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Original Intellectual Record Shop COOL HAND are go!
COOL HAND

古物商許可番号
第731269400017号
(広島公安委員会)

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Amusement
Club60's
E-mail
 
Vol. 11
01 Betty Ann Shor - Bikini
02 Tennie Leonard - (Can't Get Into) Last Year's Bikini
03 Jo-Ann Campbell - Beach Comber
04 Tuesday Weld - All Through Spring And Summer
05 Carole King - Queen Of The Beach
06 The Vonnair Sisters - Beach Love
07 Norma Mendoza And The Jimmy Wisner Quintet -
The Girl On The Beach
08 Linda Scott - Through The Summer
09 Linda Leigh - Lover's Beach (Concerto For The X-15)
10 The Lewis Sisters - Moonlight On The Beach
11 Vicki And The Townsmen - Beach Blues
12 Little Pattie With The Statesmen - He's My Blonde Headed
Stompie Wompie Real Gone Surfer Boy
13 Donna Gaye - Hey, Beach Boy
14 Margie Bayes with The Hearsemen - Why Can't I Go Surfing?
15 Margy Bayes - I Wanna Wear My New Bikini
16 Pam Oakley And The Viscounts - I Want To Be A Surfer Girl
17 Noeleen Batley - Surfer Boy
18 The Bitter Sweets - What A Lonely Way To Start
The Summertime
19 Della Rae - Hurry Up Summer
20 Humpty And The Ivanhoes - In The Evenin'
21 Jan Bradley - Just A Summer Memory
22 Him And Her - Summer Days Are All Gone
23 Judy Eggers - Summer Boys
24 The Kittens - Lonely Summer
25 The Honeys - Shoot The Curl
26 Ellie Gee & The Jets - Red Corvette
27 Kay Bell & The Tuffs - Surfers' Stomp
28 The Quinto Sisters - Summer Nights
29 Shirley Paige - I Met The Nicest Man On A Honda
30 Susan Wayne - Think Summer
31 Supremes - Surfer Boy
32 The Supremes - Dr. Goldfoot And The Bikini Machine
33 The Beas - Doctor Goldfoot And The Bikini Machine
34 Marianne Faithfull - Summer Nights

Vol.11
Girl / Female Edition
Other stuff with beach pop, summer pop etc


Betty Ann Shor
11-1
Betty Ann Shor - Bikini
(7: Justice Records JU 682) 1959
Rock & Roll era の1959年に New York のローカルレーベルから
リリースされた1枚で明らかに1958年のヒット
Royal Teens "Short Shorts" の影響下で書かれている。
我が国には提灯ブルマ (ちょうちんブルマ:女児の下半身に
フィットしていないブカブカのブルマ。1964年の東京オリンピックでは
他国がショーツ型ブルマでプレイする中、女子バレー日本代表は
ちょうちんブルマを着用して金メダルを獲得している) という
偉大な文化があるが、1959年のビキニといえばヘソも隠れるほどの
デカパンでその多くが提灯ビキニであった。
現代ほど際どくセクシーなデザインではなかったにしても当時は
世の殿方達にとってウハウハ (死語) 級のセクシー水着であったために
Rock & Roll era にリリースされたビキニソングは冷やかし系の
ノヴェルティーソングが一般であった。
そこに小さな女の娘にこの題材で歌わせるとなると、もはや
コメディーソングである。
因みに作者の Andy Halmay-Dick Friedenberg は1958年に
Lillian Briggs "Come Here" (Sunbeam 104) を書いており
Andy Halmay は1958年に Carl Perkins "Pop, Let Me Have The Car"
(Columbia 4-41207)
Dick Friedenberg は1959年に The Tempos "Bless You My Love"
(Climax Records 45-102) を書いている事を追記しておこう。

 

Tennie Leonard
11-2
Tennie Leonard - (Can't Get Into) Last Year's Bikini
(7: Coral 62368 Promo only) 1963
長いキャリアを持つ彼女の初期の作品で「去年のビキニがもう着れない」
といったノヴェルティーソングである。
彼女は Manhattan のアッパーウェストサイドで育ち、
Frank Sinatra がまだヴォーカルグループ The Hoboken Four の
一員だった頃、ラジオで “Major Bowes” に出演していたように、
彼女もまた子供のパフォーマーとして有名な “Ted Mack’s Amateur Hour”
に出演していた。彼女は他の数多くの子供向けテレビ番組にも
出演しており高校ではオペラを勉強してたが、すぐに本来の自分の
スタイルに気づきブロードウェイミュージカルとポップスタンダード
の道を選んだ。
17 歳のとき彼女は最初のシングル “Sincerely Yours” を共作し、
RCA/Decca records のためにレコーディングした。
1960年代には “Look at Me”, “Poor Girl”
そして本件 “Last Year’s Bikini” で有名になった。

その後、彼女の歌手としてのキャリアはキャバレーとナイトクラブに移り
毎晩 The Living Room, Rita Dimitri’s La Chansonette, The Bon Soir,
The Blue Angel に出演し、Johnny Carson の The Tonight Show や
The Merv Griffin Show 等にも出演しショービズの世界で成功した。

 

Jo-Ann Campbell
11-3
Jo-Ann Campbell - Beach Comber
(7: Gone Records 5068) 1959
(LP: End END LP-306 Mono) 1959
シングルのラベルクレジットは "Beach Comber" だが
アルバム I'm Nobody's Baby ではクレジットが "Beachcomber"
となってる。

Florida 州 Jacksonville 出身の Jo Ann Campbell は
ロカビリーのパイオニアの1人である。
彼女は4歳で音楽学校に通い始め、Fletcher High School
でバトンガールとして多くの栄誉を勝ち取った。
1954年、彼女はダンサーとしてヨーロッパを旅し、
その後 New York に移り、そこで Johnny Conrad Dancers
に参加し、The Milton Berle Show や The Colgate Comedy Hour
などのテレビ番組に出演した。1956年、彼女はダンスをやめて
歌手になることを決意。彼女は New York の RKO-Point Records
と最初のレコーディング契約を結び、1956 年にデビューシングル
Where Ever You Go / I'm Coming Home Late Tonight を
リリースした。ハーレムのアポロ・シアターで演奏した後、
Eldorado Records と契約、彼女は1957年にセカンドシングル
"Come On Baby" を書いてリリースした。
その後彼女は Go, Johnny, Go (1959) と Hey, Let's Twist! (1962)
の二つの有名なロックンロール映画に出演をしてる。
本件シングルのリリース当時に彼女は21歳で
ロックンロール期にリリースされたビーチポップで、かっこいい
ギターブレイクを挿入し Male group をバックに歌っている。
彼女は5年後の1964年には人気絶頂期にソングライターの
Troy Seals と結婚して引退する。しかし1965年に夫婦の
Jo Ann & Troy 名義でシングル2枚をリリースする。

 

Tuesday Weld
11-4
Tuesday Weld - All Through Spring And Summer
(7: Plaza Records P-508) 1962
女優 Tuesday Weld のレコードデビューシングルで当時19歳!
素晴らしく美しいサマーバラードを見事に歌っている。
Ricky Nelson の "Blood From A Stone” を書いた Rupert Stephens
と Wendy Hill, Christy Loring, Kelley Kendricks らガールポップを
書いている Jan Zackery が作者としてクレジットされている。
驚くべき事は The Electric Prunes の " Mass in F Minor" の作者で
今や Dr. Dre や DJ Shadow や Lauryn Hill にサンプリングされ
Drum and bass, Abstract hip-hop 界隈で有名にもなった
David Axelrod の初期プロデュース作品 (うぎゃああああ:死語)
因みに Orchestra Conducted by H.B. Barnum (むぎゅう:死語)


David Axelrod


H.B. Barnum
 

Carole King
11-5
Carole King - Queen Of The Beach
(7: RCA Victor 47-7560) 1959
Carole King のセカンドシングルにて後に結婚する Gerry Goffin と
ソングライターコンビを結成した初期の傑作ビーチロッカー。
Rock & Roll ムーヴメント真っ只中の当時この天才娘は
なんと17歳のソバカス女子高校生である。

 

The Vonnair Sisters
11-6
The Vonnair Sisters - Beach Love
(7: Buena Vista Records F-383 y) 1961
(7: Buena Vista Records F-383) 1961
日本では1962年にザ・ピーナッツがカヴァーした
「あなたなんかもういや」のオリジナル曲
The Vonnair Sisters - I Don't Want To Play In Your Yard
で知られる三人姉妹。
Renee Von Euer, Sheila Von Euer and Sonya Von Euer と
ファミリーネームが Von Euer である。どうやら Disney musical の
director をしていた Basil Adlam (Buzz Adlam) のソングライター
パートナーの Mitzi Vonnair から彼女達はグループ名をつけられたようだ。
彼女達は Annette & The Vonnair Sisters ? Dreamin' About You /
Strummin' Song (Buena Vista Records F-388) で Annette の
バックアップコーラスを担当した事もある。姉妹グループ特有の
実力の高いコーラスワークを武器に Buena Vista Records で
6枚のシングルをリリースした。
本件はそんな彼女達のデビューシングルで、細波の効果音と
語りを入れた美しいビーチバラードの傑作。

