドヴァイスを続けていた。

 その間マリーは自分が投資していった The Beach Boys のセッションのマスター
 音源を持って旧友の Ken Nelson にかけあった。
 Ken Nelson は Capitol Records
 のカントリー&ウェスタン部門で働く
 A&R で、以前は Gene Vincent を
 育てた経歴を持つ。マスターを受け取った
 Ken Nelson はマリーに「Nick Venet
 に音源を聴かした方が良い」と勧めた。
 メンバーの演奏能力には否定的だった
 ものの、ブライアンの書く曲に興味を
 示した Capitol Records はこのティーン
 グループとの接見を要請する。マリーは
 The Beach Boys にデモで歌わせたアカペラ
 の "Their Hearts Were Full Of Spring"
 に「これは The Beach Boys を知るための
 サンプルだ」とメッセージを添えて
 Nick Venet に音源を手渡した。
 これは4月19日のセッションで録音した

     Ken Nelson
 
 ばかりのものだ。ここでは "409" も録音されている。
 初期の The Beach Boys にとってサーフィンと共にトレードマークになっていた
 ホットロッド。そのアイデアを The Beach Boys の音楽に持ち込んだのは
 ゲイリーであるという。当時アメリカの自動車産業は熾烈な競争に入っていた。
 その中でも Cubic Inch War と呼ばれるピストンキュービックの大型化に
 関しては世間の興味の的となっていた。もちろん若者達の憧れもビッグキューブ
 のエンジンを搭載した車に乗る事だった。

Chevy 409
 
 ゲイリーはインタビューにこう答えている「私は今まで何度もどのようにして
 Hot Rod Music と関わったのかという質問を受けてきました。そのつど
 私は Brian Wilson と"409" を書いた時の事を話してきたのです。
 当時私はシボレーの348型に乗って
 いました。私はそれよりも大きなエンジンを
 積んだ409型に憧れていました。ある日、
 ブライアンと一緒にいた時にアイデアが
 浮かんだのです。ブライアンは簡単な
 3つのコードをピアノで弾いていました。
 ひらめいた私はそのパートをブライアン
 に続けさせたのです。そして She's Real
 Fine My 409 She's Real Fine My 409、
 My 409 と歌詞を付けていったのです」
 名作 "409" の冒頭で聴ける車の音は、
 購入して間もないゲイリーの1959年式
 Chevy Impala 348型のものだという。

ラジオ番組でのインタビューを
収録したシングルレコード
 
 ここで再びゲイリーの回想である「テープレコーダーを回して車のエンジン音を
 録音するためにアクセルを吹かし、夜中1時にその辺を3〜4回ターンさせ
 ました。すると一成に近所の家の明かりがつき、とうとうパトカーのサイレン
 の音が聴こえてきたので、車のライトを消して一目散に逃げたのです」
 延長コードでつないだレコーダーを持つブライアン、爆音によって叩き起こされ
 激怒する父親 Murry Wilson がそこにいた。「警察官が聴き込み調査をして
 あの夜に暴走した車を探してるよ」とデニスはその後ゲイリーに教えた。
 The Beach Boys はゲイリーの書いた"409" "Lonely Sea" そして
 新たに編曲した "Surfin' Safari" と "Judy" を4月19日録音している。
 録音が行われたハリウッドの Western Recorders はゲイリーが
 薦めたスタジオだ。エンジニアーの Chuck Britz は緊張するブライアン
 の性格を良く理解していた。スタジオ内でもリーダーシップをとろうとする
 父親 Murry Wilson はコントロールルームから幾度となくセッションに
 指示をしていた。マリーは昔自分がソングライターとして成功出来なかった
 時の夢を息子達のバンドで叶えようとし The Beach Boys に対して昔のスタイル
 同様にヴォーカルをフロントに立てたサウンドにしたかったのだ。

 

Chuck Britz

 マリーは Capitol Records に対して抱いていたヴォーカルグループ
 のサウンドイメージを息子達に押し付けようとしていた。それはデモで
 録音された "Their Hearts Were Full Of Spring" にも表れている。
 しかしコントロールブースの中で Murry Wilson と Chuck Britz の意見
 は対立していたがゲイリーによって歌われた "409" の仮歌を聴いて
 Chuck Britz は確信を得た。
 

Western Recorders
 
 こうして Nick Venet の待つメジャーレコード会社 Capitol Records に
 マリー、ブライアンそしてゲイリーの3人が先ず乗り込んでいった。
 Mr. Hollywood とも形容された Nick Venet は当時弱冠21歳で
 Capitol Records のウェストコースト地区のロックンロール部門を担当する
 同社最年少の重役であった。Nick Venet はマリーに「マスター音源を買い取る
 用意がある」と告げた。即ちメジャーレーベルとの契約の第1段階をクリアー
 したのだ。また Nick Venet は「我々は5%の印税を払ってもいい」と
 持ちかけてきた。

Nick Venet
しかしそのロイヤリティー契約に
おいてメンバー+マリーで等分
された筈だ。その意味において
プロデューサー、アレンジャー、
ソングライター契約等、沢山の
契約条項が待ち構えていた。
楽曲管理は Capitol Records
の所有する Beechwood Music
を勧められたがゲイリーは
その時の会話からマリーが
自分達で音楽出版社を
設立準備し始めた事に気付き、
マリーはブライアンとゲイリーが
勝手に自分達の音楽出版社を
設立準備していた事に気付く。
Nick Venet は「それでは
我が社の法務部に契約書を
作成させるから後日また会おう」
と言ってきた。
 
 初日の交渉が終わり事務所を出て3人がエレベーターに乗り込むやいなや
 マリーはゲイリーに顔を近づけて暴言を吐いた「ゲイリー、お前は俺の息子を
 騙そうとしてるんだな!」ゲイリーは「貴方は楽曲管理を理解してないじゃないか
 だから私とブライアンで我々の音楽出版社を設立しようとしてるんだ」と
 言い返した。するとマリーは激怒し「じゃあお前とブライアンはカールやデニスを
 カットし、小銭もやらないどころか俺の存在も無視してるんだな。お前は
 Capitol Records に嘘を偽証しやがって」とまくし立てた。
 その横でブライアンは死にそうな顔をしていた。
 その後 Capitol Records は "Surfin' Safari" "Lonely Sea" "409"の
 3曲のマスターテープを各$300で買い取り、1962年7月16日に
 The Beach Boys と Capitol Records は正式契約を結ぶ。
 
 マリーはその昔次男デニスが生まれてからすぐ当時勤めていたタイヤ工場
 でのアクシデントで左目を失い義眼となっている。その他多くの複雑な経緯
 から家族の大黒柱だったマリーは異常なまでにファミリーを守ろうとする
 懸念にかられる。事実戦後アメリカの繁栄は、マリーら世代による多くの労働者の
 生産力なしでは語れない。その為かこの世代は華やかな\60年代のアメリカの
 裏で苦悩し精神的な被害者意識を持っており、子供に対する虐待に現れる
 ケースも多かった。
 
 後日ブライアンはゲイリーに打ち明けた。「お父さんが音楽出版会社の名前
 をつけたよ」、ゲイリーは「何て名前だい?」と尋ねると
 ブライアンは「Sea Of Tunes」と答えた。
 ゲイリーは笑って「OK じゃあそれをマリーに実行させよう」と言った。
 以前マリーはゲイリーに言った「もしお前とブライアンが音楽出版社を
 設立したら、その時は俺が会社を運営するからな」
 ゲイリーは少し疎外感を感じながらも、Sea Of Tunes がマリー
 による自分に対する引き離し工作である事を確信した。
 
Murry Gage Wilson
マリーはマリーで基礎固め
に必死になっていた。
しかし音楽出版社設立の
アイディアはゲイリーに
よるもので、マリーもその
必要性に気付き独善的な
手法でそれを行っていた。
その後ゲイリーはマリー
から印税を受け取る事に
なった。
 
The Beach Boys - Surfin' Safari / 409 (Capitol 4777)
左から Brian Wilson, Mike Love, Dennis Wilson,
Carl Wilson, David Marks

 晴れて "409" は The Beach Boys の Capitol Records からのファースト
 シングルとして "Surfin' Safari" のカップリングでリリースされ、1962年に
 チャートの76位まで昇るヒットを記録した。(ピーク1962年10月13日)
 ゲイリーにとって初のヒット曲となったこの曲はゲイリーに富と
 名誉をもたらした。
 Murry Wilson はゲイリーに Advance
 として $1000〜$1500 を渡した。
 そして金を手にしたゲイリーが手にした
 車は409ではなく、プリモス426型
 だったという飛躍までもたらした。

    日本盤シングル
 
 当初 Capitol Records はサーフィンというテーマに疑問を感じていた
 ために "409" を A-side としてプロモートしようと考えていた。
 この曲は当初 "Four Hundred And Nine"と言うタイトルで登録され
 その後"409"と改められた経緯を持つ。
 しかしそんな最中にサーフィンがユースカルチャーに浸透している事を知り
 慌てて "Surfin' Safari" を A-side に切り替えた。所謂両A面として
 このシングルはリリースされ、新人グループのメジャーデビュー盤としては
 最も望ましい成績を残したのだ。海岸部では "Surfin' Safari" がオンエアー
 され、内陸部では "409" がオンエアーされる事によって The Beach Boys は
 一気に若者達に迎え入れられた。このビッグヒットを受けて Nick Venet は
 ブライアンに違うヴァージョンの "409" を打診した。ブライアンは違う
 ヴァージョンのアイディアを持っており、それは Low Rider をテーマに
 したものだった。ブライアンは若者の意識をリサーチしており、
 サーファーとローライダーが友好関係を作れる環境を考えていた。
 Chicano 系の多いローライダーがサーファーとの間に一線を引いていた
 のは事実だが、ユースカルチャーのテーマミュージックを製作するに
 あたって大いに危険も含んだヴィジョンだった。
 後に Nick Venet のインタビューで明らかになった
 このローライダーヴァージョンだが、ゲイリーの口から語られた事はない。
 また "Surfin' Safari" と "409" のダブルヒットを受けてブライアンは
 ラジオインタビューでこう答えている「既に我々(ブライアン&ゲイリー)
 は6つの曲を書き終えています」と告げた。
 その後DJの Nelson Eddy は「次のシングルは "Chug-A-Lug" に
 なるでしょう」と告知した。この "Chug-A-Lug" は "Root Beer"
 と言うタイトルのヴァージョンもありゲイリーとブライアンの共作として
 残されている。 The Beach Boys とゲイリーは次のレコーディング
 セッションについて Capitol Records にサインをし、ブライアンは
 リハーサルに控えて次々と曲を仕上げていった。

Nelson Eddy

    Brian Wilson
 
 ある日、ゲイリーとブライアンがブライアンの部屋で一緒に曲を書いていたら
 マリーが入ってきて「お前達は他にも違うテーマの曲は書けないのか?」と
 尋ねてきた。ゲイリーは「例えば?」と訊き返すと「例えば、愛とか花とか」と
 マリーは答えた。するとゲイリーは「愛?花?へっ」と鼻で笑った。
 マリーはゲイリーの首根っこを掴んでゲイリーを家の外にほおり出したという。
 
 この時期、ゲリーの住む叔父ベニーの家にゲイリーの従妹の Karen Jones
 が遊びに来ていた。Karen は彼女の友人の Bonnie Deleplain を連れて
 来ていた。Bonnie はまだ若く The Beach Boys らと同じ世代で、また彼女は
 The Beach Boys のファンだと言う。ゲイリーは Bonnie と Karen を連れて
 The Beach Boys のステージに出かけた。若く明るい Bonnie とゲイリーは
 直ぐに親密になりデートを重ねていった。後年この二人は結婚をする。
 
 ★1962年8月5日 マリリンモンロー死去
 
 デリケートな Brian Wilson は、こうした成功の後も「自分には才能が
 ないのではないか?」と言ってふさぎ込んでしまう事も多かったが、ゲイリーは
 そんなブライアンに当時ヒット曲を連発していた Gerry Goffin & Carole King
 の事を話し「俺たちには才能があるんだ、俺たちはカリフォルニアの
 Goffin & King になるんだ」と言って励まし初期の The Beach Boys と
 Brian Wilson を支えていったのだった。
 ちょうどその頃 Cameo-Parkway Records から一連のダンスナンバー
 Twist, Mashed Potatoes らがリリースされ、まさにダンスソング
 が大流行していた。
 ブライアンはゲイリーから聞いた Goffin & King に興味を持ち、当時大ヒット
 していた Goffin & King 作の"The Loco-Motion"が彼らのベイビーシッターを
 していた Little Eva (Eva Boyd) という黒人の少女が歌っている事を知った。
 ブライアンはこれに触発され"The Loco-Motion"に似た曲をゲイリーと書き上げた。
 するとブライアンはゲイリーに「自分たちも歌える黒人をスカウトしよう」と
 ロスアンゼルスの黒人居住区 Watts にゲイリーの車で出かけようと
 もちかけた。ゲイリーは「そんな黒人街に行ったら殺されてしまう」と言って
 反対したが、ブライアンはゲイリーの忠告を聞き入れず、結局ゲイリーも渋々と
 ブライアンについていった。ある夜二人は Watts 地区に入り幾つかの
 ナイトクラブに入り、黒人に「誰か歌える黒人女性を知らない?」と尋ねてみた。
 そして一人教えてもらう度にその住所に訪ねて行った。ドアをノックし
 「我々はレコードをリリースしてチャートインしたんだ」と自己紹介をしてみた。
 馬鹿げた行為だが、黒人がサーフィンのヒット曲を知ってる訳もなく、
 ましてや生活習慣から聴いているラジオも違うのに突然二人の白人の
 若者が黒人居住区に現れてこのようなスタンスで自己紹介を
 したのだ。それでも二人はこう続けるしか
 なかった「我々は貴方のお嬢さんが
 歌えると聴いた。我々はお嬢さんの歌を
 レコードに出来るんです」と、こんな交渉
 を幾つか繰り返しながらも二人は無事に
 殺されることもなく Betty という名の
 黒人女性にコンタクトをとって帰ってくる。
 この女性の本名を明かさない条件で
 リードヴォーカルに参加させレコーディング
 されたのが "The Revo-Lution" と
 "Number Nine" の2曲だ。実は後年に
 なってゲイリーとブライアンによって
 明らかにされたが、この女性は若き日の
 Betty Willis だったのだ。

    Betty Willis
 
 当時21歳だった Betty Willis は1960年代初頭、カリフォルニア州サンタアナ
 とオレンジカウンティのさまざまなクラブで歌い始めた。 1962年、彼女は
 Ray Lockhart とのデュエットを Rendezvous Recordsで Betty & Rayとして
 Turn Your Love Lights On / You're Too Much をリリース、その後、1962年に
 TakeYourHeart というタイトルのソロシングルをリリースした。 また彼女は
 The Instants としてクレジットされたスタジオグループのリードボーカルとして
 2枚のシングルを同レーベルでリリースしている。彼女は時折隣人である
 Bill Medley (後に The Righteous Brothers の低い声になった)とさまざまな
 地元のクラブで歌った。The Righteous Brothers がMoonglow Records と契約
 している間、Betty Willis と Bill Medley は彼の曲の1つである
 My Tears Will Go Away のデュエットを録音したがこれはリリースに
 至っていない。Betty Willis は最終的に、Wrecking Crew のピアニストである
 Leon Russell と行動を共にし、1965年に Leon Russell は Philles Records
 の子会社である Phi-Dan Records から Act naturally / Soul (Phi-Dan 5001)
 をリリースしている。Produced & Arranged by Leon Russell.
 
 さて Gary Usher はこのレコーディングの前に銀行員時代の友人 Bill Turner
 に融資の打診をしてセッション費用を借り入れた。(後年 Bill Turner は
 銀行の頭取となる)このシングルのレコーディングはブライアンがプロの
 ミュージシャンを用いた初めての録音で、当初 Plas Johnson のホーンと
 Sharky Hall のドラムだったが、後で Steve Douglas のホーンと
 Hal Blaine のドラムに差し替えた。因みに Plas Johnson は David Gates
 らと Del-Fi Records のセッションサーフバンド The Deuce Coupes 等にも
 参加していたサックスプレイヤーだ。

Steve Douglas

  Plas Johnson
 
 またカップリングの "Number Nine" は元々ゲイリーとブライアンがデモで
 書いた "Visions" が原型で、当初はゲイリーと The Beach Boys で演奏を
 録音していたものだ。マスターを完成させた二人は喜んだ。
 マリーの息のかからない所でレコーディングを完成したのだ。その後二人は
 Buckeye Record Distributors に務めるレコードディストリビューターで
 The Beach Boys の名付け親でもある Russ Regan にこの "The Revo-Lution"
 の楽曲管理の権利を持ちかけ契約を
 成立させている。当時 Dot Records
 のプロモーションを手掛けていた
 Russ Regan の勧めもあり
 Rachel and The Revolvers 名義でこの
 シングルは1962年9月に Dot Records
 からリリースされた。A面は Russ Regan
 の所有する Algrace 音楽出版で管理
 されているが、B面のパブリッシャーの
 Number One Publishing とはゲイリー
 とブライアンによる初の音楽出版
 会社だ。因みに後にブライアンの
 ルームメイトBob Norberg とそのガール
 フレンド Cheryl Pomeroy によって
 録音された Bob and Sheri のB面の曲
 である "Humpty Dumpty" も Algrace
 音楽出版で管理させている。

     Russ Regan
 両面ともゲイリーとブライアンの共作だが、プロデュースはブライアンのみが
 クレジットされた。"The Revo-Lution" はロコモーションを意識した
 だけあって力強いアップテンポダンサーに仕上がっている。冒頭でカウント
 を入れて "Rotate Rotate"と掛け声をガールバックシンガーと
 一緒に入れているのは Brian Wilson だ。
 曲中サックスや手拍子がフューチャーされ、サウンドも厚くかなり工夫の
 あとが見受けられる典型的なヒットソングタイプの曲で出来も良いが
 ヒットを記録することはなかった。
 B面はのどかなピアノの旋律で歌われるバラードで、この曲調は他の曲の
 ヴァリエーションに繋がる。このシングルは現在では Brian Wilson が
 The Beach Boys 以外をプロデュースした最初期の作品の一つという事で
 コレクター達の間でかなりの高値で取引されている。
 
 Bob Norberg は南カリフォルニア大学の Sigma Chi (友愛の会)の2人の
 仲間ドラマーの Rich Miailovich とピアニストの Dave Boyle と一緒に
 大学のロックンロールトリオで演奏したギタリストだった。彼らは数回の
 ギグを演奏した程度の無名のバンドだった。しかし Connie Stevens が
 学校を訪れたとき、彼らは一度 Connie Stevens のバックバンドをした
 事がある。Connie Stevensをサポートして、彼らは彼らの友愛の会の
 兄弟の一人、Phillip Bonnell の母親であった女優で歌手の Gale Storm
 の家で遊んだ。 1961年に Bob Norberg が卒業した後、トリオはバラバラ
 になって別れた。 1961年6月から1962年の春から夏にかけて、
 Bob Norberg は Cheryl Pomeroy との交際を始めた。
 これは、Brian Wilson が彼らに出会った頃でもあった。
 1962年9月13日、Brian Wilson は彼らデュエット Bob & Sheri の
 セッションをプロデュースし、Brian Wilson の父 Murry Wilson が
 所有するレコードレーベルでその年の10月に "Surfer Moon" の
 シングルはリリースされた。 Safari 101 でリリースされた
 シングルは、"Humpty Dumpty" がB面だった。
 それはチャートに印象を与えなかったが、
 Brian Wilson は後に別のプロジェクトで
 その曲を使用する。
 "Surfer Moon" "Humpty Dumpty" に
 加えて、デュエットと一緒に別の曲が
 録音された。その際録音された "Ride Away"
 と言う曲があり、それは後に Annette が歌う
 事になる "Surfer's Holiday" の原曲で、
 その時ほぼ完成されていた。
 そしてこの "Surfer's Holiday" は
 The Super Stocks でも取り上げられる。
 Bob Norberg と Cheryl Pomeroyは
 Brian Wilson と "Recreation" という
 1:55の小曲を共同執筆したが
 この曲はリリースされていない。
 そして Bob Norberg は1963年5月までに
 Cheryl Pomeroy と別れている。

   Bob & Sheri
 
 1963年5月、Brian Wilsonは "Surfer Moon" で別の曲を起こした。
 曲のタイトルを "Summer Moon" に変更し、Glen Campbell ら後に
 The Wrecking Crew になる Los Angeles session musicians と録音した。
 Bob Norberg と地元の歌手で将来の女優である
 Vickie Kocher (Victoria Hale) のデュエットで歌わせたこの曲は、
 United Recordersで録音された。ストリングアレンジメントは Jan Berry
 によって処理された。レコーディングの前に、Bob Norberg と
 Vickie Kocher は Bob Norberg の Crenshaw Park のアパートで
 彼らのボーカルをリハーサルしていた。
 この曲は Western Studio で録音し、Brian Wilson のボーカルも
 追加された。また、セッションには、Vickie Kocher をコーチし、
 「君は少女でこれは少女の初恋だと思って歌うように」とアドヴァイス
 していた Murry Wilson も参加した。 3トラックのレコーディングが
 行われ、Brian Wilson はそこからラフダビングを作成し、記念品と
 してアセテート盤を Vickie Kocher に与えた。Brian Wilson は Jan Berry
 に勧められ Lou Adler に見せようと曲のデモを演奏したが、Lou Adler
 はそこには行かなかった。
 Brian Wilson は Bob Norberg と Vickie Kocher
 に使用される予定だった "Teach Me To Surf"
 と言う曲のデモも録音した。Vickie Kocher
 はまた、Bob Norberg と Brian Wilson が
 共同執筆した別の曲 "Rock and Roll Bash"
 に歌詞を追加したが録音はされなかった
 ようだ。結局 Bob & Vickie のレコード
 デビューはキャンセルされた。
 Vickie Kocher (Victoria Hale) は後に女優
 になり That Tender Touch,The Death Collector,
 One Down, Two to Go などの映画や
 テレビ番組 Hawaii Five-O に出演した。

   Victoria Hale
 
 Brian Wilson は父親マリーに束縛されるのを嫌って独立する事
 を決意した。イングルウッドの Crenshaw Park アパートに
 引っ越したBrian Wilson は友人のRobert (Bob) Norberg と
 共同生活を始める。彼は前述の Bob and Sheri の Bob Norberg で
 1964年に彼は The Survivors と名乗り Brian Wilson の
 プロデュースでシングル1枚をリリースした。
 因みにCapitol Records に The Beach Boys や Nat King Cole 等
 のマスターリングをした同名のエンジニアーがいるが、それはこの
 Bob Norberg ではない。こちら Bob and Sheri の
 Bob Norberg は
後に TWA のパイロットになっている。
 