 

Norma Mendoza
11-7
Norma Mendoza And The Jimmy Wisner Quintet -
The Girl On The Beach
(7: Decca 31985) 1966
1931年 Philadelphia 生まれのピアニスト Jimmy Wisner は1950年代に
地元のジャズバンド Charlie Ventura And His Orchestra に参加した。
1959年に Jimmy Wisner Trio を結成しアルバムをリリース。
1960年に地元のクラブサーキットでハワイ生まれで同い年の女性シンガー
Norma Mendoza のバックを務めた。同年演奏を Jimmy Wisner Trio
が担当し Norma Mendoza のデビューアルバム All About Norma が
リリースされ,そこでは多くの曲を Jimmy Wisner が書き下ろしている。
アルバム制作を通じ親密になった Jimmy Wisner と Norma Mendoza
は結婚した。Jimmy Wisner は Jimmy Wisner Trio の活動を続けながら
ダンスムーヴメントで Danny & The Juniors や The Dovells,
Chubby Checker, Dee Dee Sharp らの全国的なヒットを量産し始めた
地元のレーベル Cameo-Parkway Records に売り込みを始めた。
そこで Jimmy Wisner は John Madara & David White
(通称 Madara-White) の名ソングライターコンビに出会った。

Madara-White の作品にアレンジャーとして迎えられた Jimmy Wisner は
アレンジャー、プロデューサーとして成長していき数多くの楽曲を
手掛けていく事になる。
で、本件はそんな Jimmy Wisner が妻で最高のヴォーカリストである
Norma Mendoza をフロントに立てた作品で、夢見心地な
Summer Bossa で聴く者をうっとりさせる傑作シングルだ。

因みに Jimmy Wisner-Norma Mendoza は夫婦で楽曲も書いており
結婚した1960年の Merv Griffin "Hey, Pretty Baby" を皮切りに
当然ながら Jimmy Wisner がアレンジャーを務めた作品ばかりで
1962年 Billy Duke "Timbuctu" , Georgie Camp "Jimmie Told A Lie"
1962年に "So Much In Love" でも有名な The Tymes の
デビューアルバムのタイトル曲 "Somewhere" を提供。
1963年には Bobby Rydell に "Love, Love Go Away" を提供している。


Jimmy Wisner


John Madara & David White
 

Linda Scott
11-8
Linda Scott - Through The Summer
(7: Congress 103) 1962
(LP: Congress Record Corp. LP 3001 Mono / LPS 3001 Stereo) 1962
当時17歳の Linda Scott が歌う可憐なサマーバラードで
A面 Bing Crosby の1937年のヒット曲カヴァー "Never In A Million Years"
は1962年6月に Billboard Chart 56位のスマッシュヒットになった。
本件は所謂ヒットシングルのB面曲である。
作者は Rudy Clark でプロデュースとアレンジは Hutch Davie が担当した。
しかし17歳でこの安定感、前年に "I've Told Every Little Star"
(Canadian American Records, Ltd.123) で全米3位の大ヒットを
記録したのだから、もはや超売れっ子少女だった。

1945年6月1日に New York 州 Queens で生まれた
Linda Joy Sampson は家族とともに New Jersey 州 Teaneck に
引っ越したとき11 歳だった。コラムニスト Dick Kleiner によると
彼女が13歳のとき地元の新聞でソングライターの Jane Douglass White
に関する記事を読んだという。彼女は New Jersey 州在住の女流作家
Jane Douglass White に手紙を書き、彼女を紹介されて気に入った
Jane Douglass White は彼女の注目を集めるデモンストレーション
の制作を手伝いデモレコードでピアノを演奏した。
1959年に Arthur Godfrey の人気CBSラジオ番組に出演するための
オーディションを受けたとき彼女は Teaneck の中学校に通っていた。
番組への出演を勝ち取った後、彼女や他の若いパフォーマー達は
番組の常連ゲストになった。 番組の放映中に歌った彼女は Epic Records
に注目され、Linda Sampson 名義のシングル
In-Between Teen / Lover Of The Year (Epic 5-9341) で1959年に
デビューした。

Teaneck 高校に進学した彼女は、1961年に Santo & Johnny
の "Sleep Walk" で全米1位を得た新興レーベル
Canadian-American Records と契約した。
レーベルは彼女の芸名を Linda Scott に変更し、Oscar Hammerstein II
と Jerome Kern が1932年に制作した Music In The Air のために
書いたスタンダード曲 "I've Told Every Little Star" をリリースした。
この曲は100万枚以上を売り上げ全米3位の大ヒットとなり、
Linda Scott はゴールドディスクを獲得した。

Linda Scott の3大ヒット曲は "I've Told Every Little Star" (全米3位)
"I Don't Know Why" (全米12位)
"Don't Bet Money Honey" (全米9位) で、最初の2曲はスタンダード曲
のカヴァーで、3番目は彼女の自作曲だったので彼女の
ソングライティングセンスをも物語っている。


Hutch Davie


Rudy Clark
 

Linda Leigh
11-9
Linda Leigh - Lover's Beach (Concerto For The X-15)
(7: Reprise Records R-20,078) 1962
Surfin' & Hot Rod 業界では Bruce Johnston のレアワークス
Linda Leigh And The Treasure Tones - My Guy / I Promise You
(American International Records 540)
でも知られる Linda Leigh だが、この歌は1961年の映画 X-15 に
関連している。所謂 Space Age / Space Bachelor Pad モノで、
宇宙時代の独身者愛好音楽といった宇宙時代幕開けをステレオサウンド
で満足に浸る独身者の愛好するイージーリスニング系のサウンドを指す。

実験用ロケットの X-15 からインスピレーションを得たもので、
X-15とは極超音速飛行を達成した最初の有人航空機であり、
成層圏上空の飛行を初めて達成した航空機でもある。

この映画は、NASA の最も初期のプログラムの1つである
ロケット飛行機の開発プログラムをドラマ化したもので
NACA (NASAの前身) から継承されたもの。
パイロット、航空機関士、乗組員とその家族などの登場人物が
登場するこのプロットラインは、実際の出来事を中心に
描かれた架空の物語だった。
出演は David McLean, Charles Bronson, James Gregory,
Mary Tyler Moore (映画初主演) らで、Richard Donner の
監督デビュー作。ナレーションは James Stewart が務めた。

でその背景を元に先ず映画公開された1961年に
Elliott Evans "Concerto For The X-15 (A Tribute To The X-15)"
(Reprise Records R-20,039)
Elliott Evans "Lovers' Beach (Concerto For The X-15)"
(Reprise Records R-20,039 Promo)
がリリースされたのだが、プロモ盤は本件と同じタイトルに
変更して配布された。
共にB面は Neal Hefti - Theme From The X-15 が収録された。

で前置きが長くなったが、本件はその翌年に Linda Leigh が
リリースしたシングル。これは映画に良くある手法で
壮大なスペクタクルや人類の悲劇のシーンではバックで美しい
バラードが流れて具体的現実と非現実の狭間で視聴者に
観念的な視点を訴える技法がこの美しいビーチバラード
から伺える。戦争の爆撃シーンに美しいクラシックを
流して効果をあげるのと同じ。

 

The Lewis Sisters
11-10
The Lewis Sisters (The Singing School Teachers) -
Moonlight On The Beach
(7: V.I.P. V.I.P.-25024) 1965
Helen Lewis (AKA Helen Mastor) と Kay Lewis (AKA Kay Miller)
による白人姉妹デュエット。写真では、かしまし娘をも想起させるポーズで
笑いを誘うが、この美しいビーチバラードは Berry Gordy Jr. と Robert Gordy
によって書かれ、彼らの共同プロデュースで録音された。

Helen と Kay の姉妹は、クラシックの傾向を取り入れたニッチで
斬新なレコードを数多くリリースしていたが、彼女達はアーティスト
としてではなく、ソングライターおよびバックヴォーカリストとして
Los Angeles にある Motown の西海岸オフィス (後の MoWest) に
やって来た。プロデューサー Hal Davis は彼女達の声をとても
気に入ったので、最終的にアーティスト契約も結ぶことになった。
不可解なことに The Singing School Teachers「歌う学校の先生たち」
と宣伝され(二人とも実際には教師ではなかったが)、Motown 社長の
Berry Gordy Jr. が直接関与し、リリースするという稀な特権にも
かかわらず、彼女達の Motown での2枚のシングルは大きな関心を
集めることができなかった。

その後 Helen と Kay はソングライティングにこだわり
優れた曲を書いた。姉妹で書いた代表的な曲を列記する。
Smokey Robinson & The Miracles "Baby Baby"
Martha & The Vandellas "Happiness Is Guaranteed"
Patrice Holloway "Stay With Your Own Kind"
Gladys Knight & The Pips "Just Walk In My Shoes"
The Sweet Inspirations "Walk In My Shoes"
Lisa Miller "Love Is" / "Loneliest Christmas Tree"
Sandy Wynns (Edna Wright) "How Can Something Be So Wrong
(And Always Feel So Good)" / "Love's Like Quicksand"
H.B. Barnum "Heartbreaker"
Edwin Starr & Blinky "Can't We Be Strangers Again"
Edwin Starr & Blinky "I See A Rainbow"
Nancy Wilson "How Many Broken Wings"
Les McCann With Roberta Flack "How Many Broken Wings"
The Osmonds "He's The Light Of The World"


Berry Gordy Jr.
 