 このブライアンが家を出るという単独行動はマリーには知らされていなかった。
 後日ゲイリーからブライアンの引越しを知ったマリーは激怒した。
 マリーはブライアンの独立心を認めてやれるほど優しい父親ではなかった。
 立場上、家族外者のゲイリーがブライアンの引越しをマリーに告げたのだが
 マリーの持つパラノイアは怒りへと変わり、ゲイリーは睨みつけられた。
 
 マリーとゲイリーの仲を悪化させた決定的な事件があった。
 有名な Myna Bird Story だ。ある日ゲイリーと The Beach Boys は
 マリーに悪戯してやろうと企て、鳥の鳴き声を編集したテープを作った。
 マリーの寝室はストリートに面した側にあり、ベッドは窓の右横だった。
 彼らはゲイリーの白い Chevy に乗り込み車をゆっくりと走らせた。
 そしてマリーのベッドに近い窓の下にテープレコーダーを置いて突然大音量で
 鳥の鳴き声のテープを再生した。すぐさま車に隠れて彼らは笑いを堪えていた。
 突然のバードコールで飛び起きるマリー、咄嗟に窓から叫び声をあげたマリーは
 「誰だそこにいるのは!ブライアンか?誰かそこにいるのは解ってるんだぞ!」
 と町中に響き渡るような大声で怒鳴った。それを見て彼らは小便を漏らしそうに
 なる程に笑った。特にその中でゲイリーの笑い声がマリーの耳に届いてしまった
 為に「アッシャー!お前だな!お前が見えないけど、はっきりと聴こえるぞ!
 お前が仕掛けたんだな!」と発狂した。この事件があって以来、ゲイリーは
 ウィルソンファミリーの家には入れてもらえなくなったと言う。

Dennis Wilson
また暴君マリーの怒りを
生み出し続けていたデニスも
家を追い出された。
困惑した当時17歳のデニスは
帰る家もなく、その夜は友人の
車の中で寝た。可哀想に
感じたゲイリーはデニスの相談
にのって慰めた。デニスは
ゲイリーに「もしお父さんの
怒りが治まったら家に戻れる
かもしれない」と打ち明け、
そしてゲイリーはデニスの
ために部屋を貸した。
 
 その後1962年10月に The Beach Boys は初のアルバム Surfin' Safari
 (Capitol T-1808 / DT-1808)をリリースした。このアルバムには
 Brian Wilson と Mike Love の共作曲や Eddie Cochran のカヴァー
 "Summertime Blues" 等も収録されたがその中心と
 なっていたものはブライアンとゲイリー
 の共作曲で、全12曲中、6曲までが
 ブライアンとゲイリーの共作曲で占め
 られていた。演奏能力に問題があった
 為にプロのセッションミュージシャンが
 参加しているが、このファースト
 アルバムはチャートの32位まで昇り、
 新人グループのデビューアルバムと
 しては大成功を収めた。リリースされた
 当時、ブライアンとデニスは出来立て
 の数枚を持ってゲイリーのアパートに
 やって来て彼らは一緒になって
 喜んだ。ゲイリーとブライアンは

 
 プロダクションが如何なるものかを強く意識しはじめていた。
 事実ブライアンは自宅で曲を書いている時が一番居心地が良く、またゲイリーは
 スタジオでセッションミュージシャンと録音している時が最も心地よかった。
 それらがパッケージされ商品となるまでに何をすべきかに気付いたのだ。
 この二人の願望はロックスターになる事ではなく、クリエイターになる事なのだ。
 
 Capitol Records は11月にグループのセカンドシングルとしてアルバムから
 "Ten Little Indians" と "County Fair" をシングルカットしている。
 A面はアメリカ民謡をブライアンがアレンジしたものだが両面 Wilson-Usher と
 クレジットされている。ブライアンのアレンジ能力はすでにこの頃から目をみはる
 ものがあるが、このシングルはチャートでは49位までしか上がらなかった。
 新人グループのセカンドシングルとしてはそんなに悪い成績ではないが
 その後の The Beach Boys の成功を考えるとこのシングルカットは Capitol の
 勇み足的失敗だったと考える研究家達もいるようだ。当時 Capitol は
 The Lettermen を獲得しており Nick Venet はゲイリーに対し「The Lettermen
 以外にヴォーカルグループが必要か?」と大見得をきっていた。そんな Capitol も
 まさか The Beach Boys がその後に大成功するとはこの時点では思っていなかった
 ので「売れるうちに売ってしまおう」と考えていた。しかもサーフィンという
 新しいテーマで売った新人グループのセカンドシングルに
 テーマを持続させない曲を持ってきた事が興味深い。NIick Venet や Capitol
 もこのサーフィンというテーマが一過性の流行で持続力は無いのではないかと
 考えていたようで The Beach Boys のプロモーションに対しても模索中だったと
 いう事だろう。しかしB面に後に名作 "I Do" として甦る"County Fair" が
 配されているのは注目に値する。ブライアンは確実にソングライターとして
 成長していたのだ。ブライアンとゲイリーはパートナーシップを保ち、互いに成長
 していった。しかしそれを快く思わない者もいた。絶対権力主義者であり
 ブライアンの父親 Murry Wilson である。ソングライターの経験もあるマリーは
 ゲイリーのことを「いい加減で、だらしのない男」としか見ておらず、
 息子のブライアンとゲイリーが共同作業をしているのを見て常に苦々しく
 思っていた。また自分の言うことを聴かない悪ガキの Dennis Wilson が
 ゲイリーになついているのを見て激怒した。カークレイジーだったデニスは
 ゲイリーから車の事を教わっていたのだ。トラブルメイカーのデニスは
 いつもゲイリーに「車を運転させて」と嘆願していた。
 ゲイリーはまだ未熟だった The Beach Boys にギターを教えたりもしていた為に
 ファミリーに外部者を認めていないマリーのパラノイアは日増しに大きくなった。
 マリーはこのままブライアンとゲイリーが共に仕事をすれば、ブライアンまで
 ダメになってしまうと考え、二人を切り離すために、何かにつけてゲイリーに
 難癖をつけた。マリーの持つパラノイアは事あるごとに癇癪となりゲイリーは
 当然のようにこれに反発。しかし当時グループのマネージャーとして絶対的な
 権力を持っていたマリーにブライアンは逆らう事は出来ず結局2人の
 パートナーシップはマリーの思惑通りに解消された。
 
 この時期までに Gary Usher - Brian Wilson の共作で未発表となった
 曲は多数存在する。
 Root Beer (Chug-A-Lug の別ヴァージョン)
 Coo Coo Clock (Cuckoo Clock の初期ヴァージョン)
 Dans Tes Yeux (フランス語:あなたの目)
 Lori
 Luona Sun
 So Long
 Muj Dum (Gary Usher-Brian Wilson-Jiri Soukup)
 等が確認されているが The Beach Boys の為に書かれた曲と、
 それに相応しくない曲が二人の手によって書かれた。
 特に "Muj Dum" の共作者である Jiri Soukup は理学博士であり
 ブライアンとゲイリーのオカルト好きから発生した曲と思われる。
 この後も二人の友情は続き、ブライアンはゲイリーのプロジェクトに
 しばしば力を貸している。
  
 さて、Brian Wilson は Gary Usher と別れてから暫くの間、
 地元カリフォルニアのラジオ局 KFWB のDJであるRoger Christian と
 組んで自らのグループを率いて活躍していくのであった。ロジャーが所属
 していたラジオ局 KFWB は当時から Surfin' & Hot Rod Music を
 好んでオンエアーしており、このラジオ局がプッシュする曲は
 南カリフォルニアのユースカルチャーシーンに多大な影響力を持っていた。
 しかし Roger Christian との付き合いはゲイリーの方がずっと古く、
 Brian Wilson に Roger Christian を紹介したのは Gary Usher だった。
 彼は本名を Roger Val Christian と言う。ゲイリーとロジャーの出会いは
 ゲイリーがまだ Titan Records のアーティストだった時代まで遡る。

 Roger Christian
ゲイリーは後に The Honeys の
メンバーになる Ginger Blake
と共にカリフォルニアの
San Bernadido で行われた
タレントショーに出演した。
当時ジンジャーもまたタイタン
所属のシンガーだった。彼女は
ゲイリーのソロシングルの次番号
で Dry Tears / Spare Time
をリリースしていた。このショー
の司会が Roger Christian
だった関係で、二人の交際は
この時から始まった。
 New York の Buffalo 生まれの Roger Christian は1959年に
 カリフォルニアに移住してきてDJを務めていた。ロジャーはホットロッドソング
 の歌詞を書くにあたって自動車整備士が持つ修理マニュアルの本からも
 フックとなる部分を引用した。また彼は Lyrons Drag Strip 等の
 カーレース場のスタッフとしても活動し、場内アナウンスをしながら作詞の
 アイディアを集めていた。この San Bernadido ではよく County Fair と
 呼ばれる郡のお祭りが行われていたらしく後に The Beach Boys
 も同地で行われていたショーに出演していた。ブライアンは自分にとって
 このショーがとても楽しいショーだったことからゲイリーと共に "County Fair"
 と言う曲を作ったという。この曲 "County Fair" はその後 Roger Christian
 の書いた詩に入れ替え、力強いバッキングを施し "I Do" という名曲に
 生まれ変わる。その際 1960年のヒット曲 Maurice Williams & the Zodiacs
 の Stay のブリッジに影響を受けているのがアレンジからも伺える。
 ブリッジのトップ(所謂大サビ。曲の構成で最も目立たすパート)で、
 ” Oh, won't you stay” の部分を I Do では
 “And that's I do” “You'll say, I do” “Oh Yes I Do” と
 三段階に分けて歌詞の意味を成長させている。

The Castells

 Roger Christian は作詞家として Surfin' / Hot Rod Music シーンに多くの
 作品を提供している。The Beach Boys - Don't Worry Baby,
 Jan & Dean - Dead Man's Curve, The Castells - I Do,
 Rally-Packs - Move Out Little Mustang, Paul Petersen - She Rides with Me,
 Dick Dale - Secret Surfin' Spot etc etc
 変わったとこでは Roy Orbison - So Young もある。

 

Roger "Hot Rod Rog" Christian
 
 Roger Christian はニューヨーク州バッファローで生まれた。
 彼はニューヨークのロチェスターのWSAY でラジオのキャリアを始め、
 後にバッファローでマイク・メロディー (Mike Melody) という
 芸名で働いた。ライフガードもしていた彼はラジオ局の幹部だった
 彼の奥さんが1950年代半ばに湖で溺れかけたのを助けた後にニューヨーク
 での仕事を辞めて、1959年にカリフォルニアに来て、 San Bernadido
 のラジオ局で働き始めた。彼自身が1955年まではカーレースをしていたために
 ホットロッドレースに強い関心を持ち "Poet of the Strip" (レース場の詩人)
 として知られるようになった。 The Beach Boys の父親でありプロデューサー
 である Murry Wilson は Roger Christian がグループのヒット曲
 "409" を放送中のリスナーに説明しているのを聞いて驚いた。
 Roger Christian はレースカーについて多くのことを知っていたため、
 Murry Wilson は Roger Christian に会いたがった。

Brian Wilson and Roger Christian
Capitol Records は The Beach Boys
の人気は短命だと考えており
彼らにシングルヒットを量産
するようにプレッシャーを
かけていた。その為に人気地域を
海岸部と限定してしまう
サーフィンテーマよりも内陸部で
売り上げが望めるホットロッド
ソングのリリースを望みだした。
 
 さて、これより少し後の話になるがゲイリーはブライアンにロジャー以外の重要な
 人物を紹介している。それは Ginger Blake とその従姉妹の
 Marilyn Rovell と Diane Rovell の姉妹だ。
 ある日、ゲイリーは Ginger Blake を電話で誘い出しハリウッドの
 コーヒーショップ Pandora's Box に出かけた。この店はライブステージがあり
 そこには幾つかのゲイリーの友人達も集まっていた。そこでジンジャーは初めて
 パフォーマンスをした後の The Beach Boys と出会う。
 このファミリーグループである The Beach Boys は、その後ジンジャーの従姉妹の
 Marilyn Rovell & Diane Rovell と行動を共にしていく。

Ginger And The Snaps (AKA The Honeys) 日本盤
ブライアンはもう一つの
ファミリーグループを自分達と
一緒に歌わせようとし彼女達を
The Honeys と名付けた。
元々サーファーの使う言葉の
Honeys (サーファーボーイの
彼女達)はその後ブライアンの
助けを得て Capitol から
レコードデビューをを果たしたが
Brian Wilson と Marilyn Rovell
が1964年に結婚したのは
皆さんも御存知の通りである。
 

The Honeys (Marilyn Rovell, Diane Rovell, Ginger Blake)
 
 ある日 Nick Venet がゲイリーに尋ねた「ゲイリー、今年はいったい幾ら
 稼いだんだい?」 ゲイリーは「たぶん$6,000 ぐらいだと思う」
 Nick は笑って続けた「来年は $15,000 から $20,000 は稼げるよ。
 翌年には $30,000 から $40,000、さらに翌年は $50,000 から
 $100,000 は稼ぐだろうな」
 ゲイリーは「Nick、からかってるのか?」と聴きかえした。
 Nick は「からかってない。君は才能を
 開花させたんだ。そしてやるべき事に
 気付いたんだよ」Capitol Records に
 おいて西海岸のロックンロール支配人
 だった Nick Venet はユースカルチャー
 をどのように表現すれば金になるのか
 知っていた。その為に必要な素材、
 ミュージシャン、楽曲、レコーディング等を
 どのようなパッケージにすれば良いのか
 ゲイリーも解り始めていた。

      Nick Venet
 
 今も California Gold と呼ばれる永遠の夏をテーマとした音楽スタイルは
 Gary Usher や Roger Christian, The Beach Boys らの書く歌詞に
 よって表現されたものを起源とする。これまで Surf Music とは
 Dick Dale を筆頭にエレキギターのインストミュージシャンの代名詞
 だったが、 The Beach Boys の出現により、それらライフスタイルの描写が
 歌詞によって行われはじめた。これはアメリカンロックンロールの中の
 テーマミュージックが西海岸の若者達によって開花していく瞬間でもあった。
 職業作家が圧倒的に多かった東海岸ではこの時期に Cameo Parkway
 を中心に Twist らのダンスブームが発生しメジャーレーベルもこの
 ムーヴメントに便乗し多数のダンスミュージックを手掛ける。
 この時点では音楽産業の中心はニューヨークであり、カリフォルニアは無数の
 ローカルレコード会社が存在するものの、音楽産業の中心ではなかった。
 しかし徐々にではあるが Beach Movie 等によって全米にカリフォルニアの
 ライフスタイルが紹介されていく。
 これらの序曲があって California Gold という音楽スタイルは1963年に
 産声をあげる。これは同地のライフスタイルが金になるとメディアが紹介し、
 トレンドの発信がカリフォルニアからされ始めた事が大きい。
 
 この頃、Nick Venet はゲイリーに「映画音楽の製作に興味ないかい?」と
 打診してきた。ゲイリーは「もちろん興味あるよ!」と喜んで答えている。
 その後 Nick Venet はゲイリーに American International Pictures の
 Al Simms を紹介している。Nick Venet
 と Al Simms は1959年公開の
 映画 "Ghost Of Dragstrip Hollow"
 にインスト曲を挿入した時からの
 付き合いで彼はプロデュースを担当した。
 この映画はモンスターコメディーの
 カルトムーヴィーで、映画でも使用された
 インスト曲は The Renegades 名義で
 シングルカットされている。このグループは
 俳優志望だった若き Kim Fowley,
 Bruce Johnston, Sandy Nelson の
 3人を母体とし Nick Venet と
 Richard Podolor が参加している。
 これは Bruce Johnston の
 初期ワークスとしても知られる。
 その一連の音楽作業を The Renegades が
 行っていたのだが、この時点ではまだ
 ゲイリーとの接点はなかった。
 Nick Venet は Al Simms に
 「The Beach Boys と作業している男で
 次回の Beach Movie にうってつけの
 男がいる」と紹介した。

 数時間後にゲイリーはサーファー風のパンツ White Levis といったラフな
 スタイルにギターを抱えて表れた。これはゲイリーのイメージ戦略でもあった。
 そこでゲイリーはイメージしていた曲をプレイして Al Simms に数曲聴かせた。
 Al Simms が描いていた Beach Movie 路線のアイディアはゲイリーの考えて
 いたヴィジョンと合致したのは言うまでもない。この映画製作会社は当時メジャー
 よりも先に Beach Movie を手掛けており、これらの需要の先端を担っていた。
 これに続いてメジャー映画会社も若者をターゲットにした Beach Movie を
 製作していった。Al Simms はゲイリーと契約し映画上でのスクリーンクレジット
 も入れる事を約束した。1962年12月中旬のミーティングで「どの場面で
 どんな曲が何曲必要か」と議論になった時にAl Simms は「それは全てゲイリー
 にまかせる」と伝えた。この映画 "Beach Party" は Annette と Frankie Avalon
 の二人を主演に1963年8月に公開される。
 まさに Gary Usher は西海岸産の映画音楽への進出をもって
 カリフォルニアのイメージーリーダーへと歩んでいく。

 
 1962年11月にゲイリーは The Tri-Five の
 Come And Get It / Like Chop
 (Damark 2400) のシングルの製作に
 携わっている。
 このレーベルは London Records を
 配給元としており後に The Ventures の
 プロデューサーとしても有名になる
 Joe Saraceno が所有していた。
 彼は The Beach Boys の名付け親としても
 有名で当時は Candix Records の
 社員だった。このレーベルは恐らく税金
 対策用のレーベルだったのだろう。
 レーベル名は彼の二人の息子 Dana と
 Mark から名づけられたと言われている。

  Joe Saraceno

 これは両面ともに Gary Usher-Mike Borchetta の共作だ。
 Mike Borchetta はゲイリーの初期のパートナーで、他にも
 The Four Speeds のシングルでゲイリーと共作している。
 このシングルによる取引は Mike Borchetta が行ったもので
 誰もがシングルをリリースしたかったこの時期にフリーランスA&R マンとして
 実績のあった Mike Borchetta がその人脈から契約をとってきたシングルだ。
 A&R とはArtist & Repertoire の略でArtist を何処にどのように置けば最適か
 アレンジする職務をいう。即ち A&R とは人脈の幅広さに左右され、
 ミュージシャンのサクセスに関わる重要な仕事である。
 Mike Borchetta は非常にアグレッシヴな人物で、ゲイリーは彼の事を
 「ハイスピードイタリアン」と呼んでいた。有能なプロモーションマンだったが
 録音に際しての手順を知らなかった Mike Borchetta はゲイリーや
 Dick Burns らを頼らざるを得なかった。リーダーシップをとりたがり、
 いつも時間に追われ機敏な行動をしていた Mike Borchetta は
 ゲイリーに依頼してセッションを集めたと言う。
 このシングルは両面共にオルガンやピアノをフューチャーした
 アップテンポのインストだが、印象深い作品とは言い難い。
 参加メンバーは Gary Usher, Dick Burns, Carl Wilson, Dennis Wilson,
 Randy Thomas と言われている。キーボードは Randy Thomas が担当し

Randy Thomas
リズムギターをゲイリーが、
ベースギターを Dick Burns
が担当した。当時ゲイリーと
同居していた Dennis Wilson
がドラムを担当。リードギターは
Carl Wilson が担当しており
ガレージでリハーサルを行った
という急造セッションだった。

Carl Wilson は録音前に
The Belairs のヒット曲
"Mr. Moto" をみんなの前で
プレイして見せた。
 
 因みに以前 Al Jardine が The Beach Boys を一時期脱退する時に
 穴埋めとして The Beach Boys は The Belairs の Paul Johnson に
 代役を打診しているが Paul はそれを断っている。
 "Come And Get It" The Beach Boys のLP Surfer Girl
 に収録されている "Boogie Woodie" や "The Rocking Surfer"
 に酷似している。と言うより全く同じ曲であると言って
 も差し支えないほどである。
 この辺を考えるとやはり The Tri-Five のレコーディングには
 何らかの形で Brian Wilson も絡んでいる可能性が大きい。
 ブライアンは The Beach Boys の "The Rocking Surfer"に
 Gary Usher-Mike Borchetta のクレジットを書き忘れたと
 言われている。この曲は古いアイスクリーム売りの
 車から流れていたメロディーを引用したと言われ
 The Beach Boys の "The Rocking Surfer" には
 元々 "Good Humor Man" という原題が付けられていた。
 ブライアンはこの曲がトラッドソングなので
 "Come And Get It" をアレンジしたものであっても
 ゲイリーらのクレジットをする必要はないと考えていたようだ。
 ゲイリー自身も「もし私が同じ立場でアルバムを作っていたら、
 私もブライアンと同じようにトラッドソングとしてクレジットした
 だろう」と語っている。この The Tri-Five の録音は
 The Four Speeds の "R.P.M." のセッション中に行われていた。
 この曲のB面の "Like Chop" は1961年の3月27日にピークで
 全米38位になった Paul Revere & The Raiders のファーストヒットの
 "Like, Long Hair" をモチーフにしてタイトルに "Like" を用い、
 B.Bumble & The Stingers が1962年にチャイコフスキーの
 "The Nutcracker"を改作してヒットさせた "Nut Rocker" を
 真似てトラッドソングの "Chopstick" を題材にしたものだと
 言われている。有能なプロモーションマンだった Mike Borchetta が
 Joe Saraceno の所有する London Records 配下のレーベルで
 製作させたこのシングルだが、実はリリースには至っていない。
 しかし翌年1963年の夏にはケンタッキーの Paducah 辺りでは
 地元放送局の W.K.Y.B. によってこの The Tri-Five と
 The Four Speeds の "R.P.M." は数回ラジオでオンエアーされた。
 これも Mike Borchetta の功績と言って良いだろう。
 
 この頃 Murry Wilson の思惑でブライアンとのコンビを解消させられた
 ゲイリーはこんな事を考えるようになっていた「西海岸のあらゆるレコードで
 素晴らしい演奏を聴かせている優秀なスタジオミュージシャン達を集め、
 それに自分が手を加えれば決して The Beach Boys にも負けないレコードを
 作ることが出来るだろう」これは後に実現される事になるが、
 まだ少し先のことだ。ブライアンから離れたゲイリーは1963年の2月に
 The Sunsets 名義の C.C.Cinder / The Chug-A-Lug
 (Challenge 9186) をリリースした。

 JANUARY 1963 WESTERN RECORDERS
 Producer-Arranger Gary Usher
 Gary Usher - Rhythm Guitar, Back Vocal
 Dick Burns - Bass, Lead Vocal
 Randy Thomas - Drums, Key Board, Back Vocal
 
 セッションは1962年12月からスタートしており、両面とも
 アップテンポの軽快なナンバーでコーラス入りのサーフスタイル
 ポップといった感じ。因みにグループ名は Dick Burns が命名しており
 リードヴォーカルも彼が担当している。
 
 A面は Bob Feldman- Jerry Goldstein,-Richard Gottehrer. の
 書いた曲で、このニューヨークのソングライター&プロデューサーグループは
 その後ガールグループ The Angels "My Boyfriend's Back"で全米1位を
 獲得する他、自らも Bang Records を設立し The Strangeloves としても
 ヒット曲を量産する。通称 Bassett Hand と呼称していたこの3人組は

Bassett Hand
Bob Feldman, Jerry Goldstein, Richard Gottehrer
流行歌としていち早くから
Surfin' & Hot Rod 曲に
着手していて、その後も
The Angels の変名である
The Powder Puffs 他の架空の
ガールグループや変名バンド
を用いてサーフィンソングを
リリースさせた。

 この "C.C.Cinder" は当初彼らが The Beach Boys に歌わせたくオファーした曲
 と言われている。この曲を聴いた Nick Venet はヒットすると判断した。
 この曲は1962年12月29日にピークで全米25位となった Pastel Six の
 "The Cinnamon Cinder (It's A Very Nice Dance)" に対する
 カウンターソングのような曲だった。
 Nick は "Ten Little Indians" の次の The Beach Boys のシングル用にと
 すぐさま Brian Wilson に打診した。
 曲を聴いたブライアンはこれを頑なに拒否してレコーディングを断った。
 Nick Venet はヒットの確信を持ってゲイリーに打診した。
 Nick Venet はゲイリーが Mike Borchetta と共作を始めた事に
 気付いていたが、東海岸のプロダクションが西海岸にアプローチ
 してきた事に興味を持ったゲイリーは仕方なくレコーディングを
 受諾した。B面は Mike Borchetta との共作で Root Beer を
 題材にした曲。派手なサックスブレイクを導入させるなど、ゲイリーと
 Brian Wilson が共作した同名曲とは全く異なる作風されたが、
 Gary Usher と Brian Wilson が設立した Number One Publishing
 が音楽出版社としてクレジットされている。この時点でゲイリーはまだ
 Four Star Music と楽曲管理の契約は行っていない。
 このB面のセッションは$200の費用で
 15分間の録音で終了している。
 共作者で共同プロデュースをした
 Mike Borchetta は大の Beach Boys Fan
 で The Beach Boys のプロモーション活動
 のために Capitol Records に出入り
 していた男だ。自らが The Beach Boys
 に近づくために Capitol に出入りして
 いた程だ。レコードプロモーションが
 得意な Mike Borchetta は Capitol
 Records 本社でゲイリーと知り合った。
 意気投合したゲイリーはすぐさま彼に
 セッションを見せた。Mike Borchetta
 はハンサムガイでその名のとおり
 イタリア系で、Brian Wilson 同様に
 初期のゲイリーのソングライティング
 パートナーとして活躍したが、
 とてもビジネスライクな人物としても知られ
 後年 Mike Curb が Curb Records を
 設立した際には共同出資者としても名を
 連ね、後に Nashville のカントリー
 レーベル Lofton Creek Records
 のオーナーになっている。
 

    Mike Borchetta
 
 話を戻してThe Sunsets だがここでは Dick Burns がリードヴォーカル
 を務め、当初予定されていた Wayne Edwards のリズム感に難がある為に
 Randy Thomas がドラムとオルガンを担当した。
 この曲が好きになれなかったゲイリーはすぐさま次回作へと行動を移し
 Western Recorders Studio に戻って行った。
 
 これに続き発表されたのは The Four Speeds 名義の R.P.M. / My Sting Ray
 (Challenge 9187) だった。このシングルは1963年の3月にリリースされて
 いるが、資料によると1962年の12月にレコーディングセッションが行われてる。  
 当時ゲイリーは Dennis McCarthy を連れて Tijuana (ティファナ)に小旅行に
 出かけた。その時に書いたのが "R.P.M."だ。
 このシングルと The Four Speeds のセカンドシングル共に Mike Borchetta
 が共作者で共同プロデュースとなっているが、実際には"R.P.M."の
 多くはゲイリーが単独で書いており、楽曲の管理は両面とも
 Number One Publishing となっている。
 その為か Mike Borchetta はセッション費用を払うことで
 The Four Speeds の共作者&共同プロデューサーとなったと言われてる。
 元々Mike Borchetta は Challenge Records のオーナーの一人 Joe Johnson
 や株主で The Champs のメンバー Dave Burgess、
 楽曲管理の Four Star Music とは旧知の間柄だったし、マスターテープを
 Challenge Records に売り込んだのも彼だった。Challenge Records は
 その配下として Four Star Music という楽曲管理会社を持っており
 1962年12月にゲイリーはレコードアーティストとして契約し
 1963年4月にはソングライターとして Four Star Music と契約をしている。
 恐らくビジネスライクな Mike Borchetta はセッション費用の肩代わりの
 代償としてロイヤリティーの半分を得る為に共作者としてのクレジットを
 取引したのだろう。そういった裏事情は1枚のシングルがリリース
 されるまでには良くある事だ。そこに互いの思惑があったにせよ、
 ゲイリーの自信作である The Four Speeds 名義の一連の
 ホットロッドチューンはドライヴ感を携えた素晴らしいロックンロールだ。
 "R.P.M."で収録されたホットロッドの爆音は San Fernando Drag Strip
 の短距離コースで録音されたテープをゲイリーが編集したものだ。
 これは以前ゲイリーが The Beach Boys の "409" で体験した
 録音方法をさらに進歩させたものでゲイリーはこの曲を"409"に
 類似させさらに進化させた事に満足していた。初期ゲイリー作品によくある
 間奏部でのキーボードの反復メロディーはゲイリーも Richard Burns も
 共にリズムギターを担当していたことからリードギターパートをオルガンで
 という産物だった。結果的にそれが効して疾走感溢れるヴォーカルが
 際立ちこれら満足の高いレコーディングによってゲイリーは Beach Boys
 との対抗意識を表した。この時に集められたメンバーは
 Gary Usher (Lead Vocal), Dennis McCarthy (Keyboard),
 Richard Burns (Guitar) を中心に構成された。
 The Sunsets と The Four Speeds はリリースナンバーが連番なので
 ほとんど同じメンバーによってレコーディングされたものと推測
 されていたが、ゲイリーは根本的なリズムセクションを代えて
 レコーディングに臨んでいる。
 ゲイリーはカーソングを The Four Speeds で、サーフィン他の
 ユースカルチャーは The Sunsets でとプロジェクト化していた。
 そうする事によってヒットの可能性を2局面から見出そうとしていたという。
 先ず The Four Speeds のセッションには Wayne Edwards に代え、
 当時ゲイリーの家に同居させていた Dennis Wilson をドラムスで
 参加させ、"My Sting Ray"では Brian Wilson と Mike Borchetta も
 バックコーラスで参加させている。(因みに My Sting Ray はゲイリー
 がデニスの為に書いた曲)
 Bass には Frank Fayad (後に Arthur Lee 率いる Love に参加する)を
 Dick Burns のバンド The Indigos から参加させた。
 ブライアンは当時から自分の声が大きくフューチャーされ、それが元で
 父親 Murry Wilson とトラブルが起こる事に神経質になっていた。
 それを理解しているゲイリーもまたマリーとトラブルになるのを避けるために
 ブライアンの声が目立たないように神経質になっていた。
 このセッションではリリースされた2曲の他に Mike Borchetta と
 書いた "Barefoot Adventure" もレコーディングされたが、
 これはお蔵入りとなった。
 R.P.M. / My Sting Ray の2曲は共にヴォーカル入りのアップテンポの
 ホットロッドナンバーで、63年初頭のリリースを考えれば驚くほどの
 出来の良さである。
 
 JANUARY 1963 WESTERN RECORDERS
 R.P.M. / My Sting Ray / Barefoot Adventure
 Producer-Arranger Gary Usher
 Gary Usher - Rhythm Guitar, Lead Vocal
 Dick Burns - Bass, Back Vocal
 Dennis McCarthy - Key Board, Back Vocal
 Dennis Wilson - Drums
 Frank Fayad - Bass
 Mike Borchetta - Back Vocal
 Brian Wilson - Back Vocal
 
 この The Four Speeds はゲイリーも含めた4人で写っているプロモーション
 写真が残されておりカリフォルニアではローカルヒットとなり実際にショーで
 出演して演奏していた。この"R.P.M." は San Fernando から火がつき、
 一気に Los Angeles や Orange County のラジオ局までオンエアー
 プレイを始めた。もちろん友人の Roger Christian は毎晩この曲を
 プレイしていた。またこのローカルヒットという意味においては
 Mike Borchetta のプロモーションの功績も大きい。
 そしてゲイリーはここで「愛車賛歌」というホットロッドミュージック
 シーンの一つのスタイルを確立させたのだ。
 過去カントリーブルーズや R&R やロカビリーシーンにおいて改造車を
 題材にした曲は確かに存在した。それらの多くは富の象徴として
 キャデラック等を題材にしたり、またそれを皮肉った歌だった。または
 ローカルカーレースの風景描写をした曲や反抗のイメージとして警察との
 対立を描いたものだった。ティーンのライフスタイルとしてホットロッドを歌い
 若いリスナーの共有意識を持ちかけたイディオムとしてのロックンロール
 はまだ開拓されていなかった。ゲイリーが書いた"409" や "R.P.M."は
 これに続くホットロッドテーマミュージックの新たな扉を開いたのだ。

The Four Speeds 左から Gary Usher, Dennis McCarthy
Les Weiser, Dick Burns そして Mashak Motors の Mr.Mashak

左から Dick Burns
Gary Usher
Les Weiser
Dennis McCarthy
彼らは通称 The Troops と
名乗りその後 Annette らの
映画 "Beach Party" でも
バッキングを担当した。

推測するとゲイリーは当初、
このグループで The Beach Boys
のような活動をしたいと思った
のではないだろうか?
The Four Speeds の1stシングル
はロスのローカルチャートの
トップ10に入ったが全米ヒット
とまではいかなかった。
 彼らは The Sunsets として、または The Four Speeds としてステージに
 上る時は基本的にこの4人で編成していた。彼らは要求される
 スタイルに応じて二つのステージバンドをこなしていたのだ。
 Los Angeles 近郊の東部 Alhambra に The Savoy というクラブがあった。
 彼らはそこにブッキングされステージライブを行った。そこのハウスバンドで
 あった The Savoys と共演した時だ、Les Weiser が Sax Solo を派手に
 プレイしている最中にバランスを失って倒れこみ、隣にいたゲイリーもデッキ
 に足をひっかけ Dennis McCarthy ともどもステージに倒れた。
 みんなは爆笑だった。しかし Les Weiser は演奏を中断させず
 熱いプレイを続行したという。
 

 Capitol Records のA&R 部門の幹部の
 Karl Engemann は Len Barker
 から「テレビのゲーム番組のホストを
 探している」と依頼を受けた。
 主催者側は「The Lettermen がいい」
 と要求してきたがスケジュールの
 都合で、他のグループを探す事に
 なったらしい。Karl Engemann は
 The Lettermen のメンバー
 Bob Engemann の兄で The Lettermen
 のスケジュールも管理していた。
 そこに居合わせたゲイリーに
 Karl Engemann が「やってみるか?」
 と打診した。

   Karl Engemann
 ゲイリーは「The Four Speeds としては出演できないけど The Sunsets
 としてなら出演できる」と答えた。その契約は1人につき
 $100 のギャラだった。ゲイリーが主催者に電話をしたところ
 「君達は Capitol Records の契約下にいるのか?」と訊ねられ、
 ゲイリーは躊躇しながらも「はい、そうです」と答えた。
 聴けば主催者側はホスト役に古いタイプのヴォーカルナンバーを
 歌ってほしいと依頼してきた。すぐさまゲイリーは Richard Burns に電話で
 テレビ出演を伝え、古いヴォーカルナンバーの練習に入った。
 因みに Karl Engemann は後1966年に Brian Wilson からアルバム
 Smile の製作準備や詳細を聴かされた。彼はそのプロジェクトを許可して
 Capitol Records にこの計画を議題上で通達した人物としても知られる。
 

The Sunsets としてテレビ出演した1963年
左から Dennis McCarthy, Gary Usher,
Richard (Dick) Burns, Les Weiser
 
 The Beach Boys, The Honeys,
 The Four Speeds が共演した
 Santa Maria のライブポスター

 その後ゲイリーはマルチな才能
 を発揮し様々なレーベルに様々
 なレコードを残すことになるが、
 もしこの The Four Speeds が
 The Beach Boys のようなメジャー
 な人気を得ていたとしたらその後
 のホットロッドミュージック
 シーンもかなり変わっていたと
 思われる。
 ゲイリーがホットロッド
 ミュージックシーンに与えた
 影響はとても大きなものだった。
 またゲイリーのこのヴィジョンが
 西海岸の多くの若者達に一つ
 の指針を提示していった。
 
 ゲイリーは The Four Speeds の
 ツアー中にその後ゲイリーの多くの
 セッションでリードヴォーカルを務める
 The Castells のヴォーカリスト
 Chuck Girard に出会う。
 Sock Hop Circuit と呼ばれる
 ロックンロールパーティー形式の
 ツアーで出会った二人だがゲイリーは
 「俺がやってる多くのセッションに
 興味あるかい?」とチャックに尋ねた。
 Chuck Girard は既に The Castells のリード
 シンガーとして活動していた為に契約
 違反になる事を恐れていたが、
 金額面で合意に達し、その後ゲイリー
 のセッションに参加していくことになる。
 Chuck Girard は適応能力の高いシンガーで
 ゲイリーの数多くの覆面グループ、
 また The Hondells でもリードヴォーカル
 を務めた。

    Chuck Girard
  
 同じ3月にやはり Challenge Records から1枚のシングルをリリースした。
 Rochell & the Candles - Annie's Not An Orphan Anymore /
 Let's Run Away And Get Married (Challenge 9191) 
 B面は Gary Usher と Mike Borchetta のクレジットだが実際には
 Dave Burgess との共作品。これはおよそゲイリーの作品らしくない
 スタイルである。このグループはロスの R&B Vocal Group で
 Rochell Henderson, Johnny Wyatt, T.C. Henderson, Mel Sasso の
 4人で形成されていた。リーダーの Rochell Henderson は Lou Rawls
 が在籍していた The Chosen Gospel Singers のメンバーだった。
 リードシンガーの Johnny Wyattは Bob Keene のBronco Records
 から後年ソロデビューをするロスの人気シンガーだった。
 このシングルの録音には Dick Campbell がギターで参加
 している他、バッキングは The Champs が担当しているようだ。
 このレコードのレーベルにはクレジットが二種類あり、
 一つにはゲイリーの名がソングライターとしてクレジット
 されてるもの、もう一つのほうは同レーベルの The Champs の
 Dave Burgess だけがクレジットされている。

Dave Burgess

   Rochell & the Candles
 

Dave Burgess-Gary Usher

    Dave Burgess Credit
 
 4月には The Sunsets のセカンドシングル Playmate Of The Year /
 Lonely Surfer Boy (Challenge 9198) がリリースされている。

 このA面はゲイリー作の軽快なアップテンポナンバーで
 リードは Richard Burns がとっている。B面はリパブリック賛歌を
 アレンジしたもので Usher-Christian-Borchetta の共作クレジットと
 なっている。録音は Western Recorders で行われており録音は3月に
 完成させられた。
 MARCH 1963 WESTERN RECORDERS
 Producer-Arranger Gary Usher
 Gary Usher - Rhythm Guitar, Back Vocal, Lead Vocal on "Lonely Surfer Boy"
 Dick Burns - Drums, Back Vocal, Lead Vocal on "Playmate Of The Year"
 Dennis McCarthy - Key Board, Back Vocal
 Les Weiser - Sax, Back Vocal
 
5月には The Beach Boys の
2nd アルバム Surfin' USA
(Capitol T-1890 / ST-1890)
がリリースされたた。
このアルバムではゲイリーと
ブライアンの最初の共作である
"Lonely Sea" を収録している。
 
 同5月には The Champs - Cactus Juice / Roots (Challenge 9199)

 がリリースされた。A面はゲイリーが以前書いていたインスト曲だが、

The Champs
The Champs のイメージに
沿ったラテン風のアレンジが
施されている。
これは陽気なダンスインスト
ナンバーでラララコーラスを
導入させている。音楽出版
クレジットは 4 Star Music
 
 この時期のゲイリーの曲の管理は Capitol Records が Beechwood Music,
 Challenge Records が Four Star Music, そして下記の Chancellor Recordsが
 Dijon Music, 単独またはブライアンとの共作は Number One とされている。
 
また同じ5月にFrankie Avalon
がゲイリーの曲 Beach Party
(Chancellor 1139) をリリース。
これはゲイリーとロジャーの共作で
1963年8月に劇場公開される
映画 Beach Party の主題歌の
先行発売シングル。この曲は
後にリリースされる名曲
"Competition Coupe" の
プロトタイプとなる曲で、
"Beach Party" は劇中では
Annette と Frankie Avalon
の二人によって歌われた。
二人はそれぞれにこの曲を
レコーディングして発売している。
フランキー盤 "Beach Party"
のB面にはゲイリー作では
ないがやはり映画で使われた曲
"Don't Stop Now" が収録された。
B面は Russell Faith とフランキー
のマネージャー Bob Marcucci
の書いた曲。
 ゲイリーによれば両面ともゲイリーと Dick Burns 率いるThe Troops がバック
 コーラスでレコーディングに参加しているとのこと。出来は良かったがフランキー
 のレコード面での人気に陰りを見せていた時期のレコードであったためにチャート
 上のリアクションは小さいものだった。因みにフランキーはこのレコードを
 リリースした後間もなくしてレーベル を United Artists へと移籍している。
 
 Frankie Avalon のB面となった "Don't Stop Now " はファズギターが
 効果的なアップテンポなダンスナンバーだが、映画 Beach Party で使用
 された曲のセッションと同じく Sunset Studio と Gold Star Recordings Studio
 で録音された。実は Frankie Avalon のリードヴォーカル(劇中では Annette
 とのデュエット)を後からトラックダウンしたのだ。
 ゲイリーらはクレジットされていない事に不服を感じながらもチャージを受け取り
 これら業界の風習を知った。
 ゲイリーはこの契約社会においてバックミュージシャンの The Troops を
 契約下に登録していなかった事を後悔した。事実ゲイリーは Frankie Avalon
 の為のマスターテープを作成するまでに Dick Burns らと何度もセッションを
 行っている。映画での曲の使用権、またそのセッションで録音された演奏は
 異なるレコード会社に所属する Frankie Avalon のシングルで使用され
 たのだ。複雑な事にこの映画にも出演した Dick Dale も劇中で使われた
 2曲 Surfin' And A Swingin / Secret Surfin' Spot を録音する事になる。
 注意しなければいけないのはこれらの曲が最終的に誰の
 功績になるのかだ。
 
 American International Pictures の Al Simms は「第一に、君の曲が
 Les Baxter のスコアに加えてサウンドトラックに組み入れられるので、
 君にとって多くの利益を出すだろう。さらに、フィルムの中で注目される歌、
 および追加ボーナストラックを収録するだろう、よって君のスクリーン上の
 功績がさらに認められるだろう。Annette と Frankie Avalon による
 これらの歌がレコード化され、君にとってよいチャンスを得ることが
 できるだろう」とゲイリーに言った。Gary Usher と Roger Christian は
 この映画のサーファーが水に潜るシーン等の撮影に参加してみたが、
 アシスタントディレクターの Clark Paylow にメガフォンで怒鳴られ
 「お前ら邪魔だから退け!」と言われた。
 冬場の撮影ながら主演の Annette と Frankie Avalon が
 NG を出す度に水に濡れた体を震わせながら浜辺で待機していたと言う。
 また「今度はそこを歩け」と指示され通行人役ながら
 二人は散々な目にあっている。しかしゲイリーは映画に出演できた喜びとともに
 これら映画制作の舞台裏を知る。ゲイリーはスタジオを見学しながらも
 アイディアが浮かべば、どこでもノートに書きこんで曲を作っていた。
 それは彼ならではのユーモアと特有の観点から構成したサマーヴィジョンだった。
 この映画はカリフォルニアサウンドの先駆けで視覚的にビーチライフスタイルを
 全米に公開したと言う意味でも重要なポイントとなる。
 映画の中で収録された6曲の歌のうち、サーフィン&ビーチに関連する3つの曲は
 Gary Usher と Roger Christian が書いたものだ。
 タイトルソングの "Beach Party" "Secret Surfin' Spot" "Surfin' And A Swingin"
 その3曲はすべて新鮮で、活発的で、当時のアメリカの平均的
 ティーンエイジャーが捜していたヴィジョンを集約していた。
 このアルバムでは当時 A.I.P. のビーチムーヴィーの為の
 専属ソングライターコンビだった Guy Hemric & Jerry Styner の書いた曲も
 収録されており、彼らもまたゲイリーらと同様に Gold Star Recordings
 のスタジオで録音していた。因みに Guy Hemric & Jerry Styner はその後
 Jack Keller と共作で The Westwoods "I Miss My Surfer Boy Too" と言う
 The Trade Winds へのアンサーソングを書き、Gold Star Studio で録音した。

Guy Hemric

  Jerry Styner
 
 オリジナルサウンドトラックアルバム
 Beach Party は映画公開に
 合わせてリリースされる。
 (Buena Vista BV-3316 Mono /
 ST-3316 Stereo)
 
  Beach Party Promo

Annette Acetate Album

     日本盤シングル
 
 因みに日本ではシングルカットがされている
 Beach Party / Swingin' And Surfin' (コロムビア Disneyland LL-558-BS)
 映画は日活映画配給で Beach Party は公開されたのだが
 邦題「やめないでもっと」と言う凄まじいタイトルが付けられていた。
 因みにB面の Swingin' And Surfin' は Gary Usher-Roger Christian の
 書いた曲で、その後7月にアメリカでは Dick Dale - Swingin' And Surfin'
 としてシングルカットリリースされた。
 
 
 6月にはいよいよ Capitol Records からもゲイリーの関わったシングルが
 リリースされた。
 Lloyd Thaxton - Image Of A Surfer / My Name Is Lloyd Thaxton
 (Capitol 4982) がそれで、ゲイリーはプロデュースとソングライティングを
 担当した。録音は3月に完成されていたものと思われる。
 両面とも Distributed By Four Star Sales Co. とクレジットされている。
 