11-11
Vicki And The Townsmen - Beach Blues
(7: Vestal 1913) 1964
ガールシンガー Vicki Roberts をフロントにした Alabama の
ガレージバンドが残したビーチバラードの逸品で彼女と
The Ramrods のギタリストでヴォーカル担当の Joe Lackey
による共作で、録音は地元 Alabama 州 Birmingham の
Boutwell Recording Studios で行われた。
Vicki And The Townsmen の前に前身バンドの Vicki And The Spades
は1962年に Tell Me No Lies / About Cool (Vestal 1908) をリリースし
"Tell Me No Lies" は Birmingham で数週間ナンバー1ヒットとなった
経緯がある。この The Spades は作者の Joe Lackey が在籍していた
地元の Surf band の The Ramrods の変名である。

Woodlawn 高校出身の Terry Grill (Guitar), Eddie Stovall (Guitar),
Daley Vandergrif (Drums) の3人はガレージバンドを結成し
The Ramrods の Joe Lackey の紹介で元 Vicki And The Spades
の中核メンバーで当時 Berry 高校の女子高生だった Vicki Roberts
とキーボード奏者で Shades Valley 高校の Phil Hill に出会った。
その時にドラマーの Daley Vandergrif は The Hard Times
(Ultimate 1 in 1966) に移籍して (このグループは The Rites Of Spring
名義で Parkway P-109 をリリースした)、初代キーボード奏者の
Phil Hill が早々にグループを脱退し、ギタリストの Eddie Stovall
はすぐにアラバマ大学に進学した。残った Terry Grill は
ギタリスト Rick Hester, ベーシスト Gary Quattlebaum と
ドラマー Tony Ardovino を加えてバンドを維持し
紅一点 Vicki Roberts をリードヴォーカルにした
Vicki And The Townsmen を結成した。

Gary Quattlebaum が不在の時は地元の雄 The Distortions の
Robert Alexander が参加共演していた。
彼らは Sock-hops (ティーンエイジャー相手のダンスイヴェント)
に数回参加し、本件シングルを録音した。

 

Little Pattie
11-12
Little Pattie With The Statesmen - He's My Blonde Headed
Stompie Wompie Real Gone Surfer Boy
(7: Australia His Master's Voice EA-4604) 1963
(7: US World Hits 150) 1964
Little Pattie - The Many Moods Of Little Pattie
(LP: Australia His Master's Voice OCLP-7621 Mono) 1964
この小娘の出現によってオーストラリアのサーフィンソングブームは
一気に盛況したと言っても過言ではない。
Patricia Amphlett は1949年にオーストラリアの
ニューサウスウェールズ州パディントンで生まれた。
Sydney Girls High School 時代に Patricia という
背の高い友人が二人いたので彼女は Little Pattie
というニックネームが付けられた。
彼女は13歳のときに最初にテレビに出演し、
Opportunity Knocks シリーズで歌い、
高校3年生のとき彼女は毎週 The Bronte Surf Club
で演奏する The Statesmen のリードシンガーとして
活動を始めた。グループは彼女のヴォーカルに
感銘を受け、EMIとのレコーディング契約を結んだ。
1963年11月の彼女のデビューシングルとなった
"He's My Blonde Headed, Stompie Wompie,
Real Gone Surfer Boy"は、シドニーで2位の
大ヒットとなり、彼女はバンドスタンドを含むテレビの
バラエティ番組に定期的に出演し、オーストラリアの人気
Surf band の Col Joye and The Joy Boys のツアーを
サポートした。その後、彼女はベトナム戦争中に
オーストラリア兵士の慰問ライヴでベトナムへ行き、
その際日本に立ち寄って日本のテレビ番組に出演し、
1965年には日本でもレコーディングをして
小さな恋人(作曲:弾 厚作 = 加山雄三) / 黄色いレモン
(作曲:筒美 京平)を日本語盤でリリースした。

 

Donna Gaye
11-13
Donna Gaye - Hey, Beach Boy
(7: Australia Kommotion KK-1559) 1966
豪州は Sydney 生まれのガールポップシンガー。
彼女は本名を Vivienne Jarvis と言い、幼い頃から動物が大好きで
獣医になることが彼女の夢だった。
しかし母親が彼女を大学に行かせる経済的余裕がないと言ったとき、
彼女は「まあ、学校には行かない」と言って自分が何をしたいのかも
分からないまま、15歳で高校を中退した。
その後彼女は Sydney のバンド The Convairs で歌うように頼まれた。
The Convairs で約6か月間働いた後、彼女はビートバンドのツアーの
サポート・シンガーとしてのオーディションを受けた。
オーディションは当時 Sydney で最も人気のあるダンス会場の
一つである Surf City で開催され、ツアープロモーターは
Ma Harrigan で ツアーのヘッドアクトは Billy Thorpe & The Aztecs
だった。彼女のオーディションは成功し、Billy Thorpe & The Aztecs,
Jade Hurley, Merv Benton, Vikki Forrest らとツアーをすることになった。

ツアーが成功し彼女が Sydney に戻ったとき、プロモーター Ivan Dayman
の下で働いていた John Jennings が Sydney にあるもう一つの人気の
ティーンエイジャーダンス会場である The Bowl で歌うように彼女に
打診した。Ivan Dayman は当時オーストラリアの音楽業界の重要人物で
オーストラリア全土にダンスのネットワークを運営し、
Sunshine Records とその傘下の Kommotion レーベルのオーナーだった。

彼女はベテラン俳優の Reg Quartley (一般的に知られている Uncle Reg)
が司会を務める‘Kaper Kabaret’(カパー・キャバレー) と呼ばれる
子供向けテレビ番組に定期的に出演した。
この番組には、後に Marty Rhone に名前を変え、オーストラリアの
ポップミュージックシーンでよく知られるようになった Karl Van Rhoon
という若手の新進気鋭歌手も出演していた。

彼女がこの番組で出会い、友人になったもう一人の若き才能ある
歌手があの Trevor Gordon で、彼女が The Bee Gees と出会ったのは
Trevor Gordon を通じてだった。
Maurice Gibb は彼女のボーイフレンドになり、名前を Donna Gaye
に変えるように彼女に提案した。
彼女はいつも双子の Robin & Maurice Gibb そして Trevor Gordon の
4人で一緒に遊んでいた。Barry Gibb が曲作りに集中している間、
Robin & Maurice Gibb はクレイジーなホームムービーの制作に
集中していた。

ある日、みんなが Donna の家に行き、午後を過ごした。
家に帰る時間になると、彼女の母親の Mini に全員が積み込まれ、
かなり窮屈だった。車には Donna, Trevor Gordon,
Robin & Maurice Gibb, 女の子 (Robin Gibb のガールフレンド),
ドラムセット, ギターが詰め込まれていた。
]彼らが Gibbの家に到着すると、Barry Gibb は外に立ってギター
をかき鳴らしていた。小さな車にみんながぎゅうぎゅうに
詰め込まれているのを見て Barry Gibb はこう言った。「閉所恐怖症に
ならないかい?」 それから間もなくThe Bee Gees は
次のシングル"Claustrophobia" (閉所恐怖症) をリリースした。

その後、Donna は Trevor Gordon や Gibb 兄弟と再び会うことは
なかった。Trevor Gordon はその後デュオ The Marbles の一員として
国際的な成功を収めた。The Bee Gees が作詞・プロデュースした
彼らの曲 "Only One Woman" は英国トップ3ヒットとなった。