 Lloyd Thaxton は当時
 Hollywood 13 チャンネルで自身の
 テレビショーを持っていた人気司会者だ。
 曲は両面とも Usher-Landowe の
 共作クレジットだが Mike Borchetta
 との共作として BMI に登録されているので
 Mike Borchetta の変名ではないかと
 推測される。
 録音メンバーは Dick Burns 率いる
 The Troops が行っている。
 
 MAY 1963 CAPITOL STUDIO
 Producer-Arranger Gary Usher
 Lloyd Thaxton - Lead Vocal
 Gary Usher - Back Vocal
 Dick Burns - Bass, Back Vocal
 Plus Other Members of The Troops

   Lloyd Thaxton
 
  
 A面はヴォーカル物だがロイドのヴォーカルスタイルは歌というより語りに近い
 ので特にどうという出来でもないように思えるが、バッキングの方は興味深い
 アレンジが施されている。A-side は後に発表される"Little Nifty Fifty" の
 プロトタイプとなる曲調なので是非 The Super Stocks あたりでもう一度
 録音して欲しい曲だった。B-side はサックスをメインにしたダンスインスト。
 この時期から Capitol Records はユースカルチャーを把握し本格的に
 Surfin' & Hot Rod に本腰を入れたプロモーションを展開していく。
 
 この6月にはとても重要なオムニバスアルバムが Capitol からリリースされた。
 V.A. - Shut Down (Capitol T/DT-1918) がそれだが、このアルバムでは
 初めて The Super Stocks 名義の作品が4曲発表されたのだ。
 Wide Track, Four On The Floor, Street Machine, Cheater Slicks
 このうち "Four On The Floor" と "Cheater Slicks" は The Four Speedsで
 使ったものをリメイクし、ヴァージョンを変えて収録された。アレンジは大きく
 変わっていないが The Super Stocks ヴァージョンでは Randy Thomas を加えた
 5人でレコーディングされた。
 因みに Capitol はこのアルバム
 Shut Down に続くかたちとして
 The Beach Boys のニューアルバムを
 Shut Down Vol.2 としてリリース。
 この Shut Down ではTナンバーの
 モノラルとDTナンバーのデュオフォニック
 (擬似ステレオ)の2種類がリリース
 されたが、DTナンバーの方に録音
 されたThe Super Stocks の曲は全て
 トゥルーステレオで収録されている。
 
 
 同じ6月には The Four Speeds のセカンドシングル Four On The Floor /
 Cheater Slicks (Challenge 9202) もリリースされた。
 Gary Usher と Roger Christian の共作、
 プロデュースは Gary Usher と Mike Borchetta

 A面ではゲイリーがリードヴォーカルを務め、前作同様にホットロッド
 ヴォーカル物で出来も良かったがヒットはしなかった。
 The Four Speeds 名義のレコードではこれが最後となったが
 Dennis McCarthy のパワフルなリードヴォーカルも素晴らしく
 効果的なサックスブレイクとハンドクラップを導入させる。
 ホットロッドスラングの Four On The Floor とは 4速ミッション搭載車
 の意味で、これは0〜4仕様に改造された車を指す。
 所謂 2 sider シングルだ。
 
 7月には Dot Records から The Pendeltons 名義で Barefoot Adventure /
 Board Party (Dot 16511) をリリース。A面は以前 The Four Speeds で
 録音されお蔵入りとなっていた Mike Borchetta との共作だが、
 リードヴォーカルを俳優の Don Brandon に差し替えてコーラスアレンジも
 若干変えて発表された。B面はピアノを効果的に導入したダンスナンバー。
 プロデュースは Gary Usher と Tom Ayers がクレジットされている。
 Tom Ayers は "Hot Pastrami!"の
 ヒットでも有名な The Dartells の
 プロデューサー&マネージャーだ。
 1962年にリリースされた "Hot Pastrami!"
 は1963年にポップチャートで全米11位
 R&Bチャートで15位の大ヒットとなった。
 この単調なロックンロールナンバーは
 西海岸産ダンスチューンとして脚光を浴び
 その為に Dot Records はダンスブームに
 便乗して次なるダンスチューンを求めた。
 ビーチムーヴィーから流行し始めた
 Swim というダンスの曲に着手する為
 ゲイリーと Tom Ayers にプロデュースを
 任せたのがよく分かるリリースだ。

 これによってゲイリーの Dot Records
 での一連のリリースが Swim というダンス
 ムーヴメントに進出しようとした
 Dot Records の戦略上にあった事が分かる。

   Tom Ayers
 
 因みにこの The Pendeltons のレコードはその昔 The Beach Boys の変名では
 ないかと言われ、そのためプライスガイドでは非常に高いプライスが付けられた。
 実際には The Beach Boys とは違うが The Beach Boys がデビューする前に
 The Pendeltons と名乗っていた時期があった為に混乱を招いたのだろう。
 このレコードはゲイリーの関わったレコードでも非常に珍しくプライスも高い。
 
 同じ7月にはもう一枚 Gary Usher and The Usherettes 名義で
 Three Surfer Boys / Milky Way (Dot 16518) もリリースされた。
 A面は Gary Usher-Roger Christian-T.Cost (AKA Nick Venet)
 の共作で、当初は Annette らの Beach Movie の為に書かれていたようだ。
 B面はGary Usher-Roger Christian 書いた曲で両面プロデュースも
 担当した。このシングルもセールス面では全くの失敗に終わったレコードだが、
 最近では$300 から $400 or More で取引されるレコードになっている。
 The Usherettes と記載されたバックの女声コーラスグループは
 The Honeys の事でこれも高いプライスの付いている要因だ。A面のAメロを
 彼女達が歌いBメロからリードがゲイリーに変わるアップテンポの曲。
 B面では彼女達のコーラスはフューチャーされておらず、
 代わりに Dick Burns らのバックコーラスが入っている。こちらはゲイリー
 得意のティーンロッカーでサックスブレイクとハンドクラッピンを導入させる。
 JUNE 1963 STUDIO UNKNOWN
 Producer-Arranger Gary Usher
 Gary Usher - Rhythm Guitar, Lead Vocal
 Dick Burns - Bass, Back Vocal on "Milky Way"
 Dennis McCarthy - Key Board, Back Vocal on "Milky Way"
 Randy Thomas - Drums, Back Vocal on "Milky Way"
 Ginger Blake - Back Vocal on "Three Surfer Boys"
 Marilyn Rovell - Back Vocal on "Three Surfer Boys"
 Diane Rovell - Back Vocal on "Three Surfer Boys"
 
 更に7月にはもう一枚 Capitol からゲイリー関連のシングルがリリースされた。
 Dick Dale & The Del-Tones - Surfin' And A-Swingin' / Secret Surfin' Spot
 (Capitol 5010) 両面ともに Gary Usher と Roger Christian 作で、
 映画 Beach Party に出演したディック自身によって劇中で歌われている。
 レコーディングにはゲイリーやゲイリーのミュージシャン達が
 ノンクレジットながら参加しているとのこと。
 A面のタイトルは当初 "Swingin' And Surfin'" として完成されていた。
 Dick Dale は友人の Leo Fender
 (Fender 楽器のオーナー)に注文し
 携帯用リヴァーヴユニットを開発させた
 経歴を持つ。左利きギターリストの
 ディックはフェンダーストラトキャスター
 を小刻みに奏でるスタッカート奏法で
 強烈なリヴァーヴをかけた。
 このへヴィーなサウンドで彼は人気を
 博していた。その凄まじいサウンドは
 大きなうねりと迫力を持ったもので、
 彼の素晴らしいピックさばきはサーフギター
 のみならずギタープレイスタイルにおいて
 革命的な存在だった。ゲイリーはこう
 語っている「私と Dick Dale の最初の
 出会いは、彼が映画 Beach Party

     Dick Dale
 の中で私とロジャーが書いた曲を歌うことになった時でした。私は彼と映画の
 セットの上で会いました。彼は当時西海岸ではビッグな存在だったので、
 彼のボディーガードもしました。当時彼は黒いキャディラックに乗ってました。
 その後、私と彼は一緒にスタジオに入り、彼が映画で歌う2曲をレコーディング
 しました。私は彼と出会うちょっと前にプロデューサーになったばかりだった
 ので、彼のようなビッグなアーティストと仕事ができるなんて信じられません
 でした。しかも私がプロデュースをし、バッキングに加わったそのレコードは
 L.A. のチャートのトップ10に入ったのです」
 そして King Of The Surf Guitar と呼ばれていた Dick Dale も
 ゲイリーとの出会いによってヴォーカルナンバーを多く取り上げるようになった。
 因みにフランス盤の EP ではバックコーラス無しの "Secret Surfin' Spot"
 が収録されている (France Capitol EAP-1 20554)
 
 8月になって Philips Records から1枚のシングルがリリースされた。
 Doug Salma and Highlanders - Highland Fling / The Scavenger
 Philips 40131 これはB面に Gary Paxton 作のホットロッドソングが
 収録されており、この歌は11月にリリースされる Dick Dale の
 アルバム Checkered Flag (Capitol T/ST-2002) にも収録され
 そこが Gary Usher と Gary Paxton の最初の接点となる。

Doug and Freddy
 ロスアンジェルス東部の El Monte 出身の Douglas Salamanca は
 高校時代の友人 Freddy Ruiz とチカノ系デュオを組んで
 Doug and Freddy としてデビューし、2枚目のシングルで
 Gary Paxton-Kim Fowley が共同プロデュースした曲をリリースした。
 その後 Kim Fowley の下でThe Memories (Old Sound 809)
 の変名で彼らは1枚シングルをリリースした。1961年になって
 彼らは元のデュオ名義で Gary Paxton のプロデュースによる
 Teen Doo-wop シングル Take A Chance On Love / And I Know
 You're Lyin' (Finer Arts 101)をリリース。そんな縁もあって Gary Paxton
 の自信作 The Scavenger を Doug Salma and Highlanders 名義でリリース
 した。Dion スタイルのかっこいいロッカーチューンで女性コーラスを
 バックに従えている。この女性コーラスは The Surf Bunnies だろう。
 何故なら彼女達の歌は全て Gary Paxton のスタジオで録音されてる。
 因みにこの曲は Gary Paxton 自身も1964年にリリースしている。
 その後も Doug Salma は Lord Douglas Byron の変名で Big Bad Ho Dad,
 Surfin’ Santa 等の Surfin' Novelty song をリリースした。

 同じく8月には Vault Records から The Grand Prix というグループのシングル
 Candy Apple Buggy / 41 Ford (Vault 906) がリリースされた。
 これはこれは表面上は The Challengers のドラマーでコンポーザーである
 Richard Delvy の作品という事になっているが、レコーディングには
 Gary Usher もバックヴォーカルで参加したと言われている。
 これは後に Boyce & Hart として人気作家となる若き Bobby が
 リードヴォーカルを務め The Belairs の Paul Johnson がギターで
 参加している。A 面は B.Harris-S.RiddleI-R.Delvy,
 B面は R.Heiss-T.Hughes
 両面とも Paul Johnson の派手なギターがフューチャーされており
 プロデュースは Richard Delvy
 
 奇妙な事に日本では1965年にザ・リチャード・ブラザース名義のシングル
 のB面に「キャンディ・アップル」という邦題にて Candy Apple Buggyを
 収録。A面では Bobby Goldsboro のヒット曲をカヴァーしており
 それをリリースする為に The Grand Prix で録音していたトラックを
 B面に使ったものだと推測できる。
 ジャケット写真はRichard Delvy (左), Bob Harris (右)が使用され
 ているが Bob Harris は "Candy Apple Buggy" の共作者である。
 この歌の作詞を担当した Sam Riddle は KHJ の人気DJで、以前
 Richard Delvy が番組CMを録音した事から Hollywood A Go-Go や
 Ninth Street West の人気テレビショーのプロデュースを Richard Delvy
 に依頼した事がある。
 Richard Delvy が携わった Surfin / Hot Rod 系のヴォーカルトラック
 についてここで簡単に説明しておこう。
 
 ヴォーカルグループ The Dell-Coeds のメンバーの Richard Georgeは
 自作"Love In Return"を1961年にリリースしており、このグループは
 3人の女性ヴォーカルをフロントに立てたグループで
 The Pendletones 時代の The Beach Boys と共にパーティーで
 パフォーマンスする仲だった。
 当時 Hermosa Beach に住んでいた Richard Georgeは
 Dennis Wilson や Al Jardine と親交があり、The Beach Boysの
 成功の影響を受けて彼も Surf Music を書き始めた。
 1963年の夏に Richard George がThe Beach Boysのために書いた
 "Surfboard for Christmas" を彼自身が録音した。
 結局この歌は The Beach Boys によって録音されなかったが
 そこで Richard George の仲のよい友人達 Ray Duron, John Mead,
 Jim Crouch が集められ The Woodys を名乗ったのが始まりだった。
 Ray Duron と John Mead は高校のクラスメイトで The Waves
 というサーフィン映画のショーに出演した際に Richard George
 と出会ったのがきっかけでグループを結成した。
 彼らはまず1963年に The Woodys - Red River Valley /
 The Saints (Go Surfin' In) (California Records 304) サーフインスト
 シングルをリリースしている。その後も Richard George は自身が
 書いた曲を熱心にプロモーションし出版社、レコード会社、ラジオ局
 にクリスマスの挨拶として送ったところ、反応したのが Surf Vocal
 Group を物色していた Richard Delvy だったのだ。


The Woods / The Woodies

  The Woods / The Woodies
  中央がRichard George

 Richard Delvy は当時 Surf Vocal Group のプロデュースと管理に
 興味を持っており、これら Vault Recordsでの一連の
 リリースもその一環だった。そこで Sam Riddle はテーマソングを
 作ってほしいと Richard Delvy に依頼したところ、それを許諾した。
 Richard Delvy は自身もサブメンバーとして参加しながら
 自身の The Challengers の Vocal Tracks を担当させていた上記の
 The Woods (The Woodiesとも言う) で多くのヴォーカルセッションを
 当時録音していた。これは Tony Harris With The Woodies -
 Go Go Little Scrambler (Triumph TR-60) も含まれる。
 The Woodies には若き日の Jim Crouch も参加していたが彼は
 ソロデビューする前にグループから離れている。
 Tony Harris With The Woodies でリードヴォーカルを担当した
 Tony Harris は1958 年公開の SF ホラー映画「The Blob」の
 プロデューサーで有名な Jack H. Harris の息子で、1965年に
 Hollywood の Dee Gee Records と契約した。
 そして1969年に Chartmaker レーベルで有名なサイケデリック
 アルバムをリリースする Darius の1965年の Dee Gee Records での
 デビューシングル (Dee Gee 3001) で作曲、プロデュース、アレンジを
 担当した。そして自らも (Dee Gee 3002) でソロデビューをし、
 同レーベルでもう1枚シングルをリリースした後に、Triumph Records で
 Tony Harris With The Woodies 名義のシングルをリリースした。
 その後1968年から Tony Harris は VMC (Vance Music Corporation)
 レーベルの専属プロデューサーとなった。
 彼は同レーベルの Eastfield Meadows の
 メンバーとしても活動し彼の名を一躍有名
 にした Duke Baxter の "Everybody
 Knows Matilda" ではプロデュースを
 手掛け、この曲は1969年7月26日を
 ピークに全米52位のスマッシュヒット
 となった。彼は1970年初頭には
 Larry Norman (The Zombies の
 "I Love You" のカヴァーヒットが有名
 な People の元メンバー) や
 Randy Stonehil (Contemporary Christian
 Music のパイオニアー) と共作を続けた。

    Tony Harris
 
 話を戻して The Woodies に Sam Riddle を参加させて歌わせたのが
 Aloha A Go-Go のテーマ曲の "Hawaii" だった。
 所詮セッションによってメンバーは変わるので録音によっては
 Hal Blaine がドラムを担当する事もあり録音は主に Hollywood の
 Sunset Sound で行われていた。The Woods / The Woodies は
 The Challengers のヴォーカル曲以外にも多くの TVジングルを
 歌っており、それらは Richard Delvy の利益となった。
 例えば The Challengers at the Teenage Fair (GNP 2010)で
 ヴォーカルトラックを担当しているのが The Woodies である。
 Richard George をリードヴォーカルにしたセッションでは
 Richard George & The Woodies 名義で録音しておりバックアップ
 で Richard George, Ray Duron, John Mead, Jim Crouch そして
 Richard Delvy がヴォーカルを担当した。そのトラックが日本では
 Polydor から The Spartans 名義で1965年にリリースされている。
 それは "Count Me In" でこの曲は Gary Lewis And The Playboys
 と同年に競作となったので日本のみ The Spartans 名義で
 リリースさせたのだろうと思われる。このシングルは

The Spartans
Polydor DP-1442 で上記
のザ・リチャード・ブラザース
が Polydor DP-1447 だ。
両方ともラベルに
Original Recording By
Sabrina, U.S.A. とクレジット
されてるのでセットで売り込まれ
たものと推測される。
因みにこの曲は
The Astronauts の1967年の
アルバム "Travelin' Men" にも
収録されており人気の高い
サンシャインポップである。

 更に8月には The Sunsets の3rd シングル My Little Surfin' Woodie /
 My Little Beach Bunny (Challenge 9208) を発表。録音は7月に完成した。
 
 JULY 1963 RADIO RECORDERS STUDIO

 Producer-Arranger Gary Usher
 Gary Usher - Rhythm Guitar, Lead Vocal
 Dick Burns - Bass, Back Vocal
 Dennis McCarthy - Key Board, Back Vocal
 Wayne Edwards- Drums, Back Vocal
 
 両面 Gary Usher-Roger Christian の共作、プロデュースはゲイリーが担当。
 A面は当初 "Surfin' Woodie" としてGary Usher と Roger Christian,
 Brian Wilson の3人によって書かれ、その後映画
 Muscle Beach Party で収録されている。このシングルでは両面とも
 ゲイリーがリードヴォーカルをとっている。A面は曲調といい、アレンジと
 いいこの時期の典型的な Gary Usher Sound だ。
 B面の方は、やや引きずるようなミドルテンポの曲でこれは当時未発表ながら
 The Astronauts もレコーディングしている。
 The Astronauts の録音は The Sunsets がリリースした8月の一ヵ月後の9月で
 どのような経緯でこの曲が録音されたのか興味深い。
 
 "Hot Pastrami" のヒットでも有名な The Dartells が
 A面ミディアムダンサーのシングルをリリース。
 Convicted / Sweet Pea (Dot 16551)

The Dartells
 B面はゲイリーが書いたヴォーカルものだがこれがおよそゲイリーらしくない
 ホーンセクションを取り入れた Righteous Brothers 風のジャンプナンバーだ。
 このスタイルは The Troops 時代に書かれていたものと推測出来るが、
 リズムアンドブルーズスタイルのためにマニアコレクターにしかお勧めできない。
 プロデュースは The Pendeltons でも登場した Tom Ayers が担当している。
 因みにこの The Dartells にはギターリストとして Dick Burns という人物が
 在籍しているが、これは同名異人である。
 
 同9月に The Beach Boys のサードアルバムとなる
 Surfer Girl (Capitol T-1981 / ST-1981) がリリースされた。
このアルバムには
Gary Usher と Brian Wilson
の共作で初期の名作と誉れ高い
"In My Room" が収録
されている。

この後に学業専念のために
一時グループを離れていた
Alan Jardine がグループ
に復帰する。
 
 10月に入ると Vault Records から The Quads というグループ名義で
 Surfin' Hearse / Little Queenie (Vault 907) もリリースされている。
 Surfin' Hearse とは「サーフィン葬儀車」の意味。葬送行進曲のフレーズを
 ピアノでフューチャーした作品で、引きずるようなミドルテンポで歌われる。

 これも同レーベルの The Grand Prix と同様に若き Bobby Hart が
 リードヴォーカルを務めておりバックヴォーカルが The Woodies,、
 The Belairs の Paul Johnson がギターで参加している。
 Paul Johnson はルックスも良く、以前 Al Jardine が
 The Beach Boys を一時期脱退する時に穴埋めとして The Beach Boys
 に参加を打診されているがそれを断っている他にも
 その後ゲイリーが The Hondells のヒットに合わせてツアーメンバー
 の参加を打診したが、それも断り Dave Allan 率いる
 The Arrows に参加したという顔に似合わず硬派なギタリストだ。

Paul Johnson

 Richard George and The Woodies
 

Test Pressing
The Quads のレコーディングだが、
これは元 The Belairs のメンバーで
The Challengers を結成させた
Richard Delvy のプロダクション
で前記の The Grand Prix と
実質的には同じグループに
ゲイリーが参加した。
因みにB面の "Little Queenie"
はその後リリースされたアルバム
には未収録の Chuck Berry の
カヴァーのロッカーヴァージョン。
 
 The Competitors 名義のシングルが10月にリリースされた。これは11月
 リリースのアルバムからの先行シングルで両面ともゲイリー作曲&プロデュース。
 Little Stick Nomad / Power Shift (Dot 16560) A面ではその後すぐに
 ゲイリーのプロデュースでシングルをリリースする俳優の Don Brandon が
 ヴォーカルをとっている。B面は Car Effects と Twangy なギターを効果的に
 使った軽快なインストナンバーに掛け声とコーラスを導入させている。
 
 更に同じ10月には Capitol からオムニバスアルバムの名盤
 Hot Rod Rally (Capitol T/ST-1997) がリリースされた。
 このアルバムでは The Super Stocks が6曲収録され、Hot Rod Rog
 (Roger Christian の変名)が2曲、そして Shut Down Douglas
 (Steve Douglas の変名)が4曲収録された。Hot Rod Rog は
 The Belairs の Paul Johnson がギターで参加している他、演奏や
 バックヴォーカルをゲイリーとゲイリーのミュージシャン達がやっているので、
 全12曲中8曲までが Gary Usher のプロダクションと言える。更に
 Shut Down Douglas のトラックもゲイリー達が演奏に参加している
 ので、実質的にはゲイリーが仕切ったコンセプトアルバムと言えるだろう。

日本盤

     アメリカ盤
 
 Steve Douglas は西海岸
 きってのロックンロールサックス
 プレイヤーとして多くの作品に参加
 している。有名なところでは
 Phil Spector や The Beach Boys
 の作品等があり、そして多くの
 Surfin' & Hot Rod 作品で迫力の
 サックスプレイを聴かせる。

 Steve Douglas
 
 なお Hot Rod Rog 名義で収録した "Little Street Machine" は
 もう一つのオムニバスアルバム「Shut Down」に The Super Stocks 名義
 で収録された "Street Machine" と同一曲で、リードだけを変更したもの。
 このアルバム Hot Rod Rally で収録された The Super Stocks 名義の
 曲の中では "Little Nifty Fifty" の出来が素晴らしい。
 この仕事ぶりが認められ、ゲイリーは
 後に The Super Stocks 単独名義の
 アルバム製作を許される事になる。
 このオムニバス「Hot Rod Rally」
 は当時日本でもリリースされたが、
 日本だけでシングルカットされており
 スーパーストックス - ホットロッドシティ
 シャットダウンダグラス - ツインカット
 アウトのカップリングで発売され
 一部の熱心なファンの間では話題に
 なったという。
 
 これらのリリースに合わせて Capitol
 ははプロモーション用アルバムを製作。
 「Hot Rod Music On Capitol」
 (Capitol PRO-2480) ここで収録された
 のは The Super Stocks 名義の
 "Four On The Floor" と
 "Hot Rod City"、そして Hot Rod Rog
 名義の "Little Street Machine"
 
 10月28日に The Beach Boys のシングル Be True To Your School /
 In My Room (Capitol 5069) がリリースされた。Capitol Records は
 このシングルリリースを期に The Beach Boys と長期契約を結んでいる。
これは所謂両A面扱いのシングル
でブライアンとゲイリーの
共作である"In My Room" は
1963年11月2日をピークに
全米23位のヒットとなった。
この曲はブライアンの内向性を
現したバラードで、父マリーも
この曲の完成度を高く評価した。
因みに冒頭で挿入される美しい
ハープは Mike Love の妹モーリーン
によるもの。当時 The Beatles が
ドイツ語詞による歌を録音したため
Capitol Records から
 「The Beach Boys も同様にドイツ語詞で歌ってみてはどうか」と打診されて
 "In My Room" を "Ganz Allein" (完全なる孤独)と訳し、ドイツ語で
 1964年3月に録音した。作詞者であるゲイリーもこの "In My Room"を
 気に入っており、その後 Curt Boettcher に歌わせて Sagittarius
 の Together Records 移籍第1弾シングルとしてリリース。
 そのシングルも1969年8月2日をピークに全米86位ながら
 チャートに入っている。
 
 ★1963年11月1日 南ベトナムでクーデター勃発
 
 11月に入り Reprise Records からは The Timers 名義でシングルをリリース。
 No Go Showboat / Competition Coupe (Reprise 231)
 このシングルは Gary Usher と Brian Wilson のプロジェクトで
 A面は The Beach Boys のカヴァーだが、ワイルドな仕上がりでゲイリーのカラー
 が強く出た仕上がりになっている。このレコーディングに The Castells の
 Chuck Girard が参加しているが、これがきっかけに1彼 はゲイリーの
 セッションに多数参加していくことになる。またこれが後にブライアンから
 名曲 "I Do" をプレゼントされる布石にもなったのである。
 Chuck Girard によると "No Go Showboat" では高い方のパートをブライアンと
 チャックがファルセットで歌い、低い方のパートをゲイリーとチャックが歌った
 という。B面の"Competition Coupe "は素晴らしい疾走感を持った
 ドライヴィングホットロッドチューンの大傑作。
 
 同じ11月に入って The Roadsters 名義の Mag Rims / Candy Matic
 (Donna 1390) がリリースされている。A面は Gary Usher と Dick Burns
 が書いた曲だが、ゲイリー達がレコーディングに関わっているかは不明。

 これはワイルドなホットロッドインストだが、凄まじい音圧をかけた傑作で
 この曲はゲイリー達が演奏したデモ音源も確認されている。因みにB面
 はルーズなテンポだがギターの技巧が聴き物のエレキインスト。
 
 また同じ11月に Dick Dale が Checkered Flag (Capitol T/ST-2002)
 のアルバムをリリースしたが、この中で"Mag Rims" を "Mag Wheels"
 と改題して取り上げている。ディックはこのアルバムの中で他にも
 "Big Black Cad" や
 "426 Super Stock" といった
 Gary Usher の曲を収録。
 これらはゲイリー達がバッキングに
 参加したものだ。更にゲイリーは
 このアルバムでノンクレジットながら
 "The Scavenger" と "Grudge Run"
 の Gary Paxton が書いた2曲を
 除いた10曲でアレンジを担当したという。
 アルバムからのシングルカットで
 The Wedge / Night Rider
 (Capitol 5098) がリリースされている。
 因みに "The Scavenger" は既にシングルカットされており10月26日
 をピークに全米98位のヒットとなった。この曲の作者は Skip & Flip や
 Hollywood Argyles でも有名な Gary Paxton で、彼は共通の友人
 でもある Kim Fowley に紹介され Gary Usher と出会い、
 この Dick Dale のアルバムで共に名を連ねる事となった。その後この二人
 は The Captivations や The Road Runners 等を手掛けてる。ついでに補足だが
 Gary Paxton 自身も翌年自らの Garpax レーベルで "The Scavenger"
 をソロ名義でシングルリリースしている。
 
 また11月に Ed Roth のイラスト Rat Fink をモチーフにしたアルバム
 Mr.Gasser and The Weirdos 名義を Capitol がリリース。
 Hot Rod Hootenanny (Capitol T-2010 / ST-2010)
 これにもゲイリー達がヴォーカルで参加している。演奏は Hal Blaine,
 Steve Douglas, David Gates, Jerry Cole, Leon Russell らによるもので、
 ヴォーカルには他にも Darlene Love, Robin Ward も参加した
 異色のノヴェルティアルバムだ。

David Gates

  Leon Russell

Darlene Love

  Robin Ward

 Ed "Big Daddy" Roth はその奇抜なデザインのキャラクターを用いて 
 Surfin' / Hot Rod のサブカルチャーシーンに独自の Beatnik 思想を
 持ち込んだ人物で、現在も高い支持を得る。

Ed "Big Daddy" Roth
 

当時フランスでもリリースされた EP
 
 11月にはゲイリーにとって重要なアルバム The Competitors 名義の
 Hits Of The Street And Strip (Dot DLP-3542/25542) がリリース
 された。このアルバムでゲイリーはプロデューサーとしてクレジットされているが
 レコーディングには Gary Usher の他に Richard Burns, Dennis McCarty,
 Randy Thomas の4人で行われ、俳優の Don Brandon がリードヴォーカル
 を務めた "Little Stick Nomad" 等が収録されている。
ゲイリーも含めたったの5人で
レコーディングされたためか、
音はやや控えめだがアレンジは
アルバムを通じて良い。
このアルバムはゲイリーが過去に
色々なグループ名義でリリース
してきた楽曲を用いている。
例えば "Cheater Slicks" や
"426 Super Stock" 等で
占められておりゲイリー作品の
初期の集大成といえるものだ。
 因みに The Competitors のシングルは
 当時日本でもリリースされており
 ホットロッド第1号 / ホットロッド409
 (ビクター JET-1464) なぜかB面は
 The Beach Boys のカヴァー"409" に
 差し替えて発売された。

    日本盤シングル
 
 ★1963年11月22日ジョンFケネディー大統領暗殺
 
 12月にはゲイリー関連のアルバム Hot Rod City (Vault V/VS-104)
 がリリースされた。このオムニバスでは The Customs 名義のゲイリーのグループが
 RPM, Competition Coupe, Hot Rod City, 54 Corvette, Nifty Fifty
 の5曲を収録。他にも先に紹介した The Quads, The Grand Prix らの4曲が収録
 されている。この The Quads と The Grand Prixでは Boyce & Hart として
 人気作家となる Bobby Hart と Woodies がリードヴォーカルを務めている。
 彼は後の The Ventures メンバーで James Burton に憧れて西海岸に
 出てきたばかりの Gerry McGee とも当時行動を共にしていた。
 アルバムジャケットでは俳優でレーサーの Tommy Ivo と彼の愛車の
 Barnstormer が使われている。

   Tommy Ivo
 
 Vault Recordsは、このアルバムの数か月前に Jack Lewerke と Ralph Kaffel
 によって設立された新興レーベルだった。1952年にカリフォルニアでレコード
 配給会社を設立した Jack Lewerke と Ralph Kaffel は4つの小売店経営も
 していた。Jack Lewerke は Jazz Producer として Atlantic Recordsで仕事をした
 経験もあり、その当時から Phil Spector とも共同作業をした間柄だった。
 産業と配給のノウハウを知った Jack Lewerke と Ralph Kaffelは Atco での
 全国配給権を得てVault Records を設立した。Richard Delvy はVault Records
 へ出資をし、同レーベルの最初のプロデューサーとなった。
 Richard Delvy はその際 Gary Usher を引き連れて来て、このコンピレーション
 アルバムを Shut Down または Hot Rod Rally タイプのレコードとして
 パッケージ化することを計画した。この Hot Rod City は Vault Records
 から発売される5番目のアルバムになったのだが同レーベルのメインシリーズ
 でリリースされた最初の12枚のアルバムのうち、7枚は The Challengers に
 よるもので、2枚を除くすべてが Surfin' Hot Rod 関連だった。

 Richard Delvy が作家&投資家の
 John Marascalco と共同出資していた
 Princess Records だが、そこには若き
 Harry Nilsson や Bobby Hart らが
 セッションシンガーとして出入りしていた。
 そこで John Marascalco から
 紹介されたのが Bobby Hart だった。
 John Marascalco は Little Richard 他
 多くのヒット曲のソングライターで、
 幾つかのレーベル運営もしていた。

   当時のBobby Hart
 
 The Customs 名義で収録した曲はどれもゲイリーが過去に別名義で
 リリースしてきた曲だが、この The Customs ヴァージョンは荒々しく
 ワイルドなガレージサウンドとなっており、こちらも評価が高い。
 元 The Belairs のドラマー Richard Delvy
 とキーボードの Jim Roberts が
 The Challengers を結成させて
 Vault Records の契約グループと
 なった。Richard Delvy は早速
 プロダクションを設立し本件アルバムの
 企画を作りレコーディングの指揮をとって
 いる。その人脈で The Quads と
 The Grand Prix の録音では The Belairs
 のリードギタリスト Paul Johnson
 が参加している。

     The Belairs
  
 同じ12月には Capitol からもオムニバスアルバム Big Hot Rod Hits!
 (Capitol T/ST-2024) がリリースされた。
 これは The Beach Boys や Dick Dale
 等の既発の音源を集めたもので
 ゲイリー関連では The Super Stocks の
 "Hot Rod City" と Hot Rod Rog の
 "Little Street Machine" が収録
 されている。
 
 Bruce Johnston and Terry Melcher によってスタジオ録音されて
 大ヒットとなった The Rip Chords の "Hey Little Cobra"
 (1963年12月14日ピーク全米4位)がある。この曲は Carol Connors
 の書いたホットロッドの名曲だが、Carol Connors は名車 Cobra の
 発案者である Carroll Shelvy から依頼を受けてフォードモーターズ
 のキャンペーンソングとしてこの作品に着手した。当初、兄と一緒に
 書き始めた Carol Connors は中々曲を完成出来ず Gary Usher は
 作曲中の Carol Connors にブリッジの部分をアドヴァイスしている。
 その後出来上がった曲を Terry Melcher が気に入り Carol Connors
 の手から離れレコーディングは The Rip Chords (Bruce & Terry) に
 手渡された。Carol Connors の話によると、この曲の試作段階では
 Brian Wilson と Jan Berry にも歌わせたらしいが、そのヴァージョンは
 録音されなかった。この流れでいくと、そこには Gary Usher も
 いたと思われる。

Bruce Johnston and Terry Melcher

    Carol Connors
 
 
 これと同様に Bruce Johnston と Steve Douglas のセッションユニット
 である The Vettes の "Little Ford Ragtop" にもブリッジの部分を
 ゲイリーがアドヴァイスしている。これも12月にリリースされたもので
 こちらはヒットしなかったが Nick Venet がプロデュースを手掛けた
 ホットロッドソングの傑作。
 
 1963年に London Records の配給でリリースされたシングル
 The Road Runners - Quasimoto / Road Runnah (Felsted 8692)
 だが、これにゲイリーは参加。両面とも軽快なインストチューンで

 このシングルの A-side "Quasimoto" は作曲者クレジット
 が The Road Runners となっており B-side の "Road Runnah" は
 B. Buckles となっている。この B-side は翌年に Gary Paxton の
 コンセプトで London Records からアルバムをリリースした
 The Road Runners でも音源は使われる。
 
 アルバム The New Mustang (London LL-3381/PS-381) で収録された
 "Road Runnah"はこのシングルヴァージョンよりテンポを遅くされている。
 またこの曲は、やはり London Records の配給下にあった The Pyramids
 のアルバムの1964年のセカンドプレス - The Original Penetration!
 And Other Favorites (Best BR-16501 / BS-36501) に収録された。
 The Pyramids の著作権も Gary Paxton の Garpax Records が持っており
 共に London Records の配給下にあることからこれらの関係は深い。
 このシングルの参加は Gary Usher, Charlie Casper, Dave Scheibach,
 Jerry Schillinger, John Youngblood とされており、このメンバーは
 London Records でのアルバムでもクレジットされている。
 
 こうしてゲイリーにとっての1963年は終わった。
 以上に紹介した通り、ゲイリーはこの1963年にたくさんのセッションをこなし
 数々のレコードをリリースしてきた。これはゲイリーにとって非常に有意義な
 年だった言えよう。また各レコード会社やスタジオミュージシャン達と強力な
 コンタクトを得たという点においても、実りの多い年だっただろう。
 こうしてゲイリーは西海岸を発信地に若者のユースカルチャーやライフスタイルを
 テーマとしたサーフィン&ホットロッドミュージックシーンを監督する足場を
 固めていった。この年にゲイリーが発表した様々なレコードは、ゲイリーが
 Brian Wilson から離れ、音楽業界の中で自分が生きるべき道を
 試行錯誤の末に模索した結果でもある。
 しかし不幸にも Gary Usher には、まだ大きなヒットがなかった。
 

1964年 Massachusetts The Evening Gazette 誌にて
以前住んでいたマサチューセッツ州 Westboro 出身の
ホットロッドコンポーザーとして紹介された Gary Usher
ここでも書かれているがゲイリーのように二つの音楽出版を用い
Capitol Records と複数の契約をするのは初めての事だった。
これはテーマミュージックの普及に際して一人の若きコンポーザーが
多面的な活動をメジャーレーベルに認めさせた事実を物語っている。
 
 THE GOLDEN YEAR 1964 / JUST A HARD WORKING GUY
 1963年に Gary Usher がアセテート盤に残したデモヴァージョンの歌が
 ある。この曲は "Coney Island Wild Child" という歌で
 Gary Usher-Roger Christian が作者としてクレジットされている。
 この曲は Gary Lee Usher-Roger Val Christian 名義で BMI に登録
 された。ゲイリーの歌うこのヴァージョンはかっこいいアップテンポロッカーで
 ニューヨークのロングアイランドにある名物遊園地コニーアイランドをテーマ
 にしている。間奏部分でも Freddy Cannon の1962年大ヒット
 Palisades Park を意識したオルガンフレーズが入り、また以前
 Brian Wilson と共作した "County Fair" と同様に
 アミューズメントパーク路線を踏襲したものだった。ハンドクラッピングの
 ビートが入ったこの傑作はエンディングでも3部コーラスを導入させるなど
 完成度の高さを誇る。
 しかし何故かお蔵入りになっていたこのアセテートオンリーの曲が東海岸の
 Philadelphia と Boston の二つのグループによって録音され発売された。
 先ずは1964年に Billy Harner and The Expressions により
 Coney Island Wild Child / Feel Good (Lawn 244) がリリースされた。
 また1968年には Boston の The Myst が Coney Island Wild Child
 / I'm Crying (Open 1252) をリリース。"The Human Percolator" として
 ノーザンソウルシーンで高い人気を誇るニュージャージー州出身の
 ブルーアイドソウルシンガー Billy Harner だが彼の
 デビューバンドがこの Billy Harner and The Expressions だった。
 ここではかっこいいロッカースタイルで歌う。The Myst の
 ヴァージョンも基本的に同様のかっこいいロッカースタイルで
 アレンジもほぼ同じであるがB面のファズガレージが凄まじいので
 中古市場での人気は The Myst に軍配が上がる。

Billy Harner and The Expressions

     The Myst

Billy Harner
 
    The Myst
 
 この "Coney Island Wild Child" はテーマからして東海岸側から
 オファーの入りやすい曲で、もしくはオファーが入りその後に曲が
 書かれたのだろうか。曲そのものは "Nifty Fifty" や
 "Little Stick Nomad" をプロトタイプにした様なワイルドなフレーズ
 をつなぎ合わせた曲で、ゲイリー自身もこの曲によって次なる
 テーマミュージックを模索していたように思える。Brian Wilson
 より年上の Gary Usher は元々自身のアイドルが50年代後期
 のロッカーだった為に、かっこいいロッカーチューンも書ける
 ソングライターであった事を改めて知る作品だ。

 
 以前ゲイリーが The Timers 名義でリリースした"Competition Coupe" を
 コロラドの The Astronauts もレコーディングしており、彼らのホットロッド
 アルバムCompetition Coupe (RCA Victor LPM / LSP-2858)に
 収録され1964年1月にシングルカットもされた。
 Competition Coupe / Surf Party (RCA Victor 47-8298)
 こちらも間奏のギターソロも決まっており、聴き応えのあるヴァージョンに
 仕上がっている。B面はタイトなエレキインスト。両面とも Al Schmitt が
 プロデューサーとしてクレジットされているが、B面ではゲイリーがプロデュース
 を手助けしている。因みに The Astronauts は本来インストバンドだが Dick Dale
 や The Surfaris 等のストラトキャスター派とは異なり The Trashmen や
 The Challengers や Phil Sloan も得意としていたエコーチェンバーが
 綺麗にかかりやすく中間音域にヴァリエーションを持つジャガーや
 ジャズマスターを用い、その心地よいドライヴ感を売り物にしていた。

Album

  "Competition Coupe"
  を収録したプロモ EP
 
 ★1964年1月20日Capitol Records に移籍した The Beatles
   の Capitol Records からのファーストアルバム Meet The Beatles!
   がリリースされる
 
 ゲイリーは非常に需要の多いプロデューサーであった。大ヒットしたレコードが
 あったわけでもないのに、これだけの数のレコードを製作できたというのは
 ゲイリーの持つ独特なヴィジョンがユースカルチャーに浸透していったからだ。
 だがこの当時は Phil Spector や Brian Wilson といった若く、鋭い
 感性を持った有能なプロデューサー達が台頭してきた頃でもあった。
 各レコード会社は彼らの成功を横目にロックンロール部門に力を入れ、
 彼らに続く有能なプロデューサーを必要としていた。
 当時の音楽業界にこうした背景があったため、作曲、プロデュース、アレンジ、
 更には歌も歌えるというマルチな才能を持ったミュージシャンを求めていたのは
 The Beatles のアメリカ進出を見るまでもなく必然的な流れだった。
 しかし The Beatles のアメリカ進出前夜には、アメリカの音楽業界は間違いなく
 世界をリードしていた。ゲイリーに対する需要は、ゲイリーがかつては
 Brian Wilson のパートナーだったという肩書きも有利に働いていた。
 しかしまた肩書きだけでは通用しない世界において、ゲイリーは着実に力を
 つけて、その才能を開花させようとしていた。
   

Charles "Bud" Dant
1964年に入ると先ずゲイリーは
Decca のプロデューサー
である Charles Dant に
呼ばれThe Surfaris のアルバム
Hit City '64 の製作を
手伝って欲しいと要請を受けた。
The Surfaris は "Wipe Out"で
一世を風靡した Garage Band
だったがビッグヒットに伴い
リリースされたアルバムに
ついてトラブルが発生し
それによってバンドは低迷
していた。

 The Surfaris は Southern California high school の高校生4人が
 結成したグループ。Ron Wilson (drums, vocals)
 Jim Fuller (lead guitar), Bob Berryhill (rhythm guitar),
 そして Pat Connolly (bass) がオリジナルメンバーだ。
 あまりにも有名な彼らのファーストプレス
 Surfer Joe / Wipe Out (DFS 11/12) だが、録音当時まだ高校生
 だった彼らは “Surfer Joe” を録音するにあたってB面が必要だと
 言われ単純なギターブレイクを備えたドラムソロタイプの曲を
 ギタリストの Bob Berryhill は提案した。B面の録音が必要となり
 セッション中に片手間で録音した3つの曲のうち1つが "Wipe Out"
 で、他の2曲は Lively Ones のカヴァー"Hot Doggin'" "High Tide"
 だった。ドラマーの Ron Wilson はドラムソロを演奏し始め、
 約10分で彼らは “Wipe Out” を作った。ギミックのイントロが
 必要ということで、Bob Berryhill の父はマイクの近くで石膏を
 染み込ませたボードを壊し、バンドマネージャーの Dale Smallin
 は不気味な笑い声を挿入しB面曲 “Wipe Out” は完成した。
 録音は Engineer の Paul Buff が設立した Pal Recording Studio
 で1962年10月に行われた。このスタジオは若き Frank Zappa が
 所属していた事でも知られるがこの時 The Sufaris の録音には
 関わっていない。バンドマネージャーの Dale Smallin は自身の
 レーベル DFS (彼の本名 Dale Francis Smallin から命名)
 からこのシングルをリリースした。
 初版は DFS 11/12 として “Surfer Joe” はオリジナルの
 3分40秒ヴァージョンが1963年1月に100枚 (500枚説もあり)
 リリースされた。Dale Smallin はこのシングルを Del-Fi, Era,
 Liberty, Capitol に打診したが悉く拒否された。The Surfaris は
 臆することなく、グループの名前を知らせるために地元の
 コンサートでこのシングルを販売し始めた。The Belairs の
 Richard Delvy がそれに興味を持って Princess Records の
 オーナー John Marascalco に手渡された。
 John Marascalco は将来のロイヤリティーを保障する手付金として
 The Surfaris へ200ドル前払いした。そして Princess Records 50
 のカタログナンバーで2月に再リリースした際には “Surfer Joe”
 が2分20秒のショートヴァージョンに編集されラベルにも 2:20
 とクレジットされてる。

 Princess Records は Richard Delvy がスタジオエンジニアー
 を務めており、“Wipe Out” に Richard Delvy はさらにエコー
 をかけて “Surfer Joe” は曲中の Verse 2 と Verse 5 が
 削られた。当時自身のバンド The Belairs を維持しながら
 Princess Records を経営してた Richard Delvy こと
 Richard Delvecchio (後の The Challengers )だが、
 彼は若いのに金の儲け方を知ってる人物で ”Wipe Out”
 が売れると判断してエンディングを短くフェイドアウト処理し
 増量プレスする。英雄サーファーの末路を歌ったこの歌は
 暗に徴兵制度を揶揄しているためにその部分を歌った
 Verse 5 がカットされたのだろう。Princess Records ヴァージョン
 はローカルヒットになり、Richard Delvy はすぐさまラジオ局の
 友人達にプッシュした。すぐさま Dot Records がこの曲に
 興味を示してきたので Richard Delvy は高値で売り払っている。
 Dot Records が買い上げて4月に再々リリースされたのだが
 その際に “Wipe Out” がA面になり “Surfer Joe” (2:20)
 はB面扱いになったが1963年6月22日をピークに“Wipe Out”
 が全米2位のビッグヒットとなった挙句にB面の “Surfer Joe”
 までも同年8月31日をピークに全米62位のスマッシュヒットとなった
 早速 Dot Records はアルバムを作って売り出そうとし、
 Richard Delvy は The Surfaris のメンバーを Dot のスタジオに
 連れて行きカヴァー曲中心にアルバム録音を行った。