当時 Sydney にいたグループが何であれThe Playboys や The Blue Jays
などのビートグループのサポートを受けて The Bowl で何度も彼女が
成功を収めた後、スターの Normie Rowe と一緒にツアーをしたいか
尋ねられた。これは彼女のキャリアにとってもう一つのエキサイティング
な機会であり、彼女はこのオファーを受け入れることにそれほど
躊躇しなかった。Normie Rowe は当時オーストラリアで最も人気の
あるアーティストで、オーストラリア全土で前例のない成功を
収めており、演奏するたびに暴動が起きた。

その後彼女は Bandstand, The Go!! Show, Saturday Date などの
テレビ番組に出演した。彼女はシングルのレコーディングを依頼され、
彼女のために選ばれた曲は Sue Thompson のヒット曲 "Norman" だった。
歌詞は Normie Rowe に敬意を表して Normie に変更され、
Sunshine Records の他のアーティスト Peter (Doyle), Tony (Worsley),
Mike (Furber) の名前も歌詞に含まれた。キャッチーで歌いやすい
この曲は多くのエアプレイを獲得し、Brisbane ではトップ 20 に到達した。
ベテランのロッカー Lonnie Lee が、Sunshine Records のオーナー
Ivan Dayman が立ち上げた Kommotion という新しいサブレーベルで
このレコードをプロデュースした。
シングルの初期プレスでは、両面に誤った作家クレジットが記載
されていたが、セカンドプレスでこのエラーは修正された。

Donna Gaye は Ivan Dayman が運営する Kommotion
レーベルと契約し、3枚のシングルをレコーディングした。
本件はそのラストシングルである。
オリジナルの Andrea Carroll が1966年7月に20歳でリリース、
こちら Donna Gaye が1966年11月14日に17歳でリリース。
米豪の競作ガールポップと言ってもよい範疇だ。

1968年彼女はアメリカ軍をもてなすためにベトナムをツアーし、
帰国後、彼女は元 The Escorts の Dennis Annable と結婚して
歌手を引退した。

 

Margie Bayes
11-14
Margie Bayes with The Hearsemen - Why Can't I Go Surfing?
(7: Australia W&G WG-S-2509) 1965
(EP : Australia W&G WG-E.2701) 1966 (as Margy Bayes)
Margaret Joyce Bayes は1945年9月7日に Melbourne 郊外
の内陸部 Richmond で生れた。
Margie は5歳のとき、始まったばかりのラジオ番組 Swallow’s Juniors
で歌い始めた。彼女の兄と同じ学年の女の子がこの番組に参加し、
Margie は彼女の母親に番組のオーディションに連れて行ってくれないかと
尋ねた。Margie は幼少期にラジオコマーシャルも数多く制作した。

最もよく知られているのは、1954 年に彼女が9歳のときに
録音された『Iddy Biddy Peas』で、"Road To Gundagai" を書いた
Jack O’Hagan がジングルを作曲しレコーディングでは
ピアノを演奏した。このコマーシャルは8年間放送され、
オーストラリア全土で放映された。そして彼女には税金を払い
始めなければならないほどのお金が支払われた。
それ以来、彼女が作ったすべてのコマーシャルに対して税金を
支払わなければならなくなり、11歳になるまでに彼女は父親よりも
多くのお金を稼いでいた。 彼女はとてもラジオフレンドリーな
声をしていた。なぜなら彼女は最終的に50以上のラジオや
テレビのコマーシャルを作ることになったからだ。

彼女は Melbourne 周辺のダンスと最初のダンスで歌い始めた。
彼女が現れたのは、Melbourne から132キロ離れた海辺の町
Wonthaggi だった。彼女は The Breakaways (Mike Davenport
on rhythm guitar, Colin Turnbull on lead guitar, Pat Turpin on bass,
Murray Anderson on drums) をバックに歌っていた。
このグループは Melbourne ではよく知られており、
1963年から1965年にかけて W&G レーベルから
6枚のシングルとアルバムをリリースした。

彼女はダンス・プロモーションと契約し The Ivan Dayman circuit
のダンスで歌った。Canterbury Ballroom や Preston の
Circle Ballroom などの会場に The Premiers や The Thunderbirds
とともに出演。 彼女は The Thunderbirds との仕事が特に
楽しかったと彼女は説明する
「私にとって良かった点は、W&G のレーベルに Betty McQuade が
いたことでした。彼女は The Thunderbirds と一緒に歌ったりも
しましたが、私と彼女は同じキーで歌いました。
だから The Thunderbirds と一緒に歌いに行ったら、
彼女も歌っていたので、その曲を知っていました。」

その後、彼女は W&G レコードとレコーディング契約を結び、
本件デビューシングルをリリースした。オーストラリアの
人気ミュージシャン Johnny Chester (The Thunderbirds) が書いた
オリジナル曲で、アップテンポのビートチューンだ。
彼女をサポートした The Hearsemen は才能あるグループで
週末のさまざまなダンスイヴェントで彼女をサポートし、
彼女の最初のシングルをサポートするのは良い選択だった。
The Hearsemen members are
Peter Litchfield on lead guitar,
Paddy Deeker on bass,
John Nicholls on rhythm guitar,
David Lambert on drums.

この曲は Melbourne のチャートにランクインしたばかりだったが
ラジオでは人気があった。
ラジオ局 3UZ の電話世論調査では “Why Can't I Go Surfing?” は
当時 The Beatles の新曲よりも多くのリクエスト票を獲得した。

 

Margy Bayes
11-15
Margy Bayes - I Wanna Wear My New Bikini
(7: Australia W&G WG-S-8042) 1967
彼女のデビューシングル “Why Can't I Go Surfing?” は
スマッシュヒットとなった。しかしそれは彼女と W&G の
軋轢を生む始まりでもあった。
5歳で芸能界デビューした彼女は自分の歌声で人々を
楽しませたかった。しかし W&G はアイドル歌手として
徐々に彼女に性的なアピールを望んでいった。
そのギャップからか彼女は彼女なりの主張をし、それは時として
彼女をトラブルメイカーとして周囲に認識させるに至った。

彼女の次のリリースについて W&G はEPをリリースすることを
決定した。これはミニアルバムと呼ばれることが多く、EP には
通常 2 枚のシングルの両面が含まれていた。
しかし彼女のEPはこの傾向には従わず、彼女の最初の2枚の
シングルのA面と2曲の新曲 "Sweet Boy" と "Mr Moonlight" が
収録された。1964年に The Beatles が3枚目の
アルバム‘Beatles For Sale’でカバーした曲 "Mr Moonlight" について
彼女は自分自身のアレンジを録音したいと考えた。
「私は "Mr Moonlight" の歌詞を聞いて、これは美しい子守唄に
なるだろうと思いました。」 彼女はヴォーカル・トラックを録音し
その曲を未完成のまま残した。彼女の意図は W&G スタジオに戻り、
ヴォーカルのハーモニーとグロッケンシュピールを追加することだった。

しかし、数週間後、彼女は W&G の Jack Varney から電話を受けた。
Jack Varney は熟練したジャズミュージシャンで、ギターとバンジョー
を演奏し、Graeme Bell Jazz Band のオリジナルメンバーだった男だ。
1965年6月、彼は W&G レコードのプロモーションおよび
A&R マネージャーに任命された。
Jack Varney はすっかり興奮して、「Margy、入ってこいよ、EPを
プレスしたんだよ」と言った。 すると Margy は「Varney さん、
どうしてそんなことができるのでしょう。十分なトラックの準備が
できていないのに」と答えた。
しかしJack Varney はこう答えた。「はい、もう終わったよ。
私がギターを弾いて、他の人がハモンドオルガンをそれに乗せてくれたよ」
彼女は、自分が望んでいた仕上がり方法をまったく考慮せずに
トラックが完成されたことに本当に腹を立てていた。
彼女は「冗談でしょ!、私は自分自身でハモるつもりだったのに、
グロッケンシュピールを入れてもいいって言ったのよ」と言い
Jack Varney は「そうだね、今すぐEPをリリースする必要があると
判断したんだ」と答えた。彼女は W&G スタジオに行ったが、
聴いた内容にこれ以上がっかりすることはなかった。
「私は "Mr Moonlight" を聴いたとき、泣きそうになった。
頭の中でそれがどのように聴こえるべきかを正確に知っていたので、
とても動揺しました。」

Margy の次のシングルでは、W&G の権力者が彼女のイメージを
隣の優しい女の子からもっとセクシーなイメージに変えることに決めた。
彼女は言った「もっと上げて、私はあなたの足の親指と同じくらい
セクシーです。私にはセクシーなところは何もなくて、
だからこそ "Hey Good Lookin" は私の息にぴったりの曲なのです。
それは私ではなかったし、私のありようでもなかったのです。」

彼女はB面の "Picking Up My Hat" にずっと満足していた。
この曲は明るく弾むポップソングで、元々はカナダの女性歌手
Debbie Lori Kaye が1965年に録音したもので、Betty McQuade と
Paul McKay がこのトラックでバッキング・ヴォーカルを歌った。

彼女は数多くのテレビ番組に出演し‘Swallow’s Juniors’での
露出で Melbourne ではよく知られた顔になったため、彼女の
需要は非常に高かった。彼女は‘The Go!! Show’や‘Kommotion’
などのティーンエイジャーポップミュージック番組にも出演していて
彼女は‘Sunnyside Up’のレギュラーであり、‘Woman’s World’
と呼ばれる昼の番組にも出演した。
彼女が‘The Go!! Show’に出演したあるとき、同僚の Johnny Young
が彼女を Marjy(Majorie マジョリーのように)と紹介したが
Margy はそれが好きではなかった。彼女は休憩中に Johnny Young に
話しかけ「もしまた Marjy と呼んだら、私は撮影現場には行かない」
と言った。Johnny Young は彼女に「君はそんなことはできない」
と言った。彼女は「あなたにはそれができないのはわかっているけど
私はそうする。」と答えた。次に彼女が番組に出演したとき
Johnny Young は「Marjy Bayes が "Why Can’t I Go Surfing?”を
これから歌うよ」とアナウンスした。彼女は怒って約束通り
ステージに出て行かなかった。彼らはカメラの回転を止めなければ
いけなくなって憤慨した。彼女はプロデューサー達に何が問題なのかを
説明し、彼らは Johnny Young と話し、彼女の名前を正確に
発表するように言った。この事件以降、彼女は常に Margie
として紹介された。

彼女は月曜の夜に3回連続で Graham Kennedy の
人気番組‘In Melbourne Tonight’のオープニング・ナンバーを
歌うよう依頼されたが、これは大変名誉なことだった。
その後、彼女は会議に呼ばれ、月曜の夜のオープニングのポジションを
維持するためのオファーを受けた。そのナイトショーのためのオファーが
何だったのかを理解するのはそれほど難しいことではないが、彼女は
それに参加しなかった。「私はその面接を辞めました。母には一度も
言いませんでした。私にはその準備ができていませんでした。
『私は歌うけど、そんなことはしない』と思ったんです。」

2nd シングル以降は Margie Bayes から綴りを Margy Bayes に変更
しており、本件は彼女の4枚目でラストとなったシングルである。
W&G はサーフィンをテーマで彼女が復活するのが良いと考えた。
既にサーフィンブームが去った事を考慮すると奇妙な決断だが
彼らは Sydney の女流ソングライター Joan Fairbridge に
彼女のために曲を書くことを打診した。
通常 Margy はたいていどんな曲でも受け入れたのだが、
彼女が "I Wanna Wear My New Bikini" のデモを聴いたとき、
彼女はかかとを突っ込んで言った「それは録音したくないんです」
しかし結局彼女には選択の余地がなく「君は契約中だ」と言われた。

彼女は18ヶ月の契約を結んでいたため、これが W&G のために
レコーディングした最後の曲となった。
当時は、会社が選んだ曲を録音することを強制されていた。
妥協案として、彼らは彼女がB面に自分の選んだ曲を選ぶことを
許可した。W&G は Paul Anka の曲の出版権を持っており、
彼女は "Crazy Love" を選んだ。
彼女は “I Wanna Wear My New Bikini” を人前で歌うことを拒否し、
レコードのプロモーションで彼女は "Crazy Love" を歌った。

その後も彼女は Melbourne 周辺のさまざまな会場で歌い続けた。
]1969年、彼女は Moorabbin の The Southside Six Hotel でライヴを
行った。この会場のマイクから彼女の喉に虫が入ってしまい
毒喉を患ってしまった。彼女は喉の痛みを治療するためにスプレーを
使い始めた。それにより痛みが軽減され、それでも歌うことが
できるようになった。しかし彼女はスプレーに対してアレルギーを
持っており、感染症を悪化させるだけであることが解った。
彼女が医者に行くと、医者は彼女の声帯に感染性膿瘍があり
それが喉まで達していると告げた。医師は20セント粒の大きさだが
4倍の厚さの硫黄の錠剤を処方し、彼女は体内の硫黄をすべて
溶かすために1日に7リットルの水を飲まなければならなかった。
彼女は3か月間話すことを許されず、すべてを書き留めなければ
ならなかった。彼女を知っている人なら誰でも彼女が話すのが
好きであることを知っているので、彼女にとってそれは困難だった。
最初は小さなメモ帳を使っていたが、2日目には大きなメモ帳
を使うようになった。

喉の病気により Margy Bayes の歌手としてのキャリアは
途絶えたが、5歳の頃から歌うことが大好きで人々を
楽しませてきた彼女にとって、これは悲しい結末だった。
長くなるので割愛するが、その後彼女は逞しく生きて
昨今になって彼女が残した音楽の再評価がされ、彼女は
平和な人生を送っている事を記しておこう。

 

Pam Oakley
11-16
Pam Oakley And The Viscounts - I Want To Be A Surfer Girl
(7: Australia RCA Victor 101548) 1964
Sydney 出身の女流作家。彼女はオーストラリアのテレビに出演した
最初の女性エレキギタリストだった。
彼女が Little Pattie のサーフィンソングを聴いてインスパイアされて
本件この曲を書いた。彼女はその曲を古いオープンリールテープに
自分の歌とギターだけで録音し、RCAに持ち込んだ。
当時の P&R 担当者である Johnny Devlin は、録音するのに十分だと
判断し、バックに The Viscounts を担当させた、
このグループは既にビートバンド The Cherokees, The D-Coys で
レコードデビューしていた Kevin Smith がメンバーに在籍していた。
この曲は多くのエアープレイがあったものの、チャートではそれほど
上位には入らなかったが、彼女がテレビクラブ出演やツアーで
キャリアを積むには十分な成績を収めた。

 

Noeleen Batley
11-17
Noeleen Batley - Surfer Boy
(7: Australia Festival Records FK-488) 1963
(EP: Australia Festival FX-10,799) 1964
(LP: Australia Festival FL-31,455) 1964
(LP: Australia Calendar Records R66-497) 1966
1944年12月25日に Sydney で生まれた彼女はオーストラリアの
60年代ポップの先駆的な女性スターの1人だった。
彼女は日本では梓みちよのヒット曲「こんにちは赤ちゃん」
(作詞:永六輔、作曲:中村八大) の英語カヴァー
"Little Treasure From Japan (Kon Nichi Wa Akachan)" でも知られる。
これは坂本九の「スキヤキ」の世界的ヒットの直後ということもあり
同じ作詞・作曲者であるこの曲も同年英国デッカ・レコードを通じ
梓みちよのバージョンが日本語のまま世界に向けて発売され
それがダウンアンダー豪州まで届いた結果である。
"Australia's Little Miss Sweetheart" というあだ名が付けられた彼女の
心地よい歌声と、控えめな隣の女の子のようなイメージは、
ティーンエイジャーにも親たちにも同様に愛され、60年代初頭のテレビ番組
"Bandstand Family" の主要メンバーとして活動した。

Noeleen Batley は1944年のクリスマスの日に Sydney で生まれ、
母親の勧めで5歳から歌い始めた。子供の頃、彼女は 2UE ラジオの
ユースパレード、2UW ラジオのアマチュアアワー、ABC ラジオの
ロックビル ジャンクションなどのラジオ番組で歌っていた。
彼女は数多くのタレントコンテストに参加し、最終的には1960年に
歌唱コンテストの賞品として Festival Records との最初のレコーディング
契約を獲得した。最初のレコード "Starry Eyed" は1960年2月に
リリースされたが成功しなかった。しかし同年10月にリリースされた
彼女の次のレコードは、オーストラリア本土のすべての首都で
トップ5に入った。それは当時16歳の Helene Grover が書いた曲
"Barefoot Boy" のレコーディングだった。それは16週間チャートに留まり、
この成功により彼女は全国的なヒット曲を持つオーストラリア初の
女性ポップ歌手となり、Youth Show, Bandstand, Six O'Clock Rockなどの
人気テレビ番組に出演するようになった。

1961年、彼女はオーストラリアのトップ女性歌手に選ばれた。
彼女の母親は彼女のマネージャーとなり、1964 年に一緒に2週間の
ニュージーランド旅行を完了した。
他の多くのオーストラリアのアーティストと比較して彼女は非常に
多作なレコーディングキャリアを持っており、彼女の功績として
約20枚のシングル、少なくとも8枚のEP、3枚のLPがあり、
それらのほとんどは1960年から1965年までの彼女のキャリアの
ピーク時に録音された。