John Marascalco

   Richard Delvy

The Surfaris

しかし The Surfaris の録音した
トラックが荒かったために
Richard Delvy は「オーヴァー
ダビングをしなければいけない」
と Ron Wilson に伝えたが、
結果として "Surfer Joe" と
"Wipe Out" 以外のアルバム
収録曲は Richard Delvy 率いる
The Challengers がプレイした
音源が収録されていた。
このアルバムの音源を聴いて
The Surfaris のメンバーは驚いた
という。Richard Delvy は原曲
のトラックの所有権を持って
はいたがそれ以外の録音に
 対して手を加える権利があったのかという部分で The Surfaris のメンバーと
 論争になった。また"Wipe Out" のヒットで売れっ子となったThe Surfaris だが
 彼らが未成年だった為にツアーメンバーは The Surfaris 本体ではなく
 後の The Mar-Kets のツアーユニットとしても活動するThe Vulcanes (Valcanes)
 が The Surfaris を名乗ってライブをする。この The Vulcanes は Goliath Records
 の The Surf Bunnies なんかのバックを努めるセッショングループだった。

1965年の映画 I'll Take Sweden に出演し
Frankie Avalon のバックを勤めた The Vulcanes
 
 結局 The Surfaris は Dot Records とは継続契約をせず Decca Records
 の辣腕プロデューサーだった Charles "Bud" Dant に打診して
 Decca Records と契約を結んだ。その結果最初に Dot Records からリリース
 された彼らのファーストアルバムはメンバー写真の使用権について
 Decca Records がクレームをつけた為に Dot 盤の増量プレスについては
 メンバーの写真を使ってない。
 これらの事柄を考慮すれば使い捨てされそうになったThe Surfaris が
 Decca Records に移籍し、またその後も中々チャンスに
 恵まれなかった為に Gary Usher のプロデュースに頼ったのもよく解る。
 The Surfaris は "Wipe Out" のヒット後に
 多額の契約金で大手の Decca Records
 へと移籍してきたのだが、期待を裏切り
 大きなヒットを出せずにいたゲイリー。
 は Roger Christian と共作した
 ヴォーカル曲"Wax, Board And Woodie"
 を Decca Records に提出した。
 このアルバムにはこの曲しか提供
 しなかったが、これがきっかけとなり
 後にゲイリーは Decca Records に
 プロデューサーとして迎えられる事に
 なった。Decca Records は Ron Wilson
 のヴォーカルとドラムプレイこそが
 The Surfaris の最大の価値だと
 思っていた。しかし Charles Dant は The Surfaris のセッション録音に
 いつも不満を持っており試行錯誤していた。後年 Ron Wilson は「録音された
 音源は時折デモ音源のままミックスされていた」と Charles Dant の
 失敗を嘆いている。恐らくそれが原因だったのか、その後日本でリリースされた
 シングルの「太陽のビート / サムシン エルス」のB面は片チャンネルだけの
 音源でプレスされている。British Invasion の勢力がアメリカのミュージック
 シーンに影響を与え始めていた事に気づいていた Gary Usher は彼らを
 名うてのセッションミュージシャン達と一緒に録音を体験させる事で活路を
 見出そうとし Ron Wilson のヴォーカルを引き立てようと努力している。

 
 このアルバムからは当時日本でも
 Scatter Shield / I Wanna Take A Trip To The Islands のカップリングでアメリカ盤
 シングルとはA面とB面を入れ替えてシングルリリースされた。これは日本市場
 ではThe Ventures の影響からか当時はまだサーフィンバンドがエキサイティング

当時の日本盤シングル
なインスト曲であるといった
イメージが先行していた
からだろう。本国アメリカ
では Ron Wilson の
ヴォーカルをフューチャー
させて"Wipe Out"の
イメージから脱却しようと
努めているが、日本の
プロモーションはその逆で
あったことがこのシングル
から判る。
 
 B面扱いになった "I Wanna Take A Trip To The Islands" は Brian Wilson
 と1964年に結婚したばかりの Marilyn Rovell の The Honeys が
 バックコーラスで参加した。恋の波乗り = Scatter Shield /
 憧れのハワイ旅行 = I Wanna Take A Trip To The Islands といったなんとも
 呑気なタイトルの日本盤だがサウンドはガレージパンク然とした迫力だ。
 
 2月には Gary Usher のソロシングル The Beetle / Jody (Capitol 5128) が
 リリースされた。"The Beetle" は綴りこそ違うが The Beatles をモチーフにした
 曲で The Beatles アメリカ上陸のカウンターリアクションとして製作された。
 Volks Wagen Beetle (The Beatles) が全米を席巻するといった内容。
 両面とも Gary Usher-Roger Christian の共作で、プロデュースは Capitol
 のヴォーカル系専門プロデューサーの Kermit Walter と共同で行った。
 イントロのへヴィなギター、力強いバック、スリリングな曲の展開、
 タイトな Hal Blaine のドラムも決まったこのティーンロッカーはリスナーに
 インパクトを与えるには充分な出来だったが、ヒットには至っていない。
  
当時イタリアでリリースされたシングル Capitol F 5128

 
 3月に入ると Dick Dale and The Del-Tones - Mr.Eliminator / The Victor
 (Capitol 5140) がリリースされている。これにもノンクレジット
 ながらゲイリーとゲイリーのミュージシャンがバッキングヴォーカルとして参加。
 
 さて、この3月にはゲイリーが音楽を担当した映画 "Muscle Beach Party" が
 封切りされた。これは Annette と Frankie Avalon が出演した
 "Beach Party" の続編で映画には
 Dick Dale, Donna Loren,
 Stevie Wonder らも出演している。
 因みに Muscle Beach とは
 Vennis Beach の俗称で、同地では
 筋肉自慢のコンテストが頻繁に行われ
 ている事から、そう呼ばれている。
 前作"Beach Party"に続き音楽を
 依頼された Gary Usher は
 Roger Christian と話し合った末に、
 Brian Wilson にも協力を
 要請している。Gary Usher,Roger Christian, Brian Wilson
 が共作し、3人がこの映画のために
 書いた曲は全6曲である。
 
 @ Surfer's Holiday / Annette, Frankie Avalon
 冒頭のシーンでみんなでビーチ向かう車の中で歌われる。リードヴォーカルは
 Annette と Frankie Avalon で、Dick Dale のギターソロがフューチャー
 されている。Gary Usher 自身が同じバックトラックでリードをとった
 デモヴァージョンも存在し Gary Usher によれば、これ Annette と
 Frankie Avalon がヴォーカルを被せたらしい。
 
 A My First Love / Dick Dale and The Del-Tones
 Annette と Frankie Avalon が出かけたダンスパーティー。そこで Dick Dale が
 The Del-Tones を従えて歌う。奇抜なメロディーの曲だが力強いバッキングが
 施されている。
 
 B Muscle Beach Party / Dick Dale and The Del-Tones
 My First Love に続き Dick Dale が歌う。
 
 C Running Wild / Frankie Avalon
 ダンスパーティーの途中 Frankie Avalon が突然立ち上がり、これを歌う。
 
 D Muscle Bustle / Dick Dale and Donna Loren
 Dick Dale と Donna Loren が歌う。

Dick Dale and Donna Loren

 E Surfin' Woodie / Cast (Acappella) Lead by Dick Dale
 ビーチでみんなが Dick Dale を取り囲んで歌う。
 アカペラでリードは Dick Dale だがたったのワンコーラス
 で次のシーンへと移ってしまう。



 
これらの曲は、映画のワンシーンで
使われているものなので、
途中セリフが入ってしまいレコード
のようには楽しめないが、映画で
使われているヴァージョンは
全てレコード化されていないので
貴重である。映画で使われた
ヴァージョンのバックトラックの
レコーディングでは
Gary Usher, Dick Burns、
Dennis McCarthy, Les Weiser
他にも Brian Wilson も
ピアノとバックコーラスで参加
しているとゲイリー自身が
語っている。この映画が公開
された3月には Annette がこれに
あわせアルバムMuscle Beach Party
(Buena Vista BV/STER 3314) を
リリースした。
前作アルバム Beach Party
(Buena Vista BV/STER 3316)
より若い番号なのは Annette の
ソロアルバムと分けていた
為だろうか。
 
Annette Album

   Annette Single
 
インタヴューレコード

    日本盤シングル
 
 このアルバムに収録された3曲 "Muscle Beach Party"
 "Surfer's Holiday" "Muscle Bustle" はアルバム用に再レコーディング
 されたもの。"Surfer's Holiday" は当初はタイトルを
 "Surfin' Holiday" として書かれていた。これは上記でも記述したが
 Brian Wilson が書き下ろして Bob Norberg と Cheryl Pomeroy の
 デュエット Bob & Sheri が録音していた "Ride Away" と言う
 未発表曲が原曲である。
 Annette が歌ったこの曲は "Muscle Beach Party"
 のB面で日本盤のみシングルカットされている。因みに Jan and Dean も
 Unreleased ながらこの曲を1963年に録音した。その為に当初は
 Jan and Dean のアルバムに収録も検討されたと推測される。
 
 Gary Usher と Roger Christian はこのアルバムのために新たに
 Custom City, Draggin' U.S.A., Rebel Rider, Waikiki, Shut Down Again
 の5曲を提供している。アルバムはそこそこの ヒットとなり1964年3月に
 Custom City / Rebel Rider (Buena Vista 432) と
 Muscle Beach Party / I Dream About Frankie (Buena Vista 433)
 がシングルカットされた。Custom City / Rebel Rider のシングルは
 続く Muscle Beach Party と連番でプレスされアルバムリリースと時期が
 重なった為にプロモーションも弱く短期間で回収されているために
 非常にレアである。またGary Usher と Roger Christian, Brian Wilson
 の3人の個性が表れている "Muscle Beach Party" だが、

Annette
この曲調は The Beach Boys の
"Cherry, Cherry Coupe"
(原曲 Land Ahoy) から、
その後 Gary Usher のグループ
The Surper Stocks の
"Surf Route 101" や
"Malibu Blues" にも通低する、
のどかな主旋律を持つ。
また、3人によってこの映画の
為に書かれた "Running Wild" は
その後 Frankie Avalon のアルバム
"Songs From Muscle Beach Party"
に収録される。
 
 

Stock Copy

     Promo Copy
 
 3月6日には Donna Loren も映画で歌った "Muscle Bustle" を
 シングル (Challenge 59237) で発売しているが、これは改めて
 レコーディングしたものだった。彼女は元々キュートな
 ガールポップシンガーだった。ボストン出身の彼女は
 10歳の時にテレビショー The Mickey Mouse Club の
 メンバーとしてデビューしているが番組内の格上グループ
 Mouseketeer に所属していた5歳年上の Annette を
 ライヴァル視しているので正反対のヴァージョンで対抗
 させようと周囲がさせていたようでもある。
 Annette は舌ったらずのキュートなガールポップヴァージョンで
 Donna Loren のヴァージョンはアップテンポにして
パワフルなヴォーカルで弾けたダイナミックダンサーで歌われる。、
 両方ともガールポップファンの人気は高い。この曲も Gary Usher と
 Roger Christian, Brian Wilson の3人で書かれた。

Donna Loren
余談だが Donna Loren は
1968年に当時 Reprise の
A&R、そして後に Warner Bros.
の社長になる Lenny Waronker
と結婚し1986年に離婚。

そしてPhil Sloan 率いる
The Fantastic Baggys のアルバム用
フォトセッションに参加している
右端の男 Jerry Cargman
(Jered Cargman) は Phil Sloan の
高校時代のクラスメイトだが
1995年に Donna Loren
と結婚し、この夫婦は現在
ハワイで ADASA という
ジュエリーショップを経営してる。
 

このロビーカードに写ってる上段一番左(帽子を被った Dick Dale の左隣)
が映画に出演してた Gary Usher だ。ひさしの棒に隠れた
かんじになってるが、赤っぽいシャツを着てる。
左が Gary Usher
右が Dick Dale
 
 3月には Capitol Records から
 New Release Promotion 用に
 アルバムが製作された
 Great New Releases From The Sound Capitol
 Of The World (Capitol PRO-2557)
 ここで収録されたのは The Beach Boys の
 "Fun Fun Fun"と共に The Super Stocks
 の "D-Gas Chevy", Mr. Gasser の
 "Ice Cream Wagon" だった
 
 同じく3月に The Marketts がアルバム Out Of Limits
 (Warner Brothers 1509) をリリース、これにはゲイリーが
 1曲だけだが提供している。"Collision Course" がそれだが、
 インスト曲。これは Gary Usher と Richard Burns の共作なのだが、
 レコードには Gary Usher と Roger Christian がクレジットされている。
 The Marketts (元 The Mar-Kets) は The Beach Boys の名付け親でもある
 Joe Saraceno が The Routers の Mike Gordon を中心に
 西海岸のセッションミュージシャンを集めた所謂スタジオグループだ。

The Marketts
 
 このアルバムでは Mike Gordon, Gene Pello, Mike Henderson,
 Tommy Tedesco, Ray Pohlman を使って録音している。
 Produce - Joe Saraceno, Arrange - Ray Pohlman
 Engineer - Bones Howe となっている。因みに Ray Pohlman と
 Joe Saraceno はその後 World Pacific Records でも幾つかを
 コラボレートしていく。ゲイリーが書いた"Collision Course" だが
 この曲は元 The Belairs のドラマーで
 その後 The Challengers を結成させた
 Richard Delvy がプロデュースした
 The Good Guys 名義のアルバム
 Sidewalk Surfing
 (GNP Crescendo GNP/GNPS 2001)
 でも取り上げている。Richard Delvy
 はこの曲を "Asphalt Wipe-Out"と
 タイトルを変えて The Good Guys 唯一
 のシングルとしてもリリースした
 (GNP Crescendo 326)
 因みにこのグループ The Good Guys は
 ヴォーカルトラックを Richard George
 率いる The Woodies が担当した
 第3期 The Challengers が実態である。
 Richard Delvy は他人の作曲クレジット
 を変更する事でも有名な人物だが、
 更にややこしい事に The Good Guys
 のトラックに拍手だけを被せた
 だけのテイクが Richard Delvy
 率いるThe Challengers のライブ
 アルバム At The Teenage Fair
 (GNP Crescendo GNP/GNPS 2010)
 にも収録されている。
 つまりこのライブアルバムは当時よく
 あった擬似ライブ盤のようだ。
 
       The Challengers


 

 
またこの3月に依然好調の
The Beach Boys がアルバム
Shut Down Vol.2
(Capitol T-2027 / ST-2027)
をリリースした。この中には
ゲイリーとブライアンの共作
"Pom Pom Play Girl"
が収録された。
 同時にこの3月には The Captivations というグループのシングル
 Red Hot Scrambler Go! / Speedshift (Garpax 44179)にも

 ゲイリーはノンクレジットながら参加してる。A面は元々
 "Red Hot Honda" というタイトルだったらしい。
 しかし、いわゆるホットロッドイメージにブランドを関連付ける
 ことを望まなかったホンダバイク側による反対によって
 "Red Hot Scrambler Go!" にタイトルは変更された。
 という事はこの時点で Honda と The Beach Boys サイドは
 プロモーションソングのタイアップ契約が進んでいたのだろう。
 American International Pictures の映画を
 接点に知り合った Gary Usher と
 Kim Fowley だが、その際 Kim Fowley は
 Gary Paxton に Gary Usher を紹介した。
 彼は "It Was I" のヒットでも有名な
 Skip & Flip というデュオを後に The Byrd
 に参加する Skip Battin とでっちあげたり、
 Hollywood Argyles や Boris Pickett 等
 のノヴェルティー色の濃いダンスナンバー
 をロックンロールシーンに送り込みヒット
 させた人物としても知られる。
 俳優 Douglas Fowley, 女優 Shelby Payne
 を両親に持つ Kim Fowley は高校生の
 頃から Jan Berry, Dean Torrence,
 Bruce Johnston, Phil Spector, Nancy Sinatra
 等と交流を持ち音楽活動をしていた。


  Kim Fowley
 
 また Gary Paxton は後に Millennium の母体となった The Ballroom
 のセッションを仕切ったり Eternity's Children のセカンドアルバム
 Timeless でプロデューサーを務める等才能豊かなミュージック
 クリエイターだ。 このレコーディングでは同じ布陣で
 "Little Bitty King Of The Road" という曲も録音されているが
 リリースはされていない。
 この Garpax というレーベルは London Records 配下による
 Gary Paxton のレーベルで、この The Captivations のシングル
 製作も彼によるものだ。
 A-side は B.Biglow-G.Paxton、B-side は P.Nuckles-G.Paxton
 のクレジットだが参加メンバーが凄い
 Gary Paxton - Lead Vocal
 Roy Durkee - Bass Vocal
 Gary Usher - Backing Vocal
 Bruce Johnston - Backing Vocal
 Buzz Cason - Baccking Vocal
 

Gary Paxton

    Buzz Cason
 

Fire And Ice, Ltd.
参加メンバーが凄いというのも
Gary Usher, Bruce Johnston,
Buzz Cason というビッグネーム
の参加と同時にその後1966年
に Capitol Records から
サイケ、エクスペリメンタル
アルバム The Happening を
リリースする Fire And Ice, Ltd.
の Roy Durkee がバスヴォーカル
で歌ってるのだ。
ホットロッドも数年後には
サイケデリックシーンへと
変化してしまうところが
西海岸サブカルチャーの
成長の早さだろうか。
 
 
 因みにこの The Captivations は Red Hot Scramblers-Go / Speedshift
 (Pentacle 1635) でもテンポを落としたスローヴァージョンで
 同年にシングルをリリースさせたが、こちらはゲイリーは参加していない。
 Pentacle 1635 では Scrambler から Scramblers へとタイトル表記を
 変えていて末尾の感嘆符 (びっくりマーク) ! もなくなっている。
 補足だが1968年にイギリスの The Quiet Five が The Fabulous Quite Five
 名義で The Captivations のカヴァーシングルをアメリカのみでリリースしてる。
 Red Hot Scramblers-Go / I Understand
 (Casa Grande CG-8462-45) このシングルはイニシャル番号が
 (CG-1965/1964) となっており恐らく A面は1965年に録音
 (B面は1964年か?)されたものと推測される。
 A面は The Captivations のカヴァーだが、これにはゲイリーは
 参加していない。このシングルには Recorded In London, England と
 クレジットされており、彼らはイギリスでは The Quiet Five と名乗っていた
 バンドで、後に Mark Wirtz のセッションシンガーやコラボレイターとしても
 名を馳せるオランダ出身のシンガー Kris Ife のデビューバンドでもある。
 彼らは本国イギリスでは The Beatles, Rolling Stones, Donovan,
 The Byrds, The Ronettes, P.J. Proby らのライブツアーのオープニング
 アクトとしても活動していた。以前「このバンドはマサチューセッツの
 バンドだと」の報告があったが、レポーターはこのバンドのライヴ活動を
 当時マサチューセッツで見たとのこと。それは The Quiet Five が当時渡米して
 活動した貴重な形跡でもある。

 またこの The Fabulous Quite Five 名義のシングルは The Quiet Five のメンバー
 を中心に新たなフォーメイションに変えた最初で最後の録音がされている。
 Kris Ife (Rhythm Guitar, Harmony Lead Vocals),
 John "Satch" Goswell (Saxophone),
 Tex Marsh (Drums),
 John Howell (Piano, Backing Vocals),
 Roger McKew (Lead Guitar),
 Richard Barnes (Bass, Lead Vocals)
 A-side Lead Vocals Richard Barnes, Kris Ife, John Howell.
 