彼女のレコーディングは Bee Gees の愛好家にとっても興味深いもので、
彼女は1960年代初頭に Bee Gees と友人であり、Barry Gibb の作品を
最初にカヴァーしたアーティストの一人であり、1964年から1965年
にかけて彼の曲を4曲録音した。

1963年から1964年の夏、オーストラリアではサーフィンサウンドが
盛況だった。Barry Gibb は、Belinda にある Tony Brady (Australia の
Frank Sinatra と呼ばれる有名な歌手) のオフィスで彼女のために
演奏した他の曲を彼女に譲った後、彼女のために特別に
本件 "Surfer Boy" を書いた。

Surfer boy, surfer boy, surfer boy, surfer boy
Surfer boy you love the sea so much
and riding waves so big and blue
But I’m in love with you surfer boy
Why can’t you learn to love me too

I’m so afraid that you’ll get hurt someday
You say that this could never be
But I’m in love with you, surfer boy
So won’t you please come home to me

You say you love me but you treat me mean
You are the meanest boy I’ve ever seen
You leave me lonely and you leave me blue
I wish you wouldn’t treat me like you do

Surfer boy, why don’t you settle down
with a love you know is true
Yes I’m in love with you, surfer boy
Why don’t you say you love me too

You say you love me but you treat me mean
You are the meanest boy I’ve ever seen
You leave me lonely and you leave me blue
I wish you wouldn’t treat me like you do

Surfer boy, why don’t you settle down
with a love you know is true
Yes I’m in love with you, surfer boy
Why don’t you say you love me too

Surfer boy, surfer boy....


Bee Gees (Left Barry Gibb)

 
11-18
The Bitter Sweets - What A Lonely Way To Start The Summertime
(7: Cameo C-368) 1965
B.T. Puppy Records の超レアサイケアルバムでも有名な
Brute Force こと Stephen Friedland が曲を書き
しかも Bright Tunes "Cave Sound" Production とクレジット
させれば「すわっ、名門 Bright Tunes Production に "Cave Sound"
(洞窟音) セクションを設立したのか !?」と私は興奮した。
しかも The Tokens らを手掛けたエンジニアーの Bob Arnold
もクレジットされてる。
冒頭で「ああっ」と呻く(うめく)女の声、曲中に
導入される女性の嘆きのバックには奇妙なエフェクトが、、、、
1965年リリースで、この革新的なアレンジはやはり凄い。
当時のリスナーには、かなりアヴァンギャルドな印象を
与えただろう。いやあ、The Tokens もかなり攻めてたんですなあ、
カルトなガールポップサウンドで素晴らしい作品だ。
 
 

Della Rae
11-19
Della Rae - Hurry Up Summer
(7: Groove 58-0062) 1965
名前とタイトルのクレジット上下が異なるラベルも
存在するので一応掲載しとく。

Missouri 州 St. Louis 周辺の女性シンガーで1947年生れの彼女は
1990年に42歳の若さで他界した。彼女は若い頃から St. Louis の
ラウンジクラブ The Casa-Loma の花形スターだった。
彼女は全国歌唱大会に出場した後に地元 Missouri 州 Springfield の
人気クラブ The Rendezvous club のレギュラーとなり Little Della Rae
として人気を博し、地元のソングライター Don Clements とショーを行った。
Don Clements はサーカスの空中ブランコのアーティストになることを
夢見ていたエンターテイナーで、1965年に The Anita Kerr Singersを
バックにロカビリーシングル Made In The U.S.A / My Conscience Knows
(Skipper S4KM-7917/7918) をリリースした。このA面は "Bop-A-Lena"
でも有名な地元のロカビリーシンガーソングライター Ronnie Self が
書いた佳曲だった。本件 Della Rae のこのシングルは1965年1月、
Nashville の RCA Victor Studio で録音され RCA Victor の子会社の
Groove Records で3月にリリースされた彼女のセカンドシングルだ。

興味深い事に Don Clements 同様に地元のスタッフで製作されている。
Chet Atkins らを中心としたセッションミュージシャン達で、
Elvis Presley の録音スタッフとしても有名な The Nashville A-Team が
本件録音を担当、ヴォーカル部門を The Jordanaires と分け合っていた
The Anita Kerr Singers がバックヴォーカルを務めた。
A面は Ronnie Self が書いた感傷的なフィメールバラードで
南部特有のカントリーエッジが心地よい。
でB面だが、The Box Tops - The Letter の作者で後に南部の人気作家
になる Wayne Carson Thompson の初期作の弾けたサマーポップ。
Wayne Carson は当時 Missouri 州 Springfield で生活しており、彼は
パートナーでプロモーターの Si Siman から友人の Chet Atkins を
紹介され "Hurry Up Summer" を Della Rae に書き与えた。
当時 Della Rae は18歳、それを考えるとA面の歌唱力は
際立っており、B面のサマーポップはヤングの躍動感 (赤面的死語!)
の魅力がバッチグーッ(死語)なのでチェケラーッ(死語)です。
 
 
11-20
Humpty And The Ivanhoes - In The Evenin'
(7: Gramophone Label 2-165) 1965
全く持って正体不明のグループが超マイナーレーベルから
リリースした1枚。
Surfer を題材にしたストンパーチューンで、ギターブレイクを
入れているが黒人男性っぽい声が収録されているので
The Angelos - Bad Motorcycle (Wooden Wooden) (8-18 を参照されたし)
のような女性黒人ヴォーカルグループのような気がする。
 
 

Jan Bradley
11-21
Jan Bradley - Just A Summer Memory
(7: Chess 1975) 1966
Mississippi 州生まれで Illinois 州育ちの Jan Bradley は
才能のある少女だった。彼女は高校時代にタレントショーに
出場した際に Phil Upchurch のマネージャーだった Don Talty
に注目された。卒業後、彼女は Curtis Mayfield のオーディション
を受け、すぐに Curtis Mayfield が書いた "We Girls" を録音し、
Don Talty が所有する Formal Records からリリースし、
中西部でローカルヒットになった。その後も Curtis Mayfield が
書いた "Mama Didn't Lie" をリリースしたが、それは Chess Records
によって買い取られ Chess から全国配給されると 1963年1月5日
をピークに全米14位 (R&B chart 8位) の大ヒットとなった。
その勢いを示すように当時日本盤もリリースされている。
当時19歳だった彼女の Candy vocal は注目に値するものだった。
そのシングルの成功に続いて Curtis Mayfield と Chess Records が
曲の出版権をめぐって法廷闘争を起こした。それに巻き込まれた結果、
彼女は Curtis Mayfield と一緒に仕事をすることができなくなった。
それによって彼女は自らが曲を書き始めた。本件シングルは
そんな彼女の自作による素晴らしい Summer song である。
昨今では Northern Soul の歌姫として認知されてるが、彼女は
Chess Records との契約終了後も Don Talty との仕事を続け、
Adanti, Hootenanny, Doylen, Spectra Sound, Night Owl と
マイナーレーベルからシングルをリリースし続けたのだから
義理堅い女性だったのだろう。
 
 
11-22
Him And Her - Summer Days Are All Gone
(7: Ara 221) 1966
いまだ世界中に熱心な Summer Folky のファンがいるので
そっち系を三連発で紹介する。 Summer Folky の魅力は
Breezy (爽快感) や Floater (浮遊感) である。
彼らは1960年代半ばに活動した Nashville, Tennessee /
Tulsa, Oklahoma 出身の男女デュエットである。
素晴らしい female lead による美しい Summer ballad だ。
Memphis の Sonic Studio で録音されており、南部特有の
Twang guitar も控えめに処理されており、コーラスも
軽く被せた程度で、female lead の美しさを引き出している。
作者の Travis Wammack は Memphis 出身 (生れは Walnut,
Mississippi) の guitarist, singer/songwriterで、当時12歳の
若き天才と言われた南部のレジェンドだ。

 
11-23
Judy Eggers - Summer Boys
(7: Metromaster M-166) 1967
こちらは Knoxville, Tennessee のローカルレーベルからのレア盤。
カナダから伸びてニューヨーク州からミシシッピ州まで伸びる
Appalachian Mountains「アパラチア山脈」は田舎と都会
(産業化された地域) を分けるスラングとしても使われるが
Knoxville, Tennessee はそれによって工業都市に分類されるが
田舎である。よく言って人口20万人程度の地方都市だ。
そんな適度に住み易いローカルからこんな素晴らしい
Silky soul duet style の逸品が生れたのには理由がある。
作者の Steve Hostak (Stephan James Hostak) は songwriter
and guitarist で、Arthur Alexander "You Got Me Knockin'"
の作者としてマニアには知られる。
Guitarist としては Tracy Nelson のアルバム "Homemade Songs"
で演奏してるが、南部では人気のあるミュージシャンなので
このレアシングルもマニアックなファンや Club DJ が探してるが
ローカルプレス故に良いコンディションが見つからない。

 
 

The Kittens
11-24
The Kittens - Lonely Summer
(7: Murbo Records M-1015) 1967
Cliffside Park, New Jersey 出身の可憐な姉妹
Carolyn (15歳) and Joann Dellarobba (17歳)
による人気のレア盤。
作者の Robert Jones はソウル系の songwriter/producer で
Percy Sledge "Thief In The Night" が彼の作品で最も有名だ。
The Mello Kings "Valerie", Frankie Lymon "The Only Way To Love"
等の作者の Jimmy Krondes が所有する Murbo Records だが
出版社も彼が所有する Bourne Music なので、この少女姉妹は
結構期待されてデビューしたのではないか。
当時 Billboard では急いでプロモーションキャンペーンを
された記述と、Record World (Billboard と Cashbox とともに、
米国の 3 つの主要な音楽業界の業界誌の1つ) ではこの姉妹の
写真が掲載されてる。しかああああし、彼女達はこの1枚のみで
キャリアーを終えてる。素晴らしい歌声と美貌を持った姉妹だが
シングルリリース後に他の道を選んだようだ。

 
 
11-25
The Honeys - Shoot The Curl
(7: Capitol Records 4952) 1963
リリースデータでは The Honeys 1963年4月8日
Gary Usher And The Usherettes 1963年7月
なので、これが彼女達のデビューシングルとなる。
しかも自作、やはり只者ではない娘達だったのが解る。
美品を入手したので、ついでにジンジャーとスナップスも掲載しとく。

 

Ellie Greenwich and Jeff Barry
11-26
Ellie Gee & The Jets - Red Corvette
(7: Madison Records M160) 1961
Ellie Greenwich and Jeff Barry ソングライター夫婦による
架空のグループ名義によるシングル。
Jeff Barry - Ben Raleigh が書いた “Red Corvette” を
Ellie Gee & The Jets 名義でリリースし、これが彼らの
プロジェクトの骨格となり、Beverly Warren を雇って結成
したのが後の The Raindrops (Jubilee) である。
ナンセンス・シラブル (Doo-wop で使う "ドゥーワッ"
"シュビドゥビ" "ドゥビドゥワ"といった意味を持たない言葉)
はヴォーカルグループの基本であるが
当時の Madison Records の Tico And The Triumphs - Motorcycle
のように New York や Brill Building 系作家達は
ヴィブラートでバイクや車の排気音を真似てリズムを取る
手法で流行のスタイルを作っていた。
本件シングルもその流れをくむヴォーカルロックオンロールである。
個人的に昔っから思っているのは ハ行の濁音ヴィブラートは
ヴォーカルロックオンロールでよく使われる、
例えば「バーバババーバ」とか「ビープ、ビープ」、「ブンブン」
「ボンボンボン」しかし「べ」だけは聴いたことがない。
「ベーベーベー」とか「ベンベンベン」といったヴォーカル
グループのコーラスを聴いた事がないのだ。
「まあ “ベンベン” は間抜けだからな」と作詞をした
Ben Raleigh が言ったとか。。。。うふふふ

 

Kay Bell & The Tuffs
11-27
Kay Bell & The Tuffs - Surfers' Stomp
The Tuffs And Kay Bell - (The Original) Surfers' Stomp Pt. I
Kay Bell And The Tuffs - (The Original) Surfers' Stomp Pt. II
(7: Dot Records 45-16304) 1961
Kay Bell とは The Bell Sisters (Cynthia Strother, Kay Bell) の
姉妹の片割れで本名は Cynthia Sue Strother, Edith Kay Strother なのだが
妹の Kay Strother が母親の旧姓 Bell を採用したので
The Bell Sisters として活動してた。
彼女達が1951年にスカウトされたときは姉の Cynthia が16歳で
妹の Kay が11歳だった。
彼女達が Los Angeles のテレビ番組 "Peter Potter’s Search for a Song”
のために歌った "Bermuda" は1952年にビルボードチャートで
7位に達し、数百万枚売れた。
1950年代後半に Kay Bell はソロプロジェクトに挑戦し始め
1959年頃、ボールルームで歌ったり、ラジオで演奏したりした。
60年代前半 The Disneyland Space Bar (現在は Tomorrowland Terrace
として知られる) と契約し、Johnny Schmidt and Sonny Anderson を
核としたバックバンド The Space Men と Kay Bell は歌い始めた。
Kay Bell は文学士号を取得するためにロングビーチ州立大学に
通いながらも彼らと週に6夜も演奏した。
そして Kay Bell & The Tuffs 名義でシングル
(The Original) Surfers' Stomp Pt. I/II (Dot 45-16304) を1961年に
リリースした。1962年からは Disneyland の契約バンドとして
Disneyland 内で毎週土曜日の夜の定期ライヴを行っていた。
本件シングル Kay Bell は21歳だ、11歳でデビューしただけあって
歌声に堂々とした張りと迫力がある。

The Bell Sisters (Kay Bell - Cynthia Strother)

Kay Bell And The Spacemen
 

The Quinto Sisters
11-28
The Quinto Sisters -
Summer Nights / Pineapple Princess
(7: Columbia 4-43071) 1964
Lee, Bonnie, Chris, Elaine, Renee and Cindy Quinto の
可愛い6姉妹によるキッズ・グループ。
彼女達は需要の高いキッズタレントして1960年代前半から
テレビ番組で活躍していて、1964年にクリスマスアルバム
Holly Jolly Christmas (Columbia CL 2254 mono / CS 9054 stereo)
をリリースしたが、本件は彼女達のデビューシングルで
両面アルバム未収のサマーソング。
クリスマスアルバムに無縁なサマーソングだから当たり前か。
で、とても出来のよいサマーポップなのだがライターの
クレジットは Doc Pomus-Mort Shuman となってる。
どこかで聴いた曲だと思ったら Bobby Pedrick
(Bobby Pedrick Jr. = Robert John) が1959年にリリースした
Bigtop 45-3024 のカヴァーだった。
ほんでもってB面は Annette の “Pineapple Princess”
(邦題 : パイナップル・プリンセス まんまやないかいっ 笑)
のキッズ・ポップカヴァーだから一粒で二度美味しい (死語)


Mitch Miller and The Quinto Sisters
 
11-29
Shirley Paige - I Met The Nicest Man On A Honda
(7: Philwood P-230) 1972
Memphis 州のマイナーレーベルからリリースされたシングルで
Mike Curb の出世作でアメリカで Honda のCMソングにもなった
The Hondells "You Meet The Nicest People On A Honda"
のカウンターソングである。しかも自作!
Written by John C. Phillips-Shirley W. Paige.
Produced by Skip & Johnny Phillips.
南部の田舎女性が Mike Curb にカウンターパンチを
放った笑撃の問題作、これだからレコード収集はやめられん (笑)

 

Susan Wayne
11-30
Susan Wayne - Think Summer
(7: Columbia 4-43237) 1965
Susan Wayne と言えばマニアックだが Columbia records
で2枚のシングルをリリースしただけのレアなガールポップ
シンガーだが当時アメリカのテレビ番組 "The Outer Limits" に出演
していた若手女優が同名であり、恐らく本件はその女優 Susan Wayne
と推測できる。何故なら興味深い事に Columbia records の
プレスではなく Detroit WKNR - Keener13 と
St Louis Missouri Top Jocks of KXOK が独自にプロモーション用の
スリーヴを付けてデトロイトとミズーリで配布しており
所謂 Rush release (日本で言う強力プッシュ盤) として
扱われたのが解る。恐怖系のテレビ番組で恐ろしさを上手に表現し、
そこそこ話題になった女優なのか「この曲を今年の夏の
推し曲で行きましょう」と配布されたのだろう。
曲を書いてプロデュースを担当した Clyde Otis は
Elvis Presley, Nat King Cole, Johnny Mathis 他に曲を提供した
名ソングライター&プロデューサーだ。
アレンジを担当したのは自らの楽団を持つピアニストの
Wendell Tracy で、このシングル Susan Wayne が弾けた
ガールグループスタイルで歌った好盤に仕上がってる。

 

The Supremes
11-31
Supremes - Surfer Boy
(Acetate Hitsville Sound Studios) 1964
当時お蔵入りになった The Supremes の歌うサーフソング。
4th Master 2:26
One sided metal acetate.
PAMN 4140-NH1
Maybe recoded in December 1964.
Written by Holland-Dozier-Holland.
(Brian Holland-Lamont Dozier-Edward Holland, Jr.)
Produced by Brian Holland & Lamont Dozier.