The Quiet Five
何故 The Quiet Five が
The Captivations の
"Red Hot Scramblers-Go"を 
録音したのか定かではないが
恐らく London Records との
契約を期に楽曲管理に関して
Gary Paxton がイギリスのバンド
にもアプローチをかけていた
のではないかと推測される。
 
 話戻して Gary Paxton の Garpax だが、その連番でリリースされた
 ノヴェルティー作品にも Gary Usher はコーラスで参加している。
 Gary Paxton & The ?'s - Two Hump, Dual Bump Camel Naked Robert E. Lee /
 Your Past Is Black Again (Garpax 44180)

Gary Paxton
これはホットロッドカーや
サーフィンをテーマにした
ノヴェルティーソングだが
The Beach Boys のヒットソング
や他のホットロッドヒット曲の
有名なフレーズを随所に
散りばめた印象的な作品。
B面はマリアッチブラスを配し
感傷的なノヴェルティーバラード
に仕上げている。
余談だが "Surf City High" でも
知られるブリーチヘアーの
女性トリオ The Surf Bunnies
だが元々 The Desirays を名乗って
いたこのブロンド娘達はデビュー前
The Surf Bunnies と変名した。
彼女達の歌は全て Gary Paxton の
スタジオで録音されてるので
恐らく Gary Paxton が名づけ
たのだろう。
 
 Gary Paxton はこの後の5月に The Road Runners のアルバム
 The New Mustang (London LL-3381/PS-381) をリリースしている。
 この中でゲイリーが3曲ほどリード
 ヴォーカルをとっており、この時期に
 Gary Usher と Gary Paxton
 は共同作業を行っているので
 The Captivations もその布石となった
 ワークスだとも考えられる。
 以前 Dick Dale のアルバム製作時に
 出会ったこの二人だが Gary Paxton
 のレーベル Garpax が London Records
 の傘下であった関係もあり、恐らく Ford
 の新車のプロモーションタイアップの話で
 Gary Paxton に依頼がきたものと
 推測される。
 参加は Gary Flip Paxton, Gary Usher, Dick Burns, Dennis McCarthy
 そして The Road Runners のメンバー Charlie Casper, Dave Scheibach,
 Jerry Schillinger, John Youngblood となっている。この Jerry と John の
 二人は当時 Paxton Studio のセッションギタリストだった
 Jerry Scheff, Mike Deasy の変名だ。
 Dick Burns は "Little Deuce Coupe" で Lead Vocal,
 Dennis McCarthy は "409" で Lead Vocal
 Gary Usher は "Super Torque 427" "Competition Coupe" "Shut Down"
 の3曲で Lead Vocal をとっていてゲイリーサイドからはこの5曲のみの
 参加となっている。
 
 話を戻して The Competitors でリードヴォーカルをとった Don Brandon の
 シングル Ballad Of Bonneville / Doin' The Swim (Dot 16600)
 がリリースされた。レーベルにはクレジットされていないが、このシングルは
 ゲイリーのプロデュースによるもので A面もゲイリーの書いた曲。
 ユタ州境にある自動車最高速の記録を計測する大平原 Bonneville を
 歌った素晴らしいバラード作品。B面はアップテンポのダンスナンバーで
 Annette や Frankie Avalon で完成させていた Swim 系のダンスビートを
 進化させた事に気づく。このパーカッションを多様した深いエコーサウンド
 は次にリリースされる The Super Stocks の1st アルバムで踏襲される。
 

Hal Blaine
このシングルでは Hal Blaine
や Steve Douglas の他、
Leon Russell, Frank Capp,
Jay Migliori ら多くの
一流ミュージシャンが参加
しておりゲイリーにとって望ましい
レコーディング環境が何であるか
が伺える。
 
 同じく3月にいよいよ The Super Stocks のシングルがリリースされた。
 Thunder Road / Wheel Stands (Capitol 5133) A面は1958年と1962年に
 Robert Mitchum がヒットさせた "Ballad Of Thunder Road" を
 改作した曲。Robert Mitchum の場合は歌というより語りに近い
 Country Blues スタイルで、The Super Stocks のこのヴァージョンは
 ゲイリーのオリジナルと言ってもいいようにメロディーを上手く加えている。
 この歌は親が造った密造酒を運ぶ息子のドライヴァーの物語で、
 Jerry Cole の超絶ギターで幕を開ける。この傑作は当時ではまだ
 珍しかったファズをかけており、迫力のヴァージョンとなっている。
 またギターソロも2小説残したところでブレイクしたりと凄まじい作品に
 仕上げている。B面はゲイリーのオリジナルによるスリリングなインスト曲。
 
 3月には Dick Dale のアルバム Mr. Eliminator (Capitol T-2053 / ST-2053)
 がリリースされた。日本盤タイトルは「ホット・ロッドの若大将」だった。
 このアルバムでは "50 Miles To Go" と "Firing Up" の2曲を除いた
 9曲でノンクレジットながらゲイリーがアレンジを担当している。
 このアルバムはポスターを付けてリリースされた。
 このアルバムは多数の外部ライターの曲が取り上げられており、当時 Annette
 なんかにも曲を提供していた Guy Hemric-Jerry Howard Steiner や
 若き Steve Barri-Carol Connors らのコンビ他にも The Drifters の名曲
 "Under The Boardwalk" の作者 Kenny Young が書いたヴォーカルチューン

 を収録している。因みに "50 Miles To Go" がKenny Young の書いた曲で
 この曲は同じ Capitol Records で The City Surfers もシングルと
 してリリースしている。このスタジオグループである The City Surfers は
 The Byrds 結成前の若き Roger McGuinn とThe Beachcombers (Diamond 168)
 でサーフィンポップにトライした Frank Gari と Bobby Darin に
 よるスタジオユニットだった。

日本盤

   アメリカ盤
 
 1964年3月21日に Jan & Dean が Gary Usher-Roger Christian の
 書いた曲を録音している。タイトルは A Deuch Goer (AKA A Deuce A-Goer)
 これは Unreleased Track として知られるが、その詳細は不明のまま
 お蔵入りとなっている。
 
 4月に Mr.Gasser With Weirdos
 名義のセカンドアルバム
 Rods n' Rat Finks (Capitol T/ST-2057)
 もリリースされた。
 ゲイリー達はまたヴォーカルで参加し
 前作同様に Ed "Big Daddy" Roth
 のキャラクターコンセプトのアルバム。
 "The Lonely Stocker" でゲイリー
 がリードヴォーカルをとっている。
 因みにアルバムにはオマケのデカール
 が付属していた
 

 
 またこの4月には "Penetration" のヒットで有名な The Pyramids が
 Midnight Run / Custom Caravan (Cedwicke 130005) をリリース。

 A面は Gary Usher と Roger Christian と Richard Burns で書かれた

The Pyramids
インストで後に The Super Stocks
でもレコーディングされた。
B面も The Super Stocks の
ヴァージョンが残っている
ホットロッドヴォーカルの傑作。
ただしゲイリーは The Pyramids の
レコーディングには参加してない。
The Pyramids は64年7月に公開
された映画 Bikini Beach に
出演し "Record Run" と主題曲
"Bikini Beach" を演奏している。
どちらもゲイリーとロジャーによる
作品でゲイリーがプロデュース
したもの。しかしこの2曲は劇中
のみの演奏で当時はレコード化
されていなかった。
 ところが "Record Run" の方は "Custom Caravan" に、"Bikini Beach" は
 "Ventura" へと改作され "Custom Caravan" は The Pyramids によって
 シングルカットされたのだ。(Cedwicke 45-13005)
 ここでは The Pyramids のマネージャー John Hodge と Larry Wilson が
 連名でプロデューサーとしてクレジットされている。また "Ventura" の方は
 The Super Stocks の未発表曲として残されている。
連番でリリースされた
 The Pyramids - Contact / Pressure (Cedwicke 45-13006) ではクレジットは
 ないがゲイリーのアレンジによるもの。両面とも彼らの名曲 "Penetration"
 を踏襲したサーフインストの傑作。オレンジラベルは3種類あり1つは
 細字の "CEDWICKE" ロゴ、そしてその太字ヴァージョン、そして
 太字で "CEDWICKE RECORDS" ロゴのヴァージョン。
 因みに映画 Bikini Beach はやはり
 主演は Annette と Frankie Avalon で
 Gary Usher が音楽を担当した。
 The Pyramids がこの映画に出演する
 きっかけとなったのは Roger Christian
 が The Pyramids のプロデューサーの
 John Hodge を知っていたためと
 Gary Usher は語っている。

   Frankie Avalon Promo
 
 当時イギリスの出版社に「ビートルズに対するアメリカの返答」と皮肉られた
 The Pyramids は黒人のギターリストを含む5人組で、話題作りのために
 メンバーの頭をスキンヘッドにしたり、野外ライブ会場に象に乗って
 現れたりした。マネージャーとして彼らが信用していた John Hodge
 は彼らの稼いだ金をかき集め、それは彼らの知らないところで悪い投資に
 使われ、皮肉な事に彼らはこの時期に$1の報酬も得なかったという。
 
 そんな紆余曲折の中で、4月には遂に The Super Stocks のファースト
 アルバム Thunder Road (Capitol T/ST-2078)がリリースされた。

 数あるホットロッドアルバムの中で人気、内容ともにトップランクのこの
 名作アルバムには Hal Blaine ら西海岸のトップミュージシャン達が
 レコーディングに参加。Gary Usher にとって The Super Stocks
 は特別な存在であり The Beach Boys と同じ土俵である Capitol Records
 において、彼が成し得た全てを発表するものだ。このアルバムは
 ポスターを付けてリリースされた。
 

The Super Stocks - Draggin' Deuce
の Acetate 盤 (ラフな初期ヴァージョンを収録)
 
 1964年の The T-Bonesのアルバム Boss Drag At The Beach
 (Liberty LRP-3363/LST-7367) に "Competition Coupe" "Thunder Road" が
 収録されている。彼らは後の Hamilton, Joe Frank and Reynolds になる
 Danny Hamilton, Joe Frank Carollo, Judd Hamilton, Tommy Reynolds を
 表のメンバーにしているが、ラストアルバム以外はすべて The Wrecking Crew
 がアルバム録音をしている。このアルバムでは Dave Pell を
 セッションリーダーにして、Steve Douglas, Ervan Coleman,
 Tommy Tedesco - guitar, Glen Campbell - guitar, Lyle Ritz, Ray Pohlman,
 Plas Johnson - saxophone, Hal Blaine - drums, Perry Botkin Jr. , Frank Capp
 となっているので Gary Usher のプロダクションとあまり差はない。

   The T-Bones
 
 Irma Thomas - Wish Someone Would Care (Imperial LP-9266/LP-12266) 1964
 この Album に "I’ve Been There" という曲が入っており、これが
 Gary Usher-Wink Martindale が書いた曲だ。女性コーラスを従えた
 ミドル・テンポの作品で、とりたててどうというものではないが
 「ニュー・オリーンズのソウル・クイーン」と呼ばれた Irma Thomas によって
 Gary Usher の作品が取り上げられているとは驚きだ。

   Irma Thomas
 本 Album は "Wish Someone Would Care"
 のヒットを受けて制作されたものだが、
 ロサンジェルスの女性ソングライター
 Jackie DeShannon&Sharon Sheeley
 シャロン・シーリー(亡き Eddy Cochran
 のフィアンセだった人)作の最高にヒップな
 "Break-A-Way"なども収録されている。
 このことから白人マーケットも視野に
 入れた Album だったことは明かだ。
 ちなみに Wink Martindale は1934年
 テネシー州ジャクソンヴィル出身の
 DJ兼歌手だった人で、60年代には多くの
 レコードをロサンジェルスの Dot Records
 から発売している。その中には同じ
 Dot Recordsからヒットを飛ばしたRobin Ward
 (Jackie Ward) とのデュエットも含まれている
 のでこれら背後の面子考えたら Gary Usher
 人脈で当然の流れだと思わせる
 セッティングである。

   Wink Martindale

 続く5月には The Kickstands 名義で Black Boots And Bikes
 (Capitol T/ST-2078) をリリース。
 The Super Stocks とほぼ同じ布陣でレコーディング
 され、アレンジャーなどのクレジットはないものの
 Gary Usher は5曲を提供し、演奏にも加わっている。
 リードヴォーカルも Chuck Girard と一緒に担当した。
 このアルバムでは2輪バイクをテーマにしており、
 これは後に成功を収める The Hondells への伏線と
 なった重要なアルバムだ。事実このアルバムでは後に
 The Hondells のアルバムでも収録する "Death Valley Run"
 をはじめとする4曲のオリジナルヴァージョンが収録されている。
 このアルバムはボーナス写真を付属させてリリースされた。
 この “Death Valley Run” は今や世界最高温度を記録した
 カリフォルニア州中部、モハーヴェ砂漠の北に位置する
 深く乾燥した盆地デスヴァレー国立公園でのバイクレース
 を歌っている。Chuck Girard のかっこいいリードヴォーカル
 と、緊迫感のある Hal Blaine のバスドラムのリズムが
 素晴らしい傑作チューンだ。
 
 
 同じ5月に Frankie Avalon がアルバム Songs From Muscle Beach Party
 (United Artists UAL-3371/UAS-6371)を発表。
 この中に "Muscle Beach Party" "Surfer's Holiday" "Beach Party"
 "Running Wild" の4曲が収録されたがゲイリーはレコーディングに
 参加していない。この "Running Wild" は映画用に以前 Gary Usher と
 Roger Christian, Brian Wilson の3人で書かれていた曲。
 

Stereo

     Monoral
 
 更に5月にはもう一枚 The Road Runners のシングル
 Super Torque 427 / Cute Little Colt (London 5208)もリリース
 されている。この The Road Runners については先に触れたが、この曲で
 ゲイリーはリードヴォーカルをとっている。因みにこの曲は Gary Usher
 と Roger Christian が書いたオリジナル作品で、The Super Stocks のアルバム
 Thunder Road では "427 Super Stock" として収録されたものと同一曲。
 ラフな出来であるが、そこが魅力となった作品である。B面はノヴェルティー調
 だが Carol Connors が書いた The Zip Codes の "Run, Little Mustang"
 (Liberty 55703) のフレーズが引用されており、彼らの接点が伺える。
 
 6月1日にゲイリーのソロシングル Sacrament / Just The Way I Feel
 (Capitol 5193)もリリースされた。A面はGary Usher-Brian Wilson
 の共作で The Honeys がバッキングコーラスで参加した。
 B面はゲイリーの単独作だが曲調はどちらもよく似ている。
 両面ともプロデュース&アレンジはブライアンが担当しており、ブライアンには
 珍しくアレンジにハーモニカを使っている。両面とも牧歌的フォーク調の曲で
 ゲイリーのカントリー好きな一面が伺える。特にB面では Annette らに
 歌わせたのどかな旋律がここでも発揮されている。
 
 6月にはゲイリーがソングライティング、プロデュース、アレンジ、
 リードヴォーカルを担当した The Neptunes 名義の
 Shame Girl / I've Got Plans (Warner Brothers 5453) をリリースした。
 両面とも Gary Usher と Raul Abeyta の共作。
 A面はホットロッドチューンではないが Surfy Harmony Pop の名曲だ。
 B面は "I Got Plans" として当初は BMI に登録されていた。
 こちらのリードヴォーカルは Dick Burns だろうか。
 このようにワンショットで変名グループ名義のシングルを製作しても
 高い水準を維持する辺りはさすがだ。ゲイリーがテーマを持って
 名義やレコードレーベルを使い分けていた事が良く解る。
 

 
7月には The Beach Boys が
通算6枚目のアルバム
All Summer Long
(Capitol T-2110 / ST-2110)
をリリースした。この中では
ブライアンとゲイリーの共作
である美しいバラードの名曲
"Wer'll Run Away" が収録
されている。
 
 同じく7月には The Super Stocks のセカンドアルバム Surf Route 101
 (Capitol T/ST-2113) がリリースされ、プロモーション用シングル
 Santa Barbara / Midnight Run (Capitol PRO-2642/2643)が
 配布された。アルバムのタイトルソングでもある Surf Route 101 とはロスの
 ハリウッドからヴェンチュラ経由で
 海岸線を北のサンフランシスコ方面
 まで走らせる101号線の事。
 因みにこの曲は "Route 101"
 として当初登録されていた。
 この Route 101 にはたくさんの
 サーフスポットが点在しており、
 このアルバムでも収録された
 "Ventura" や"Santa Barbara"
 などの曲はそのサーフスポットの
 ことである。
 
 このアルバムはゲイリーには
 珍しくサーフィンだけをテーマにした
 アルバムで、それを意識したのか
 サーフインストナンバーが12曲中7曲
 を占めている。ヴォーカルものが多い
 ゲイリーの作品の中では異色作では
 あるが、内容、質ともに高くファンには
 人気の高いアルバムだ。
 このアルバムにジャケットには
 The Super Stocks Featuring
 Gary Usher という活字が躍っている。
 これは Capitol Records がゲイリー
 を大々的に売り出すキャンペーンだった。
 ジャケットに写る一番右の男が
 Gary Usher だ。撮影されたのは
 Malibu Beach 北部の Zuma Beach だ。
 

左から Wayne Edwards, Richie Podolor, Bill Cooper,
Dick Burns, そして Gary Usher



 アルバムには Gary Usher-Brian Wilson の共作である
 "First Love" も収録された。レコーディングに参加したのは
 Richardf (Dick) Burns, Bill Cooper, Hal Blaine,
 Russell Bridges (Leon Russell), Steve Douglas, Carol Kaye らで
 このアルバムにはジャケット右に丸く
 刳り貫きがされていてそこに
 Mr.Gasser & The Weirdos 名義の
 ボーナスシングルが入る。
 Doin' The Surfink / Finksville
 (Capitol PRO-2644/2645)
 ここではバッキングヴォーカルを
 Gary Usher が担当した。
 
 同7月 Mr.Gasser & The Weirdos のアルバム Surfink
 (Capitol T/ST-2114) がリリースされ、それを The Super Stocks のアルバム
 で告知させるスタイルとなっている。
 これは60年代 Surfin' / Hot Rod シーンに奇抜なデザインのキャラクターで
 Beatnik 的なサブカルチャーを流行させた Ed "Big Daddy" Roth の
 レアワークスとしても人気が高い。このアルバムには The Super Stocks の
 Santa Barbara / Midnight Run (Capitol PRO-2642/2643) がボーナス
 シングルとして付いている。

 Vocals - Gary Usher, Bob Klimes
 Guitar - David Gates, Jerry Cole, Neil Levang
 Keyboards - Leon Russell
 Fender Bass - Steve LaFever
 Drums - Earl Palmer
 Percussion - Frank Capp
 Saxophone - Steve Douglas
 Producer - Jim Economides

ジャケットにホールがないレア盤

通常はボーナスシングルが付いてる
 
 これらのリリースに合わせて Capitol
 はプロモーション用アルバムを製作した。
 The Big Surfing Sounds Are On
 (Capitol PRO-2659)
 このアルバムに収録されたのは
 The Super Stocks の Newpart Beach,
 Midnight Run, Surf Route 101 の
 3曲と Mr.Gasser & The Weirdos の
 Ratfink High, Phantom Surfer,
 Little Fink Surfs Again
 
 同時にプロモーション用の4曲入り EP (Capitol PRO-2662/2663)
 A面は Dick Dale, Jerry Cole を収録。B面には The Super Stocks の
 Surf Route 101 と Mr.Gasser & The Weirdos の Ratfink Highを収録した。


 
 更に7月 Don Brandon の The Party Last Night / Cuandolaluna
 (Dot 16644) をリリース。ゲイリーは A面のみプロデュースとアレンジを担当
 している。実はこの曲は Don Brandon の先のシングル2曲と一緒に録音
 されていたもので、出来の良いアップテンポダンサーに仕上げており
 バックコーラスではゲイリーの声も確認できる。これも先の Swim 系ダンサーで
 確立させていたスタイル。当時 Phil Sloan and Steve Barri もそうだったように
 業界では Twist に続く新たなダンスムーヴメントを作り出そうと躍起になって
 おり Swim 系ダンサーチューンが西海岸のプロダクションから
 多く生み出されていった。
 
 ★1964年8月2日 ベトナム戦争開戦
 
 さて、9月にはいよいよゲイリーに大きなヒットをもたらす事になる The Hondells
 のファーストシングル Little Honcda / Hot Rod High (Mercury 73324)
 がリリースされた。そのリリースから2週間遅れた9月15日にはファースト
 アルバム Go Little Honda (Mercury MG-20940/SR-60940)
 もリリースされたのだった。このアルバムはシングルの大ヒットに引っ張られる
 形で好調なセールスを記録した。

(Mono MG-20940)

   (Stereo SR-60940)
 
 この有名なヒット曲 "Little Honda" は、The Beach Boys が出演した映画
 The Girls On The Beach の為に Brian Wilson と Mike Love が
 書いた曲で The Beach Boys は映画の中でこの曲を演奏している。この映画
 の音楽担当はゲイリーで、ゲイリーはこの曲のヒット性を確信していた。
 しかしブライアンがこれを The Beach Boys としてシングルリリースする気がない
 事を知ると、ブライアンにこの曲を自分のグループでレコーディングさせて
 欲しいと申し出た。ブライアンはこの申し出を快諾、ゲイリーはセッション
 シンガーの Chuck Girard をリードヴォーカルに据えて、ブライアンと
 ほぼ同じアレンジでレコーディングした。
 

映画 The Girls On The Beach
で Annette と共演する
The Beach Boys
 
 B面の "Hot Rod High" は Gary Usher-Roger Christian が書いた名曲で
 その後 The Knights 名義でもシングルカットした。こちらのヴァージョンは
 その後 The Hondells の代名詞ともなるオルガンを間奏部に導入させている。
 ゲイリーの思惑通り、このシングルはぐんぐんとチャートを上昇し、最終的には
 1964年9月12日にピークで9位まで上がる全米トップ10ヒットとなった。
 Chuck Girard は The Castells のリードヴォーカリストで、ブライアンが
 プレゼントし、プロデュースをした "I Do" が有名だが、The Castells の一員と
 して活躍するかたわらで沢山のゲイリーのセッションでも歌っている。
 彼は非常に器用なシンガーで、歌も大変上手い。チャックはヴォーカル面で
 ゲイリーの多くのグループの作品の質を高めている。この大ヒットに慌てた
 Mercury Records はシングル
 リリース後たったの2週間の9月15日
 にはアルバムをリリース。
 実体のないグループのために
 レコーディングを Chuck Girard
 を中心としたセッションメンバーで
 まかない、プロモーション用グループ
 として Dick Burns を中心に立てた
 グループを編成した。因みにこの時に
 元 The Belairs のリードギタリストの
 Paul Johnson もツアーメンバーの
 誘いを受けてるが、当時サイドギターと
 して Dave Allan & The Arrows に
 参加していた彼はそれを断った。

    日本盤シングル

Little Honda と
My Buddy Seat をカップリング
にした再発シリーズ

   実は両A面扱いだった
    White Label Promo
 

"Little Honda" がヒットした為にプロモーション用に架空の
メンバー写真が必要となり写真中央の Richard (Dick) Burns
をフロントにたてた編成でグループ写真が撮影された。
 

日本盤シングル

    日本盤8曲入りコンパクト
 
 Black Boots And Bikes / Death Valley Run も日本では
 シングルカットされた。また当時日本では8曲入りコンパクト盤としても
 発売されている
 
 同じ9月に Bobby Sherman シングルのレコーディングにゲイリーは
 ノークレジットながら参加している。
 You Make Me Happy / Man Overboard (Decca 31762)

Bobby Sherman

楽曲は T.M.Music inc の管理。
これを皮切りに Decca Records
のティーンアイドルシンガーの
レコード製作にゲイリーは
携わっていく。
  
 
 10月に入りゲイリーが製作したシングルがリリースされている。
 The Go-Go's - Saturday's Hero / The Wild One (RCA Victor 5435)
 がそれだ。元々The Go-Go's は日本でも前作 "Chicken Of The Sea" が
 ヒットとなった Perry Botkin, Jr. を中心にしたスタジオグループだったが
 この The Go-Go's 名義のセカンドシングルではゲイリー中心のセッションに変え
 Chuck Girard をリードヴォーカルに据えて製作された。
 A面は以前 The Super Stocks でも使った曲だが、The Go-Go's の
 ヴァージョンの方がバッキングも厚くコーラスアレンジも冴えており出来が良い。
 内容は The Beach Boys の "Be True To Your School" と良く似た曲で
 Chuck Girard の溌剌としたヴォーカルが素晴らしい。
 B面は The Hondells や The Super Stocks でも使用したゲイリーの自信作。
 この The Go-Go's ヴァージョンも出来が良い。


 プロモ盤ではB面のクレジットが
 Garry Usher とミスプリントされている。
 
 この The Wild One は The Hondells のセッションを引き継いだ Mike Curb も
 録音しており The Grads - The Wild One / The Cool One (Mercury 72364)
 として同じ1964年にリリースされた。この The Grads のヴァージョンは他の
 3つのヴァージョンよりもワイルドなアレンジでテンポも速く、他では
 聴けなかった勇猛なフレンチホルンが挿入される。
 この The Grads は一時期 The Hondells のセッションからゲイリーが離れて
 いた時に、プロデュースを担当した Mike Curb のプロダクションに
 よって録音された。The Grads は後に The Sandpipers と名を変えて
 A&Mからヴォーカルイージーリスニングのヒット曲をリリースする
 James Brady, Michael Piano, Richard Shoff の3人組み。