L-R Lamont Dozier, Eddie Holland, Brian Holland
 

The Supremes
11-32
The Supremes - Dr. Goldfoot And The Bikini Machine
(7: American International 65-3335 Promo only) 1965
ほんでもってこちらは American International の
コメディースパイ映画 “Dr. Goldfoot And The Bikini Machine”
のために録音された片面のみのプロモ盤。
作者は Guy Hemric-Jerry Styner のコンビで、彼らは当時
Annette や Donna Loren の同映画会社の一連のビーチムーヴィーの
関連曲から Dick Dale And His Del-Tones "Hot Rod Alley"
Stevie Wonder "Happy Street”
The Westwoods "I Miss My Surfer Boy Too" 等を書いており
まさに売れっ子ソングライターコンビとして需要が高かった時期の
作品だ。ビキニ物なのでここで掲載したが、この悪ふざけ映画は
007 James Bond シリーズ1962年の Dr. No と
1964 年の Goldfinger のパロディー映画であり、若い女性を
洗脳し世界をビキニで征服しようと企む Dr. Goldfoot を描いた
チープなB級コメディー作品だ。Norman Taurog 監督、
American International Pictures (通称 AIP) 配給。
出演は Vincent Price, Frankie Avalon, Dwayne Hickman,
Susan Hart, Jack Mullaney, Fred Clark ら。当時流行していた
スパイ映画のトレンドで名づけられた映画タイトルだが
James Bond シリーズの権利保持者からの訴訟の脅迫のために
この映画はイギリスでは Dr. G. and the Bikini Machine と
改題されたという American International の馬鹿げた本気度
すら伺えるマニアック映画である。

制作予算が低いにもかかわらず、この映画は一定のカルト的地位を
獲得しホラー映画レジェンドの Vincent Price とAIPの
ビーチパーティー映画卒業生の出演のためにも機能した。
その冗談と性的欲望を刺激する過剰な Claymation (粘土を使った
コミカルなストップモーションアニメ) をその第一人者の
Art Clokey が手掛けており、本件 The Supremes が歌った
タイトル曲が挿入された。
そしてその成功により、1966年に続編が制作され
題名は Dr. Goldfoot and the Girl Bombs
邦題付けるとしたら「ドクター・ゴールドフットと少女爆弾」(爆)

 

The Beas
11-33
The Beas - Doctor Goldfoot And The Bikini Machine
(7: American International 65-3273 Promo only) 1965
Different recording than Dee Gee 3010,
much more like The Supremes version.
One sided promo only.
Written by Hemric-Styner (Guy Hemric-Jerry Styner)
(7: Dee Gee 3010) 1965
ほんでもってこれは女性トリオ The Beas に歌わせたシングル。
American International 65-3273 で配布された片面のみの
プロモ盤は The Supremes のヴァージョンとよく似てるが
Dee Gee 3010 でリリースされたヴァージョンはビートを強く
強調したアレンジが施されている。

The Bea's - Nothing Can Go Wrong / International Girl
(Chattahoochee Records CH-692) 1966年も同じグループで
綴りを The Bea's に変えてるが、それも Guy Hemric-Jerry Styner
が書いて Jerry Styner がアレンジを担当した。

 

Marianne Faithfull
11-34
Marianne Faithfull - Summer Nights
(7: UK Decca F.12193) 1965
(LP: US London Records LL 3452 Mono / PS 452 Stereo) 1965
興味ぶかい事にこの歌は当時の UK チャート10位に入ったが
本国イギリスの彼女のオリジナルアルバムには収録されなかった。
アメリカではアメリカ盤シングル London 9780 が Billboard で
全米24位のビッグヒットとなり、当時のアメリカのアルバム
"Go Away from My World" には収録された。
Andrew Loog Oldham のイメージ戦略があったのだろう、サウンドは
純然たるイギリス特有のストリングアレンジに、暗い沈んだような
雰囲気をわずかに含む憂いのある彼女の歌声が見事にマッチしている。
個人的にはもう少しピッチを落としたほうが、より感傷的になったと
思うのだが、1965年と言えば British Invasion (1960年代半ばに
イギリスのロックやポップミュージックをはじめとする英国文化が
アメリカ合衆国を席巻し、大西洋の両岸でカウンターカルチャーが
勃興した現象) によってイギリスからビートサウンドが一気に
アメリカに襲い掛かった時期なので、これはこれで良かったのだろう、
それがこのヒットチャートの順位に表われている。

本名を Marianne Evelyn Gabriel Faithfull と言い、彼女は
1946年12月29日に London 北部の高級住宅街 Hampstead で生れた。
彼女は 1960 年代にヒットシングル "As Tears Go By" のリリースで
人気を博し、米国における British Invasion 時代の主要な
女性アーティストの1人と認識されている。
彼女は1964年に歌手としてのキャリアをスタートし、コーヒーハウス
でフォークミュージックの演奏者として最初のギグを行った。
彼女はすぐに Swinging London の爆発的な社交シーンに参加し始めた。
(Swinging Sixties または Swinging London とは1960年代半ばから
後半にかけてイギリスで起こった若者主導の文化革命であり、現代性と
楽しい快楽主義を強調し、Swinging London がその中心とされている。
アート、音楽、ファッションが栄え、音楽活動の British Invasion の
マルチメディアリーダーとしての The Beatles などのポップと
ファッションの輸出に象徴される。モッズとサイケデリックの
サブカルチャー、女流デザイナー Mary Quant のミニスカート、
Twiggy や Jean Shrimptonなどの人気ファッションモデル、
London の King's Road, Kensington, Carnaby Street などの
人気ショッピングエリアの象徴的な地位、反原発運動の政治活動、
そして性解放運動等のムーヴメント全体を指す)

1964年初頭、彼女はアーティストの John Dunbar とともに
Rolling Stones の立ち上げパーティーに出席し、 彼らのマネージャー
Andrew Loog Oldham に出会い、Andrew が彼女を発掘した。
ここから彼女の波乱万丈の人生が始まる。彼女の最初のシングル
"As Tears Go By" はMick Jagger, Keith Richards, Andrew Loog Oldham
が作詞・作曲しチャートで成功を収めた。Rolling Stones は1年後に
彼らのヴァージョンを録音し、これも成功した。その後、彼女は
"This Little Bird", 本件 "Summer Nights", "Come and Stay with Me"
などの一連の成功したシングルをリリースした。
彼女は1965年5月6日に Peter & Gordon の Peter Asher を
付添人として John Dunbar と結婚し、1965年11月10日に
彼女は息子 Nicholas を出産した。

1966年、彼女は Nicholas を Rolling Stones の Brian Jones と
彼のガールフレンドでモデルの Anita Pallenberg と一緒に London
に滞在させた。この時期に Marianne Faithfull はマリファナを吸い始め
Anita Pallenberg と親友になった。同年、彼女は Mick Jagger と大々的に
報じられた交際を開始し、夫と別れて彼と暮らすようになった。
このカップルはヒップな Swinging London シーンの悪名高き一員となった。
Sussex 州 West Wittering の Keith Richards 宅で麻薬捜査を行っていた
警察によって、毛皮の敷物だけを着ている彼女が発見された。
1968年、彼女はすでにコカイン中毒になっており、Ireland にある
Mick Jagger の別荘に隠遁している間に Corrina と名付けた娘を流産した。
彼女は拒食症、ホームレス、ヘロイン中毒になっていた。

独特の声で知られる Marianne Faithfull の、以前はメロディックで
高音域のヴォーカル(1960年代の彼女のキャリアを通じて
流行していた)は、1970年代の持続的な薬物乱用と重度の喉頭炎の
影響を受けていた。これにより彼女の声は永久に変化し、ガラガラと
ひび割れ、ピッチが低くなった。
しかしこの新しいサウンドは一部の批評家から「ウイスキー漬け」と
称賛され、彼女の波乱万丈の人生の感情を生々しく表現するのに
役立ったとみなされた。
そしてボロボロになった女の復活がここから始まった。

長い商業活動からの空白を経て彼女は1979年に絶賛されたアルバム
Broken English をリリースしてカムバックを果たした。
このアルバムは商業的に成功を収め、彼女の音楽キャリアの復活を示した。
Broken English は彼女にグラミー賞最優秀女性ロックヴォーカル
パフォーマンス賞にノミネートさせ、彼女の「決定版録音」と
みなされることが多い。
彼女はこれに続いて、Dangerous Acquaintances (1981),
A Child's Adventure (1983), Strange Weather (1987) を含む
一連のアルバムを発表した。

彼女は、2009年のWomen's World Awards (世界女性賞) で
World Lifetime Achievement Award (特別功労賞生涯業績賞) を受賞し、
フランス政府から芸術文化勲章のコマンドール (文化勲章受章者の特別階級)
に任命された。

 
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