 B面は感傷的なトワングギターインストにムーディーなサックスを
 入れた佳作。この曲 はアルバム The Buddies & The Compact
 (Wing / Mercury ?Records ?SRW 16293) に収録された
 The Buddies 名義の “The Cool One” や
 Davie Allan - Beyond The Surf (Marc Records 107)
 と同じトラックである。
 Direction は Vocal and Instrumental 共に Nick Venet が担当している。
 

The Grads / The Sandpipers

  プロモ盤はピンクラベル
 
 ここで Gary Usher と縁の深い Mike Curb のキャリアを簡単に説明しよう。
 Mike Curb は The Hondells のみならず、その後 MGM Records の社長に
 なりゲイリーの設立した Together Records に出資したり、
 California Music のリリースを請け負ったりとゲイリーとは多くの
 接点を持つ人物である。
 1963年に17歳で Bobby Darin と
 ソングライター契約を結んだ Mike Curb
 だが、これを際に Mike Curb は多くの
 レーベルをまたいで次々と曲を書き始める。
 また Nick Venet のように西海岸の
 若き A&R としてマーケットの最先端へと
 歩んでおり、この時期までに Mike Curb
 はプロデューサー&ソングライター
 として United Artists, Mercury, Smash,
 RCA, Brunswick, Columbia, Dore,
 Deltone, Capitol, Dot, Warner Brothers,
 Reprise と複数の契約をしている。

    Mike Curb
 1964年には Mike Curb にとって初のフルアルバムワークスとなる
 The Buddies & The Compacts (Mercury Wing MGW-12293 / SRW-16293)
 を完成させ翌1965年にリリースされる。ここでは Mike Curb ヴァージョン
 の "Little Honda" が収録されているがオケは The Hondells を
 流用している。また先に記載した"The Cool One" や彼の書いた初期の名作
 "Rebel (Without A Cause)" そして Mike Curb 版の "Don't Worry Baby"
 とでも言うべき作風の "Sickle Riders Nightmare" 等クオリティーの高い
 オリジナルも随所に収録されている。その他にも架空のガールグループが歌う
 "Leader Of The Pack" や Mike Curb が歌うRonny & The Daytonas の
 "G.T.O." カヴァーも収録しており、テーマアルバムとして編集した事が解る。
 Lead Vocals - Jerry Naylor (Uncredit), Guitar - Davie Allan
 Producer - Mike Curb
 Buddy Holly 亡き後に The Crickets の
 リードシンガーになっていた Jerry Naylor
 は、この Mike Curb が請け負った
 Mercury Wing での一連のアルバムで
 全てリードヴォーカルを担当した。
 彼はこのセッションの後に Los Angeles
  に移りソロシンガーとしてデビュー
 する。この Racer & Biker コンセプトは
 後に Mike Curb が設立した
 Sidewalk Production の低予算バイカー
 ムーヴィーでも活かされ、因みにその
 セッションでは子飼いの Michael Lloyd
 ら West Coast Pop Art Experimental
 Band も参加させている。

   Jerry Naylor
 

The Buddies & The Compacts

     The Buddies
 

日本盤

これは当時日本でも編集盤
「太陽のリズム!エレキで飛ばせ!
Rhythm Of The Sun」
(Fontana SFON-10010) として
リリースされた。日本盤では
The Tides, The Dragstars との
カップリング編集になってる。
The Hondells と The Buddies を
収録した日本独自の編集盤
Best Hit Parade '65
(Philips SFL-7226 Stereo)
 
 Mike Curb が The Hondells セッションを流用して1965年に製作したThe Buddies
 名義のアルバムがある。Go Go With The Buddies (Mercury WING
 MGM-12306 / SRW-16306)
 これは The Arrows の Dave Allan
 がバックを担当し、Mike Curb が17歳の
 時に書いた曲 "Warpath" の為に
 録音したセッションを下敷きにしたもの
 だった。この曲 "Warpath" は後の
 The Sunrays のアレンジャーでも有名な
 Hial King も Dave Allan と同じ
 1963年にシングルリリースしており
 Tower Records 設立時に
 Mike Curb も関与していたと推測できる。
 因みに Dave Allan & The Arrows
 には元 The Belairs のリードギタリストの
 Paul Johnson も参加している。

 Dave Allan & The Arrows
  
 そして Mike Curb はその1965年当時19歳の時に The Hondells のCMソング
 "You Meet The Nicest People On A Honda" (Mercury 72479)で、
一躍脚光を浴びた。
この曲はBobby Darinが
設立した T.M.Music inc で
管理されているため
かなり初期の段階で書かれて
いた曲だと推測される。
プロデュース&アレンジも
Mike Curb 自身によるもの。
また両面ともプロモーション用の
映像が残されている。
プロモ盤はピンクラベル
 
 Mike Curb はこの時期に The Buddies や
 The Sudells 等の名義でも Bikers Song
 を発表している。因みに The Hondells の
 セッションや、これら Mike Curb の
 セッションバンドでは Dave Allan を
 ギターで参加させた。
 その派手なギターサウンドを売り物にして
 いた Tower Records の子会社
 Sidewalk Production を1965年に
 Mike Curb は20歳で設立しバイカー
 ムーヴィーを量産していく。
 そしてその後には当時財政赤字に悩んで
 いた MGM Records の社長に抜擢され
 短期間で黒字経営に立て直し、その後も
 立身出世街道を歩んでいく。

 Mike Curb and Dave Allan
 
 話を戻して10月 The Knights の傑作シングル Hot Rod High / Theme For
 Teen Love (Capitol 5302) がリリースされた。A面は The Hondells でも使った
 ゲイリーとロジャーの共作ナンバーだがこのレコーディングにはゲイリーは
 関わっていない。リードヴォーカルを Chuck Girard が務めたこの傑作
 シングルのセッションは Steve Douglas が中心となってレコーディング
 がされ、Hal Blaine らスタジオミュージシャンが参加した。
 The Hondells ヴァージョンよりも若干テンポを落とし軽いエコーをかけている。
 B面は Jim Economides が書いた感傷的なサマーポップインストの傑作。
 両面ともプロデュースは Jim Economides でアレンジは Steve Douglas
 

Title 横一列表記の珍しいヴァージョン
 
 同じ10月に The Knights のアルバム Hot Rod High (Capitol T/DT-2189)
 をリリース。これにはシングルカットされた "Hot Rod High" も収録されたが
 シングルとアルバムではミックスが異なる。アルバムヴァージョンの間奏は
 冒頭ギターのみで続いてサックスブローが絡んでくるが、シングルヴァージョン
 は最初からギターとサックスが入ってくる。またシングルではブリッジの部分
 が短く編集されているためにドライヴ感が凄まじい。
 プロデュースは Capitol Records の名プロデューサー Jim Economides
 The Knights のアルバムで
 リードヴォーカルをとっている
 のは殆ど Chuck Girard
 だが、ゲイリーのリードも
 1曲だけ収録されている。
 それは Mr. Gasser の
 セカンドアルバムでも使用
 した "The Lonely Stocker"
 と同じ曲だがタイトルを変更し
 "Lonely Little Stocker"
 としてリメイクされた。
 The Knights のアルバムで
 収録されたヴァージョンの
 方が完成度は高い。
 
 これに続き The Super Stocks の3rd アルバム School Is A Drag
 (Capitol T/ST-2190) がリリースされた。
 このアルバムも Featuring Gary Usher とクレジットされており
 ジャケットの中央には Draggin' High '64 と書かれ2つの
 ホットロッドレースカーの写真がタグ状にプリントされている。
 またこのアルバムはThe Knights のアルバムと連番だが The Knights が擬似ステレオ
 の DTナンバーだったのに対して The Super Stocks はステレオの STナンバーと
 なっている。Chuck Girard の素晴らしいティーンヴォーカルのタイトルソング
 で幕を開けるこのサードアルバムではインスト曲を2曲だけに留め、
 ヴォーカル曲中心に収録された。
 またサウンド的には今までの
 The Super Stocks 名義の曲よりも、
 この頃好調なセールスを記録
 していた The Hondells に近い。
 実は The Hondells の 1st アルバム
 と The Super Stocks の 3rd アルバム
 は3日違いで録音されている。
 レコーディングメンバーも似通っている
 ので必然的にサウンドが似ている。

 
 ここでは後に新たなアレンジで蘇る
 タイトルソング "School Is A Drag" と
 以前 The Go-Go's 名義でも録音された
 "Saturday's Hero" のファースト
 ヴァージョンが収録された他
 若き Harry Nilsson が書いた
 "Readin', Ridin' And Racin" や
 ゲイリーのリードヴォーカルによる
 "Little Honda" が収録された。

 アルバム最後を締めくくるロマンティック
 なサーフインスト "The Last Walk"
 は Richard Podolor が書いた名曲。

  Harry Nilsson
 
 更に10月、ゲイリーは The Wheel Men 名義で School Is A Gas / Honda Beach
 (Warner Brothers 5480) をリリース。A面は The Super Stocks の名曲
 "School Is A Drag" を改作したもので、全く違うアレンジを施し、メロディーも
 変える等、様々な工夫が伺える。"School Is A Drag"とは Drag (引きずる)
 「学校は退屈だ」の意味、それに対して "School Is A Gas" とは
 Gas (ガソリンで満たされる、スラングで「楽しくさせる」) 「学校は楽しい」
 の意味。そこにカーレースの専門用語の A/Gas をひっかけた
 ダブルミーニングにしてる。A/Gas の “Gas” とは Gasser と呼ばれる
 Hot Rod の一種でメイカー各社が本格参戦する Factory Hot Rod Car Race
  が開催され始める以前のストックカーレースを指す。
 これは1950年代後半に発生し1970年代初頭まで続いた。
 レギュレーション(レースのためのルール規制)別に
 A/Gas, B/Gas, C/Gas, D/Gas と続いていき A/Gas が最も早く走るために
 改造されている。イコール「学校は超イケてる」の意味にもなる。
 ここで聴ける Chuck Girard のリードヴォーカルは、
 あどけないティーンヴォーカルで人気が高い。
 B面も The Hondells で使った "Honda Beach Party" を再アレンジしたもので
 "Grid Iron Goodie" と言う違うヴァージョンも録音されており、それは上記の
 The Super Stocks のサードアルバムに収録されている。
 
 また10月には The Surfaris が Hot Rod High / Karen (Decca 31682)を
 リリースしている。A面は The Hondells や The Knights でも使ったホットロッド
 ヴォーカルの名曲。 The Surfaris はリードヴォーカルにグループのドラマー
 である Ron Wilson を据え、ゲイリー達がバックコーラス参加した。
 ここでは彼らは敢えて間奏部分を抜き取りヴォーカルメインで録音している。
 B面はドラマでは The Beach Boys が歌った同名テレビ主題歌のカヴァー。
 アメリカではこのシングルはヒットしていないが、日本では両面とも別々に
 シングルカットをし "Karen" の方はヒットを記録している。
 因みに "Hot Rod High" の日本盤シングルにはアメリカ盤には
 入ってない車の効果音が挿入されている。
 
 同じ10月に The Surfaris のアルバム Fun City U.S.A.(Decca DL-4560/
 DL-74560) もリリースされた。

 

日本盤シングル
 
 また11月には The Hondells のセカンドシングル My Buddy Seat
 / You're Gonna Ride With Me (Mercury 72366) が発表された。

 Promo Copy はラベルがえんじ色の艶なしダークレッドだ。
 A面はゲイリーとブライアンの共作で
 コーラスには Brian Wilson の他
 Bruce Johnston, Terry Melcher
 も参加した。ブライアンは以前参加した
 Jan & Dean の "Surf City" によって
 自分のヴォーカルが大きくフューチャー
 されてしまった事を後悔し The Hondells
 のこのレコーディング参加には躊躇い
 があった。しかし Chuck Girard の
 リードヴォーカルは上手くコントロール
 され、ブライアンが自分のヴォーカルが
 極端に目立たつ事を嫌った懸念を
 見事に排除している。ゲイリーは
 大ヒットした前作 "Little Honda" の
 フォローアップを狙ってこのシングルの
 製作に力を注いだ。
 奇抜なコーラスワークをフューチャーしたこの曲は Bruce Johnston も
 The Rip Chords - Don't Be Scared (Columbia 4-43221) でプロトタイプ
 を完成させており、その曲風も似ていた。B面は The Hondells の中でも
 1,2 を争う傑作ホットロッドチューン。Mercury Records も
 プロモーションに力をいれてピクチャースリーヴを付けて発売したが
 チャートでは87位までしか上がらなかった。
 
 
 同じ11月には Mr. Las Vegas こと Wayne Newton が
 Coming On Too Strong / Lookin' Through A Tear (Capitol 5338)
 をリリースした。A面は Gary Usher-Raul Abeyto (Raul Abeyta) の曲で
 両面ともプロデュースは Bobby Darin の持つ T.M.Productions 行っている。
 A面では Terry Melcher がアレンジを
 担当、また Bruce Johnston もバック
 で参加するなど同プロダクションの
 総力をかけた作品に仕上げている。
 これは "Be My Baby" を意識した
 バスドラムとブリッジ部分に素晴らしい
 コーラスが入った傑作で全米65位の
 スマッシュヒットとなった。
 因みにこのシングルでは綴りが Coming
 となっている 1st press と
 Comin' となっている 2nd press の
 2種類がある。またマトリクスナンバーの
 違いは現在までに3種類確認されている。

    Wayne Newton

1st Pressing

    2nd Pressing
  
 この11月には The Castells がアレンジャーに Perry Botkin Jr. を迎え
 Love Finds A Way / Tell Her If I Cried (Warner Brothers 5486)
 をリリース。A面は Gary Usher と Raul Abeyta の共作で曲を提供したもの。

The Castells
Raul Abeyta は元々ティーン
ポップシンガーとしてデビュー
していたソングライターでその後
もゲイリーと共作活動をしている
が多くの未発表音源も確認
されている。B面はチャックの
自作だが彼はソングライターと
しても多くの自作曲を持っていて
これも出来が良い。
両面とも White Vocal の作品。
チャックのグループヴォーカル
の水準の高さが現れた傑作だ。
 
 更に11月には The Ghouls 名義のアルバム Dracura's Deuce
 (Capitol T./ST-2215) もリリースされた。
 折りしも The Munsters (CBS), The Addams Family (ABC)
 とモンスターホラーコメディーのテレビ番組が始まった
 1964年、まさにアメリカではモンスターホラーコメディーの
 ムーヴメント到来!とリリースされた企画アルバムだ。
 グループ名の The Ghouls (グールズ)とは、墓場を荒らして
 人肉を食する悪鬼達のことだ。ゴールスでもクールス
 でもないので要注意(笑)しかし何とも物騒だが、
 サウンド自体は Monster Hot Rod の部類に入るもので、
 この手のファンには人気がある。夏場に聴けば、ただで
 さえ涼しい感じのする Surf Music であるが、更に涼しく
 なることうけあいである。1964年10月に録音された
 本件はアルバムのタイトルにもなった曲で、真っ黒に
 ペイントされたドラキュラの Deuce Coupe を歌った
 ノベルティ・ソングである。
 Jim Economides (Producer)
 Gary Usher (Leader, Conductor, Vocals)
 Glen Campbell (Guitar)
 Richie Allen (Guitar)
 Ritchie Burns (Guitar, Vocals)
 Bill Cooper (Bass)
 Hal Blaine (Drums)
 Steve Douglas (Saxophone)
 Chuck Girard (Lead Vocal, Keyboards)
 収録曲 Dracula's Deuce はまるで霊柩車のようだが、タイトルとは
 裏腹に女性コーラス隊も入るポップで楽しい曲だ。
 あがた森魚氏のテクノポップユニットであるヴァージンVSの
 「さらば青春のハイウェイ」や「星空サイクリング」等で
 遠藤賢司さんの奥さんの関端ひかるさんらが入れる明るい
 女性コーラスの原型が The Ghouls - Dracula’s Deuce から
 伺えると言えば乱暴だろうか(笑) Jan & Dean の "Little Old Lady
 From Pasadena" をもじった"Little Old Lady From Transylvania"
 (トランシルヴァニアはドラキュラが住んでるとされるルーマニアの地名)
 を収録する等、 アルバム自体も良くできており
 ノヴェルティ・アルバムの中でも最高峰に位置
 する一枚だ。
 Chuck Girard と Richard Burns
 が本アルバムで交互にリードヴォーカル
 をとっているのも特長だ。またインスト曲
 の中には棺桶を開く「ギィ ギィー」といった
 効果音を入れモンスター愛好家からも
 高い評価を得ている。
 
 
 またこの頃に Gary Usher と
 Roger Christian が構成をした
 アルバム The Beatles' Story
 (Capitol TBO/STBO-2222) という
 2枚組がリリースされた。これは日本でも
 リリースされているのでビートルズファン
 には有名なアルバムだが、ドキュメント的
 なアルバム。語り手の一人として本来は
 Radio D.J. である Roger Christian
 も参加している。

 
 
 ホットロッドイラストレイターの William Campbell が
 描いたモンスター系のコミカルなキャラクターを
 モチーフとしたプラモデルやフィギュアが発売された。
 結局この奇妙なモンスターキャラクターはディズニーに
 対するアンチテーゼだ。甘いキャラなんかに満足できない
 年齢層はアヴァンギャルドなキャラに魅せられるのだ。
 日本で言うところの「キモカワ」ってとこか。
 現在でも根強いマニアがいるそのモンスターキャラクター
 を題材にし、Gary Usher のノヴェルティー路線が
 開花した2枚のモンスター系ノヴェルティーアルバムが
 Mercury Records からリリースされた。
 The Weird-Ohs - New! The Sounds Of The Weird-Ohs
 (Mercury MG-20976/SR-60976)
 
 The Silly Surfers - New! The Sounds Of The Silly Surfers
 (Mercury MG-20977/SR-60977)
 
 この2枚はどちらもサウンド的には同じで、当時プラモデルでも販売されていた
 奇妙なモンスターキャラクターを題材にしたものでホットロッド
 イラストレイターのWilliam Campbell が描いている。
 アルバムジャケにこう書いてある ”Music to make models by"
 「プラモデル作りながら聴いてね」と。
 Mercury Records から上記の2枚がリリースされ、このプラモデル会社の
 Hawk が Haily というレーベルからこの2つのアルバムから6曲ずつ
 ピックアップして編集し宣伝用アルバム (Haily 101)としてもリリースした。
 これらのアルバムでも Chuck Girard が
 リードヴォーカルを担当し楽しい
 Surf Style Vocal を聴かせ
 1965年にカルト映画 Psycho a Go Go にも
 出演する女優の Shary Richards が奇妙
 かつぶっ飛んだポップな声を挿入する。
 プロデュースはこのプラモデルの発案者
 でおもちゃやゲームの有名な製作者の
 Reuben Klamer、そして Direction は
 Nick Venet が担当した。
 楽曲は Gary Usher-Roger Christian
 の他にも Jimmie Haskell, Dave Weiss
 らが提供している。
 
 

 William Campbell のキャラクター
 Directed By Nick Venet
 Produced By Reuben Klamer
 Gary Usher
 Ritchie Burns
 Richie Podolor
 Jerry Cole
 Randy Thomas
 Chuck Girard
 Shary Richards
 All Selections written by Roger Christian, Jimmy Haskell,
 Gary Usher And Dave Weiss

 

The Weird-Ohs 表

  The Weird-Ohs 裏
 

The Silly Surfers 表

  The Silly Surfers 裏
 

Haily 101 Promo 表

   Haily 101 Promo 裏
 
 12月に入り The Hondells の 2nd アルバム The Hondells
 (Mercury MG-20982/SR-60982) がリリースされた。
 このアルバムは先にシングルリリースされていた "My Buddy Seat" と
 "You're Gonna Ride With Me" をメインに "Black Denim" や "My Little Bike"
 といった多くの名曲も収録されておりグレードの高いアルバムに仕上がった。

 アメリカ盤アルバム

   日本盤アルバム

日本盤コンパクト

   日本盤シングル

日本盤コンパクト

   日本盤シングル
 
 12月に The Pyramids の悪名高きマネージャー John Hodge が手がけていた
 別のグループ Dave Myers and The His Surftones が
 Gear! / Let The Goodtimes Roll (Wickwire 13008) をリリースしている。
 A面はゲイリーの作品。Dave Myers は Dick Dale の弟子と言われており
 実際に Dick Dale からギターを教わっていたという。まだ売れない若い頃に
 ギター奏法を教えるアルバイトをやってたという Dick Dale は Dave Myers

 にギターを教えている。

Dave Myers and The His Surftones

 この曲"Gear!" も当然 Dick Dale スタイルのトレモロ演奏に強烈な
 リヴァーヴをかけた傑作インストだ。アレンジは Rodney Barken となっている。
 しかし不思議な事にこのシングルは2種類のレーベルクレジットが存在
 しており、1枚は作者が Gary Usher 単独となっているが、もう一枚は
 John Hodge と Larry Wilson が "Hodge-Wilson" クレジットされてる。
 前者はパブリッシャーが Number One Music とされているのに対して
 後者では Dorothy Music とクレジットされている。ここら辺にも
 John Hodge のきな臭さが伺える。

 因みに Number One Music とは Gary Usher と Brian Wilson が楽曲管理の
 為に設立した音楽出版社だ。以前 Rachel and The Revolvers のB面に収録された
 "Number Nine" が Number One Music で管理されている。

Gary Usher / Number One

  Hodge-Wilson / Dorothy
 
 また12月にゲイリーはカントリーシンガーの大御所である Hank Snow に
 Human (RCA Victor 8488) という曲を書いている。曲は全くのカントリーソング
 だがゲイリーがカントリーシンガーにまで曲を提供していたというのは意外
 な事実だ。曲は 4 Star 時代に書かれていた初期の作品で、作詞作曲も
 ゲイリーによる長閑な作品。因みにプロデュースは Chet Atlins

Hank Snow
 
 こうしてゲイリーにとって多忙だった1964年は終わったが、この年はゲイリー
 が待ち望んでいた大ヒットも生まれ、非常に充実した1年となった。
 ほんのついこの前まで、小さなスタジオでチープな機材を使ったレコーディング
 をしていたゲイリーだったが、今やメジャーレーベルの重役達からも注目
 されるプロデューサーに成長していた。
 しかし時代は徐々に移り変わり、とりまく社会情勢も変化していた。
 それは Surfin' & Hot Rod Music 黄金時代の終焉に近づいていた。
 
続く / be continued
 
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